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婚約解消の決闘なのに、婚約者が私を勝たせるために鍛えてきます

掲載日:2026/09/18

 いつでもない、どこでもない、そんな世界のお話。


 婚約者が、私と別れるための剣を二本持ってきた。


「軽いほうをどうぞ」

「確認いたしますけれど」


 私は差し出された練習用の木製の模擬剣と、その持ち主の顔を交互に見た。


「あなたから一本取れたら、婚約を解消する。そういう決闘ですよね?」

「はい。だから、その握り方では指を痛めます」


 ルーク様は自分の剣を持ち直し、指を一本ずつ開いて、柄の握り方を見せてくださった。

 腹が立つほど分かりやすい。


「……わざと負けるおつもりですか」

「いいえ。君が勝てるように教えに来ました」


 庭の木陰で、父がお茶を飲んでいる。

 わざわざ運ばせた肘掛け椅子に深く腰を下ろし、実に満足そうだ。二週間後にも同じ顔で座っているつもりなのだろう。


 ことの始まりは、昨日のお茶会だった。


 三週間前、十九歳の私は、父から婚約を告げられた。

 相手は騎士のルーク様。二十二歳。父が昔からよく知っている家の次男で、腕も人柄も申し分ないという。


 実際、お会いしたルーク様は礼儀正しかった。

 私の話を遮らず、茶器を乱暴に扱わず、侍女にもきちんと礼を言う。黒髪は短く整えられ、軍服には皺ひとつない。


 その方との結婚について、私が一度も返事をしていないことを除けば、申し分のない縁談だった。


「気に入らないところがあるのか、エリナ」


 昨日のお茶会で、婚約を解消したいと告げると、父はそう尋ねた。


「あります。私の返事を誰も聞かなかったところです」

「おまえのために選んだんだぞ」

「では、私にも選ばせてください」


 父の眉間に皺が寄った。


 父は、私のために何かを選ぶのが好きだ。

 ドレスも、馬車の行き先も、客に出す私の好物も。

 ちなみに父が客に出す薔薇の砂糖菓子は、私の好物ではない。好きではないと言ったら、もっと上等な店から買ってくるようになった。


「世間のことも知らず、自分の身も守れない娘に、何もかも任せられるか」

「では、身を守れればよろしいのですね」

「ルークから一本でも取れるなら、おまえの判断に任せてもいいがな」

「婚約の解消も、その後の相手選びも?」

「ああ」


 父は笑っていた。

 私は、同席していたルーク様を見た。


「お聞きになりましたね」


 ルーク様は、笑わなかった。


「聞きました」


 こうして決まったのが、この決闘である。

 国の法律でも、伯爵家の由緒ある習わしでもない。父が人前で言ってしまっただけだ。

 ただし父には、一度した約束は守るという、たいへん結構な長所がある。


 ルーク様が提案した試合の条件は、彼の左の上腕につけた赤い標的へ、五分以内に一度でも模擬剣を当てること。

 三メートル四方の区画からは出ない。双方とも防具をつける。突きと組み付きは禁止。ルーク様は打ち返さず、防御と足運びだけで私の攻撃を避ける。


「強く打つ必要はありません。布にかすっても一本です」


 剣を押し合う必要はなく、打ち返される心配もない。彼も、区画の外まで逃げ続けることはできない。

 この方より強くなるのではなく、この条件で一度だけ届かせる。それが、私の勝ち方だった。


 父はそれでも、私には無理だと考えたらしい。

 二週間の練習期間を認めたうえ、ルーク様が先生を務めるという申し出にまで、気前よく頷いた。


「妙な気を起こして、わざと当てさせてはいかんぞ」


 木陰から念を押され、ルーク様が頷く。


「そのつもりはありません」


 そして、本当に、一度も当てさせてくれなかった。


 上から振れば、横へ流される。

 横から振れば、一歩で避けられる。

 勇気を出して踏み込めば、赤い布はするりと逃げ、私は何もないところへ剣を差し出すことになる。


 五分が終わるころには、息が切れ、腕は自分のものではないように重かった。

 ルーク様の呼吸は、最初とまったく変わっていない。


「いまの私に、何か良かったところはありますか」

「途中で標的から目を離さなかった」

「そこですか」

「大事なことです。次は、腕だけで届かせようとしないこと」


 私が構え直すと、彼は手を伸ばしかけて止めた。


「肘の位置を直しても?」


 頷くと、手袋をした指が、肘をほんの少し下げた。

 肩の力が抜けた。


「この位置を覚えてください」


 私は肘よりも、その前の一言を覚えてしまった。

