第三章 行方不明者捜索 5.発見
そのとき原田は確かに男の声を聞いた。
「ち、近寄るなぁ~」
強烈になにかを拒絶する声。
サトウに様子を見てくるとケータイで伝えたが、足の動きは鈍く気持ちに体がついてこない。宮路由貴の入って行った家には門などはなく、半径二十メートルは岩石を土手のように敷き詰めたロックガーデンが囲み、近隣との接触を拒んでいる。階段状に積み上げられた岩の間からは、雑草が日光を浴びようと背伸びしている。意図的に生えさせたものなのか所々に苔がこびりついていて 原田は足を滑らせ躓きそうになりながら、段上の家に辿り着いた。
木造の平屋で表札がなく、誰の家なのかわからない。窓のひび割れた部分にはガムテープが不器用に貼り付けられ、壁を補修している板も釘が浮いて頼りない。住居としての役割の限界を超えつつある。
原田は銃をホルスターから抜いて聞き耳を立てた。
建物の右側のほうからガチャンと何かが割れる音がした。引き戸のドアがある正面玄関右手に切り取られた小窓は磨りガラスだったが、右下隅の角のガラスが欠けていて、片目で覗けた。視線の先は和式便器が鎮座している。玄関脇にトイレが設置され、ドアが開きっぱなしで、金具の部分が錆びついて痛み、隙間風に揺らされてブラブラ動いている。
原田は中で起こっていることを想像した。
悲鳴は男の声。
倉成に仲間がいて宮路由貴は呼び出されたのではないだろうか?
二人は無事なのだろうか?
「待て、待ってくれ……落ち着くんだ」
男の引きつった声と、廊下の床を擦ってくる音が聞こえてきた。白い漆喰の壁と板張りの床に人影が映った。
原田は固唾をのんだ。まるで漆喰の壁が映画のスクリーンのように見えてきた。
「いままで待ってくれてたのに、どうしてなんだ?」
男の声は遠慮がちな苛立ちと疑問が混在して、緊迫感が伝わってくる。
原田は銃口を覗き穴に通した。
男が尻餅をつきながら廊下を右から左へ後ずさりしてきた。横顔から宮路晋吾と判断できた。
なにに怯えているんだ?
銃を構える手に力が入る。
「最近すぐ喉が渇いちゃうのよ」
あっけらかんとした口調で現れたのは由貴だった。目が吊り上がり、冷淡な笑みを浮かべている。宮路家の玄関のドアが開いた瞬間の清らかなイメージとはガラリと印象が違う。宮路晋吾を追い詰めるように歩を進める女性は、性格のまったく違う双子の片割れなのではと思うほど。
「また盗んでくるから、だからもう少し我慢してくれ」
「その言葉信用できないわ。勘弁してくれって断ったのはそっちよ」
「だ、だからおれが姿を消して、身代金の代わりに血液銀行から大量に血液を要求して手に入れるまで待ってくれないか」
「なかなか実行しないわね」
「由貴が協力的じゃないからさ」
「なに言ってんの?あなたをわざわざDead leadves駅から追いかけて襲ったように見せかけてあげたじゃない」
「あれは演技じゃなく、本気で血液を奪いにきたじゃないか」
「演技よ。誰に見られているかわからないもの。本気で襲うようにしないと意味ないでしょう」
「そんな風には見えなかったぞ」
「バレた?」
由貴はペロッと舌を出した。
「鉄板の上に撒いた血を飲んでおけば我慢できたんじゃないのか?」
「潔癖症なの。あっ、それからあなたの捜索願を出しておいたわ」
「血液銀行が独自に動き出すまで待ってくれよ。どうして余計なことをするんだ?」
「ちょっと会ってみたかった吸血鬼がいるのよ。それに私は悲劇のヒロインになりたかったの」
「おまえは異常だよ」
「人間じゃないもの」
二人の会話は真実を語っているようで、夫婦でありながら本心でなにも語っていない。そのうちの片方が人間でないのなら当たり前なのかもしれない。人間と吸血鬼が結婚……身分を偽り、Dead leadves地区以外で隠れて暮らしている吸血鬼が結構いるという未確認情報はあった。原田は目の前に広がる光景が現実じゃないことを祈った。
吸血鬼に銃で立ち向かえるものなのか?
