第四章 吸血鬼はうるう年に生まれる 3.失われる記憶
瑠諏はタクシーを呼んで病院から離れた。
サトウは送ってくれると言ってくれたがお断りした。
「私の棲家に来てどうする気なんです?」
悪戯っぽい目付きで尋ねられたサトウは苦笑いを浮かべた。
病院の出入口で瑠諏を見送るとき「自宅でしばらく安静にしていろよ」と気遣いの言葉をかけた。
自分の棲家に帰るとき、瑠諏は左腕の袖を捲る。左の手首には刺青のように住所がペイントされている。特殊能力の影響なのか、自分の住んでいる住所を忘れてしまうときがあるからだ。タクシーの運転手に刺青のとおりに住所を告げた。
瑠諏がタクシーを降りた場所はDead leadves地区ですっかり忘れ去られた存在の地下にあるカフェの前。すでに店を畳んで四年が経っている。コスプレしたメイドが接客するなど、あらゆる趣向で持て成すDead leadves地区の店に対抗して隠れ家的な癒しを目指し、夜はお酒も出して本物の大人を呼び込むつもりがあまり繁盛しなかったらしい。上部が八階建てで建築会社などの事務所が入っているが、ほとんどのフロアは空きになっている。
大人ひとりがやっと通れるコンクリート打ちっ放しの地下へ伸びる階段を見て、瑠諏は脳の片隅に残っている記憶と照合して下りていく。突き当たりに褐色の木製のドアがあり、凹凸の少ない古風なカギを差し込んでドアを開け、パチッと照明のスイッチを入れた。元カフェは焼き物をする窯のように奥行きのあるレンガ造り。楕円形で光沢を放つ無垢材のカウンターが店内の真ん中に設置され、内側に流し台や冷蔵庫があって調理場になっている。間接照明や使っていた食器類、調理器具などはそのまま残されていて、明日にでも新装開店できそうな雰囲気が漂う。瑠諏が買ったものといえば入口のドアの横にある飾り枠がない質素な鏡だけで身だしなみ用として壁にかけた。
瑠諏はカウンターに沿って並ぶ座面が赤い合成皮革のスツールに腰を下ろした。スツールの数は楕円形をグルッと一周して全部で三十一個。入口手前から六個目のスツールだけがなぜか裏返しにされ、アルミ製の脚の部分を上にしている。カウンターの上には店内のデザインとは不釣合いな古い黒電話がひとつ。すべての疲れを一気に出してしまう勢いで瑠諏は天井に向かって顎を突き上げた。
「フゥ~」
余力も吐き出してしまったのか瑠諏はカウンターに頭を擦り付け、目を閉じて真っ暗な世界で安眠した。
瑠諏は夢を見た。幼い頃の苦くてつらい思い出。いつも見る夢はなぜか一緒だ。西洋風の広い部屋。髪の毛が落ちただけで音がしそうな静かな環境で赤い液体……たぶん血液だと思うが、並々と注がれたワイングラスがテーブルに隙間なく置かれていた。目で追って数えると諦めてしまうくらいの膨大な数。
突然、横からニョキと腕が伸びてきて、ワイングラスを強引に口元へ運んでくる。顔を背けてもぴったりくっついて追ってくる。唇を噛む勢いで口を閉じても鼻を摘まれ、呼吸が苦しくなり、口を開放させると次から次へと血を飲まされる。お腹が妊婦のように膨らむ。
「やめろぉ~」
絶叫し、不快な疲労感だけを残して夢から覚めた。ビクッと体を震わせ、背筋を伸ばし、痙攣して上半身をバネ仕掛けの人形のように跳ね上げる。激しいときはスツールから落ちたこともあった。
本来吸血鬼は夢を見るのか?
本当に夢なのか?
寝ているときに唇を噛んでしまい、無意識のうちに血を舐めて自分の過去の舞台を見せられているのではと思ったこともある。でも、劇場の座席に座っている感覚がないことから夢に間違いないだろう。夢が自分の過去を見せているという考え方もある。
瑠諏は自分の過去に自信がなかった。どこでどうやって生まれたのかもわからない。成長過程の記憶が曖昧だ。記憶が断片でしか存在しない。繋ぎ合わせてもチンパンジーが描いたような不恰好な絵程度の画像度でしか思い出せない。
一番古い思い出といえば親代わりの篠田レミという女性のことだ。彼女はいつも傍にいてくれた。生きる術を教えてくれたが肝心要なことは揶揄されてかわされた。
『どうやって生まれたか知りたいの?自分で考えるか、調べるのね』
言い方は冷たいが、篠田レミはうんざりした顔をしなかった。
彼女はいまどうしているのか?
