繋がれた手
夜寝る時ってさ、布団かけるじゃん。
布団の中に潜ったあと何か怖くて……夜中眼が覚めても、顔出したりとか出来なくない?
オレだけかな? 違うかな?
まあ、オレの場合は顔だけじゃなくて、手も足も、指先だって出さないようにしてるからなぁ。
もちろん、それにはちょっと理由があって。
布団から手のひらを出してると、その――握られるんだよ、向こうから。
手を。
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裏野ハイツ203号室。
引っ越してきた日にアパート中に挨拶して回った。
何故か隣人――202号室だけは1日中不在で、会えなかったけど。
ボロいけど家賃は破格、1LDKでこの周辺なら、もう2〜3万は上乗せするのが相場だろう。
とは言え、異常なほど安いってワケでもないし。
1階も2階も、住人はみんな気さくで人当たりが良い。
満足してたんだ。良いとこ見付けたなぁって。
夜になって、親父から電話がかかってきた。
この春からオレも大学生だってのに、バイトと奨学金で学費も自分で稼いでるって言うのに、いつまで経っても子ども扱いだ。
父親ってそんなもんなのかな。
それとも、うちは母親が早くに死んだから、その分まで心配してるつもりなんだろうか。
『どうだ、そっちは。足りないものはないか?』
的はずれな質問を、いつもだったら無視してたかも知れない。
ちょっとぐらい何かなくたって、その辺で買えるよ。
今は夜中だってコンビニ開いてんだから。
だけど、あんまり素気なくするのもどうかと思って、ただ、「うん」とだけ返した。
親父は引っ越しを手伝おうかって言ってたけど、断った。
だから、まあ……向こうは心配して電話かけてきたんだろうな。
オレも、昼間、1人で荷物を運んでた間は全然大丈夫だったんだけど。
何となく。
夜になって静まりかえった部屋に1人で座ってると、何となく……ちょっとだけ寂しいような気持ちになったんだ。
おかしいよな。
2人で暮らしてた間、オレ達、そんなに喋ることもなかったのに。
親父は仕事で帰りが遅いし、オレはオレで部活だってしてたし。
夜に帰ってきて、メシ食って、寝るだけ。
それだけだったはずなのに、人の気配がないって、それだけでそれなりに……寂しいことなんだな。
もしかしたら親父も、同じように少し寂しいのかも知れない。
オレが2才の時に母親が死んでから、15年。
幾ら、死んだ嫁に操を立てるったって、15年は長い。
親父だって浮いた話の1つや2つあったと思うんだ。オレが知らないだけで。
それでも、どんなに遅くても夜は必ず家に帰ってきてくれてた。
まあ、オレは図体でかい男だから、年頃の娘を心配するって気持ちとは全然違うとは思うんだけど。
……ちゃんと家族だったんだろう、オレ達。
何かそんなことつらつら考えて、真面目に答えなきゃいけないような気になった。
「……駅からも歩いて来れるし、そっちからだってそんなに遠いワケじゃない。たまには遊びに来ても良いぜ」
親父がこの部屋に遊びに来たとして、何を話すこともないだろう。
共通の話題なんてない、一緒に何をするワケでもない。
何で誘ったのかな、オレ。
電話の向こうの親父は、オレの提案に笑いながら答えた。
「そうだな、その内行くよ」
そうして電話が切れた時、本当に1人ぼっちになったような気になった。
いつもならこんな気持ちの時は、友達呼んでわいわい騒ぐんだけど、何となく今夜はそんな気になれない。
まだ早いけど、布団を敷いて、早々に眠ることにした。
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夜中に眼が覚めるって、何て言うのかな。不思議な気持ちになる。
静まり返った中に、妙に冴えた頭。
世界中何もかも見通せるような、たった1人閉じ込められてるような。
夢の中から覚醒してくるんだけど、少しずつ現実に戻るんじゃなくて、はっと、ある瞬間に気付くんだ。
オレ、眼が覚めたんだ、って。
自分の身体の感覚が戻ってきて、自分が布団に潜ってることに気付く。
布団の中の生温い空気で、顔を出そうかどうしようか迷って。
ふと、自分の右手が、掛け布団からはみ出てることに気付いた。
あ、ヤバい――と、思った時には遅かった。
するすると、指先から何か冷たいものが辿ってくる。
オレのゴツい指より2回りくらい細い、それは――女の指先だった。
ヒヤリとした感触。
滑らかな肌が、ゆっくりと手のひらを包み込む。
指先がオレの手首まで到達した時に、きゅ、と握られた。
ああ、久々に来た。やっちまった。
幼い頃から何度かあった、この手の感触。
これだから、布団からはみ出さないようにしてるのに。
ばくばくと鳴る心臓を、無理に抑える。息が荒くなりそうで。
眼が覚めていることに気付かれたら、何か嫌なことが起こりそうな気がする。
自分から布団をめくって相手を見ようなんて、考えたこともなかったよ。
だって……顔を出した瞬間に、そこにいる誰かと眼があっちまったらどうするんだ。
出来るだけ身じろぎしないように、静かに、静かに。
オレはぎゅっと眼を閉じて、息を詰めた。
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いつ、眠りに落ちたのかは覚えてない。
気が付けば朝が来ていて。
気が付けば、部屋には誰もいなかった。
窓から一直線に差し込む朝の光と、雀の鳴き声。
平和な朝を感じて、何もなかったような気にさえなる。
布団から身体をはみ出して寝ていると、誰かが触れてくるようになったのは、いつからだっただろう。
物心ついた頃には、それが怖くて、布団を引っかぶって眠るのは、もう長年の癖になってた。
親父とは、そんな話をしたことはない。
うまく説明出来るとは思えなかったし。
まあ、触れられる以上に何かをされるワケでもなかったし。
昨夜は久々だった。
きっと環境が代わって、寝具も新しく買い直して、自分でも知らない内に色々と緊張していたんだろう。
思い返すに、最後の感触は中学生? 小学生の時だろうか?
