#68 響き渡れ愛の声
春の空気は程よく澄んでいて、ステージから見える幾つもの目が、私の気持ちを高揚させ、指揮棒に集まる煌めきはとても眩しかった。
決して近くないのに、折れてしまいそうなあなたの細い指、私の掌が回りそうなあなたの手首、そしてあなたの自尊心の細さや安定性のか細さなどが、私の目にクッキリと映り、それが私を、太くたくましくさせようとしていた。
凄まじい声のハーモニーは耳をグルグルと包み込み、そのハーモニーの波に這わせるように、私は高い声を噛み締めながら放つ。
迫力ではなくて優しさを与えたい、そのような気持ちを抱いて、喉を気持ちよく心地よく震わせながら、嫌いな声を好きにならせてくれた歌を周囲に轟かせる。
会場いっぱいに存在している、生徒達の見慣れた制服や洒落た服が、私の未来の方向を定めてくれたかのように存在し、もう迷わずに、流れるまま前に声を飛ばすことが出来た。
ボイストレーニングの先生の、キリッとした表情が脳裏に走り、常に私の歌声を貪り食べようとしてくる、あなたや周囲に対する悩みの塊は、僅かに小さくなってきていた。
右手に握りしめたキーホルダーを、あなただと思い、力を込めて握ると、あなたのカクカクした心のようなものが当たり、手のひらをツンツンと優しく突かれた気分になった。
将来は優雅に空を飛び回りたい、そんな歌詞をあなたとのこれからを想像しながらメロディーの一部として放ち、それを大空を駈けるように気持ちよく天に突き刺すと、身体は宙を舞い、まるで夢の中にいるような気持ちになった。
「終わりましたね、菜穂さん」
「うん。気持ち良かったね」
「中学の頃も合唱祭はありましたけど、あまり覚えてないんです。中学の合唱祭は、あまり思い出に残らなかったので」
「そっか」
「だから、今はすごく緊張しました」
「私は歌うの好きだから、あまり緊張はしなかったかな」
「菜穂さんは歌が上手なので、私も楽しく歌えました」
「よかった」
「あれっ、席どこでしたっけ?」
「ここだよ」
「すみません。ありがとうございます」
「うん」
「あと少しで彼氏さんの番ですよね」
「うん、そうだね」
「この席、見やすくてよかったですね」
「本当によかった。大丈夫だと思うけど心配だな」
「ここは大きな音が溢れていますからね。えっと、ステージの左側でしたよね」
「うん」
左側にいる田中さんは、おもむろに水筒の蓋を手で回し、漂い始めた香ばしいお茶の香りが、鼻から心へと伝わり、私の心は落ち着きを見せ、この落ち着きがあなたにも伝わって欲しいなと、心の奥底で願った。
前の組の歌唱が終わり、あなたがステージ上に現れ、さらに心を落ち着かせようと、あなたの晴れ姿を見る決意のリップクリームを付けると、冷たくて優しい味がした。
会えなかった期間には、味がしなくなったガムを噛み続けるくらいの虚しさが溢れていたが、今は新しいしっかりとした味のガムを、口に放り込まれたような気持ちにまで変化していた。
一番遠い端の端にいるあなたと、席の中段にいる私はかなり離れているが、邪魔な頭も何もなく、しっかりとあなたを確認することが出来た。
大きな音が継続的に鳴っているこのような空間で、普段は硬くなってしまうあなたも、今は絶妙に力が抜けて、柔らかいあなたになっていた。
一文だけで全ての物音からの遮断を誓ったことのあるあなたが、また全ての音から逃げ出したくなることもあるかもしれない、という不安から、少しだけ奇妙な呻きが漏れはしたが、潤ったツルツルの唇を指で感じながら、すぐにしっかりと覆い塞いだ。
あなたの声に似た周波数が微かに聞こえ、現実にしかない痛みや刺激を好まないあなたからしか、刺激というものを感じられない私の身体は、嬉しくてズキズキと音をたてていた。
やや暗い背景と黒い制服、その前で光る取れかけのあなたの第二ボタンが、私みたいに必死でしがみついていて、それがあなたの心臓の糸の綻びたちを連想させた。
あなたのぐちゃぐちゃしていて、しなっとなっている前髪が愛らしく、あなたがじっとしてられず、常に発動している横揺れは、各駅停車よりも激しかった。
あなたの声が乗っている合唱のハーモニーは、どこの組よりもどんな歌声よりも美しく、そして何よりも麗しく聞こえた。
ピアノの音と美しい歌声は空間に消えていき、静けさの後にパラパラと増えていく拍子に、あなたは耳を塞ぐ仕草をしながらユラッとよろめき、私は届くわけもないのに、思わず手を差し伸べていた。




