#50 始めればゴールはある
父と母が結ばれてから一年が経ち、一度目の結婚記念日の幸福さを物語るカラフルな料理達が、ファミリーレストランのテーブルを壮大に埋め尽くしていた。
母の金髪から消すことの出来ない天然パーマのうねりは、いつもよりも僅かに勢いを無くし、バサバサッと纏まっていた。
両親の愛が詰まった日を、声を大にして祝福することが出来ないほど弱りきっていた私を、ルールや常識に忠実な母は、音を発さずにさりげない気遣いで拾い上げてくれた。
肉の塊をジュージューと音をあげながら焼き付くそうとする鉄板と、同様の心を持とうとしてもすぐに冷えてしまうのに、目の前にある鉄板は、ボーッとしていた私の僅かに触れた指までも焼き尽くそうとしていて、肉の気持ちを思い知った。
ゴールは見えず、振り返ればスタート地点がすぐそこにあるが、跳ね上がる肉汁、走り回る坊っちゃん、笑顔の店員、眩しい照明と、ここには熱を帯びたものしか存在していなかった。
照明が自我を解放している明るすぎる店内で、父の頭がより光り輝き、両親が放つ幸せの光の中にいる私は、もう幸せ以外の何者でもなかった。
父を包囲している香水を、上回るハンバーグの肉らしい香りが天井にまで到達し、父が作ったハンバーグを思い出させてくれる大好きな香りが、鼻をグングンと昇っていった。
このテーブル席での私の役割は脇役ということで、ひっそりと、じっくりと、肉から溢れ出す熱々の旨味を噛み締めながら、我を出さずに二人を見守り続けていた。
「菜穂?緊張してるのか?」
「えっ、いつもと変わらないけど」
「そうかな?いつもと少し違うけどな。ファミレスに緊張してるんじゃないとなると、元気がないのは、やっぱり玲音くんのことか?」
「まあ、そんな感じかな」
「菜穂が悩んでいるときは、いつも玲音くんのことだからな」
「パパは何でも分かるよね、私のこと」
「当たり前だろう家族なんだからさ。それで最近、何かあったか?」
「玲音とキスしたの。二回」
「おう、良かったな」
「あとね、海原先輩は私の恋を応援してくれてるんだけど、私ともっと距離を縮めたいって言ってるみたいで」
「そうか」
「あとね、萌那は海原先輩と冗談が言い合える仲になったみたい。萌那はバイトで忙しくて、最近はあまり一緒に遊べてないんだけどね」
「そうか、そうか」
「それと、玲音のお姉さんと初めて会ったの。少しアメリカのノリがあるとてもお喋りな人で、玲音とは真逆の性格なの。今は実家に帰ってきてるんだって」
「へえ。そうなのか」
「顔も似てないから最初は分からなかったんだけどね。玲音は萌那といるときもだけど、お姉さんといるときは特に落ち着いてるの。私って頼りになってるかな?」
「うん、そうだな。自分なりの力が出せていれば、それでいいんじゃないか?」
「どうやっても輝く未来は、想像出来ないの」
「未来なんて誰も分からないんだから、思った通り突き進めばいい」
「うん。パパ、ありがとう」
トートバックにガサツに入れられたデジカメの紐に、手を掛けて引っ張り上げ、あなたとお姉さんが一緒に映った写真を父の目の前に提示した。
あなたのボディーガードと歌声のため、腹筋が沸き上がるほどのトレーニングをしている私だが、それを上回るほど筋肉質な父の興奮に叩かれた背中側は、少しムズムズした。
私の理想の夫婦像がこの空間にはこぼれ落ちるほど溜まりきっており、あなたとこんな関係を築きたい、あなたとの変哲もない未来を抱き締めたい、そんな気持ちで満ちていた。
家族と真っ白なケーキが並んでいる、このあなたが目の前にいない落ち着きのある幸福な光景を、楽だと感じてしまっている瞳が空しかった。
前側にいる母よりも、右側にいる父よりも、あなたの顔を目に焼き付けていたい私は、デジカメに映るあなたを見つめていないと気が済まなかった。
あなたは時計の秒針の小さな音でさえも気にすることがあり、ここにあなたがいたらきっと、店員を呼び出すチャイムにも、熱を帯びた鉄板にも驚き、それに負けないほどの音を奏でることだろう。
いつの間にか治った私の頬の傷に気付いた、父の手から垂れ流された優しさに、そっと包み込むように撫でられ、苦痛はスッと溶けていった。
両親の記念日を祝うように、なめらかな汚れのない純白の肌を携え、シュッと構えるショートケーキを、父が多めに私の皿によそった。
母の瞳も、父の瞳も、私の瞳の奥の方を見通すようにこちらを見つめていて、まるで私が主役の記念日であるかのように、二人は接してくれていた。
カラカラになってしまうほど、幸福な熱を帯びている身体を隠すようにドリンクバーへと立ち、暖かい色であるオレンジジュースのボタンを力の入った人差し指で押し続けると、飛び散った水滴で手がヒヤッと冷たくなった。
いつもキスを拒むように付けられているあなたのマスクを、燃やしてしまうほどの炎が心に灯り、ゴールを目指そうと心に決めたその瞬間、突如、マスクを付けて走り回ったときのような息苦しさが押し寄せてきた。