あの頃は気付かなかったけど、オレも大人になったのかな。
2つ、気付いたことがあった。
握ってきた手が、左手だったことと。
薬指に硬い感触があったこと。
――あれは、結婚指輪を嵌めた、女の左手らしい。
まあ、それに気付いたからって、何ということもない。
オレが何かしてやれるワケでもないし。
気を取り直して朝飯でも食うかと、立ち上がったところで。
一人暮らし用に買ったばかりの炊飯器を、実家に置き忘れてきたことに気付いた。
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「昨日出てったばっかりだろうが……」
日曜の昼間、突然入ってきたオレを見て、さすがに親父は呆れた顔をする。
だけど、何となく口元が緩んでいるから、嬉しそうにも見える。
オレは黙って頷いておいた。
返事をする必要もない話だ。
「まあ、あれだ。良ければ晩飯くらい食っていけ」
再び、黙って頷いた。
食費が浮くのはありがたいことだ。
2人で囲んだ食卓、沈黙の内に箸だけを動かしていると、ふと。
茶碗を持ち上げる親父の左手が目に入った。
薬指に、指輪。
「……親父さ」
「ふん?」
自分でも意識せずに、言葉が漏れた。
親父の黒い瞳に、オレ自身の影が映ってる。
親父にはあんま似てない、母親似だって言われる色の薄い髪と、二重まぶたのオレの顔が。
「親父さ、昔から結婚指輪、嵌めっぱなしだったっけ?」
何を言うか迷って、結局は直球で目の前の――指輪のことを聞いた。
親父は黙って目をそらして、茶碗をつつきながら答える。
「……外したこたねぇよ。お前の母親が片方持ってったまんまだ」
「そうか」
親父の付けてる指輪はものすごくシンプルで、模様も装飾もない。あまりの飾り気のなさで、遠目にはただの輪っかなんじゃないかってくらいに見えた。
いつも嵌めっぱなしだったから、違和感もなくて、オレも気付かなかったんだろう。
浮いた話があったに違いないと思ってたけど……もしかすると、そんなのはなかったのかも。
親父の心には、今もいるのかもしれない。
現在進行形で、オレの母親が。
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夕飯を終えた時には、随分夜も更けていた。
布団も洋服も置いていったものがあるんだから泊まってけ、と言われて、慣れた自分の部屋に今夜はお世話になることにした。
布団に潜りながら、ふと。
置いていった机の上に、死んだ母親の写真を置きっぱなしにしてたことに気付いた。
肩に届く長さの髪は、オレにもそのまま遺伝してる柔らかそうな猫っ毛。
表情の豊かな人だった、と夕飯の後、親父はぼそりと言い残した。
情の深い人だった、って。
明日、部屋に戻る時には、買った炊飯器だけじゃなくて、この写真立ても持って行こう。
何となくそんなことを考えて、布団の中に潜り込んだ。
右手だけ、わざと布団からはみ出させて。
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気付けば、手のひらを包み込む柔らかい感触。
親指の先に当たる、硬いもの。
指を動かして金属をなぞると、表面はつるつるとしていて、まるでただの輪っかみたいだ。
胸が、どくん、と鳴った。
幼い頃から、何故この女は、自分の元に訪れるのだろうかと思ってた。
いつも同じ手。
柔らかくて細い、女性の。
きゅ、と手に力が入って、優しく握られた。
2才で母を亡くしたオレの記憶には、ない。
母親と、手を繋いだ思い出は。
だけど。
もしかすると。
この手は。
昨晩とは違う理由で、ばくばくと鳴る心臓を息を吐きながら抑える。
ゆっくりと、布団の端に手をかけて、その向こう、右腕の先を覗こうと。
オレと手を繋いでるこの人は。
もしかすると。
直接は一度も呼んだことのない、その言葉。
――母さん――?
布団の隙間から見える、真っ暗な部屋。
床に伸びてるオレの右手。
その右手を上から包むように握る、女の白い左手。
そして。
その左手の甲に自分の頬をつけて、向こうからも布団の中を覗き込んでくる。
長い長い黒髪と、生気のない無表情な女の、一重で切れ長な真っ黒い2つの瞳。
目が合った瞬間に、背筋が怖気だった。
全く何の記憶にもない、その顔。
母親どころか、親戚でも友達でも――オレの知ってる人じゃない!
あんた、いったい誰なんだ――!?
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気が付けば、朝だった。
その日の内にオレはアイマスクを買って、寝る時には必ず付けてから寝るようにした。
おかげであれから……あの女と顔を合わせたことはない。
だけど、時々。夜中にふと目が覚めた時。
夢の中から現実に引き戻され、自分の身体全部が布団の中にあることに安堵する。
だって、意識がはっきりしてきた途端に、布団の外にオレ以外の誰かの息遣いがあると気付いてしまうから。
あいつはまだオレと手を繋ごうと、待ってるらしい。
布団から、オレの右手がはみ出る、その瞬間を。
お読み頂き、ありがとうございました。