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#58 東京なのに空より遠い

走行中の車窓というスクリーンから見えるこの景色は、明るい緑、優しい黄色、華やかなピンクといった、しっかりとした色のバリエーションを見せてくれていた。


教室ではいつも私の右側にいる山崎さんを、今日は座席の左の端の方で見つけ、神秘的なオーラ、座席に着きそうなほど長い黒髪、心にまで届くような圧倒的な目力などの中に微笑みを含ませて、山崎さんはこちらに軽く頭を下げた。


深みがあり、圧力も感じさせ、異質の広がりを見せる歌姫の歌声がイヤホンから全身に広がり、耳は歌姫一色に染まっていき、憧れの歌姫と東京が段々と近づいてゆく。


人差し指でそっと画面をタッチしてテレビを起動させ、長方形を横に倒して四隅をしっかりと指で押さえた後、周囲には確認出来ないほどの深呼吸をして、イヤホンを耳に馴染ませるように軽く押し込んだ。


いつもこの瞳で直接眺めている先輩が、風景の波や、人々の静止の手前で、番組の映像として長四角の中で躍動する姿に、少しふわふわとした不思議な感覚に落ちていた。


テレビに映る先輩の上がった口角が愛らしく、先輩の蹴り上げた右足の形や全体的なシルエットに、明日からのグラウンドが、いつも以上にザワザワする光景が予感できた。


愛があるこの身体は、多少の腹痛にも打ち勝つ強さが備わっているようで、つり革を握っていない方の手で、愛にお礼をするように、回復したお腹をポンポンと何度か微弱に触れた。


都会は場違いで相応しくない、半日以上二人一緒にいたら心臓が持たない、という数日前にあなたから私に送られてきた言葉たちが、今になってもデリケートな心臓や肉体を締め付け続けていた。


「何を見てるの?」


「あっ、こんちには山崎さん。これは海原先輩が出てるテレビの番組だよ。ほら、少し前に取材が来てたでしょ?」


「そう。あれ今日だったんだ。すごいよね、同じ高校の人がテレビで取り上げられるって」


「うん、そうだね。山崎さんは電車で何しに行くの?」


「まあ、ちょっと用があってね。大まかにいうと買い物系かな。それで、菜穂ちゃんは?」


「私はアーティストのライブに」


「いいね。長木は一緒じゃないの?」


「誘ったんだけど、少し東京が怖いみたいで」


「そっか、それなら仕方ないね。あっ、ごめん。顔怖いかもしれないけど怒ってないからね」


「うん」


「長木とは上手くいってる?」


「うん。上手く行ってるよ」


「敏感さはどう?」


「うん。今は落ち着いてるよ」


「長木には菜穂ちゃんしかいないからね。なんかよく分からないけど、菜穂ちゃんが気になってね。菜穂ちゃんと付き合ってる今の長木を見ると、嬉しくて仕方がないんだよね」


「嬉しい」


神秘の薫りを纏った山崎さんが、密度の高い空間から押し出されるように去り、日常臭さが戻り、鼻の中心部に身を潜めていた痛み予備軍が、静かに鼻を刺激する。


体内から溢れ出したあなた由来の甘みが、唾液として口内に流出して、舌の上に寝そべっているように感じ、その中には空腹の甘みも、先輩の甘みも僅かに存在していた。


秘密、気遣い、尊敬、劣等感、など様々なものに操作され、恋人が一番近くて一番遠い存在に仕立てあげられるこの世の中には、70億万通りの人生が存在するが、私はあなたと共に生きるという人生を選択する。


スマホを縦にして10文字にも満たないあなたからの返事のために、目がしばしばするほどの文字を打ち込むと、目の内側から溢れ出るように疲れの切れ端が表れた。


先輩の爽やかな坊主頭と、それによく似た、サッカーボールという名の球体を蹴り上げる筋肉質の脚が、放送が終わってもなお、スマホや脳内に異常な広がりを見せる。


遠くにいてもあなたを受信出来るように頭に施した立派なツインテールが、頭皮を引っ張りながら、私に鋼のような強さを与えてくれているように思えた。


親指の傷が本来の皮膚に戻ろうとする事実を、むずむずとした痒み、目に映る無地が増えた皮膚などの光景で、しっかりと確認することが出来て、身体の生命力を感じた。


SNSを賑わす萌那のバイト仲間、狭い四角にそぐわないほど大きく映る萌那の顔面、そして、SNSを見ている私に画面上で背を向ける人物を、親指を巧みに動かしながら電車内で目に焼き付けた。


襟足の暴れるような広がり、上へ上へと昇ろうとする髪の毛の強さ等で、すぐにそれがあなたの後ろ姿だと分かり、萌那へのモヤモヤが喉元でうずくまる。


あの日、耳で覚えたクラシック音楽を脳内で再生すると、これから聴きに行く歌姫の美しい歌声よりも、あなたとの想い出であるその音楽と、あなたの弱々しい声色の方が、先行し始めた。


階段を駈け降りて街に解き放たれ、都会の喧騒に包まれてあなたと一番遠い今、近くにありそうな空に手を伸ばしても届きそうもなく、あなたの姿カタチは、少しも見えてなどいなかった。

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