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#56 ハートが奏でる二重奏

吹く風がスカートにも、あなたのいくつもの傷にも刺激を与え、息を吹き込まれたように、スーパーの袋が天を目指しながら膨れ上がる。


自らの意思で義理チョコを渡した、先輩に対する僅かな不安が消えない私と、都会という異空間の不安を顔全体で表すあなたがここにはいる。


建物内に入ると、冷静な木製の床に、靴底の硬質な部分が押し当てられ、その度に、コツン、コツン、と天に突き抜ける音が雑音を抜けて、何度も何度も響き渡る。


ペラペラした紙切れを大事に握り締めている指は、冷気に晒されていないのに、皮膚の感覚が何処かに飛んでしまい、それと引き換えに、ピリピリとした感覚が徐に顔を出した。


チョコレートのような甘さは時間が経過し、身体からほとんど放出され、ビシッとしたスーツや暗色の服装をした大人たちと、冷静さが視界にちらほらと入る。


席に座った後も、あなたは相変わらず自分の髪の毛に驚き、私の揺れる髪にも敏感に揺れ動き、あなたの手首に痛々しく巻かれた包帯の白が、若干萎れているように見えた。


香りではない空気中に含まれる何らかの成分の違いによって、鼻の喜び方にも違いが生まれるものだが、あなたといる今の鼻は、とても素敵な喜びに包まれていた。


わずかに口に残るチョコレートの、甘さに似た余韻のようなものが、名前も分からぬ女性からあなたが貰ったチョコレートであるような気がして、ペットボトルの水で、不安と緊張と共に一気に飲み込んだ。


「ゴホッ、ゴホッ」


「大丈夫ですか?」


「うん、大丈夫だよ」


「あっ、はあ」


「萌那、今はたぶんバイト中だよね?」


「はい、そうだと思います。きっと頑張っていると思います」


「萌那とも一緒にコンサート来たかったね」


「そ、そうですね」


「こういう場所は初めてに近いから、少し緊張するね」


「ああ、はい」


「本当に楽しみだよね」


「はい」


「まだ聞いてなかったけど、玲音はクラシックコンサートとか来たことあるの?」


「はい。家族と何度か来てます」


「玲音、かなり緊張してない?」


「してますよ。菜穂さんと一緒にコンサートに来てますから」


「そっか」


「僕、ここにいていいんでしょうか?」


「えっ、いいに決まってるでしょ」


「僕は楽しいですけど、菜穂さんは僕といて楽しいですか?」


「楽しいよ。急にどうしたの?」


「僕、全ての気持ちがツボミにもなっていないんです。僕にとって水や太陽の役割を果たす、自信というものがほとんどないんです。だから、人も心から愛せないと言いますか」


「大丈夫だよ」


「失礼かもしれませんが、菜穂さんの容姿のファンという感覚だったんです」


「大丈夫、大丈夫。それでいいんだよ。玲音が私のファンでいてくれるうちは一緒にいてよね」


身体に蔓延る邪念や緊張を、どうにか振り落とそうと首をぐるぐる回し、手首をバタバタと震わせ、座ったまま軽く一回、座席に身体を打ち付けた。


あなたに向かって熱く燃える、私の心臓から一番遠い場所にある、足の爪先を襲う冷たさを回避するように、足が自らジワジワと発熱を開始した。


あなたになら全てをさらけ出せる気はしているが、あなたの驚きが怖くてそれは出来ていなくて、世の中には隠さなくてはならない愛も塵ほど存在し、全てさらけ出すことが愛ではないことを、少しだけ不便に思った。


治るのが遅い親指に、貼り付けられた黄土色に近い四角からは、褪せた赤が滲んでいて、あなたが弄くる変えたばかりスマホからは、あなたの心を映すようなヒビを見つけた。


静かに音が空間を包み始め、音色は急激に大きくなり、それは細身のあなたがオーケストラの迫力に飛ばされてしまいそうなほどで、心配でずっとあなたを見つめていた。


あなたは頻りに、ウーと唸るような小さな声を発し、それは弦楽器の重なりが増える度に多くなり、クラシック音楽の唸りがあなたの唸りに寄り添うように、隙間にスッと入り込んでいるようだった。


あなたの柔らかい手をギュッと握り直し、絆創膏のはみ出た部分のカサカサを気にしながら、幸せや小気味いいメロディーを、私とあなたで行き来させて共有し続けた。


オーケストラの音色は去り、余韻を耳に残して、暗さを見せつけてくる空が見える場所に出ると、視界に映らない程度の睫毛のその先に、真っ直ぐ均等に垂れ下がる黒髪が映り、それによって蟠りも何の纏わりもない静かな心が広がった。


街はボサボサとした髪の男性で溢れ、教室ではあまり言葉を発さない、同類の髪型をした隣の男子が脳にしがみつき、その男子が何もせずにコンビニから出ていったあの日の光景が、脳から消えなかった。


間違えて指が瞳に触れてしまっても、望まない悲しみが瞳に触れてしまっても、幸せに触れてしまっても、涙は瞳から溢れてしまうもので、私は今、瞳から流れた幸せに近い成分を、人差し指で拭って指に纏わりつかせていた。


知人と名乗る女性からのチョコレートに、良からぬものが含まれていたと考えるのが妥当な痛みが、お腹辺りに走り、お腹の中で小さい針が暴れてるように、じわじわと効いてきた。

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