8.
東条先生はどうしても司書になりたかった人だ。
まだまだバリバリに働くつもりで、いまの相手と結婚は考えていてもまだ先の話だと思っていたらしい。
しかし、相手が会社の都合で年明けすぐに転勤することになり、ついてきてほしいとプロポーズ。
相手の猛烈な懇願に、悩んだ末、承諾した。
先生も遠距離恋愛をするくらいならいっそ結婚した方がいいと考えたらしい。
現在は転勤先での職とこの図書室の後任の司書を探しているらしく、実は本日が後任の人の面接日だったそうだ。
今日面接を受けた人は司書経験があり人当たりもよさそうだったので、校長や教頭、各学年主任の先生と会議をし、満場一致で可決。
めでたくその人は採用になった。
先生は引越準備や転職活動、その他もろもろがあるため、九月いっぱいで退職することにしたそうだ。
後任の人との引き継ぎは一か月かけてやることになる。
「そういうことで、急な話で図書委員の皆には申し訳ないんだけど、夏休み明けから基本はその人がこの図書室の司書になるから」
「わかりました。それより先生、ご結婚おめでとうございます!」
先輩の先ほどの一瞬の表情が気になりつつも、私は先生にお祝いを述べた。
先生はとても素敵な笑顔で「ありがとう」と返してくれた。
時間もあったし他に人は誰もいなかったのでもっと詳しく聞きたかったけれど、先輩がいたので口を閉ざす。
――だって、さっきの先輩の顔は……まるで…………。
私は、その先を考えるのを止めた。
*
家に帰ると、夕飯の支度に取りかかる。家族の予定表が書かれたホワイトボードを見ると、母は定時上がり、父は出張先から直帰で帰宅は六時の予定、兄は……あ、今日はこっちに来るんだ。
今日はみんなでご飯が食べられそうだということがわかり、嬉しくなった私はいつもより張り切ってご飯を作るのだった。
「ただいまー」
玄関から母の声がした。私は「おかえりー」と大きな声を出し、味付けをして衣を付けた鶏肉を揚げる。
そう、いわゆる唐揚げだ。今日の夕飯は唐揚げにポテトサラダ、お隣からいただいたほうれん草を胡麻和えにした。
それにキュウリの酢の物とご飯とお味噌汁。
母が帰ってきて着替えている間に父が帰ってきた。
「ただいま。今日は唐揚げか。美味しそうだな」
「つまみ食いはひとり一つだよ、お父さん」
揚げたてアツアツの唐揚げを頬張り、いい年をした父は子どものようにはふはふと食べていた。
その様子を見た母が爆笑し、つられて私も笑ってしまった。
できたおかずをテーブルに並べていると、兄が帰ってきた。
一人暮しをしているが、兄の会社は実家からでも通える距離なのだ。
本当は実家に住み続けるつもりだったらしい兄を説得して家から出したのは私だ。
大学時代、中学生の私をひとりにできず、どんなに遅くても終電で帰ってきてくれた兄に、社会人になったのだから少しは自分の時間を持ってほしかったのだ。
それに、私も少しは自立をしなければ。いつまでも、兄が傍にいてくれるわけではないのだから……。
今日は泊まるつもりらしく家に置いてある部屋着に着替えた兄を待って、私たちは久しぶりの家族団らんを始めた。
「俺、結婚しようと思う」
夕飯を食べ後片付けをし、みんなでテレビを見ながらまったりしていたときだった。
兄が突然、こんなことを言い出した。
私も両親も、少しの間動きが止まった。
あ、こういうとき同じ反応するのは家族っぽいな。
そんなどうでもいいことが頭をよぎる。
始めに口を開いたのは、父だった。
「それは別に構わないが、お前、まだ二十三だろ? もう少しゆっくりでもいいんじゃないか?」
「そうなんだけどね。何か、もうこの人しかいないと思って」
兄は照れ臭そうに頭を掻いた。
「それに……」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
立ち上がりかけた母を制止し、私が行くと告げ玄関に向かう。
玄関を開けると町内会の班長さんだった。町内会費の徴収に来たそうだ。
生活費が入った財布はリビングにある。しかし、私はリビングには行かず自分の部屋から財布を持ち出し、そこから町内会費を支払った。班長さんが世間話を始める。
この人はおしゃべりが大好きで、一度話し始めるとなかなか終わらない。
相手が満足するまで話に付き合い、別れの挨拶をして扉を閉め、鍵をかける。
そして、扉に額をつけて寄りかかった。
兄がなぜ、今年の私の誕生日にみんながそろうように声をかけてくれたのかが、わかった気がした。
――……将生くんが…………結婚………………。
しばらくの間、私は玄関から一歩も動けなかった――。
*
私がいない間に話はほとんど終わっていたようで、二週間後のお盆休みのときに先方のご家族と顔合わせをすることになった。
私は詳しい話を聞かないように、無駄にキッチンやトイレ、洗面所を行ったり来たりしていた。
「そういえば、三軒先の田中さんのところの息子さんも結婚するそうよ。確か将生と同い年よね?」
兄はお風呂に入っているため、ここにはいない。
父と母はお酒を飲みながら自分たちの子どもの結婚に思いを馳せている。
「まあ、私も最初の結婚は二十三だし、血かしらねぇ」
「何にせよ、本人がちゃんと考えて出した結論なら、僕たちはしっかり応援してあげるしかないね」
それ以上話を聞いていたくなくて、私は宿題があるからと自分の部屋に引っ込んだ。
ずっと一緒にいてくれた将生くんの結婚は、思った以上に私に影響を与えたようだ。
――いつかは、こうなると思っていたけど……想像していたより早かったなぁ……。
涙が出そうになったので私は考えるのを止めた。
そして机の上に置いてある宿題の中から英語を取り出し、無心で英単語を書き続けた。