葛藤の一夜
今晩は夜空に対して雲が七割ほどと多い。時々月が顔を出す時以外はかなりの暗さである。
無神論者の哲だが、この時ばかりは神に感謝を送った。
アリスに会うために屋敷に忍び込む作戦はこうである。
まず投げやすそうなピンポン玉程度の石ころを三つほど用意する。
そして門番が一人で門の前に立っていることを確認しておく。気付かれないようにそっと物陰から観察し、二人以上居ればこの方法は諦める。
「……よし、見張りは一人だけみたいだな」
条件が揃えばあとは簡単だ。
レンガ造りの壁の内側、門番から二十メートルほど離れたところに石を投げ込む。
静かな夜だ。長時間じっとそこに立っていれば耳も冴え、その距離でも地面に石が落ちる僅かな音は聞こえてくる。
すると門番がふり向き、怪訝な顔つきになる。そこから続けて二投目をさらに離れた地点に落下させる。すると。
「何者だっ!」
夜の屋敷の広大な庭、その闇の中に侵入者を誤認して門番が音のした方向へと距離を詰めていく。
ダメ押しの一投。出来る限り遠くへ、門番の向きと重なるように。それが離れていく足音に聞こえるように。
「待て! 止まれ!」
門番が走り出す。
門番は自分の足音でもう何も聞こえない。その目に侵入者が映ることを信じて、誰も居ない庭の中央へ向かって駆けていく。
そして門を守る存在が完全に消え、哲は敷地内への侵入を果たすことに成功した。
「――こうも上手くいくとはな。やれば出来るものだ」
壁の内側に足を踏み入れるとそのまま壁に沿って姿勢を低く、そして可能な限り静かに、早く走った。とりあえず門番を完全に巻かなくてはならない。そのためかなり大回りをして屋敷を目指す。
「……まてよ?」
そういえばアリスはどこにいるのやら。
とにかく屋敷に忍び込むことだけしか考えておらず、ここへきて困った。
「参ったな…………――ん?」
時計は無いが、今の時刻はだいたい日付が変わるかどうかというところ。大きな屋敷も明かりは無く、遠くに輪郭がなんとか見えるといった程度。
しかし、そこから離れた一軒家のような建物に明かりが灯っているではないか。
「あそこは――」
すぐにわかった。自分が一日だけ居候した別館、離れだ。
この屋敷の敷地内であそこだけ明かりが灯っている状況。やみくもにアリスを探すより手がかりがありそうな気がする。
記憶が正しければその離れの脇には屋敷で使う薪を貯めておく薪小屋があった。その近くを通る時、はたと哲の足が止まった。
斧で薪を割るのに使う台座として一抱えもある丸太の輪切りが置かれているのだが、そこに人が腰かけている姿が目に入ったのだ。じっと空を見つめて物思いに耽っているように見える。
――こんな雲だらけの空に何が見えるのか。
相手との距離はそのまま通り過ぎれば気付かれない程度にある。
しかし、ちょうどその数秒の間に雲が切れて月明かりが照らし出したのがあまりにも綺麗だったからか、それともその人に見覚えがあったからか。
「あ――」
思わず声が漏れてしまった。
「…………!?」
その相手がびくっと肩を跳ねさせてこちらを向く。すぐに月はまた隠れ、お互いに顔は視認できなくなった。
「……だれですか!? 屋敷の人なら名前を言ってください!」
「――――っ」
この声は――それが確信に変わる。
「け、警笛を吹きますよ! すぐに人が集まってきます!」
彼女が侵入者という恐怖に怯えているのが気配で伝わってくる。
はっきりと聞こえるよう、口を開いた。
「――俺だ。ロナ」
「…………」
聞こえなかったのだろうか?
