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#23 食欲は好きな人への愛に通ずる

段差が甚だしく、私の小さな足でも収まりきらない木目調のフロアの連なりは、降りる私の注意力や集中力の全てを強引にかっさらってゆく。


先程まで行っていたボイストレーニングでの厳しい言葉も、夕方に一人で帰っていったあなたへの心配も全て、父のピカリと光っているめぼしい頭が光の方へと導いてくれるように思えた。


凶器にもなり得る狂気と威圧感が満ち溢れた父の顔面とは似ても似つかない、優しさ満ち溢れた父の手が私の肩に触れたとき、父の残業のない日々を懇願したい気持ちが膨れ上がった。


父の傍らに身を寄せ、フライパンの蓋をそっと持ち上げて傍らに仰向けで置き、フライパンとフライ返しを握り、反対方向にあるテーブルの皿の上へゆっくりと移した。


目と鼻の感覚だけで、父手作りのハンバーグの美味しさの証として溢れ滴るほどの唾液が生まれ、蓋を上げた直後に陰から突っ込んできた熱気も、蓋の熱さも、撥ねた油の刺激も、父との久方ぶりの夕食の喜びに拭われた。


ブロッコリーの緑、ポテトフライの薄黄色、コーンの鮮やかな黄色でハンバーグが盛られた真っ白な皿を縁取ると、才能のある先輩がハンバーグ、そして私はその横にウジャウジャといる小さなコーンに思えてきた。


ハンバーグとその仲間達から立ち上る湯気の隙間から見える金色の髪以外黒々としている眼鏡の母は、ソファに埋まりながらテレビを眺め、落ち着きのある性格に忠実な安定の物悲しさを空気に抽出していた。


眼鏡に付いた小さな埃が見えれば眼鏡なんて必要ないように、夢見ている大きな幸せに付いた小さな幸せが見えれば大きな幸せなんて必要ないのだろうけど、どうしても欲張ってしまう私がいた。


テーブルを幸せとライスとハンバーグで埋めてみんなで椅子に腰かけると、テレビの上に掛けられた時計からタイミングよく七時を告げる鐘が聞こえ、父を中心とした笑い声が室内に響き、家をひっそりと揺らした。


「いただきます」


「菜穂?どうだ、美味しいか?」


「うん、すごく美味しいよ。やっぱりパパのハンバーグは最高」


「そうか。ずっと作ってなかったから不安だったけど安心したよ。ママはどう?俺の作ったハンバーグの味は?」


「美味しいよ」


「良かった」


「お母さんも好きだもんね、このハンバーグ」


「うん」


「菜穂、ボイトレは順調か?喉の調子はどんな感じだ?」


「声が枯れたのはもう治ったし、今は喉の調子かなりいいよ。すごく楽しいよボイトレ」


「そうか、それは良かった。それで玲音くんとはどんな感じなんだ?」


「うん、仲はいい方なんだけどね。実は萌那も玲音くんが本気で好きみたいでね」


「そうか。萌那ちゃんと好きな人が被ったか。でも菜穂は菜穂らしく進んでいけば大丈夫だからな」


「ありがとう。ご飯おかわりしていい?」


「いいぞ。菜穂は前から大食いだけど、最近さらに食欲が増してないか?」


「そうかな」


「それで、キスとかしたのか?」


「えっ、してないよ。玲音くん最初の時よりは驚かなくなったみたいだけど、傷とか痣が最近増えてきてるから、そういうことする勇気ないし」


「正直どんなアドバイスしていいか分からないけど、とりあえず愛情を注いであげることだな。頑張れ、菜穂!俺のハンバーグ少しあげるから元気出せよ」


「ありがとう。でも私、元気なんだけど」


「そっか、元気か」


「パパの作るハンバーグ、本当に美味しい」


「菜穂、もっとゆっくり食べなよ」


「うん、分かってるって」


私のお腹は幸せを詰め込み過ぎたせいで膨れ、猫の箸置きに置いた箸の周辺の白い食器には、固体が全てさらわれた形跡だけが残っていた。


スキンヘッドの強面を崩して笑う父に癒され、無軌道の質問をしてくる父に親しみを覚え、父と母と私の三人で囲む食卓はダイヤモンドのような輝きに満ちていた。


父をコーティングしている香水がハンバーグの匂いと調和せずに周辺に存在し、ハンバーグが消えた今、ハンバーグで軽減していた香水の薫りが私の鼻を突く回数は、徐々に増えていっている。


小さい頃によく食べた、肉が終始主張してくるしっとりとした深みのあるハンバーグのあの舌触りやあの味は、父との昔の記憶を思い出させ、母のいない昔の記憶を呼び覚まさせた。


ルーティンである冷たい水で食器を洗う作業に取りかかると、水道から落ちる水の連なりは、皮膚の細胞を縮こませるように、手の感覚を制御するように、勢いよく手全体にもたれ掛かってきた。


茶色がこびりついたお皿を黄色いスポンジで擦ると、みるみる白いお皿に蘇っていき、あなたに手間を惜しまず何も恐れずに愛を注げばそれが心の洗剤となり、このお皿のように私のモヤモヤも綺麗になるのでは、と感じていた。


突如、隣に現れたゴツゴツとした太い指と血管の浮き出た使用感のある手の甲が、しっくりと流しの風景に並び、父を二番目に好きな男の人にしてもいいよね、と自分の心に語りかけた。


食器をタオルで拭う動作を繰り返しても、今日新しく使い始めたタオルが、少し前に先輩に奪われたタオルにそっくりなハート柄だったことで、私の頭の中であなたの傍らにいる小さな先輩の姿が一向に拭い去れない。


頬が攣るほどに笑顔の絶えなかった空間は、遅れて来た母の食器を擦った拍子に目に飛び込んだ泡の刺激でグルグルと掻き回され、目はクシャッと悶え、すぐさま押し当てた水道から流れる冷水によって、再び違う悶えが抱きついてきた。


背中を押す恋の応援歌を使用したCMがテレビから流れ出し、あなたと一緒に登校したい、あなたをずっと守りたい、疲れなんて吹き飛ばして早起きしてあなたを迎えに行きたいという、出しゃばり過ぎた真の恋心が気持ちの最前列に押し出された。

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