#63 ジグザグとした形状
広げていた新聞紙に、ミックスジュースが染み込んで黒に染まり、あなたが私の居場所に踏み込んでいる光景なども相まって、まばたきの回数が増してゆく。
床に飛び散ったジュースを、這いながらタオルに吸わせていると、同じく床を拭くあなたの頭に、不意に頭突きをお見舞いし、お揃いの瘤が生まれてくるような予感がした。
先輩の姿がテレビで流れたことによるざわめきが、未だに身体のどこかで続いていて、耳には先輩に巻き起こっている旋風のような音が鳴り響いていた。
昔、父の髪の毛を切っていた記憶を辿って、あなたの髪を切り進めようとしたが、気が付けば部屋が自分のものではないと思うくらい、足をバタバタとさせていた。
手を休めて、リラックスをするために水を飲み、スマホに光を宿してみると、耳を切らないようにしてね、という内容のメールが萌那から届いていた。
ハサミを刺さないように、慎重に切り進めていたが、家の前の道を通ったであろう、バイクの走行音に驚いたあなたの髪の毛は、不本意に切断され、ジグザグとした襟足が生まれてしまった。
あなたの驚きを甘く見ていたことで、手の湿りが勢いを増し、散髪前、落ち着くために靴下を脱ぎ捨てて剥き出しになっていた素足は、不快なほどに濡れた絨毯に舐め回され続けた。
幸せと緊張が手に表れ、上手く指を動かすことが出来ずに、心の位置も、体温も、痛みも、全てが言うことを聞いてくれなくなっていた。
「ゴメンね、ガタガタになっちゃって」
「いいえ、大丈夫です。こちらこそゴメンなさい。じっとしていられないので切りにくいですよね」
「それはたぶん関係ないよ。ただ、彼氏の髪の毛を切るのが夢のひとつだったから、少し緊張してるの」
「そ、そうですか。僕は少し彼氏という立場に押し潰されそうですけど」
「そんなに深く考えなくてもいいからね。私は気を遣われるより、気を遣いたいタイプなんだから。普通でいてよ」
「はあ」
「私、玲音に告白するとき、フラれたらしょうがないみたいに考えてた。付き合ってからも、負担はなるべくかけないようにって必死で、どこか遠慮がちになってた」
「は、はい」
「でも、玲音が私を大嫌いっていう事実が目に見えて分かるまで、あなたの手は離さないって決めたの」
「そ、そうですか」
「ああ、なんか緊張がほとんど何処かに飛んでっちゃった。今はガタガタだけど、整えれば短くてカッコいい感じになりそうだよ」
「ありがとうこざいます」
鼻が詰まり気味で、湿ったような感覚があった顔の中心は、スッキリとして軽くなり、あなたの匂いを心から感じられるようになっていた。
切り換える気持ちでペットボトルを握り、入っている透き通った水を一杯に含んで口内を湿らせてから、一気に体内に冷たさを落とし込んで、夢中でハサミを動かし続けた。
人の背中は大きければ大きいほど抱き付きたくなるのが一般的だが、私にとってのあなたは、頼りなければ頼りないほど、存在感ある背中となり、よりいっそう抱き付きたくなってしまう。
スカイブルーの毛布、机に置かれた文庫本、そして、あなたがUFOキャッチャーで取ってくれたクマのぬいぐるみが、覚束ない私を優しく見守ってくれていた。
あなたの眉毛は太く、私はあなたという土壌の豊かさをひしひしと感じ、はみ出していない整った眉のカタチから得た、あなたの心が落ち着きを含んでいるという情報を、自分の胸に落とし込んだ。
バイト先がメイングラウンドになりつつある萌那を、遠い存在に感じ始めていたが、切った髪の毛がチクチクと手全体を刺激してきたことによって、あなたを近くで感じることが出来るようになっていた。
あなたがこの立方体にいる限り、私の心が立ち止まることはなく、あなたがこの立方体にいる限り、私の幸せの輝きも止むことなく身体に留まることだろう。
白がほとんどを占める部屋には、サッカー雑誌、クラシックCDなどが散らばり、あなたしか閉じ込めない予定のデジタルカメラは、写真嫌いのあなたのお陰で、部屋の隅でぐったりと傾いていた。
あなたの下がった太い眉は、周りを彩る短く整えた髪たちによって浮き上がり、それを見守るように父と母が、私の脳内でぼんやりと笑い出した。
急に吹き出した風が、高い音と低い音を繰返しながら、窓をガタガタと揺さぶり始め、静寂に近い空気は一変し、突風が突然の騒がしさを運んできた。
切り離した髪の毛を、あなたの肌から手で振り払い終わると、あなたの方から私に近づき、身体を抱き締めるようにしてきて、あなたに全てを捧げるように、私からもギュッと腕に力を込めて抱き締めた。