そう思ってしまうほどに何の反応もなかった。ぴくりともせず、思考が停止したかのようにまったく動かない。
「あ……」
そこだけ魔法が解けたように口がもごもごと動く。
「アキラ様……?」
もう一度現れた月明かりの中に佇んでいたのは、呆然とこちらを見つめるロナであった。ただ、どこかに違和感を感じる。
「ただいま。ちょっと遅くなってしまったけど」
哲が近づこうと足を出す。
「ひ……っ」
そんな声を上げて彼女は後ずさった。
「ロナ?」
「あ……ゆ、幽霊なんて……居るわけないのに……!」
それを聞いて失笑した。幽霊などと。たった一か月かそこら居なくなっただけで勝手に殺されるとは彼女の早とちりも重症なものである。
ロナに追い付けるだけ早く哲は歩を詰めていく。
「おいおい、それはないだろう? そりゃあこんな時間に現れたのは悪いが――」
ざっざっざっ――とロナに近づくだけ、その顔が戦慄の色に染まっていく。挙句に躓いて尻餅を着いたロナはついには泣きながら警笛を口に咥えた。
――ピ………………ッ…………。
間一髪でその笛を奪い、特大の悲鳴を手のひらで口の中に押し留め、それが収まると彼女の目に映る自分を見ながらゆっくりと言い聞かせた。
「俺は幽霊じゃない、生きている。事情があって帰ってくるのが遅くなっただけだ。落ち着いてくれ」
口に手を当てられて鼻で荒い呼吸をするロナが次第に落ち着くのを待って、やっと哲は手を離した。
「……本当に、アキラ様…………?」
さっきの恐怖とは別の意味合いの涙が溢れ出すと、申し訳ない気持ちが膨れ上がっていく。
「ああ……心配かけて悪かった。それで、ゆっくり話がしたい」
場面は離れの中へと変わる。
「――さ、三年!?」
素っ頓狂な声を上げたのは哲だ。
「ええ、本当に驚きました。まだ信じられない気持ちです」
「…………冗談だろう? ああ、すぐに帰ってこなかった仕返しってことかい」
「いえ、冗談なんかではありません。アキラさまがここを発ってレティクに向かってから、もう三年が経つのです」
「……馬鹿な」
これが誤差の範疇と呼べるのか。
ズレがあまりにも大きすぎる。せめて一か月なら……。が、三年という時間はあまりにも酷い。ロナの姿に違和感を感じたのも、単に体が成長していたからなのだ。
「じゃあ……俺は三年もこの世界から消えていたのか」
同じ内容を何度も頭で反芻するが、理解を拒絶したくなる。
「……旦那さまは最期の時までアキラさまの身を案じておりました……。礼を出来ぬままで申し訳ない、と」
「そうか……」
人柄の良い者は短命と言葉があるが、こればかりは真実かもしれない。
「それと、アリス様のこと、ですが……」
ロナの口からその名前が出たのは意外だった。
「どこまでご存じですか?」
町の人間から聞いた話はどれも似たり寄ったりで、情報と呼べるほどの成果は無い。
「ここでコシューク氏の跡を継いだとしか。ほかは何も知らない」
「そうですか……なら、最初から――」
ふとロナの表情が固まる。何事かとアキラもその視線を追うと、窓の外を見ている。しかし哲の位置から窓はカーテンで隠れていて何があるのかわからない。
言葉を切ってロナは窓に駆け寄り、手の仕草でどうやら玄関から入ってくるように合図しているらしいが、果たして誰なのか。
「アリス様です」
「なっ――」
「今、こちらに来られます」
アリスに会える。
それは喜ばしいことだ。
だが。
「……会われますよね?」
「いや、だが……その……」
あんな別れ方をしたのだ。それはもう、思い切り抱きしめてやりたい。本来なら。
「三年も待たせてしまったのに……」
心の準備が、などと甘い躊躇ではない。
どのツラさげて会いに来た、などと言われたら二度と立ち直れる気がしないのだ。
玄関が閉まる音が聞こえた。まっすぐ歩けばここにはすぐだ。
「すまん、匿ってくれ!」
「え? アキ――」
「――ロナ。入るわよ」
ちょうど扉がノックされる音とクローゼットの締まる音が重なった。
ぎっしりと吊るされた衣装の隙間に紛れ込み、哲はクローゼットの中から外を覗ける隙間がないか探した。
「人が来ていたの?」
子供から大人になる途中の若い娘の声だった。前と比べると垢抜けてはいるが、間違いなくあの時助けた少女の声である。
「え? いえ……なぜですか?」
「あなたはお茶をする時にカップを二つも使うの?」
「あ……これは…………その」
もう気付かれてしまった。
ロナにこれを切り抜ける上手な嘘は期待できそうにない。
だが、その声の主は予想と反する言葉を口にした。
「別に隠さなくてもいいのよ。わかってるもの」
「え? えぇ……? そう……なのですか?」
クローゼットに潜む哲も驚いて物音を立ててしまった。隙間から見えるアリスがこちらを一瞥したような気がしたが、話を続けた。
「ええ。あなたがいつも夜遅くまで起きているのは、離れの保守を一人でやらされて時間が掛かってるだけ、とみんな言うけれど」
「私はただ……星を見るのが好きなだけで」
「そう?」
「はい……それだけです」
「ふぅん」
「あの……お嬢様、一体何の御用で……?」
それを無視してアリスは意地悪な笑みを湛えてこう言い放った。
「そこに隠れているのは、ロナ。あなたの良い人でしょう?」
ガタン、と取り返しのつかない音を立てたクローゼットを気まずそうに視界の端に捉えながら、ロナはしどろもどろで弁解を試みようとする。
「ち、ちが……違います、はい。彼は……うぅ……」
説明の許可を求める視線を感じるが、哲もそこは譲らない。完全に手遅れだがそれでも沈黙を貫き、自分からは出ない意思を表明する。
「違うのなら何? 泥棒さん? なら放っておくわけにはいかないわよね」
「そ、その人は……」
ロナが口を割りそうになった瞬間、はいはいというため息が漏れた。
「もういいわ。言い辛いものね。そういうことって」
「え……?」
「私は構わないけれど、立場というものがあるから。私も黙っててあげるからね、みんなには逢引きのことは内緒にするのよ」
「え……はい」
どうやらアリスの確信はロナが恋人を連れ込んだという誤解だったらしい。このまま姿を見せずに済みそうな展開にひとまず安心する。
「それでね。ロナ、私……あなたに相談したくて来たの。そこの彼は秘密が守れる人?」
「…………」
完全に存在が知られている上で潜み続けるのも妙な気分である。
「声くらい聞かせてくれたっていいじゃない。恥ずかしがり屋さんなのかしら」
「あの、……大丈夫だと思います。彼なら」
「そう? あなたがそこまで信用しているのなら平気ね。……なら、聞いてくれる?」
「はい。でもそれはやはり……?」
「ええ。明日のこと」
「…………」
視線を外したロナの顔には気まずそうな色が窺える。その理由は次の言葉で明らかになった。
「お嬢様は……ご結婚されるんですから。小さな迷いは必ずあるものだと思います」
「!」
――結婚?
