#47 白いカベ
公園のベンチで切ってしまった私の頬の傷は、いつの間にか消えていたが、あの印象は未だに消えないまま、灰色のアスファルトの上で、あなたと繋いでいない方の手を振って歩いた。
ヒダの寄った真っ白のマスクで、あなたの顔はほとんど見えず、そのマスクが、私のキスを拒むように唇を遮断する一枚の白い紙にしか見えなかった。
あなたの口癖である、何?、を耳で待ち受けてしまっているほど、善くも悪くも、それを主体としたあなたの声しか、耳に入って来ていなかった。
今が冬であることを思い出させてくれる、冷たいカラカラとした匂いの風は、季節の移り変わりと共に変わりゆく運命を、私に予感させようとしていた。
お昼を食べる予定の色褪せたベンチを見つけて、歩みを早めている間にも、突然止まったり突然振り向く生徒にあなたは驚き、そんなあなたに逆に生徒がビクッとなる姿もあった。
手を繋いでいるのに、ベンチに腰を下ろした私たちの間に微妙な隙間が出来ていて、あなたの顔をスッポリと覆うマスクが、キスを拒むものだけでなく、あなたと私の間に設置された大きな壁のように思えてきた。
先輩に貰ったハーブのど飴は底をつき、満たされない口、いつもあったものがいなくなる不安、他の味では満たされない舌などが、いつまでも何だかもどかしかった。
膝のテーブルにお弁当箱を広げ、不思議に思っていた両手の温度差をあなたに伝えるため、あなたの二つの頬に手のひらを当てると、ざらざらとした髭の赤ん坊たちが、皮膚に程よい刺激をくれた。
顔を近づけ過ぎたのか、あなたは驚いて膝上に置いていたお弁当をひっくり返して地面に落としてしまい、おかずやご飯は黒のお弁当箱が綺麗に被さり見えないが、アスファルトに散らばる小石や砂粒と接していることは確かだった。
髪の毛の奥に潜む瘤のうねり、包帯が巻かれた痛々しいあなたの折れた小指、その中に新たな不安がプラスされませんようにと、あなたの白い横顔を見ながら祈っていた。
人差し指以外の全ての指を折り曲げて、アーチ状に弛ませた人差し指の先で、自分の鼻の頭の不快感を擦って軽減させてから、お弁当箱を拾おうと勢いよく足を踏み込み、ベンチから立ち上がった。
右膝の裏に、ピシッピシッと電気が流れ出し、足の曲げ伸ばしは最小限に抑えられ、滑らかさはいつもと比べれば格段に下がってしまっていた。
文章だけの世界では、風景や音楽などは隠し通せるが、現実世界で、心の喜びや悲しみや愛や憎しみを隠し通せるほど、私は冴えてなどいなかった。
私のお弁当の主食として、箱を占領していたカレー焼きそばの薫りが、不注意で触れてしまったあの時から手に付き、あなたのお弁当箱を拾い上げている間も、思った以上の広がり方を見せていた。
満足感は溢れているが、セカンドキスへの欲の方が強く湧き出ていて、欲によって溢れ出した唾液は、口内に纏うカレーの香辛料を柔らかくし、突如やってきた喉のムズムズが突然のくしゃみを引き起した。
くしゃみに驚いたあなたは、口に付けていた紙コップに入った熱々のコーヒーを浴び、熱さと心配が私の足首にも伝ってきて、上半身の前面の大半がむず痒かった。
「すみません、大丈夫ですか?」
「うん」
「火傷してないですか?」
「玲音の方が思い切り被っちゃってるから」
「僕は大丈夫です。本当にごめんなさい、僕が拭きますね」
「あっ、いいよ、私は自分で拭くから。それより、私が玲音を拭いてあげるからね」
「いいですよ、自分でやりますから。はぁっ」
「いいからいいから」
「ありがとうございます」
「ねえ、私のこと苦手になった?」
「ど、どうしてですか?」
「いつもより私に敏感になっている気がするから、それに少し怖がっている気もするし」
「自分のことを好きになってくれた人に、苦手だと思ったことは一度もありません」
「またキスしてもいい?」
「それは、ちょっと」
「どうしてもダメ?」
「あんなことがあったので、しばらくの間はやめておきます」
「あっ、お弁当全部ひっくり返っちゃったし、私の食べる?」
「はい、少しだけ」
ひび割れた餅のように、いくつもの白い線が複雑に入り組む右手薬指のひらを、右手の他の指のひらをなぞってからなぞると、ざらざらが際立ち、気持ち良さの格差に愕然となった。
お昼ご飯を予想以上に早く済ませざるを得なかったあなたは、おもむろに大量の薬を取り出して、苦い顔をしながら水で流し込んでいたが、様々な薬を試しているにも関わらず、症状は一向に良くなっていなかった。
突然、ゴソゴソと耳の中に押し寄せてきた波打つ音は、暫くしてそっと止み、薬の後を追うように、私はあなたにそっと近づき、あなたの唇に音のするキスをした。