ふとそんなことを考えるとともに、彼女は本当に存在したのかと自分の記憶に疑いをかけることもある。試してみたい妙案が浮かんだ。前々から自分の血を吸ってみたいという葛藤はあったものの、踏み切れずにいたのは吸血鬼の血を吸ったことがなかったからだ。
体がどうなるかわからないし、自分本来の血がどれほどの割合で残っているのか不明で輸血してくれた人間の舞台しか見れないのでは?と諦めもあった。宮路由貴の血を吸ったことで自信と免疫ができた。
コートの袖を捲くり、露出した白い肌に乱杭歯の先を突き立て皮膚を破り、雫のような血を出すと、舌で転がしてきれいに舐めた。
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瑠諏は例によって例の劇場の席へ。
舞台に目を向けると、瑠諏役を演じている偽者が血の痕がおびただしい殺人現場に立っていた。傍らにはサトウと原田が厳しい視線で瑠諏を見詰めている。最初に捜査協力したときの場面。メントールという天然のハッカを息子が吸っていたとき、父親が麻薬を吸引していたと勘違いして撃ってしまった悲惨な事件。
もっと過去が見たい!
瑠諏が念じても願いは届かず、最初の事件を振り返えさせられた。結末を知っている舞台を見せられるほど退屈なものはない。第一幕が終了するとサトウと四納土町まで出かけて解決させた事件の第二幕へと舞台が変わった。
このままなにも見出せないのか……。
気落ちした瑠諏は視線を落とす。
ゴゴゴ……と舞台が回転した。また舞台転換がはじまったらしい。瑠諏はさほど期待もせずにおもむろに顔を上げた。
見覚えのないセットが組まれていた。辛抱強く座っていた甲斐があったと瑠諏の顔に光が差す。
舞台は洋風の館をイメージさせる重厚で気品に満ち溢れた部屋。髭の両端がぴょんと跳ね上がった男の肖像画、向き合って三十人は座れそうな長いテーブル、ピカピカの大理石の柱。夢で延々と血を飲まされた部屋だ。
ペッタリ油をつけて七三分けにした髪型の幼い子供が一人だけ席に着いている。目をキョロキョロさせて不安そうだ。
私だ!
瑠諏は目の前に座る五歳くらいの少年を直感で自分と判断した。
ガチャリとドアノブが回る音がして背後のドアが開いた。入ってきたのは篠田レミ。膝丈のスカートをはいている。
若いな。
瑠諏は若い頃の篠田レミを見てフフッと笑った。彼女に最後に会ったときは紺色で地味なスラックス姿だった。
『ここの生活には慣れた?』
篠田レミは幼い頃の瑠諏の傍で立ち止まると、子供扱いしない低い声で尋ねる。
瑠諏は黙って首を横に振った。
『あなた自分がどうしてここにいるのかも覚えてないの?
篠田レミがやや不満そうに訊くと瑠諏はうなずいた。
『困ったわねぇ』
テーブルに手のひらをつけて指でトントンと叩き、考え込む。
『血を舐めると変な映像を見るというは本当みたいね。現実とその映像の区別がつかなくなって記憶が混乱してるのよ』
篠田レミの説明を瑠諏は口を半開きにして聞いている。
『成長していけばそのうち記憶の混乱も減ってくると思うけど……私は医者じゃないからいまの言葉をあまり信用しないでね』
微笑んだ篠田レミに気を遣うように、瑠諏は作り笑いを返す。
『あなたは貴重な存在なのよ。そのことを自覚しなさい』
篠田レミが屈んで椅子に座っている瑠諏に視線を合わせた。
『吸血鬼の数が増えると人間の血液の量が圧倒的に不足することになるわ。だからあなたは自分の能力をうまく活用して血液を手に入れなさい』
諭された瑠諏は首を縦に振る。
『それから今日はあなたにプレゼントがあるの』
『なにをくれるの?』
はじめて幼い瑠諏が口を開いた。
『あなたは自分がどうやって生まれたのか知りたいって、私に言ったこと覚えてないかしら?』
瑠諏は一瞬うなずこうとするのをやめて、篠田レミから視線を逸らした。
『まぁ、いいわ、能力のせいで覚えてないのね』
そう言うと篠田レミは赤い液体の入った細長い試験管を差し出す。
『お食事?』
瑠諏は小首をかしげる。
『食事にしては量が少ないでしょ』
篠田レミは口元を手で隠しておしとやかに笑った。
『この血はあなたが生まれた瞬間に抜き取った血よ。本来は吸血鬼だと証明する際に登録用として保管すべきものなんだけど、特別にあなたにあげるわ。この血を舐めればあなたがどうやって生まれたのかわかるかもしれない。でも、いま舐めることはやめといたほうがいいわよ。もっと物心ついて、それなりの覚悟が出来たときに飲みたければ飲みなさい。私はあまりお勧めしないけどね』
瑠諏は反射的にうなずく。
『大事に冷凍保存しとくのよ』
篠田レミは瑠諏のおでこにキスをした。
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我に返った瑠諏は疲れなど一気に吹き飛んだ。
カウンターを飛び越え、業務用で観音開きの冷蔵庫を開けた。中はびっしりと四角いビニールの血液バッグが何層にも積み重ねられている。
こんなにたくさん?
