#19 普通の人間になりたい
動物園では影を潜めていた友達のポニーテールが久方ぶりに私の目の前に現れ、相変わらず堅苦しい眼鏡が何度も現れる光景に、笑みの欠片が溢れた。
あなたが私の身体を心配し送ってきてくれたメールの最後の言葉が頭の中で暴れ、苦悩が顔に滲み出てきてしまい、友達はそれを見て眼鏡を右手で触りながら優しい言葉をふわりと掛けてくれた。
私の不幸であなたの心が張り裂けそうになるという、あの日の帰宅直後にあなたから送られてきた事実でずっと張り裂けそうになっていた私の心は、妹に触れる時のように柔らかさが溢れている友達の両手の滑らかな肌触りに溶かされてゆく。
あなたと繋がりが途絶えたままの新学期の放課後に、教科書やノートが入った鞄を右手に持ち、ボイストレーニングに必要なものが詰まった手提げを左手に持ち、あなたへの気持ちを置いて教室から逃げるように足を動かした。
高校生にもなって泣き喚き、声を枯らし、弱い痛みと涙では放出しきれなかった悲しみであろう違和感が、喉の奥で長い間うろうろしていた。
生徒は教室のドアの開け放たれた長方形の空虚から幾度となく姿を覗かせるが、あなたがいるはずもなく、緑の壁と片側に寄せてある透明が埋め込まれたドアの間に幸福の空気は見当たらなかった。
教室と廊下の境界線付近で、名前を呼ばれ顔を上げると、坊主頭で首と学生服の間に隙間のない見覚えのある顔のパーツの生徒が立っていた。
敬称を付けた呼び方、ボタンをきちんと閉める着方、態度の大きくない身の熟しなどが坊主頭と一体となっており、慣れないものが多すぎて、驚きは遅れてやってきた。
私に坊主頭の先輩があの日のあなたと同じくらい深く頭を下げたことにより、同学年の生徒の驚きが溢れ、嘆き混じりのザワザワと私の胸の中のザワザワがお互いを高め合い、逃げて萌那に抱き付きたい気持ちに襲われた。
「菜穂さん、本当に申し訳ありませんでした」
「やめてください。私はそんなに怒ってませんから」
「本当ですか?」
「はい。それより長木くんと萌那に謝ってくださいよ。まだ謝ってないですよね?」
「はい、これから謝ります。あの、長木とは付き合っているんですか?」
「付き合ってますよ。上手くいってるとは言えませんけど」
「俺、菜穂さんの恋を応援しています」
「ありがとうございます。あの、私に敬語を使うのはやめてくださいね」
「あっ、、、うん」
「その坊主頭似合ってますよ。真面目な海原先輩の方が私は好きです」
「あのさ俺、小さい頃からサッカーしかして来なかったんだ。サッカーに熱中してたから女性にもあまり興味がなくて。好きになってくれる女性がいても好きになることはなかった。でも菜穂ちゃんには惹かれていた。初めての恋だったんだ」
「えっ」
「女性と接して来なかったから、女性の気持ちも女性との接し方も全く分からなくて。傷付けて本当にごめん。別に言い訳したいわけじゃなくて」
「分かってますよ。ちゃんと伝わってます。また前みたいに戻らないでくださいね」
「うん。ありがとう」
「これからもサッカー頑張ってくださいね。応援しています」
「練習はもう見に来ないの?」
「はい。今ボイストレーニングに通ってるんです。でも暇な時は行くかもしれません」
「菜穂ちゃん本当にありがとう。またね」
「はい」
群がる女子の数多くの黒目が私の顔に注がれている廊下を、私は進路を塞ぐ短いスカート達を掻き分けて、 余裕のない心と余裕のある時間を握りしめ、一人進んでいった。
私への好きが強く残っている先輩だとしても、悪が抜けきっていない先輩だとしても、ギュッと抱き締めて欲しいくらいの気分だったのに、先輩は追ってきたりせず、坊主の印象だけが強く私の脳を抱き締めてきた。
あなたとお揃いのライオンのキーホルダーの横に括りつけた別のキーホルダーからは、手提げが揺れる度にラベンダーの香りが空気中に漂い、あなたの別れ際の匂いを思い出したくて買ったそのキーホルダーからは私の過剰な愛も漂う。
校舎の側面に寄り添っている緑のベンチに座り、水筒から注いだはちみつレモンを飲み干しても喉の痛みもあなたへの未練も消え去ることはなく、以前萌那が先輩に作ったレモンとハチミツを使ったものの味を思い出し、ただ哀愁が口の中に広がるだけだった。
髪の毛に生暖かいふわりとしたものが触れ、右手の指で確かめると、それは粘りを帯びた白い糞で、空を見上げると後ろ姿の黒い物体が馬鹿にするように鳴き声を発していた。
黒いポーチから取り出した鏡越しに真っ白なウエットティッシュで拭っても取り除けない不純物のしつこさは、私があなたに抱いている愛よりは程度が低いように思えた。
反射する板が映す自分から視線を移した運のない私の瞳には、遠くの方を手を繋いで歩く、付き合いたてのカップルのような萌那とあなたが映っていた。
あなたと私は恋人ではないかもしれないという負に満ちた考えに陥り、一緒にいて落ち着くのが一番という嫉妬に近い怨嗟が繰り広げられている脳のえげつなさが、私の身体を動かす。
好きな人とペラペラ喋れることが初めての萌那を邪魔したくないという気持ちとは裏腹に、吸い寄せられるように足は勝手に動かされ、目はあなたに固定され、声はあなたのことを大声で呼んでいた。
聞きたくなかった聞き慣れた感嘆詞の後に、ガラスが砕け散るような聞き慣れない高音が響き、倒れていくあなたには届きもしない私の前で、地面に吸い寄せられたあなたに引っ張られた萌那が、あなたの上に抱き付くように覆い被さった。




