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#44 躊躇いキス

黒ずんだオレンジがカップの底にこびり付き、ハグの先へ進みたいという気持ちも心の底にこびり付き、あなたへの心配を欲望が追い越していた。


接吻の火種は、自然に起ることなんてなく、気分は下を向き、カラオケボックスの鏡に映る自分の顔は、あなたが逃げ出すことも理解できるくらい怖くなっていた。


今日5回目の、あなたなしで鳴る十八番のラブソングのイントロが、静かに気持ちよく、スピーカーから放出されてゆく。


冷めたピザのトマトソースもチーズも、鼻には届かず、麗しい薫りのハンドクリームが塗り込まれた手のひらの皮膚にまで広がるほど、鉄のニオイが侵食していた。


唾液が喉の手前にある溜め池のような場所でヒタヒタになり、ゴクリと喉を鳴らしても、また、どこからともなく涙のように溢れてゆく。


熱を帯びるマイクの暖かさしか感じられない寂しい手がここには存在し、キスはしたいが毎日手を繋ぐことが出来ているだけでも幸せなのかもしれない、という考えが片隅に浮かんできた。


画面の文字の色が流れていない瞬間に、私は何度も何度もドアの僅かな透明部分に目をやって、あなたを探すことを止めず、ずっと目は部屋中を走り回っていた。


突然ゆっくりとドアが開き、目を向けると、そこにはキスから逃げたあなたが立っていて、あなたの着ているパーカーの水分はほとんど拭き取られたように消えていた。


「玲音、どこ行ってたの?」


「すみません、トイレに」


「そう」


「パーカーを拭いてました」


「心配になるから、勝手に出て行かないでよね」


「すみません」


「今度は何か言ってからにしてよ」


「はい」


「ねえ?」


「何でしょうか?」


「突然キスされるより、承諾を得てからキスされる方がビックリしないよね?」


「えっ、あっ」


「今からキスしていい?」


「キ、キスはダメです」


「どうしてもダメ?」


「はい、心臓に負担をかけないように言われているので。ハグがギリギリ耐えられるラインというか」


「玲音、唇って一番皮膚が薄いんだって」


「あっ、そ、そうなんですか」


「だから、唇が触れ合うと優しい気持ちになれるんだって」


「はあ」


「キスは落ち着く魔法なの」


「魔法ですか?」


「そう。心臓のためのキスだから」


「えっ」


「手繋ぎと何も変わらないよ」


「あ、はい」


二人を受け止めているシートの落ち着いた色が、私の暴走を止めようとし、大画面の星たちは私とあなたの胸のキラキラを助長させようとした。


しっかりと指の隙間を力で埋めて、目の前に壁を作るあなたの、そのすぐ先にいる私は、あなたとこれから唇を重ねても、ファーストキスにはならない。


空気からではなく、纏わり付く水分から逃げていたあなたに、胸を撫で下ろしたが、薬が効かないあなたにキスという薬が効くとは思えないこと、私の行動が独り善がりかもしれないことなど、キスまでの葛藤が私の身体を侵し続けた。


あなたに後頭部を向け、眉を吊り上げ、頬を持ち上げ、口角を捲し上げ、顔の筋肉を緊張から解き放した。


時折、身近な人に好きな人を奪われた過去の記憶が、心臓へと遠慮なく入ってきて、チラチラとチラつき、ザラザラとザラついてゆく。


あなたの頭を手のひらで抱くように支えると、指先に瘤のような凸凹が当たり、あなたの全てを身体全体で覆いたくなった。


私の心臓の近くにある薄紅色したフリフリの襟は、静かに息を潜めていて、それにあなたが触れたとき、瞳は壮大な轟きを開始した。


了承を貰い、あなたのオドオドした顔を眺めながら無理矢理に近いキスをすると、その直後、あなたは気を失い、床に崩れるように落ちた。


両手で肩を揺すり、あなたの顔に不安な顔を近づけてあなたの名前を吐き出しても、全く動く様子はなかった。


綺麗な歯並びを包み隠す、薄い唇から与えられたあなたの芳醇な優しさは、完全に私の鼻を通り抜けて、体内にまで入り込んでいた。


あなたの心臓に左耳を押し当ててみると、鼓動は私のものよりも速くリズムよく鳴り響いていて、部屋の中では機械にパンパンに詰め込んだ十八番のラブバラードのイントロが、再び流れ出していた。

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