7.
先輩は私の手元を覗きこみしばらく無言で何かを考えていたが、おもむろに教科書を取り、あるページを指した。
「それ、この公式を使うと解ける」
――え? え?
混乱する頭をよそに先輩に言われるまま公式を当てはめてみると、あら不思議!
あんなに手こずっていた問題がさらっと解けたではありませんか!
「わ、解けた! 先輩、ありがとうございます!」
解けた嬉しさから、先輩に満面の笑みを向ける。
一瞬目が合った先輩はすぐに視線をそらし、頬杖をつくような姿勢で口許に手を当てて、「ん」と短く返事をした。
「先輩、数学が得意なんですか?」
「……嫌いじゃない」
……この返し方、知ってる。
素直じゃない人が好きな人やものに対して使う言葉だ。
何だろう、この人、見た目に反してなかなか可愛いなぁ。
にやけそうになる頬を必死で我慢しながら、席に戻って寝始めた先輩にその後もわからない問題を聞きに行き続けた。
その度に先輩は嫌がる顔をすることなく、体を起こして私に丁寧に教えてくれたのだった。
*
「瀬崎さん、遅くなってごめんね!」
午後四時を少し過ぎてから、東条先生が戻ってきた。
息を切らして肩を上下に動かしている様子から、急いで戻ってきてくれたことがわかる。
「大丈夫ですよー。特に何もありませんでしたから」
筆記用具を片付けながら、私は返事をした。
先輩のおかげで宿題はとても捗り、なんと苦手な数学を終わらせることができた。
これで明日からの宿題が楽になる!
「あれ? 晃じゃない。何してるの、こんなところで」
いつもの窓際の席にいた先輩に向かって、東条先生が親しげに声をかけた。
先生は先輩に近付くと、寝ている先輩の頭をグリグリし始めた。
「……って! こんの、馬鹿力」
「失礼ね! 見ての通り、私はとってもか弱いわよ」
二人のその様子に唖然としてしまい、私の動きが止まる。
それに気付いた先生が、「ああ」と何かに気付いたように呟き、私に笑いかけながらこう言った。
――こいつ、私の弟なの――。
「……弟……さん、ですか?」
衝撃の事実にまたしても動きが止まる。
そういえば、私、先輩に下の名前しか教えてもらってなかった。
あのときは特に気にならなかったけど、もしかしたら先生と同じ名字であることを知られたくなかったのかもしれない。
ひいては、姉弟であることを。
「姉が同じ学校にいるのが嫌みたいでねー。今まで廊下ですれ違っても無視だし、ここになんてもちろん一度も来たことなかったのよ。一体、どういう風の吹き回し?」
前半は私に、後半は先輩に向かって先生は言った。
先輩は不機嫌そうな顔で先生から顔を背けていたが、やがて小さな声で「……別に」と呟いた。
よく見ると、確かに二人はよく似ていた。特に目が似ている。
先生は笑っていることが多く、先輩は無表情が多いからぱっと見ただけでは気付かなかったが。
「あ。さては、最後に私の仕事ぶりを見に来てくれたんだな~」
先生はそう言うと先輩の髪の毛をわしゃわしゃと掻き回した。
それを鬱陶しそうに手で払いのける先輩。
その姿よりも私が気になったのは。
「先生、最後って?」
先輩は三年生だから、卒業前にという意味だろうか。
でも、それなら夏の今ではなく、冬でもいいはずだ。
何となく腑に落ちなくて、直接先生に尋ねる。
「あのね、本当は夏休み明けに皆に話そうと思ってたんだけど……」
先生は少し照れ臭そうに、はにかみながら言った。
「私、結婚することになったの」
そのとき、私は見てしまった。
結婚すると先生が言ったとき――。
……先輩が、とても苦しそうに、顔を歪めたのを――。