第一章 最初の事件 2.瑠諏ビンの能力
その吸血鬼がやって来たのは、三宅の電話から約三十二分後。
肌に張り付くようなピチッとした革のパンツを穿き、季節はずれのロングコートを羽織り、上から爪先までの配色を黒で統一している。ただ、肌を露出している顔から首にかけての肌は透けるように白かった。
「ご依頼を受け、アドバイザーとしてお手伝いさせていただきます。瑠諏ビンといいます」
顔を下げ、意外なほどの低姿勢で吸血鬼は接してきた。細身の体、目、鼻、口、眉までも鋭利な刃物のよう尖っている。目の下に黒いシミがあり、寝不足でできたクマなのか、それとも毒々しいメークをわざと施したのか判別ができない。テールコートとシルクハットがあれば古風な吸血鬼の出来上がりだ。
「あ、ああ、おれは警部補のマイケル・サトウだ」
「は、原田です」
ギクシャクした雰囲気の中、二人の刑事は警察手帳を見せて挨拶を交わした。
諏諏からはなんの反応もない。
サトウがフルネームで自己紹介すると必ず『ハーフというやつですか?』と、冗談半分で尋ねてくる人が多い。佐藤は日本で一番多い名字だが、サトウはカタカナ。父親は亮平、母親は靖代でごく普通の名前の純粋な元日本人。悪ふざけでつけたとしか思えない名前は昔のカリスマ的な歌手から父親が取ったらしい。
「遺体は?」
二人の刑事に興味がないというより無視するように、瑠諏は引き締まった顔つきで質問してきた。
「まだ、死んでないんだよ」
サトウはやや馬鹿にするような口調で答えたが、瑠諏の無表情は変わらない。
「現場を荒らしていいですか?」
瑠諏がゆっくりとサトウへ視線を向けた。
「許可をもらっているなら……」
サトウが言い終わらないうちに、瑠諏は血の染み込んだ絨毯へ歩み寄ると身を屈めた。
「なにするんですかね?」
原田がサトウの耳元にささやく。
「さぁー」
サトウはおれに訊かれても困るという顔をして首をかしげた。
「心配には及びません。速攻で事件を解決してあげますよ」
自信たっぷりの宣言にサトウと原田は顔を見合わせる。
瑠諏が四つん這いになって絨毯を愛撫するようにペロッと舐めると、サトウと原田は顔をしかめてその異様な光景を黙って見詰めた。
瑠諏の体がブルブルッと震え、眼球に赤い光を宿した。
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目の前が真っ赤だった。
血を舐めると一瞬だけそうなる。
瑠諏は華美な劇場の最前列に座らされ、舞台が始まるのを待つ。
アンティークの赤いビロードの椅子が緩い曲線を描くようにびっしり並んでいるが、観客は瑠諏しかいない。重厚で華麗な装飾を施したシャンデリが劇場内を照らし、天井には青空に向かって笑顔で飛んでいく天使のフレスコ画。壁面を三層に区切った桟敷席が取り囲む。
やがて垂れ下がっていた真っ赤な幕に魚のウロコのような半円状のたるみがいたるところに出来てせり上がっていく。
現れたのは板張りの舞台。
一軒家をスパッと縦に切った断面図のごとく、観客にわかりやすく見せるための舞台セット。
青年がソファーに寝そべってテレビを見ている。
画面には派手なパフォーマンスをしているロックバンドが映り、大音量を流してリビングをコンサート会場とシンクロさせていた。
テレビに飽きたのか背筋を伸ばして大きな欠伸をすると、テーブルの上のプラスチックケースから鏡、ストロー、剃刀の刃を出して並べ、白い粉を鏡に載せると剃刀で丁寧に線状に揃える。よく見ると、先端を斜めに切ったストローで白い粉を鼻で吸っていく。青年は気持ち良さそうに深呼吸を繰り返す。
瑠諏は夢でもない現実でもない世界で繰り広げられる舞台を、観賞していて違和感を抱いた。それがなんなのか、現実の世界へ戻ってから調べないとわからない。
最後に残った一本の線を鼻から吸引しようとしたとき、リビングのドアが開いた。
青年とドアを開けた人物は、目を合わせたままお互い息を呑んだ。
ドアを開けたのは中年の男。
間もなくすると青年とその男は言い争いになり、痺れを切らしてソファーから立ち上がった青年はリビングから出ていこうとする。
すると男は三十二口径のリボルバーをスーツの内側から取り出し、躊躇なく青年の背中へ銃弾を浴びせた。
その後、男は胸ポケットからハンカチを出して青年の血を染み込ませると、壁に向かってハンカチを叩きつけ、芸術的な画を完成させた。
