#45 口内からじわじわ浄化
出し過ぎた歯磨き粉がブラシの上で横たわり、セーターの逆立つ微細な羽毛や、浮遊して見える小さな毛の玉が、すっと目に入り込む。
キスは私にとって落ち着く魔法で、キスは私にとって特効薬で、キス前の私は怖い顔をしていたが、鏡に映った今の私は、別人に見えるほど柔らかい顔をしていた。
お気に入りのロックを聞くため、耳の内側まで侵入させるタイプの真新しいイヤホンで耳を塞ごうとすると、ザワザワ音が身体全体に響いた。
右手を強く動かしている間も、洗面台の左側の壁に垂れ下がる生乾きのタオルから漂う、鼻が疼くほどの細菌染みた不快臭は健在だった。
私が歌う十八番のラブバラードは、まだあなたの耳に入っておらず、小刻みに揺れる歯ブラシが口内に入ったまま、そのバラードを口ずさむ自分の口の動きが、虚しく優しく鏡に浮かんでいた。
キスをした後に気を失って倒れたあなた、その後少し経ってから何もなかったように起き上がり共に時間を過ごしたあなた、そんな何とも言えないくらい可愛いあなたの表情が今、脳内に放映されていた。
いつもより舌に響くミントが、口内の天井や床にも伝い、泡立った白がジワジワと、そしてジンジンと、口全体だけでなく心も程よく刺激していた。
唇の皮膚は今もあなたを覚えていて、芸能人と握手をして一生手を洗いたくないと感じる思考とほぼ同等の現象が、あなたと唇を重ねた翌日の私の唇にも起きていた。
吐き出した泡は流れて穴へと吸い込まれていき、嫉妬に流され、運命に流されてゆく私自身と、それをつい重ね合わせてしまっていた。
左手に収めた長方形の画面にいる、あの出来事が起きた少し後のあなたのこの口元を見れば、セカンドキスが2回目の手繋ぎほど上手くはいかないことくらい、すぐに分かった。
私の集中力は全てあなたの支配下にあり、あなたによってだいぶ妨げられていて、今のところ前歯だけを綺麗に磨いた実感しかなかった。
歯を磨く作業に力を込めすぎて、右腕の筋肉がジンジンと悲鳴に近いものを発し、右手をブランブランと頻りに振ることで、強引にほぐしにかかった。
恋を恋というフォーマットで考えているから苦しいのであって、生活というフォーマットに置き換えれば、少しは恋をすることが楽になれそうな気になっていた。
ミントが時間をかけて鼻を通り抜け、それが鼻を刺激して、鼻水がジワジワと湧いてきてしまい、ティッシュに鼻水と不安を包んで、丸めてポイと捨てた。
あなたとのファーストキスの味より強いミントの味、ファーストキスの味を洗浄するような泡の味が勢力を増してきて、水を口に含みクチュクチュとすると、それを蟠りと一緒に一気に吐き出して一掃した。
全身の温度の温と冷のサイクルは激しく、何度もすぐに移り変わってしまっていて、先程まで歯ブラシを持っていた手であり、普段はあなたと繋いでいない手でもある右手の甲だけが、ネチネチと粘っこく、変わらずに燃え続けているのを肌は感じていた。
「菜穂、まだ空かないか?」
「えっ?ちょっと待ってパパ。口を濯いでるところだから」
「あと何秒?」
「分からないよ、そんなの」
「菜穂、どうしたんだ?最近、特にボーッとしてるけど」
「そうかな?自分では、よく分からないよ」
「少し嬉しそうにも見えるけど、少し悲しそうにも見えるんだよな」
「うん、当たってるかもしれない。今、そんな感じだから」
「何かあったんだな?」
「うん、まあ。ちょっと色々あってね」
「玲音くんとのことか?」
「うん。なかなか上手くいかなくてね」
「玲音くんと何かあったのか?」
「キスしたの。でも、気絶させちゃって」
「気絶?大丈夫だったのか?」
「うん。でも、これからこれ以上先に進める気がしないの」
「そんなのまだ分からないじゃないか。困ったらパパに何でも言うんだぞ」
「ありがとう、パパ」
「菜穂はパパが守るからな」
涙でしか潤せなかった以前の瞳は、あなたや大切な人の愛でしか潤せない瞳に変わっていて、輝くものがジワッと目の前に現れ、曇っていないはずの鏡の私が滲んで見えた。
父のツルツルで真ん丸な頭を目の当たりにして、あなたの頭にあったデコボコを思い出し、そのデコボコに対する気掛かりが、再び活発に動き始めた。
父の奏でる音が立ち去った後、画面を中指でギュッと押して、スマートフォンを耳に添えたが、いつものように呼び出し音が機械的な女性の声にも、あなたの声にも変わることはなかった。