夫婦喧嘩で納まる状況とは思えない。瑠諏から吸血鬼について詳しく聞いておけばよかったと原田は後悔していた。
「あぁ~あ、人間と結婚して損した。用済みね。」
由貴は素行が悪くだらしない若者口調で、冷酷に愛想が尽きたことを打ち明けた。
「おまえ……本気なのか?」
宮路晋吾は怯えているが、言葉には少し未練が残っているように思える。
「吸血鬼は決断が早いのよ」
由貴の眼が赤く光り、整った顔立ちから不釣合いな乱杭歯が口の両端から伸びた。
「や、やめろ!」
「あなたの血は一滴残らず、きれいに飲んであげるわ」
由貴の言葉はなんの慰めにもならず、宮路晋吾の顔を余計に強張らせた。
「お……おれたちの……け……結婚生活はなんだったんだ?」
宮路晋吾は人生最期の質問を愛の確認のために使った。
「私にとってあなたは喉が渇いてどうしようもなくなったときの保険にすぎないの」
由貴は顔の筋肉を隆起させ、人間を丸飲みさせるくらい口角をこめかみまで裂き、恐怖を増幅させる変貌ぶりを見せつけた。妻としての責任を完全に放棄して、吸血鬼に完全に成り下がる。
「う、うわぁ~」
宮路晋吾の絶叫を聞いた由貴はニヤッと笑い、細い指を肩に食い込ませ、乱杭歯を首筋へもっていく。
原田は両目を閉じてトリガーを引いた。白い漆喰の壁に飛沫血痕が張り付く。由貴の体が揺れた。自分の左肩を一瞥してから原田のほうを見た。
「あら、さっきの刑事さんじゃない。後をつけてきたの?」
痛みを感じてないのか、撃たれた左肩を手で押さえることもせず、由貴はケロッとした顔で尋ねる。
「や、やめるんだ!」
「吸血鬼を見るのは初めてじゃないのに、動揺してるのね」
由貴は狡猾なキツネのように目を細くして、舌なめずりをする。
「無駄な抵抗はするな」
「それはこっちの台詞」
「いままで人間に成りすまして築いてきた生活を捨てるのか?」
身がすくんでいる原田は、由貴の犯罪を容認しかねない質問をした。
「ええ、喉の渇きに比べたらそんなもの惜しくないわ。吸血鬼の本能よ」
原田の説得はあっさり却下された。
「どうしよう?どっちの血がおいしいのかしら?」
由貴の眼球は二人の男を品定めするために忙しなく動く。
「夫には一緒に暮らしていた恩があるからやっぱり刑事さんの血から頂こうかしら」
由貴は床を足で蹴ると飛ぶようにして距離を縮め、トイレの窓ガラスを腕で突いて割った。ガラスの破片が飛び散るより早く、由貴は片手で原田の喉元を掴んで体を持ち上げる。
「隙だらけね。それとも油断してた?」
原田が呻き声しか出せないのを知りながら、由貴は質問を投げかけた。
「もう少し窓から首を出してちょうだい。そうすれば血が吸えるから」
由貴は原田を引き寄せる。
原田は苦しみながらも握っていた銃を由貴の顔面に向けようとする。
「銃弾を受けて自然治癒するまでの間、醜い顔を見せたくないわ」
由貴は銃口に指を突っ込む。原田の作戦は見透かされていた。
そのとき、車が急停止する音が聞こえ、すかさずサトウが飛び出してくる。
「もう少しだったのに…もったいない」
由貴は原田の喉元から手を離した。
「サ……トウ……さ……ん」
原田は地面に崩れ落ち、声を振り絞って助けを呼んだ。
「あなたはこっちよ」
由貴が手荷物を運ぶように、宮路晋吾を引きずっていく。壁の角にある柱の出っ張りを指で引っかけて、踏ん張ってもどうにもならず晋吾はもがくことしかできない。由貴はL字型の廊下を進み、ささくれた畳が敷かれている和室の部屋に連れ込んだ。
「これまで尽くしてきたご褒美だと思って覚悟してね」
迫ってくる乱杭歯を見て宮路晋吾は顔を背けた。
「地に落ちた吸血鬼は惨めですね」
静かな声に反応して、由貴はため息をつきながら振り向く。
「人間と組んで仕事しているほうが、よっぽど惨めよ」
由貴も負けじと瑠諏に言い返す。
「ここは誰の家かな?裏の勝手口から土足でお邪魔させてもらいました」
「晋吾さんの実家よ。ご両親が亡くなって空き家同然なのよ」
「血液銀行に勤めている宮路さんと結婚したのは、血を盗んできてもらうめなんですね。しかも仕事から帰ってくると、書斎に閉じ込めて束縛していた。気の毒に本を読むゆとりなんてなかった。君のような吸血鬼がいると善良な吸血鬼たちが迷惑します」
「あなたに迷惑をかけてるなんて知らなかったわ」
由貴は悪びれる様子もなく、おどけた言い方で切り返した。
