9.
「どうしたの? なんか、元気ない?」
今日は絵美と二人でショッピングに来ている。
夏物のセールが始まったので、お小遣い片手に早速くり出したのだ。
いまは一段落してランチ中。絵美は烏龍茶を、私はアイスティーを飲みながら、食後のデザートをつついている。
「んー、そんなことないよー」
「はい、うそー。絵美さま舐めんなよー」
ストローを私に向けながら、絵美は確信に満ちた声で言った。
ちょっ! ストローから烏龍茶が零れてるから!
数滴落ちた烏龍茶をおしぼりで拭きながら、私は苦笑いした。
「……うん。実は……将生くんが、ね……結婚するんだって……」
家族以外でこの話をするのは、初めてだった。
絵美は私がブラコンだということを知っている。
驚いた後、納得の表情になった。
「……そっかぁ。おめでたい話だけど、直生にとっては淋しいね」
「……正直、なんか頭と心が追い付いてなくてさー。もうちょっと時間がほしいかな……」
そう、私は時間がほしいのだ。
どれくらいの時間が必要なのかわからないが、とにかく時間が。
「直生はお兄ちゃんっ子だからね。……時間かぁ。うん、必要だね」
絵美は、小学生のときの私の生活を知っている。
中学生になって母と兄ができたと話したとき、その人たちがとても優しく素敵な人たちだと知ったとき、心から喜んでくれた。
そして、私がどれだけ兄に助けられ、頼り、寄りかかったのかも知っている。
絵美はそれ以上何も言わなかった。それが、とてもありがたかった。
「そういえば、絵美は東条晃先輩って知ってる?」
話題を変えるため、私は絵美に先輩のことを聞いてみた。
彼女は交友関係が広いので、もしかしたら知っているかもしれないと思ったのだ。
「ああ、なんかすごく問題のある人だよね。なんでも、よく授業をサボるのに成績はいいとかなんとか」
先輩、頭よかったんだ。道理で私に数学を教えられるわけだよ。
「その先輩がどうかしたの?」
「あ、ううん。たまたま知る機会があったからちょっと気になっただけ」
咄嗟の私の言葉に絵美は一瞬眉をひそめたが、そもそも接点がないと納得したのか「ふーん」と一言だけで終わった。
すかさず、私は別の話題をふった。
何となく、先輩とのことは秘密にしておきたくなったから――。
*
土曜日。私は図書室の当番のため登校した。
今日は補講もないので人は来ないだろう。それでも図書室は開けなくてはいけない。
そういう決まりなのだ。
カウンターに鞄を置き、宿題を取り出す。今日は国語。
国語は読書感想文なので、まずは読みたい本を決める。
ほとんどの人は夏休み前に借りていくが、私は図書委員だ。
夏休みも図書室に来るのだから、そのときにじっくり選ぶつもりでまだ決めていなかったのだ。
ずっと気になっていた小説を手に取り、カウンターに戻る。
ページをめくり、夢中で読んでいく。
このとき、私の耳には何も入ってこない。
集中するとどんなに近くから声をかけられても、気付かないことが多いのだ。
このことで、絵美にはよく呆れられている。
図書室にはページをめくる音だけが、静かに響いていた。
はっと気が付くと、午後の一時を過ぎていた。お昼を食べなきゃと本に栞を挟んで横に置き、鞄からお弁当を取り出した。
そのとき、ガタッと音がした。咄嗟に顔を上げる。
そこには、机から立ち上がった晃先輩がいた――。
「あ、先輩。こんにちは。すみません、全然気付きませんでした。いついらしたんですか?」
焦った私は早口で先輩に話しかける。
本当に気付かなかった。いつからいたのだろうか。
「……一時間くらい前から。あんた、集中してると周りが見えなくなるタイプなんだな」
一時間も前から……。心なしか、先輩は楽しそうなお顔をしていらっしゃる。
何となく恥ずかしくて、思わず俯いてしまった。
「そんなに集中して何を読んでたんだ?」
先輩がカウンターに近付いてきて、私の手元を覗きこんだ。
本を手に取り、パラパラとめくる。
裏表紙の解説を読むと、「ふーん」と言って本を元の場所に戻した。
「国語の宿題の読書感想文用です。ずっと気になっていた本だったので、思わずのめり込んでしまいました」
へらっと笑ってそう説明すると、先輩は興味なさそうな返事をし、次いで私のお弁当を見た。
しばらく凝視し、おもむろに指を伸ばすと、黄金色に輝くプリっとした卵焼きをそっとつまみ上げ、大きく開けた口の中に放り込んだ。
私はというと、先輩の突然の行動に思考が停止し、自信作の卵焼きが先輩に咀嚼され喉を通過していくのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。
「……これ作ったの母親か?」
「……いえ、私です」
「お前、料理できるんだな」
「一応……。卵焼き、お好きなんですか?」
今日のお弁当には唐揚げが入っている。食べ盛りの男子だったら、真っ先に唐揚げを狙うだろう。
「…………嫌いじゃない」
出た。嫌いじゃない。
「……お口に合いましたか?」
家族以外の異性に自分の料理を食べてもらうのは、これが初めてだった。
自信作とはいえ、少し気になる。
「…………まずくはない」
その返答に、思わず吹き出しそうになった。
先輩は照れ屋さんだから、遠回しでしか伝えられないのだろう。
先輩の可愛さに、ささくれていた私の心は、ほっこりとあたたかくなったのだった。
「あ、先輩。よかったらクッキー食べますか?」
席に戻ろうとする先輩に声をかけ、鞄から昨日焼いたクッキーを取り出す。
先輩に会えたら渡そうと作っていたのだ。
会えなくても、自分が食べればいいし。
無事に先輩に会えたことにホッとして、ラッピングしたクッキーの袋を先輩に差し出す。
先輩は私の手元の袋を凝視している。その顔には、困惑が浮かんでいる。
「……甘いの、苦手でしたか?」
さっき食べた卵焼きは甘めの味付けだ。
それを「まずくはない」と仰るなら、たぶん大丈夫だとふんだのだが……。
「……いや、食える……」
その言葉に嬉しくなり、私はカウンターを回って先輩の前に行き、彼の手を取ってその上にクッキーを乗せた。
「この前の数学のお礼です。本当に助かりました。ありがとうございました」
そう言うと先輩は納得してくれたのか、「ん」と頷き席に戻っていった。
私もカウンターに戻ってお弁当の続きを食べる。
そのとき聞こえた袋を開ける音と、サクッという音に。
私の口角は自然と上を向くのだった。