12.
私が聞かないようにしていた話が、顔合わせが終わった日から少しずつ耳に入るようになった。
兄の会社は入社三年目に必ず全国にある支社に転勤になる。
そこで成績を出すと本社、あるいは希望の支社へ異動できるそうだ。
兄の会社については詳しく聞いたことはなかったが、これだけで大きな会社であることがわかる。
兄はまだ三年未満だが、たまたまある支社で社員の退職が続き人手不足になったため、少し早めの異動となったらしい。
兄はだいぶ前から転勤の際は結婚して一緒についてきてほしいと東条先生にお願いしていた。
先生は迷っていたが、いざ転勤の話が出てくると最終的には頷いたのだった。
二人は結婚式を挙げないつもりだったが、顔合わせのときの、小規模でもお披露目をした方がよいという東条家のご両親の言葉に、考え直すことにしたようだ。
その数日後、十二月末に知り合いのレストランで会費制のウェディングパーティーをすると連絡があった。
簡易だけど、人前式をするから、家族は出てほしい、と。
*
八月も半ばを過ぎ、もうすぐ夏休みも終わる。今日も私は図書室にやって来た。
当番は、今日を入れてあと二回。
宿題はすべて終わらせたので、鞄の中は軽い。
図書室に入ると東条先生がカウンターにいた。
「おはようございます」
「おはよう、瀬崎さん。先日はありがとう。びっくりしたでしょう?」
先生は申し訳なさそうに言った。
「あのあと晃に怒られてね。せめて瀬崎さんには知らせるべきだったって……」
――……先輩が……。
「いえ……。確かにびっくりしましたけど、気にしてませんよ。むしろ、先生らしくていいと思います」
東条先生は締めるところは締めるが、気さくでお茶目なところもある。
そんなところが生徒から慕われている理由だろう。
そして、先生のそんなところを、私も決して嫌いじゃないのだ。
おそらく、兄も……。
「ありがとう! 瀬崎さんならそう言ってくれると思ってた」
先生がほっとしたように笑った。
先日の私の態度から、反対される可能性も考えていたのだろう。
そう、私はこの先生が好きなのだ。
きっと、これからも嫌いにはなれない。
先生は準備室の片付けをすると言って図書室を出ていった。
私は代わりにカウンターに入り鞄を置くと、椅子に座って頬杖をついた。
図書室には、誰もいない。夏休み中の補講もお盆前に終わった。
おそらく、今日も誰も来ないだろう。
何のために開けているのだろうか。謎だ。
――今日も本を読んで過ごそうかな。
外では蝉が鳴いている。この鳴き声も、そのうち聞こえなくなるだろう。
窓から差し込む陽の光も、焼けつくような熱さから次第に穏やかなものに変わる。
似たような毎日でも、同じ日は一日としてない。それなのに、私だけが変われていない気がした――。
沈む思考を振り切り、私は本棚に向かった。
*
ガラッと扉の開く音がした。
本から視線を外して扉の方を見ると、見知らぬ女子生徒が入ってくるところだった。
「あの……、本を借りたいんですけどいいですか?」
一年生だろうか。図書室に来なれていない感じがする。
私はなるべく穏やかな声を出すように努める。
「大丈夫ですよ。借り方はわかりますか?」
「はい、大丈夫です」
そう言うと女子生徒は奥の本棚へ向かい、しばらくすると数冊の本を持ってきた。
貸出カードを書いてもらい、返却期限等を説明して本を渡す。
そのうちの一冊は、先日私が読んだ本だった。
「この本、私も読みましたよ。面白くて一気読みしちゃいました」
私がそう声をかけると、女子生徒はぱっと顔を輝かせた。
「そうなんですね! 私、この作家さんにハマっていて、友達に図書室にあるって聞いたんです」
居ても立ってもいられず、急いで来ちゃいました、と彼女は照れ臭そうに言い、会釈をして図書室を出ていった。
私はそれを、笑顔で見送ったのだった。
貸出カードを元に、パソコンのファイルに日付、図書名、利用者名などを入力する。
間違いがないか何度も確認して保存する。
こうすることで、返却日を過ぎても返ってこない本がすぐにわかる。
苦手だけれどやらなければならない大事な仕事だ。
――……そういえば、先輩、来ないなぁ……。
時刻はお昼を過ぎた辺り。いつもならそろそろ来ていてもいい頃だ。
少しだけ気になりながらも、私はお弁当を食べることにした。
黙々と食べ、終われば本の続きを読む。
その日、先輩は現れず、夏休み最後の当番の日も来なかった。
そして、蝉が姿を消し、木々が紅く色づいた葉を落とす季節になっても、先輩が図書室へやって来ることはなかった。




