第二章 過去の事件 3.2人だけの捜査
「上司に許可はもらったのですか?」
瑠諏は助手席から不安げな視線を向けた。
「大丈夫だ。メモを残してきた」
「それだけですか?」
「心配いらない」
事件現場へ向かう間、瑠諏からの質問はそれだけ。
仕事以外の話題がなく、気まずい雰囲気が車中に流れていた。サトウは運転に集中する素振りをして、こっちに話しかけないでくれというオーラを出していた。
寂しい峠を抜けると田園風景が延々と続き、長いトンネルを通って奇異な懸崖の海岸線をしばらく走り、山と海に挟まれた小さな町に行き着いた。
「ここが四納土町だ」
大きな都市以外はいまだに旧日本国時代の町名が残っている地域が多く、サトウは若い頃住んでいた町を懐かしむことができた。町の名前が英語表記に変わっていたら同じ気持ちでいられたかは疑問だ。
隣町との境界線でもある川幅が十七メートルの河川敷が見えるとサトウは車のスピードを緩める。
「確かこの辺だな」
実った穂の重さに耐え切れなくなり、先端をもたげるアシに覆われた土手のところで車を停めた。
「あそこだ」
車を降りたサトウは土手と川の間を指さす。僅かに灰色のブロックで囲った小屋らしきものが目視できた。
二人は草を掻き分けて小屋を目指す。
茂みの中を突き進んでいくとアシが倒され、空き地になっている場所へ出た。事件発生当時よりさらにブロック塀が崩れ落ちている小屋を目にしたサトウは、若い制服警官の時代にタイムスリップしたような感覚に囚われた。凄惨な殺人現場だという先入観がそうさせるのか、屋根がない小屋に陽が射し込んでいても暖かさがまったく感じられない。
瑠諏はさっそく黒いシミの前に片膝をつけ、穴が開くくらい凝視すると不衛生なコンクリートの床に舌をつけ根まで出してたっぷり舐めた。
サトウはしかめそうになる自分の顔の筋肉を引き締めて瑠諏を見守った。
★
★
★
特等席に座っている瑠諏の前で折り目がついた真っ赤な幕がせり上がった。
いつもならなんの障害もなく舞台を観れるのだが、今回は霧がかかったように映像の粒子が荒かった。
瑠諏は目を凝らして舞台を見詰めた。
背が高くて栗色の長い髪をした若い女性がキョロキョロ周りを気にしている。
土手の一本道を小走りで進んでいる後方からカゴ付きの茶色い自転車に乗った男がジグザグ走行しながら追ってきた。男は赤いBというロゴが入った帽子をかぶっていた。
恐怖心と焦りがあったのかその若い女性は躓いた。男は女性がよろめいた瞬間を見逃さず、ペダルを踏む足に力をこめた。立ち上がって駆け出すと男は自転車を女性にわざと接触させて土手から転がり落とした。
「来ないで!」
女性が拒絶する金切り声とザァーという雑音が融合して、瑠諏の鼓膜を痛めつけ、耳鳴りを轟かせる。瑠諏は耳の穴に指を突っ込んで遅ればせながら処置をした。視界、音響……ともに不鮮明。
男は自転車を乗り捨て、卑猥な息遣いを吐きながら後を追う。女性はブロック塀の小屋を盾にして男が右へいけば左へ、男が左へいけば右へ回った。そんな子供染みた追いかけっこは、そう長くは続かなかった。エナメル素材のパンプスのヒールが、思いがけず土の中へ深くめり込んで脱げてしまった。ちょっとした動揺が動きを静止させ、男に襟首を掴まれる結果になった。遠くから小学生の低学年らしき子供数人が楽しそうに喋りしながら歩いてくる。女性が助けを呼ぼうと「た……」と発した瞬間に、半壊した小屋の中へ引きずり込まれ、男が刃物を使って、鉛筆の芯を細くするみたいに女性の命を削っていった。流れてくる血が自分の靴を濡らすと男は低い笑い声をもらした。
そして、男が振り返ろうとしたとき、乱暴に幕が閉じた。
★
★
★
意識が戻った瑠諏が一瞬だけ伏し目がちになり、疲れたような表情をしたのを見てサトウは少し驚いた。人間味を感じた。まさかと思いながら瑠諏の意見を待った。
「犯人は男。濃紺に赤いBという文字を刺繍した帽子をかぶり、カゴ付きでパイプが茶色いU字形の銅管で小さな径の車輪のよく見かける自転車に乗っていました」
「他には?」
「規制線が張られている早い時期の血を舐めていれば犯人がもっとはっきり見えたんでしょうけど」
「顔は見えなかったのか?」
「残念ながら、映像が不鮮明でよく見えませんでした」
サトウはあからさまに落胆した顔を見せることはできない。こんな田舎までやって来て汚いコンクリートの床を舐めてくれたのだから。
「自転車と帽子か……自転車に乗っているのなら七年前まで犯人はこの近辺に住んでいた奴だな」
「そうですね」
「この小さな町に自転車を販売している店はない。盗んだか、ネットで買った可能性がある。赤いBのロゴが入った帽子を売っている店をまず探してみるか」
「はい」
「付き合ってくれるのか?」
「私をここへ置き去りにするんですか?」
瑠諏は人懐っこい笑みを浮かべ、さっきまでの疲れた表情を完全に消していた。
「七年前に赤いBに濃紺の帽子を売った店を探すのは難儀ですけどね」
瑠諏が眉毛尻を下げて破顔した。
「おまえ、人間のやるスポーツには関心ないようだな」
サトウが顔をほころばせながら言う。
「どういうことです?」
瑠諏は小首を傾げた。
「赤いBに紺色の帽子といえばボストン・レッドソックス、野球チームだ。この町に専門のスポーツ用品店は二件しかない」
サトウの優越感に満ちた言葉は、犯人に近づいた喜びから出たものだった。