旅立ち
その晩、哲は物置兼自室のベッドに寝転んで天井を仰いでいた。
埃っぽい天井を背景に、あかぎれた指の間から透き通った赤い魔石が顔を出している。
「師匠の頼みなら断れないよ……そりゃあな…………はぁ」
脳裏に昼間の師匠の言葉が甦る。
『新しい魔術が完成した。とびきりすごいやつなんだ。その、実験台になって欲しい』
恩師の頼みならと哲は承諾したが、高純度の透き通った魔石を渡された時点で嫌な予感はしていたのだ。
『なに、好きな時にいつでも帰ってこられる。それだけは別の実験で証明されているから心配するな。ちょっとした小旅行と思えばいい。羽を伸ばしてこい』
泣きたくなってくる。
明日がこんなにも憂鬱なのはいつぶりだろうか。就職先が決まらなかった日の夜にそっくりだ。
『異次元の世界に跳んできて欲しい』
自分が行けよ、と口には出さない。
魔術師の弟子とはそういうものだ。本人に何かあるといけないのでとりあえず弟子にやらせてみよう、とそのためにいるようなものだ。
実験台こそ初めてではない。今までにもちょっとした魔術の被検体はやったことがある。腕から植物が生えてきたり、猫の言葉がわかるようになったり。その程度なら良かったのだ。
「異次元ってなんだよ……畜生」
いつでも帰ってこられるから、とその言葉だけに希望を抱いて耐えるしかなかった。
もしかしたら楽しいかもしれないのだから。……もしかしたら。
本物のドラゴンが見られるかもな、と笑う師匠に餞別として貰った旅行カバンに荷物を詰めながら、哲は何度目かのため息を吐いたのだった。
翌日――。
「それじゃあ哲、くれぐれも気を付けてな。何か危なくなったら迷わず魔石を使え。向こうの世界でお前がどれだけ暴れてもこちらには干渉しないが、そこはお前の倫理に任せる。その魔石なら魔王にだってなれるだろう」
「……なりませんよ。適当に写真でも撮って帰ってきますから。それより、本当に帰ってこれるんですよね?」
「ああ。そこは大丈夫だ。ちゃんと持っているな?」
「ええ――これですよね」
首から提げた深紅の魔石ともう一つ、黄色い魔石を師匠に見えるように持ち上げた。以前の色が弱い赤の魔石はもう不要だからと師匠に返している。
「一度きりだが、それを使えば次元のゲートを開くことが出来る。すでにこちらの世界の座標を記憶してあるから、お前が精神力を注ぐだけで連れて帰ってくれる」
それを聞いてから哲は深呼吸をして、旅行カバンを掴んだ。
「大気中の魔力も安定している――いまがチャンスだな」
多くの魔力を必要とする魔術を行う際に、師匠は自身の精神力を直接注ぎ込むのではなく、あらゆる自然の中に宿るエネルギーを『変換』してそれを魔力として取り出す。鉛の球を手で投げるよりも、最初から存在している弾丸の雷管を叩いたほうが軽い力で大きな結果が得られる、ということらしい。
「雑念は消せ。お前の思考が行先に影響する可能性があるからな」
「……はい」
師匠に促されるまま床に描かれた魔法陣の上に立ち、待った。
「行くぞ……大丈夫だ……お前なら心配ない」
足元の幾何学模様が白く光り始め、次第に哲の体を足元から包み込んでいく。途中で眩しくなって目を閉じたが、それでもまだ瞼の裏は白く覆われていた。
体が軽くなる。
肌を包む空気の感覚が変わった気がした。
「幸運を祈る――あ、そうだ、哲、土産はそこの地酒がいいな――……ああ、間に合わなかったか」
師匠の声を最後の音に、光と共にあった哲の体は部屋のどこからも消え失せていた。