さらにビール瓶を割って、争った跡を残す。
明らかな偽装工作。
犯人を狂人に仕立てようとしている。
最後に中年の男は青年の頭を撃ち、ソファーの端に置いてあった四角いクッションで顔を隠した。
真っ赤な幕が上から下りてきて、舞台は閉幕。
瑠諏も同時に瞼を閉じた。
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再び体を振るわせると、赤かった目が黒い虹彩へと戻った。
瑠諏は無言でお酒が並べられたキャビネットの上の写真立てを睨む。写真は南の海らしき綺麗な砂浜で撮ったと思われ、三人が写り込んでいる。
「この男です」
瑠諏が指さしたのは右の男性。左は女性で真ん中は被害者の青年。
「父親じゃないのか?」
サトウが声を張り上げて訊く。
「そうでしょうね」
瑠諏が冷淡な笑みを浮かべて答えた。
「どうして父親だと決め付けることが……」
「いま、父親はどこに?」
原田が意見を言い終わらないうちに瑠諏が尋ねる。
「息子が搬送された病院ですけど」
「すぐ行きましょう」
原田の答えを聞くと、瑠諏は歩きはじめた。
「待て!」サトウが慌てて呼び止め、厳つい顔で尋ねた。「証拠はどこにある?」
「私の脳から送信された映像の中にあります」
瑠諏はこめかみを指でトントンと突いた。
「そんなものは証拠にならん」
「私は血痕を舐めるとその血がどのような状況で流れたのか、客観的な映像として見ることができる特殊能力を持っています。映像の中身は常に洒落た舞台を鑑賞するような感覚です」
「そんなこといますぐ信じろと言われても、理解できるわけがない」
サトウの理にかなった発言に原田もうなづく。
「わかりました」
瑠諏は散らばっていたビール瓶の破片を拾うと「失礼」と言って原田の手の甲を尖ったガラス片で切った。
「なにするんだ!」
原田が手を引っ込めて傷を確かめようとするより前に腕を掴み、指で血をすくって舐めた。
「ひっ……」
原田は短い悲鳴を上げた。
「おい!」
サトウがたまりかねて胸を突こうとすると、瑠諏は手のひらを伸ばして拒否をする。
「ちょっと待ってくださいね」
瑠諏がさっきと同じく体を震わせ、目を赤くして突っ立ったままマネキン人形のようになった。
間もなくすると目を開けた。
「原田さんでしたね」
「ああ」
原田は手の甲を庇いながら返事をした。
「あなた、真面目ですね。熱心に聞き込みしている様子が見えましたよ」
「あたりまえだ!」
原田が怯えながらも怒りをつのらせる。
「しかし……」
瑠諏は意味ありげに言葉を切った。
「しかし、なんだ?」
訊き返したのはサトウで、瑠諏は軽く咳払をしてから問いかけに答えた。
「斜め向かいに住んでおられる近藤さん宅の奥さんから、午後七時くらいに近所の誰かが杉内家に向かって “うるさい!”と大声で叫んだと原田さんがサトウさんへ報告したと思いますが、原田さんはすでにその人物の絞り込みに成功しています」
瑠諏が聞いているはずのない二人の会話を暴露したことで、サトウは気味の悪さを感じ、原田の顔は青ざめた。
「どういうことだ?」
サトウは非難する視線を原田に向けた。
「すいません」
原田が頭を下げてもサトウの表情は緩まない。
「許してあげてください。原田さんは報告書に書くのが億劫になっただけですよ。現場では熱心に仕事をしています。ただ、事務的な仕事が苦手なだけです。それに大声で叫んだ人は犯人じゃありませんし」
原田のかわりに瑠諏が許しを請う。
サトウはしばらく腕組みして考え、ため息まじりに言った。
「署に帰ってからじっくり説明してもらうぞ」
「はい」
原田は心から反省している返事をリビングに響かせた。
「それでは被害者の両親に会いに行きましょうか」
「待て!おまえが幻覚状態で見た映像は証拠の裏づけにならないぞ」
リビングから出ていこうとした瑠諏をサトウが呼び止める。
「なりますよ」
「あのなぁ……」と、サトウは呆れ顔。
「ご心配なく。証拠はなくても犯人は自供で逮捕できます」
象牙のように白い顔で微笑まれたとき、妙に説得力を感じたサトウは原田へ車を回すように命じた。
そのとき原田のケータイが鳴った。
「……はい」
原田はひと言だけ返事をするとケータイを閉じた。
「たったいま息を引き取ったそうです」
「そうか」
サトウは静かに返事をかえしたが、心の中では “この疫病神め!”と瑠諏を罵っていた。