#60 爆音不適合者
目の前にある机からは、落ち着いた趣のある茶の色が溢れ、空気中には目に見えないほどの静けさが漂い、萌那のペンはほとんど動きを止めなかった。
機械化が進んだ現代に見合った性質を持つあなたは、装丁越しの私の瞳を避けるようにしていたが、静寂の中心では、あなたがいつもよりも落ち着いているように見えた。
デジタルを通しても私に十分な気持ちを伝えられないあなたが、突然絞り出すようにボソボソっと吐き出した気遣いが、何もない静けさにボワンと浮き上がる。
椅子の背もたれに張り付き、机にはお腹を押さえ付けられているあなただが、心配の流れがまだまだ塞き止められることはなく、粘らせるように私の指をあなたの指へと絡ませた。
静寂を具現化したような空間を覆うように、本の壁が聳え立つこの世界は、迫力の塊ではあるが、心を波立たせる色はなく、億を遥かに越える数の文字達も本の中にほとんどが閉じ込められていて、物凄く優しかった。
バイト先の気になる人として萌那が一方的に見せてきたスマホには、誠実そうに映る青年の笑顔があり、それよりも何よりも、スマホを私に向けて掲げている萌那の満面の輝きの方が気になった。
ツルツルとした感触の傷のないあなたの掌を、握力の強弱を変えて握っているこの時に、昨日だけ東京という遠方にいたせいか、あなたとグッと距離が縮まった感覚が大量に溢れ出す。
気が付けば昨日、生声で聞いて心をゆらゆらとさせてくれた、あの曲の歌詞の形に口を動かしていて、身体に歌姫が宿っている気が、僅かながらしていた。
「ねえ萌那?ちょっと聞いてもいい?」
「菜穂、何?」
「昨日、駅のところで玲音と抱き合ってなかった?」
「ああ、玲音が倒れそうだったから支えてただけだよ。それで、しばらく落ち着かせてたの」
「本当にそれだけ?」
「うん。抱きついてたといえば、抱きついてたかもしれないけどね」
「ふーん。そっか」
「信じてないんだね。昨日は友達として会ってたからね。私は菜穂にも玲音にも隠し事はしないって決めてるよ」
「そうだよね」
「私の暗くて垢抜けなかった過去とか。大失恋して男子に雪に倒されたこととか。そんな私に手を差し伸べて、優しく包んでくれた菜穂のこととか。全部、玲音には話してあるから」
「玲音、そうなの?」
「は、はい。聞いてます」
「そうなんだね。私が好きな人のことを考えすぎて階段から落ちた時に、偶然萌那がそばにいて助けてくれて、そこからより親密になったことは?」
「それはまだ言ってなかった」
「あっ、そんなことがあったんですか?」
「うん」
ラベンダーの美しい香りを纏ったあなたの中に、美しさをあまり含んでいない、人間臭さや特有の落ち着く肌の匂いを見つけて、鼻孔が興奮気味に震えた。
透明なコーティングが施された唇を、溢れ出しそうな不安や、あなたの表情へ抱いた少しの息苦しさによって舌で拭き取ってしまい、口の中にジワジワと鈍い甘さが泳ぐ。
口角炎の私が上手に喋れないというのに、口裂け女は自分が綺麗かどうかを誰かにハッキリと尋ねていることに気付き、その頭の片隅にある僅かな口裂け女の情報だけでも、自尊心とメンタル面では完全に劣っているなと感じた。
スマホ画面に新しく住まわせたデジタル時計の、秒数の1の位が1秒ごとに移り変わるのを見る度に、薄い黒の残像が目に残り、次回へ移り変わることの大変さをねっとりと擦り付けられた。
干し芋をむさぼり食う萌那の、生き生きとした瞳から安心が漏れ出て、いつも何かを口に含んでいる萌那の日常性と力強さが、ガシガシと伝わってきた。
私のツインテールは、生まれてから一番天に近く、頭皮の感覚も、触ったときに指先をツンツンと擽ってくる感覚も、シャキシャキッとしているのに柔らかさがあった。
本の大群に囲まれる感覚、音が極端に少ない空間、萌那の言動に振り回されている現状、勉強をする二人の横であなたの敏感さについて研究している私の立場、など様々な事柄で身体が縮こまってゆく。
傍らに置かれたあなたのスマホは、相変わらずヒビが入ったままで、あなたの日々の驚きと、そのヒビを重ね合わせ、消えないことを仕方がないこととして納めようとしていた。
ノートにペンで黒を落としてゆくあなたの、しっかりとした目付きとは裏腹に、あなたの手の甲に貼られた薄茶色の絆創膏の縁は捲り上がり、ヘナヘナに波打っていた。
本であなたの病状を調べようとしたが、めぼしいものは見つからず、本当に効く薬はないのかをしつこくあなたに質問する自分の声によって、周りが波打つようなざわめきを作り出してしまっていた。
あなたと私のツーショットを撮影して、それをSNSに載せていいかと萌那に聞かれ、了承して身体をそっと近付かせてあなたにもたれ掛かるようにすると、あなたも僅かに身体を私に寄せてきて、昨日遠く離れたお陰で、愛は熟成を始めたのだと確信した。