 触れてもいいかと、聞かれたことを。


「……私が負けたら、予定どおり結婚するのですか」


 父がお茶のおかわりを頼んでいる隙に、小声で尋ねた。


「君が望まないなら、私は結婚しません。試合の結果にかかわらず」


 返事に、ためらいはなかった。


「君も承諾していると伺っていました。……私から確かめるべきでした。申し訳ありません」


 彼は私に頭を下げた。


「では、あなたから婚約を断ってくだされば」


 言いかけて、口を閉じる。

 それでは父が、次の相手を見つけてくるだけだ。


 ルーク様は、私の言葉の続きを待っていた。


「……いいえ。この約束で、父に認めてもらいたいのです」

「では、一本を取りましょう」


 彼は左腕の赤い布を指で叩いた。


「二週間で騎士にはできません。でも、五分のうちに一度、ここへ届かせる方法なら、一緒に考えられます」


 私は剣を握り直した。


 自分の婚約を終わらせる相談なのに、この人はずいぶん真剣だった。


     *


 翌朝、私は寝台から起き上がるとき、自分の腕に裏切られた。

 布団が重い。

 髪を梳かす櫛も重い。

 朝食のスプーンまで、私の婚約解消に反対していた。


 庭に出ると、ルーク様が私の歩き方を見て言った。


「今日は剣を振るのを減らしましょう」

「まだ痛いとは申し上げていません」

「さっきから、一度も腕が揺れていませんでした」


 よく見ている。

 できれば、私が彼の左腕を見ている間に、そのくらいの隙を作ってほしい。


 その日は、地面に引いた線を使って足を動かした。

 一歩出る。後ろの足を寄せる。離れる。

 最初のうちは、足元ばかり気になった。


「下を見ると、相手が動いたのを見落とします」

「見なければ、足がどうなっているのか分かりません」

「ゆっくりでいい。剣はまだ持たなくて構いません」


 剣がなければ、少しましだった。

 けれど持った途端、腕が先に飛び出して、足が置き去りになる。


 三日目も、四日目も、赤い布には届かなかった。


「惜しい、と言ってくださってもいいのですよ」

「いまのは、半歩ぶん遠かった」

「励ましのお願いです」

「半歩なら、直せます」


 そう言われると、もう一度だけ試したくなった。


 五日目、思い切って斜めに踏み出したときだった。

 慣れない動きに体が傾いたので、舞踏のときと同じように、残った足を引き寄せた。


 剣が、いままでより少し前へ出た。


 かつん、と木の音がする。

 ルーク様が、さっと剣を跳ね上げた。


「いまのは届く」


 私は顔を上げた。


「でも、防がれました」

「防がなければ、当たっていました」


 ルーク様は剣を下ろし、私の足元を見た。


「いまの動き、もう一度できますか」

「舞踏の足運びなのです。体が傾いたので、つい」

「なるほど。足が交差しないように、少し小さくしてみましょう」


 私は同じ動きを繰り返した。

 今度は剣を持たず、その次は持って。

 何度目かに、腕と足が一緒に進む感覚が分かった。


「あ」

「そう。それです」


 ルーク様が笑った。

 お茶会で見た、口の端だけを上げる笑顔ではなかった。


 できるようになったのは私なのに、どうしてこの人が、こんなに嬉しそうなのだろう。


「もう一度、お願いします」


 私は自分から、剣を構えた。


 その日から稽古は、少し忙しくなった。

 届くようになった剣は、今度はことごとく防がれた。

 振り方を変えれば、足が止まる。


 直すことは次々に見つかった。

 それなのに、帰りたいとは思わなかった。


 八日目、休憩を告げられても、私は剣を下ろさなかった。


「あと一度だけ」

「それで三度目です」

「今度こそ、という気がします」

「では、その気を休憩のあとまで取っておいてください」


 彼は私から剣を取り上げる代わりに、自分の剣を先に地面へ置いた。

 勝手に始めるわけにもいかず、私も置く。


 木陰のベンチで隣に腰を下ろすと、紙袋を差し出された。


「途中で買いました。胡桃と蜂蜜のパンです。お好きですか」

「好きです」


 答えてから、なんだか可笑しくなった。


「どうかしましたか」

「私の好物を、私に聞いてくださったので」


 紙袋を開くと、香ばしい匂いがした。

 丸いパンが二つ入っている。

 私はひとつを取り、もうひとつを彼に渡した。


「ルーク様もお好きなのですか」

「非常に」


 返事が、いつもより速かった。


「薔薇の砂糖菓子より?」

「あれは、少し……」

「石鹸を食べている気がしませんか」