政府から支給される量をはるかに超えた血液が、冷蔵庫の中を埋め尽くしていた。
宮路由貴とやっていることは同じじゃないか……。
自分に潜んでいた欲と吸血鬼の性を知った瑠諏は、凍った血液バッグを冷蔵庫から次々と乱暴に放り投げた。冷蔵庫の中がほぼ空っぽになると、奥にお目当てのモノが残されていた。それは安定して支えるために底面側に弁がついた瓶立に固定されていた。霜がついてイチゴ味のアイスキャンディーのように突っ立っている。篠田レミの言いつけを無意識のうちに守っていたらしい。試験管の中の血を舐めた場合、どんな舞台を見ることになるのか想像がつかない。自分の記憶が体にどんな影響を及ぼすのかも見当がつかない。宮路由貴の血を吸ったときとは質の違う苦しみを伴うかもしれない。それだけの代償を払う価値があるのかも疑問だ。
それに差し迫った問題は、どうやってこれだけの血液を手に入れたかだ。考えれば考えるほど記憶がねじれ、頭痛を引き起こす。過去を振り返るなと体が過剰反応してしまう。 薬で抑えたくても人間が使う薬は効かいだろう。吸血鬼専用の医療機関など無論あるわけがなく、“吸血鬼は病気にならない”が定説となっている。記憶が飛んでしまうから仲間をつくれない。昨日の友人は今日には赤の他人となるわけだ。特に名前を思い出すのが難しい。瑠諏はサトウ警部補の名前をカウンターテーブルにカッターの刃で刻んで、忘れないようにしていた。だからできるかぎり事件は一日で解決しないといけない。日をまたげば事件のことを詳細にメモした紙を目立つところに貼っておかないと、次の日に記憶を引き継ぐことができない。
しかし、記憶を紙に記すと失敗することが多々ある。目覚めたとき紙は細かく破かれているか、燃やされて灰になり形を変えて現れる。たぶん犯人は夢遊病の自分自身。寝ている間に自分がなにをしているのか考えたくもない。メモを書き、その端にでも血をたらして、次の日に舐めれば記憶を舞台で見ることも可能かもしれないが、自分の血を舐めて危険を冒す必要はなかった。だが、これから先、一日で解決できる事件が続くとは思えない。
瑠諏はいまどき珍しいダイヤル回線の黒電話に目をやる。仕事専用の丸いフォルムの黒電話。
瑠諏は自虐的に白い歯をこぼした。
冷蔵庫のほうへ目を向ける。
他の吸血鬼より余計に血液をもらうために警察に捜査協力してるのか……。
床に散乱する血液バッグが融けかかってビニールの表面が汗をかき、ほどよい冷たさをアピールして瑠諏を誘惑する。きっと喉の渇きを想像以上に癒してくれることだろう。いまは我慢できるが、明日になれば平気な顔をして血液バッグを飲んでしまうかもしれない。 これだけの量があるということは、事件解決の報酬として受け取っている公算が高い。
誰から?
取引相手の名前、声、顔などまったく記憶がない。重要な記憶ほど自分は忘れてしまうらしい。もしかすると、新しい記憶ほど消えてしまっている気がする。まるで風に流されたシャボン玉のように、パチンと割れて薄い膜に保護されていた記憶は飛んでいく。誰から依頼されて警察に協力するようになったのか思い出せない。腕にある刺青のペイントで自分の居場所はあるが、記憶の居場所は脳にはない。
サトウに吸血鬼と捜査協力するように押し付けてきたのは誰か聞けば、取引相手への糸口になるかもしれない。しかし、いますぐに電話して聞くには、相手にとってそれほど緊急性のある事案じゃない。サトウ警部補は宮路由貴の事件で報告書の提出に追われている頃で迷惑をかけてしまう。会ったときにさりげなく聞けば済む話だが、それまで覚えているかも正直不安。
瑠諏は自分の欲求を心の中におさめた。
虚無感に支配されそうな瑠諏の心を叩き起こすように、黒電話がジリリリィーン、ジリリリィーンと懐かしい音を響かせる。どうせ忘れてしまう電話に出る必要があるのか迷ったが、サトウ警部補からだった場合を考えて、受話器を持ち上げた。
「もしもし?」と応じてから少し高めの男の声で馴れ馴れしく呼びかけてきた。
「よぉ、瑠諏。事件解決おめでとう!ほうびに血を渡してやるから、KZ工場の西側の一番高い煙突のところへすぐに来い」
「事件解決?KZ工場?」
事件解決とは宮路由貴が起した事件のことだろうか?
KZ工場は初めて聞く場所だ。
「ああ、そうか。ごめん、ごめん。重度の記憶障害だったな。これからKZ工場の住所を言うからメモするか頭に叩き込んでおけよ」
電話の相手は瑠諏のことを瑠諏以上に知っている。
「あなたは誰ですか?」
失礼を承知で相手に尋ねる。
「会えばわかる……かもな」
相手は軽く笑いながらKZ工場の住所と西側の一番高い煙突付近にいると、漠然とした待合せ場所を伝えて電話を切った。
とりあえず行ってみるか……タクシーの運転手に行き先を告げるまで、工場の住所を忘れてなければいいが……。
瑠諏は誰に見せるわけでもない、はにかむような笑みを浮かべて棲家を出た。