「そんなに血がほしい?」
「悪い?吸血鬼の性分よ」
瑠諏の問いを由貴はバッサリ切り捨てた。
「我慢すればいいのに」
「夫からも同じことを言われたばかりでうんざりだわ」
「君が言うことを聞かないからでしょうね」
瑠諏と由貴が宮路晋吾のほうを見ると、彼は部屋の隅で両膝を両腕で組んで抱え、顔を伏せている。
「あなたの血を吸わせてくれるなら我慢できるけど」
かわいく見せるためなのか由貴は吊り上がった目をくりっと丸くして、瑠諏に無慈悲な要求を迫った。
「私の血だけじゃそのうち足りなくなるのは目に見えているし、それに君に血を吸われるのを想像するだけで虫唾が走ります」
「すごい失礼な言い方するのね」
由貴は口を尖らせて軽く憤慨する。
「自首を勧めたいのですが、そんなタイプには見えませんね」
「だったらどうする?」
由貴が妖しく眼を剥いた。それが合図となって二人の吸血鬼の距離はなくなる。瑠諏の右腕を由貴が左手で掴み、由貴の右腕を瑠諏の左手が掴むという力比べと、お互いの乱杭歯で首筋を狙う獣同士の闘いが始まった。
「あなた血を舐めるとその人の過去が見れるんでしょ?州政府から支給される血液バッグを飲んでいて頭の中がパニックになるんじゃないの?」
余裕なのか由貴が質問をしてくる。
「四〇〇mlの血液バッグは人一人分で間隔をあけて飲んでいますから混乱しません。あなたのように欲張って何個も飲めば別ですけどね」
「じゃぁ、吸血鬼の血を吸むとパニックになるんだ」
由貴はほんのり笑った。
「私の能力のことを知ってるんですね」
「すでにあなたの噂は広まってるわ」
「私は有名人か」
「調子に乗らないで」
由貴が一歩踏み込んだ。生死をかけた闘いの最中に話しかけられ、集中力が欠如した瑠諏の背中が反る。
「くっ……」
手首がグキッと悲鳴を上げ、苦悶する。
「女だと思って甘く見てた?」
「そうかもしれない」
瑠諏は正直な気持ちを吐露した。
「どうして人間の肩を持つの?」
「質問が多いです……ね!」
瑠諏は弧を描いて蹴りを繰り出した。
由貴は力比べしていた手を解き、瑠諏の蹴りを後方へ飛んでかわす。
「優しいのね。わざわざ声を出してキックをしてくるなんて」
由貴が怪しく微笑む。
「無益な争いはできるだけ避けたいんです」
「その考え甘いわよ」
由貴は喋っている最中に、再び牙を剥いて襲い掛かろうとした。瑠諏は畳を思い切り踏んづけて数十年分の埃を舞い上げた。由貴の視覚と呼吸器官を一時的に奪う。
「ゴホッ……」
由貴が目を閉じて咳き込んだ瞬間、瑠諏は首筋へ乱杭歯を突きつけた。
「埃くらいで隙をつくるなんて、やっぱり女性ですね」
「なに言ってるの?私は女じゃなくメスよ」
由貴は天井に向かって獣のような咆哮を上げると、瑠諏の顎に肘うちを喰らわした。
一瞬、気を失った瑠諏の首筋に熱い液体がかかる。由貴が興奮して垂らした涎だった。
「いただきます」
由貴が口を大きく開けた途端に、パン!と乾いた音が部屋に轟いた。サトウが握る銃から放たれた弾丸は由貴の腹部を貫通させた。
「みんな私の邪魔ばかりするのね」
そう言いながら由貴はサトウに向かっていく。二発目、三発目と銃弾を浴びるたびに、体を逸らせて動きが鈍くなっても歩みをとめない。
「銃なんか針が刺さる程度の痛みなんだけど」
強がっているが悲壮感はなく、サトウを震えあがらせるには十分な台詞だった。四発目は由貴の頭を狙ったのに後ろの漆喰の壁を砕いただけだった。簡単に避けられてしまった。
「あら吸血鬼を撃ったことがないのかしら?日本州の刑事さんは初心なのね」
由貴が上品に振る舞ったのも束の間、すぐに「えっ?!」という驚きの表情へと移り変わった。瑠諏が後ろから由貴の首に咬み付き、ジュースをストローで吸うような音をさせて、自らの体内へ血を注入させていく。由貴は片手で軽く押し出して払いのけただけなのに、瑠諏はよろけながら壁にもたれた。
「3分の2くらい吸わせてもらった」
瑠諏の顔には憔悴した陰が滲んでいるが、それを隠すように言葉を滑らかに出した。
「あ、あなたが命を……か、かけるくらい……私ってそんなに悪いこと……した?」
由貴がなんとか言葉を繋ぎながら訊く。
「人殺しは癖になるだろ」
瑠諏は由貴の質問には答えなかった。
「そ、そう……ね」
由貴は少女のような笑顔を残して倒れた。