#02 心の臓の震と動
左を向けば透明を隔てた外の先の先の先にある彼の主戦場で踊りを踊る砂、前には唐揚げを頬張る親しいギャル、右を向けば見慣れない大勢の学生服たち。
時折、振り返り見る五秒にも満たないあなたは、一目惚れした時のバサバサした長めの髪、右往左往を繰り返す目、不安帯びた表情で確かにそこに存在していた。
私が昼時の萌那たちの縄張りに、初めて踏み込んでいった理由を萌那が自分との友情と捉えていても誰かへの恋と捉えていても心には複雑な痛みが発生する。
耳を一点に集中させ、あなたのか弱い叫び声が聞こえる度、あなたの机や椅子が床を擦った音や箸を落とす音が聞こえる度、振り向くチャンスとばかりに首を回す。
この世で一番そそられる匂いである苺を食べ、酸味気のある匂いを鼻で感じながら、一番の匂いが塗り替えられる日を夢見ている。
見慣れているものと同じ、教室の幅とほぼ同等の細長い黒板に赤みがかったチョークで書かれた愛という文字は、国語の授業の名残でありながら、私の心の黒板に書かれているものとほぼ同等だった。
萌那のすぐ後ろに見えるゴミ箱へと歩いてきたあなたの細い身体の側面と暗い横顔は、私が強い視線を送ったすぐ後にビクッと揺れながら崩れて声を出しながら尻もちをついた。
「キャッ」
「イテテテッ」
「おい、長木玲音!大丈夫か?」
「ハッ!はい、大丈夫です」
「カワイイ女の子に見つめられるだけでも驚いちゃうから菜穂もあまり見つめちゃダメだよ」
「うん、分かった」
「アイツも驚きすぎだけど菜穂もアイツの出す音に驚きすぎだよ」
「遠くからは何回も見ていたけど、初めて近くに来たから」
「菜穂は音に敏感な男が出す音に敏感な女ってヤツね。まあ、クラスメートはみんなアイツの驚く姿に慣れちゃったからね」
「萌那は長木くんと仲が良いの?」
「ないないない。顔見知り以上でも以下でもないよ」
「最初からあんなに驚いてたの?」
「いやっ、最初は全然普通だったよ。私はお節介を自負してるけど菜穂もお節介なタイプ?それとも変人好き?」
「分かんない」
男性と距離を縮めることは抵抗なく流れるように出来る私も、後ろにいる特殊なあなたに順応するように、首と顔は最低限しか動かさず、箸を持つ手と口だけを集中して動かした。
顔の温度が上がり、冷や汗が生まれ、脳にはふわふわ感があり、心臓は色んなものが複雑に絡み合うようにむず痒く、咀嚼物を飲み込むことも忘れる始末。
特進クラスへ戻る長い長い閑散とした白い廊下、その突き当たりの緑色に貼られたカラフルな掲示物、そこに記された小さくて一文字も認識できない言葉が私とあなたの距離を示している。
名残惜しむ私の前から、ぽつりぽつりと歩いてきた女子の表情と動きは心なしか暗く感じ、その後ろを行く男子もハキハキしておらず、疲れを背負っているようだった。
突然、左肩をズッシリと押された感覚は押され慣れている萌那の右手の感覚で、気配に気付かず電気が走った私が振り返ると、見慣れた萌那がいて、忘れ物の弁当箱を渡された手には触り慣れた肌触りのいい布が触れてとても気持ちが良かった。
足を前に動かせば動かすほどあなたと私の距離は遠くなってしまうが、足をゆっくりと前に運んでゆくことによって、瞼をゆっくり閉じゆっくりと開けてゆくことによって、頭の中のあなたは段々と近づいてくる。
私の心臓は和みと心配でモヤモヤモヤと悲鳴をあげているが、あなたの心臓の真の悲鳴を書き消すことは到底出来ず、心とは異なり、私のお腹だけが満たされていた。
戻ってきた最後列の中心の席からの視界に広がる先程の教室と同一の配置配列からは、途轍もない相違を感じたが、それは黒板、机、椅子、生徒、日当たりのどれにも属さない感情の相違。
寸分の狂いもない、強風さえもはね除ける鉄壁のセンター分けではあるが、そのイメージを上から塗り潰すような真ん丸の赤い眼鏡を掛けている担任教師が黒板の前で笑う。
冬がもたらした下唇のひび割れから口内に入り込んだ微量の赤からは、不快を伴わない優しい鉄の味がして、それは萌那が私のピンチを救ってくれた時と同じ味で、あの日を思い出した。
BGM並の担任の声は、一万回以上聞いて鼓膜に擦り込まれたチャイムに覆われ、椅子の音と足音と生徒の喋る音は膨張の一途を辿った。
右の席の鼻を突く香水の香りが立ち去った教室を取り巻く落ち着いた匂いからゆっくり離れ、グラウンドの砂混じりの匂いに想いを馳せていた。