給仕と写真機
それから哲はこれもまた装飾だらけの洗面所で顔を洗い、ロナに渡されたふかふかのタオルケットに顔を押し付けた。水気を拭く布一枚ですら自分の知るそれとこれとでは比べ物にならない差があると実感させられる。
朝食もそうだった。召使い付きの食事をする機会が来るなど考えたこともなかった。
クラブハウスサンド、というらしい。大そうな名前のサンドウィッチだが、これがあまりにも美味い。インスタントや加工食品しか知らなかった舌が浄化されていくようだ。
「――まったく、夢でも見てる気分だ」
「…………?」
「この世界がさ。やっぱりすごい体験をしてるってわかるよ。一昨日はあんなに不安で泣きそうだったのにさ」
と、紅茶のお代わりを求める。
甘い珈琲しか飲めない体質だというのは食わず嫌いだったと知った。初めて口にした本物の紅茶は砂糖もミルクも必要なく、一口で目が覚めるほど美味いものだった。
紅茶のポットをテーブルに戻すとロナが口を開いた。
「……不安だったというのは?」
「ああ。事情を話してないんだったか。ここまでしてもらって秘密にするのも失礼だ」
「…………?」
「実はね……俺はこの世界の人間ではないんだよ」
それを聞いたロナの顔が固まった。頭の中は今の言葉を理解しようと必死に回っているのだろう。
ただ、そう簡単に理解されても面白くない。
「それは……遠くの土地からやってきたという意味でしょうか」
『この世界』を狭い範囲で捉えた回答だ。
哲はもう少し考え、こう言い換えた。
「そうさな……一昨日まで俺はどこにも居なかった。それが昨日、突然現れたと思ってくれ。君からすればそういうことだ。そして俺の視点から見た出来事はこう――ああ、ペンがないかな……これでいいや」
首のナプキンをテーブルに広げ、フォークを右手に、そして左手を服の中に入れて魔石を握った。
柔らかい光の中で銀のフォークは形をペンに変え、ペン先に紅茶を吸わせると哲はナプキンに円を綴った。
「まずこの輪っかを見てくれ。この中がいわゆる『世界』としよう。この円の中で、いろんな国や人や自然が存在している。いま俺とロナがこうして話しているのも、この世界の中でのことだ」
紅茶で描かれた円の中に棒人間を二人描き、ロナに理解を求めるとなんとか頷いてくれた。
「すべてはここから始まり、ここで終わる。決して『円の外』という概念は生まれない」
ペンを紅茶に漬け、また新しい円を古い円の隣に綴った。
「ただ、概念は生まれないけども円の外って存在しているんだ。そこにはいくつもの世界が同じようにあり、お互いに認識できないまま時間が流れるだけなんだよ。大抵はね」
「つまり……アキラさまはそのほかの円からやってきた、ということですか?」
「そう。理解が早くて助かるよ」
「でも円の外は認識できない、と仰ったのは……」
「それが面白い部分でね。ったく……」
呆れ顔でため息を吐く。
気付くはずのない仕掛け。
そんな世界があるかもしれない、は誰でも思い付いた。
ただ、異世界に辿り着く方法までをすべて憶測で的中させた師匠は事実上その仕掛けを打ち破り、それの存在を引き摺りだしたことになる。
自分があちらの世界に帰ってそれが完全に証明されれば、教科書にあの人のページが加わるだろう。新しい単元が生まれるのかもしれない。
「できないはずのことができてしまい、俺とロナはこうして出会ってしまった。――いや、出会うことができた。『どうして』がわかるのはまだ先になるだろうけど」
「はあ……」
「信じられないって顔してんね」
「え、それは…………そのぅ……」
「いいんだよ。そりゃそうだ。こんなこと口で説明したってしょうがない」
そういえば、と哲は部屋を見回す。
「俺の荷物は?」
旅行カバンと師匠の一眼レフ。ロナにこちらの文化を教えるのには何かで実演してみせるのが手っ取り早い。
「あ、それでしたら隣の部屋に。取って参ります」
しばらくして戻ってきたロナから一眼レフだけ受け取り、電源を投入した。軽くシャッターを押さえると自動で焦点が合わされ、ファインダーの中にくっきりと旅行カバンを持つ給仕の姿が写る。
「…………?」
用途のわからない道具が自分に向けられていることを感じたロナはどうしていいのかわからずに困っている。
