第二章 過去の事件 4.野球帽
一軒目のスポーツ用品店は日本州のプロ野球チームを吸収合併した新メジャーリーグ・チームの野球帽を売っていなかった。店構えは立派で二人乗りのカヌーが店頭にディスプレイされてあり、野球、サッカー、ゴルフなどメジャースポーツ以外の登山やキャンプ用品も豊富に揃えてあった。
「どうして野球帽を置いてないんですか?」
サトウは店主に質問した。
「日本の野球チームを吸収したアメリカのメジャーリーグの野球帽をどうして売らなきゃいけないんだ!」
レンズが厚い度のきつそうな黒縁のメガネをかけた店主は、喧嘩腰でサトウを睨んだ。店主がアメリカのシカコカブスに吸収された元阪神タイガースの黒と黄色の縦縞のハッピを着て商売をしていることの意味を把握するのが遅れた。サトウと瑠諏は一軒目のスポーツ用品店から早々と退散した。
「あれくらいの意気込みがないと、こんな小さな町で店は経営できないだろうな」
サトウがヤレヤレといった感じで、店主から浴びた熱を冷ますように口から長いため息を吐き出した。
二軒目の店は『ミヤビスポーツ』という看板がなかったら普通の住宅と見まがうほどの貧相な店だった。出入口はアルミ枠の引き戸。ガラス窓には有名スポーツ選手の日焼けしたポスターが貼られていた。四坪ほどの店内には野球道具中心に商品が並び、ジャージ類やスパイクは箱詰めのまま積み上げられている。
「いらっしゃい」
七十過ぎくらいの腰の曲がったお婆さんが無愛想に出迎え、サトウと諏諏をギロッと睨み、金属バットが立てかけてある奥に移動した。スーツ姿とロングコートを羽織ったスポーツとは縁遠い格好の二人組がやってきて、強盗の可能性が頭を過ぎったのだろう。
「警察の者です」
「何の用だい?」
サトウは縦開きの警察手帳を提示してすぐに警戒心を解こうとしたが、お婆さんからの疑念の視線に変化はなかった。
「この店でボストン・レッドソックスの帽子を売ってるかな?」
「ボ、ボス……なんだい?」
お婆さんは片方の耳をアンテナみたいに傾けて訊き直す。
「プロ野球チームの帽子を売ってるかな?」
声を大きくして質問した。
「わたしゃわからないから、その辺の箱を開けて勝手に調べておくれよ」
お婆さんが顎で示したところへ先に向かったのは瑠諏だった。次から次へと箱を開けていき、ボストン・レッドソックスの帽子が折りたたんで入っている箱を見つけ出す。
「お婆さん、七年前にこの帽子を売ったときのことって覚えてるかな?」
サトウは瑠諏から帽子を受け取って、お婆さんにだめもとで見せた。お年寄りに酷な質問なのは重々わかっている。
「七年前だって?知るわけないよ」
お婆さんが不愉快そうに答え、呆気なく捜査が行き詰まった。
「ひとつだけ打開策があります」
瑠諏がサトウに耳打ちしてきた。
「なんだ?」
「お婆さんの血を舐めることができれば問題ないです」
「おまえ、そんなこと言って、どうやって……」
サトウの言葉を聞き終わることなく、瑠諏は柔和な笑顔を作って、お婆さんに歩み寄った。
「私は衛生局の者です。心して聞いてくださいね。七年前にここのお店で帽子を買った人が珍しい病気かもしれません。大丈夫だと思いますが、念のためにお婆ちゃんの血を採血したいんだけどいいですか?」
瑠諏は笑顔を崩さずに返事を待った。
お婆さんの目には驚きと不安が混ざり、どうしたらいいのか迷っている。
「心配しなくていいよ、お婆ちゃん。注射器は使わないから。針を指にチクッと刺して綿棒で吸い取るだけだから」
「別に注射器が怖いわけじゃないんだよ、ハハハハ……」
お婆さんは曲がっていた腰を伸ばして笑った。
瑠諏はコートのポケットから小さなケースを取り出した。似つかわしくないピンク色のプラスチック製で小学生の女の子が持っているようなペンケース。針と綿棒が数本ずつ入っている。針の先端をお婆さんの人差し指の腹に軽く刺し、滲み出た血を綿棒で拭き取ってペンケースへと戻す。一連の作業には無駄がなかった。
「結果は電話でお伝えします」
「できるだけ早く連絡おくれよ」
お婆さんは瑠諏をすっかり信用したらしく、自分の孫に話しかけるみたいに穏やかな顔になっていた。
「そのペンケースはいつも持ち歩いているのか?」
店を出るとサトウが開口一番尋ねた。
「いいえ、サトウさんから連絡をもらって必要になると判断しました」
瑠諏はいつもの涼しげな顔で答えた。
「しかし……」
サトウの顔は曇る。
「あのお婆さんに嘘をついて血を採取したことは罪になりますかね?」
サトウの口から出てくる言葉を予想して、瑠諏が先手を打って質問をしてきた。