アリスが? 誰と?
いや、それ以前に結婚ということは……。
自分はもう必要とされていない、ということではないか。
打ちひしがれる哲の耳にアリスの声だけが届けられる。
「でもね……。確かにレアード氏は素晴らしい相手だわ。あそこに嫁げば、私にとって、ひいてはシリルにも良いことがたくさんある。でも……」
「……まだ彼のことを?」
「ええ。……もう忘れなければいけないのかもしれないけれど。あの嘘つき。三年間も待ったのに」
その言葉に哲は顔を上げた。アリスが言っているのは自分のことだ。
今、ここから出るべきではないか――と、ついに扉に手を掛けた。
だが、そのあとの一言に動けなくなる。
「でもね、もうどうでもいい。吹っ切れたの」
「――――」
「お嬢様……!」
言わなければ、言わなければ、とロナの胸中が聞こえてきそうだ。
「ごめんなさいね。誰かに自分の本当の気持ちを打ち明けたかったの。そうすれば気も楽になるし、もう迷うことも無くなるから……」
「お嬢様、あの……!」
「なに?」
「も、もしも……彼が今になって帰ってきたら……どうされますか?」
その問いの意図が理解できないアリスは馬鹿馬鹿しい、という態度で答えた。
「…………? ありえないわね。もしもの話は飽きるくらい考えたけど。その分の悪口を言って追い返すくらいかしら。それがせめてあと一年も早かったら……受け入れられたかもしれない。でも、これ以上待つのはもう止めることにしたの」
それがとどめだった。
「ありがとう、ロナ。あなたに話して良かったわ。それじゃあ、明日はお願いね。おやすみなさい」
本館に戻るアリスを玄関まで見送ったロナは、部屋に戻るなり乱暴にクローゼットを開け放った。
「それでいいんですか?」
「…………」
強気なロナを初めて見た気がする。哲は口を真一文字に引き結んで黙った。自分に弁解の余地はない。
「そんなに意気地の無い方だとは思いませんでした」
「…………」
三年の時間がどれだけ大きなものかを改めて知る。あの気が弱く人の良かったロナでさえ、こんな気丈な物言いが出来るようになっている。
ともすれば、アリスはどんな時間を過ごしたのか。幼いほどに時間は長く感じるもの。
すぐに迎えに行くと約束しておきながら、一週間経っても一か月が経っても、一年が過ぎても帰ってこなかった自分にどんな想いを抱いているのか。それすらも、もう消えかけているのだろう。
「……俺が今さらアイツの前に出て、ただいまなんて言ってみろ。邪魔なだけに違いない」
「…………! あなたという人は、そんな卑屈な考えをする人ではありませんでした!」
「俺は変わっていない。そう思うのは君が変わったんだろう」
「…………っ!」
ぱしん、と平手の音が部屋に響いた。
「おかしいのはあなたです! 三年前のあなたはいきなりこの家にやってきて、旦那様を借金から救ってくださって、知らない世界のおもしろいモノをたくさん見せてくれたあなたはそんな人ではありませんでした! 危険な目に遭うとわかっていながらレティクに行くと言った時もずっと前向きで……っ、かっこいい人だったのに……!」
涙を滲ませた瞳で息を切らせながら、胸のポケットから一枚の紙を取り出した。いや、ただの紙ではなかった。
「それは……」
「これに映ったあなたを私がどんな気持ちで待っていたかわかりますか!? お嬢様があんな言い方をしたのも当然です! それを何が、邪魔なだけ、ですか!? 怒られるだけのことをしたのなら謝ればいいじゃないですか! ただいまなんて、そのあとからでもいいじゃないですか…………っ」
「…………」
よれよれになった写真と当時の思い出を重ねてロナは何を想ったのか。
「すまなかった……」
それでも貫くような眼つきは相変わらず哲を穿った。
「まず、お嬢様にちゃんと会って打ち明けて下さい。今からではもう本館には入れません。明日、ご自分でけじめを付けることをお願いします」
その晩、哲は離れで一夜を明かした。
どうすることが最善で、ベストなのか。明確な答えの出ないまま、あっという間に夜は更けていった。
最後の一山が近づいてきました。最後くらいまた挿絵つけるかな。前よりはマシな奴を。