そんな沈黙をカシャ、とこの世界ではありえない音が破った。
「来てごらん。――ほら、これ。これはカメラと言ってね。風景を切り取る道具なんだ」
「……これは私ですか?」
鏡でしか自分の姿を見たことがない人間の反応だった。ディスプレイに映る小さなプレビューですら、彼女に与えた感動は恐らく哲が見てきたどんな写真の感動よりも素晴らしいものに違いない。
あとでプリンターも錬成して写真を印刷してあげよう。
「すごい道具なのですね。初めて見ました」
好奇心に満ちた子供の笑顔に思わず哲は二度目のシャッターを切った。これはいい土産だ。もちろん自分用の。
「まじゅ……、アキラさまの居た世界には、他にもこんな物がたくさんあるのですか?」
「いろんなモノがあるよ。空を飛んだり、遠くの人と会話をしたりとかね」
「遠くの人と……それは電信機のような物でしょうか。あ……私もあまり詳しいわけではないのですが」
「ああ、それはあるのか。いや、たぶん俺が言ってる道具のご先祖様だろうね」
「素敵ですね……。魔法が使えて、こんなに面白い道具で満ち溢れていて。そんな世界があるのなら私も見てみたいと思います」
「…………。どうだろうね」
「?」
「俺にはこっちのほうがよほど素晴らしい世界に見える」
「? どうしてでしょう」
「モノばっかり便利になって、なんかこう……上手く言えないんだけどさ。つまんないんだよね。それがこっちにきて、ちょっと町をぶらついただけですごく楽しかったんだ。ただの旅行気分とは違う、本当の……人の生活みたいなのを実感できた」
「…………。アキラ様は、きっとどちらの世界も体験したからそう言えるのでしょう。この世界がすべての私には……それでもアキラ様の世界のほうが素敵なところだと感じます。それに……とくに最近は、物騒ですから」
最後の言葉に哲の片眉が動いた。ロナのエプロンを掴む指が僅かに縮む。
「物騒?」
「となりの町……と言っても、ここからは随分と距離があるのですが、そこの御領主さまの立場が危ういと噂があるんです」
「立場が危ういってのは……つまり革命でも起きるってこと?」
「そこまでの規模ではありません。でも、領地内で市民がそれに近い行動を起こすのではないか、と。あくまで噂なのですが……」
「まあ、火の無いところに……」
「煙は立たないと言います」
文化の違いがあってもこういう言い回しが共通なのは不思議な感覚である。
「ちょっと見てみたいな……」
「え?」
歴史の移り変わりを象徴するような出来事などそう巡り合えるものではない。しかもここは異世界。学術的にもとてつもなく貴重な資料が手に入る機会ではないか。
「地図を用意してもらえないかな。ちょっくらパパラッチしてくるよ」
「ぱぱ……?」
「その町の様子をこのカメラに収めてくる。これを見過ごす手はないもの」
「そ、そんな! 危険です! 暴動に巻き込まれたらいくら魔術師さまでも……」
「そうかな」
「そうです!」
「だめ?」
「いけません!」
そこまで言って哲は笑いを漏らした。
ロナもはっとして言葉を濁らせる。
「あ、……いえ。もちろんアキラさまのご自由ですが……やはり……危険なところですので……」
「――ありがとう。心配してくれて」
立ち上がってロナの頭を軽く撫で、いかにも爽やかな好青年を装った。心中では勢いで異性の頭を触ってしまったことに凄まじく緊張していたが、純朴なロナは頬を染めて首をすぼめるという最高の反応を示してくれた。邪魔なカチューシャをどけて思い切り撫でまわしたい衝動に駆られたが理性で思い留まった。
「ごちそうさま。今までで一番美味い朝食だったよ。――ところで、魔術を一発かましたいんだけど玄関はどっち? 外でやりたいんだ」
「え……ああ、でしたらこちらへ」
そばに立てば綺麗な銀髪のつむじが見えそうな給仕の後に続いて、哲は部屋を出た。
なんかダラダラしてるような……。やっぱりリアルタイムで描いてると全体の配分が難しくなるようです。描きたいもの描いてるから文句はないんですがね……それで人に認められるものが描けるようになるまでどれだけ掛かるのか。ぬあああああ。
あと我ながら三点リーダ多いんだよぅ。