#28 闇夜に沸き上がる衝動
中学生時代に毎日のように身に付けていた、ピンク色のベルトがキュートな懐かしの時計を引っ張り出してきて、久し振りに行動を共にすると、数字のないスッキリとした印象の文字盤が目に和みを届けてくれた。
相変わらず愛おしいあなたの鼻の低さや歯の形の統一性は、いつもより外を向く顔の角度によって確認出来る回数が減少し、明るいところよりも暗い夜道にいるあなたの方が幾分、表情が明るいように感じた。
通りすがる民家からは、換気扇を突き破りカレーの匂いが立ち込め、週末や記念日になると母が必ず作ってくれるカレーのことを思い出し、あなたの方向へ進むことを僅かに躊躇わせた。
今日は大切な父の誕生日ではあるが、あなたを一生守ると決め、今日はあなたとずっと一緒にいてあげたい、ずっと一緒にいさせてほしいという気持ちがそれを上回り、民家から聞こえる赤ちゃんの泣く声にも身体が反応するほど、着信音に怯える耳へと変貌を遂げていた。
右の脇にいる鞄の口の隙間から白いビニールが見え隠れし、その白いビニールから微かに顔を出す父が大好きな三種のマカロンを見て、父への愛しさや後ろめたさがじわっと込み上げてきた。
感情的なものさしであなたを見たり、あなたの顔を間近でじっと目に焼き付けたりする私のAB型特有の扱いづらい突飛で暴走気味の言動で、あなたのすみませんのマシンガンが撃ち乱れ続けていた。
生身の皮膚と皮膚が触れ合うことは、今繋いでいる掌と掌の触れ合いが全体の九割を占めており、肘から先以外の皮膚に直に触れたい欲望と、あなたの了承を得た温かさが欲しいという全身の皮膚の叫びが産毛を逆立たせてゆく。
普通に自分から抱きつきたいのに、あなたの心臓のためには我慢せざるを得なくて、自分の意思であなたとハグしたことがない身体は、口や腕や足を駆使してハグへと近付こうと試みたものの、あなたの心臓の、目で見えない繊細さに何度も何度も跳ね返された。
「玲音くんは私のこと好き?」
「はい。す、好きですよ」
「じゃあ私のこと、ぎゅってしてくれる?」
「それは、ちょっと」
「玲音くんにハグされたいの」
「駄目です。したら僕どうなっちゃうか分からないですから」
「事故みたいな感じではあったけど一応何回かしたことあるし、その時は大丈夫だったでしょ?」
「ごご、ごめんなさい」
「心臓に負担をかけるかもしれないって分かってるよ。でもね、私はしたいの。一生守るって決めた証としてハグがしたいの」
「改まってするとなると余計に緊張しますし、無理です」
「本当は玲音くんからして欲しいけど、してくれないなら私からしていい?」
「いいえ」
「あの時、コンビニでもしたかったけど周りに人がいたから出来なかった。今は誰もいないよ。するのとされるのだとどっちがいい?」
「おかしくなっちゃいますから、どちらも駄目です」
「心臓の音を聴くと落ち着くんだって」
「そ、そうですか」
「抱き合えば私も優しい気持ちになれるからさ。抱きついていい?」
「あっ、はい。わ、分かりました」
「行くよ。ぎゅっ」
「あ」
「彼女なんだから何もかも私に溶かして
よ」
「はい」
「落ち着いた?」
「はい」
「良かった。ずっとこのままがいいな」
私の顔をオブラートで包んでも、私の愛をオブラートで包んでも、街中の驚きをオブラートで包んでも、あなたの心臓の負担は何にも変わりはしないだろうけど、私はあなたに包まれただけで少し変われた気がした。
舌近辺の皮膚を甘い蜜が覆い、口内が潤いを取り戻し、溢れ出しそうな甘すぎる幸福が逃げて行かないように、唇をしっかりとしっかりと結んだ。
肌寒さが薄れた今日、家のハンガーに残してきたコートのお陰で布一枚分あなたに近づき、コートに染み付いた冬を凝縮したニオイがない分、あなたの身体から溢れ出る優しさの匂いが秀でていた。
少し伸びたあなたの後ろ髪越しに見える、あなたの心のような闇の風景から視線をゆっくりと時間をかけて上方向に移動すると、満天の星が煌めいていた。
十分にあなたを感じた後、抱き締めていたあなたの身体からゆっくりと離れると、肩パッドをもて余すあなたや制服のカラーに首を絞められるあなたがいつものように存在して、心と不快感は平行線を辿った。
あなたと離れる時間を瞬きにも満たないほどに抑えようと、あなたの腕にすぐにしがみつくと、突然お告げのようなものが脳を刺激し、私は右腕を目の下まで上げて、父の誕生日の残り時間を確かめる仕草をした。
父への申し訳なさは心臓から喉元までグイッと込み上げてきて、体内から出ることも戻ることもなく、違和感としてずっとその場所にモヤモヤとつっかえていた。
流れ星は私よりも小さく、あんなに遠くにいるのに、あんなにも目映い輝きを放ちながら堂々と流れゆき、私もあんな風になりたいという憧れを抱きながら、夜空の黒と白を目に焼き付け続けた。
摩り減った精神の分だけ痩せたように見えるあなたの顔と身体からは、物差しでは測れないほどの確かな私への愛が、じんわりと滲み出ているように感じた。
あなたが私の背丈に合わせて屈み、顔と顔がくっつき合ったときの感触が忘れられずにまだ残り、肌と肌が触れない程度に抱きつくのがあなたには丁度いいのかもしれないと思うほど、動揺したあなたの皮膚の感触がまだ残っていた。
私の自宅から遠退くあなたの心臓の音で落ち着いた耳に、突然父からの着信音が入り込み、画面に触れて耳に当てると、すぐに父の甘えるような声が流れ出し、あなたへの想いと父への想いは、よりいっそう複雑に交錯していった。