「あのお婆さんに理解してもらえるかわからないが、おれがあとから電話で説明しておくから問題ない。問題なのはピンク色のペンケースのほうだ」
「かわいすぎましたか?」
「ああ」
「ピンク色しか売ってなかったんです」
瑠諏は下を向き、鼻を手で触りながら照れた。
「衛生局の身分証を見せろと言われたら、どうするつもりだったんだ?」
「見境なくお婆さんを咬んでいたかもしれません」
「まったく……」
サトウは呆れながらも心の中では笑っていた。
瑠諏が目の色が変化するところを民間人にあまり見られたくないとのことで、車を少し走らせて民家が点々とあるだけの寂しい場所まで移動した。
「この辺でいいか?」
「はい」
瑠諏はペンケースから取り出した赤く染まった綿棒をキャンディーでも舐めるみたいにペロリと舌で撫でた。
★
★
★
幕が開いたが、舞台には店番をするお婆さんが一人だけ登場したまま時間が停止したように動きがない。お婆さんはたまにしかやって来ないお客を待つことが仕事のようだ。
瑠諏は七年前のボストン・レッドソックスの帽子を買いにきた男が舞台に上がるように思考回路を研ぎ澄ませた。
三十代くらいの男がフラ~と店に入ってきた。髪がボサボサ、無精髭、目はとろんと垂れ下がっている。
お婆さんの新鮮な血を舐めた影響なのかアルコールのニオイが客席にいる瑠諏の鼻までもくすぐった。男は相当酔っているらしく、飾っていたジャージに向かってボクシングするみたいに「シュッ!シュッ!」と言いながらパンチを繰り出す。腰が据わっていて意外と様になっている。
店番のお婆さんはそんな迷惑な客に冷たい視線を送る。
男は適当に掴んだ帽子を頭にのっけると「これいくらだ?」とお婆さんに尋ねてお金を払い、すぐに手を伸ばしてお釣りをせがむ。
お婆さんからお釣りをむしり取って店を出ると、カゴ付きの茶色い自転車に乗って去っていった。
★
★
★
「どうだった?なにか掴んだか?」
サトウは運転席から瑠諏の顔を覗き込む。
「ええ、いろいろわかりました。まずは過去の新聞記事を調べましょう。この町でPCを使ってインターネットができる店はありますか?」
「図書館にPCがあるはずだ」
あまり表情を変えない瑠諏がサトウのひと言でニコッと笑った。お婆さんに嘘をついていることや管轄外での捜査なので、地元の警察に協力してもらうことはあとから面倒なことになる。
警察、消防署、役所や病院などの主な公共機関が建ち並ぶ一画に、多目的なホールを備えた建物があった。町民の交流の場として会議室、展示ギャラリー、そしてホール手前のサロンにはゆったりとしたクッションが心地いいのか長椅子でくつろぐ年配の人たちの姿が目立つ。
二階の四分の一を優先している図書スペースは、どちらかといえば学校の図書室に雰囲気が近く、こぢんまりとしている。受付カウンターでは閉館間際だというのに若い娘がにこやかに挨拶をしてきた。
「こんにちわ」
「パソコン借りるよ」
サトウは地元の郷土資料が並ぶ書架の隣に設置されているPCへ向かう。
「男の風貌からして過去に傷害事件を起こしている可能性があります。ボクシングをかじっていたかもしれません」
瑠諏が後ろから検索キーワードとなる言葉を告げ、サトウが過去の傷害事件、ボクサー、四納土町などを入力してエンター・キーを押す。引っ掛かったのは七件。それぞれチェックしていくと匿名の個人が作ったホームページに『我が町の犯罪者』というブログのタイトルで、元ボクサーが近所で迷惑行為を繰り返している様子が書き綴られ、暴露されていた。しかもご丁寧に顔写真まで載せている。
「この人です」
瑠諏が静かに画面を指した。村尾邦一、44歳、無職。ブログには2枚の画像が貼られていた。一枚目は蔦が絡まり年季が入ったアパートの前で、上半身裸の男が水平にした鉄パイプを腰に回して背筋を伸ばす柔軟体操をしている姿。顔は無造作に伸びた髪の毛や顎鬚が清潔感を失わせているが、体は顔と不釣合いなくらいつやつやした筋肉がついて腹筋が割れている。二枚目は隠し撮りに気づいたのか、鉄パイプを高々と振り上げ、鬼の形相で向かってくる姿が写っていた。画像がぶれていることから、撮影した人は恐怖に怯えながらシャッターを押したに違いない。その腹癒せとして名前や住所の個人情報をネットに流したのだ。ある意味勇気がある投稿者だ。
「プリントアウトするか?」
「いいえ……大丈夫です」
二人が図書館を出たとき、ちょうど閉館時間になった。
サトウは車に戻ると四十五口径のコルトガバメントのマガジンを抜いて、弾の数を確認した。
「ちゃんと七発入ってますか?」
瑠諏が笑顔をまじえて訊いてくる。
「心配いらない」
サトウは瑠諏のおかげで張り詰めつつあった緊張感から開放された気がした。