#35 恋のミックスジュース
見上げるとドアの上に積まれたトイレットペーパーが優しさを放ち、視線を下げればドアの隙間から漏れる白い光が瞳の中心へと向かってきていて、それが幸せの光である可能性は限りなく低かった。
萌那が遠くで発するあなたの名前が確実に耳へと入り、聞こえてくるテンションの高さと笑い声から、顔をくしゃくしゃに崩して笑う萌那が想像出来た。
達磨のようにしっかりと直立する嫉妬心や破滅的な心を、便器へ込めてレバーを引くと、遠くから水の大群が押し寄せるような轟音が響き、萌那の声は一瞬で消されていった。
消臭剤のラベンダーが鼻を覆うと、そのラベンダーをたまに漂わせているあなたと萌那が頭へと浮かび、ラベンダーという落ち着きを二人が教え合っていたのでは、という考えが少しの間、頭を過り続けた。
下半身の蟠りは溶けて流され、軽くて重い心身で通路を急ぐと、甘いお菓子や飲み物を欲する口全体に大味な唾液が溢れてほだされ、頭の萌那にも私はじわじわとほだされていった。
微量の水分が張り付いた手で、キッチンの冷蔵庫にあるミックスジュースや、キッチンの角を賑やかしているお菓子たちを掴み、ヒヤンリ、そしてツルリとした肌触りを感じながら二人の仲の真相に歩を進めた。
普段何気なく開けている部屋の扉が、重厚感、重苦しさ、違和感、冷たさ等を纏っているせいか、丸い取っ手に手を掛けるのも相当の勇気がいった。
平常心で扉を開けると、ポテトチップスの袋のシルバーは全て露わになり、ミックスジュースのペットボトルの奥も見えるようになっており、嫉妬の上を行く萌那はこっちを向きニコッと笑って電話の向こう側のあなたに向かって名前を呼び続けていた。
「うん。じゃあね、バイバイ」
「ねえ、玲音くんと話してた?」
「そうだけど」
「えっ、玲音くんとよく電話してるの?」
「うん、結構よくするよ。えっ、もしかして怒ってる?」
「いやっ、怒ってはないけど。私の電話には玲音くん全然出てくれないなって」
「嫉妬の沸点が低すぎるんじゃない。電話に出ないのも玲音の場合は愛がある立派な証なんだよ」
「えっ、どういうこと?」
「好きすぎて緊張しちゃうってこと。私に対してはあまり驚かなくて何でも普通にしてくれるから、好きとは違うんじゃない?」
「私は萌那が羨ましいな」
「落ち着いてくれているのは嬉しいよ。でも、緊張しないってそんなにいいことかな」
「うん、だって私はもっと深くなりたいもん。まだ相当高い壁があるからさ」
「私には最初からあんな感じだし、あの玲音を変えるのは相当難しいよ」
「なんか玲音くんには萌那みたいな人が合ってる気がしてきた」
「玲音とは世界一の親友を目指すって言ったでしょ?だから邪魔はしないよ。だから菜穂らしく前向きに突き進んでよ」
「う、うん」
「前は慎重にって言ったけど、今の玲音はかなり安定してる。だから、玲音を守ろうっていう気持ちも大事だけど、リスクを恐れず向かって行かないと何も変わらないよ」
「そうだよね」
未来を邪魔するかのように目を覆う白い膜を、目をパチクリさせたり、親指近辺の手の甲で擦ったりして取り除くと、いつもと変わらない机が映り、現実の中にいる実感を辛うじて手に入れることが出来た。
萌那は非常口のマークのような足の形で無防備に座り込み、頼もしさに満ちたしっかりくっきりとした微笑みに反して、穿いているスカートは乱れ戯けていた。
私の人生の大半が人間に元々備え付けてある本能にしてやられていると感じ不安になったが、あなたを好きになるという本能が元々私の中に備え付けられていたことだけには、とびきりの幸福感と感謝を覚えている。
萌那に煮出してもらい、旨味を取り出して欲しいと願っている好事家の私は、萌那になりきるために肩に手を置き、口角をあげながら見つめ、メイク法を聞き出そうとしたが、軽くあしらわれた。
貧乏揺すり、しつこく溢れ出す唾の呑み込み、片方の手首をもう片方の手で握ることなどを自然と行う身体に変化してしまっていたが、電話は自然に任せても簡単にすることは出来ない。
お腹の弱さを守る毛糸のパンツがチクチクとお腹周りの皮膚を刺激し、胸のチクチクは何にも守られずに刺激を強め、落ち着かずにパンツの位置を何度も変えたり、唇を巻き込むことを続けていた。
ふと意識を向けると、ペットボトルの首寸前まであったはずのドロッとした果実の黄色は僅かしかなく、透明で軽そうな脱け殻だけがテーブルで静かに横たわっていた。
つい先程、部屋を訪れたばかりの大袋入りのクッキーも忽然と姿を消し、お腹を抑えて物足りなそうに首を捻る萌那と、萌那の食欲だけがその場には残っていた。
スマホに触れて明かりを灯し、親指で画面を連続でタッチしたり、上下に滑らしたりして、穏やかにあなたと仲を深くする方法を探る私がいた。
鼻の頭に微細なゴミが付着して痒く、それは鼻の中まで到達していたが、求めている情報が見つからないことなどが蓄積した心のムズムズには到底及ず、横になる萌那を包む甘い香りの外で、ひとり呆けていた。
思い立ったようにあなたへかけた電話の呼び出し音が耳元で一定に続き、女性のアナウンスが現れずにドキドキは暫く続き、諦めかけていると呼び出し音が突然途中でプツリと切れ、ガタッという雑音がスマホの向こうから伝わってきた。




