魔術師と弟子
それにしても忙しい。エプロン姿の空羽哲はため息を吐いてやれやれと肩を下ろした。
山となった洗濯物を一枚ずつ剥がしてはハンガーを通し、物干し竿に掛けていく。これが終わったら今度は家の掃除、その次は飯を作る時間になっているだろう。
「おい哲ー。この靴下も洗っといてくれないか」
「えー……。もう洗濯機かけ終わったんですけど」
「そうか……じゃあ手洗いでやるしかないな。頼んだ」
「うえぇ……」
嫌な湿り気を帯びたよれよれの靴下を受け取り、仕方なく洗面所へとむかう。
「ったく師匠も……。洗濯物はちゃんとまとめて一緒に出してくれってあれだけ言ってんのに」
ぶつくさ文句を垂れながら弟子は師の靴下を洗った。
哲は高校を卒業後、就職難という世間の荒波にモロに飲まれて標準的な人生のレールから外れてしまった。
途方に暮れていたところを師匠に拾われ、以来弟子として働き始めてそろそろ一年が経とうとしている。
「あれで高名な魔術師だってんだから……本当にわからないもんだよ」
哲が弟子入りしたのは世にも珍しい魔術師のもとだった。
この世間、魔術の存在自体は認知されている。ただ、それ以上に科学技術の恩恵を受けているために魔術を身の回りで見かけることはあまりない。魔術で水と運動エネルギーを操って洗濯物を洗うことは出来るが、それなら洗濯機を使う方がはるかに効率が良いのだ。
現代において魔術とは、科学がまだ伸び足りない分野での補佐として細々と残る程度のものに成り下がってしまった。
それでも、魔術はきっといつまでも残り続けると言われている。完全に失われることはない。
なぜなら師匠のような別格の魔術師がいつの世にも存在するからだ。
「ていうか……錬金術で金に困らないんならメイドさんでも雇やいいのに。……ま、俺の仕事がなくなるからダメだなぁ」
世に存在する物体を別の物質へ変化させる魔術を『錬金術』と呼ぶ。だが、本当に元素番号79、Au――純金を精製できるのは現代では師匠だけとされている。……あくまで公的には、だが。
というのも、しかるべき機関に申請せずにいわゆるモグリの錬金術師でいたほうが何かと美味しい思いができるからだと師匠が話していたことがある。
一応、魔術師は自分の魔術をすべて申告することが義務付けられている。ただ、それで強力な魔術が使えたりすると使用制限を設けられることが少なからずあり、これは当然魔術師としては面白くない。使用制限と引き換えに得られるのは多少の研究費のみなのだ。これでは確かに錬金術で濡れ手に粟の裏稼業をしたほうがマシかもしれないと思ってしまう。
「贅沢する暇があったら新しいこと試す人だからな……もったいない」
魔術が使える人間というのは先天性で素質の有無が決まる。
素質、つまりは才能さえあれば師匠のようにふざけたレベルの奇跡を起こすことも可能になるのだ。
「せめて俺にもうちょっとでも才能ってやつがあればな……」
シャツの襟からペンダントになった赤い石を取り出して指で弄んだ。濁った赤色はいくら磨いても半透明にもならない。
これは魔石というものだ。師匠に貰ったもので、質屋に持っていくと中古車が一台買えるくらいの値打ちが付く。魔石にもピンからキリまであり、ものによっては缶コーヒー一本くらいのものから、質屋の算盤を引っくり返しても足りないものまで存在する。
では魔石とはどのような物なのか。哲はそれを考える時にパソコンを例に挙げる。
――自分という生身のハード(本体)があり、魔石はソフトだ。魔石を持っていればそれに付与された魔術を使うことができる。
ハードに必要なだけの記憶容量があれば、ソフト自体を記憶して魔石なしでも魔術を使うことができるようになる。それが魔術師の素質というやつだ。単語では魔術容量と言う。
そして同じ魔術にも強弱の差がある。これもまた魔術容量の大きさに比例する。
触らずに物を動かしたり、目を瞑って歩いてもぶつかることは無く、その気になれば飛ぶ鳥を落とすことだってできる。
もちろん素質があればの話である。
残念なことに魔術容量が人並み以下でほとんどゼロに近い哲は、魔石なしでは魔術を使えない。なんとか体に取り込めたとしても、透視系ならせいぜいコピー用紙が一枚透けて見えるかどうか、熱を操る系統ならば手に持ったコーヒーカップが冷めない程度だろう。
「――ま、こいつ(魔石)さえあればそんなことは関係ないんだけどな」
赤い魔石には『錬金術』が記憶されている。ちなみに師匠のお手製だ。今この瞬間にも哲がやろうと思えばこのずぶ濡れた靴下を黄金色に変えることもできる。そして恐らく師匠にぶん殴られて酷い目に遭うだろう。純金となると体力の消耗も著しい。
「……こんなもんでいいだろ」
染み付いて取れなくなった汚れは諦めて、哲はベランダへと戻っていった。
「ああ……哲。ちょっと話があるんだが」
仏頂面はいつものことだが、この人が煙草を燻らせている時はあまりいい話ではないことが多い。
「なんですか?」
洗濯バサミに靴下を引っかけて次の言葉を待つ。
ふいに師匠の手が胸元に伸びてきて例のペンダントを摘まんだ。
「これ(錬金術)……どんくらい使えるようになった」
どのくらい、というのは魔石を扱う上での哲の腕前のことを言っている。錬金術の魔石を持っていればそれが可能になるが、使いこなせるかどうかはまた別の問題なのだ。
魔石のプログラムを走らせるエネルギー、精神力。
そして魔石の中のソフトを無駄なく処理するためのOSは脳だ。これは経験を積むことで向上されていく。一般にIQ、知能指数が高いとOSとしての適正も高いと言われている。
お前にはそっちの見込みがある、と最初に言われた時は嬉しかったものだ。
「この間テストしてやった時は水を葡萄酒に変えることができていたな。少しは上達したのか?」
水を葡萄酒に、そして石をパンに変えろ、とは悪趣味な課題だった。どうもこの人は神様の類が嫌いらしいのだ。
「元物質なしで水を出せるようにはなりました。……三回に一度くらいは」
「本当か? やるじゃないか、さすがは――な」
俺の弟子だ、と頭をぐりぐりされるのは嫌いではなかった。
ちなみに元物質なしで精製というのは、簡単に言えば精神エネルギーだけで物質を現出させることを示す。何もないところから気合いでモノを生み出す、魔術の成せる業だ。水を一リットルも精製すると、同じだけの水を飲んでぐっすり眠らなければ疲れが取れない非効率極まりない力技なのだが。
こういった『物質を精製』も錬金術に含まれる。
「そこまでそれが使えるようになったなら心配ないだろう。頼みというのはだな」
こっちの投稿に追いつかれないように続きを書かなければ……ひえぇ。萌え絵描いてる場合じゃねえ。