 ルーク様がパンを持ったまま、顔を背けた。

 肩が震えている。


「笑ってはいけません。父は、私のために高い石鹸を探しているのです」

「君が先に言ったんでしょう」


 とうとう声を出して笑われた。

 私も笑ってしまった。


 笑いが収まるころには、彼の膝に胡桃の欠片が落ちていた。

 皺ひとつなかった軍服の人が、今日は稽古着の袖をまくり、パンを食べながら胡桃を拾っている。


「笑う方だったのですね」


 口にすると、彼がこちらを見た。


「それは、私も思っていました」

「私、お茶会でも笑っておりましたよ」

「私もです」


 目が合った。

 今度は二人とも、すぐに笑った。


 その午後、私はいつもの歩幅で三度攻めてから、一度だけ踏み込む間を遅らせた。

 剣は防がれたけれど、ルーク様の足が半歩、余計に動いた。


「いま、何を変えました?」

「内緒です」


 初めて、そう答えた。


 彼は少し驚き、それから、楽しそうに剣を構え直した。


     *


 試合まであと四日という朝、父が言った。


「ずいぶん仲良くなったようだな」


 庭へ向かう途中だった。

 私は足を止めた。


「よいことだ。婚約を取り消すなどと言わず、このまま――」

「試合は、します」


 思ったより強い声が出た。

 父が目を丸くする。


「そこまで言わんでもいいだろう」

「約束ですから」


 そう答えて、私は庭へ出た。


 ルーク様が、二本の剣を並べていた。

 私のものは、柄に布が巻き足してある。少し緩んだと昨日話したところだった。


 彼が顔を上げる。


「おはようございます。今日は、どうしますか」


 私はすぐに答えられなかった。


 剣の握り方を覚えた。

 届く距離も、足の運びも、少しだけ分かった。

 彼が蜂蜜のパンを好きなことも、笑うと案外止まらないことも覚えた。


 あと四日で、これが終わる。


 勝ったら、終わる。


「エリナ様?」

「今日は、試合と同じ形でお願いします」


 防具をつける手元を見られないように、私は少し横を向いた。


 その日の私は、ひどかった。


 せっかく身についたはずの足運びが乱れる。

 近づけたと思うと、そこでためらう。

 気づくとその顔を見ていて、目が合いそうになると慌てて逸らした。


 三度続けて、同じ場所で剣を防がれた。


「いったん止めましょう」


 ルーク様が剣を下げた。


「腕は痛みますか」

「いいえ」

「では、何を見ていました?」


 あなたの顔です。

 そんなことは、言えない。


「……勝ったあとのことを、考えていました」


 彼は何も言わずに待った。

 その待ち方にも、私はすっかり慣れてしまった。


「勝ったら、もう、稽古に来ていただく理由がなくなるのですね」


 口にした瞬間、逃げ出したくなった。

 私は下を向き、柄に巻かれた布の端を親指で押さえた。


 少しして、ルーク様が答えた。


「この稽古は、終わりますね」


 声は優しかった。

 優しいから、困った。


「……あなたは、平気なのですか」


 彼の手が、左腕の赤い布に触れた。

 結び目を確かめるような、短い動きだった。


「寂しくはなります」


 私は顔を上げた。


「なら、どうして」

「寂しくならないために教えなかったら、君は今日も、この布に届かないままです」


 彼は苦笑した。


「それを喜べるほど、器用ではないので」


 返す言葉がなかった。


 ルーク様は、私のために用意した剣を見ていた。

 私がうまくなれば嬉しそうに笑う人だ。

 明日は来ないでほしいと、一度も思わせなかった人だ。


 この人と、明後日も会いたい。

 四日後も、その次の休日も。


 私は、はっきりそう思った。


「もう一度、お願いします」


 剣を上げた。


「今度は、腕を見ます」

「さっきは、どこを?」

「内緒です」


 彼が小さく笑った。

 笑わせておいて、私はその左腕を狙った。

 きちんと防がれた。


 ただ、今度はその先も見ていた。


 私の剣を外へ流したあと、彼は一歩で姿勢を戻す。

 区画の端へ追われても、できるだけ中央へ。

 右へ避けても、左へ逃げても、余裕を作ると、中央へ戻る。


 それは、足を自由に動かせる場所を保つための、彼にとって自然な動きだった。


 ただ、私の剣を大きく外へ流したときだけ、戻り始めた赤い布と、彼の剣の間が空く。

 ほんの一瞬。こちらが振りかぶり直しているうちに、その隙間は閉じてしまう。


 私は、赤い布を追いかけてばかりいた。

 その布が、次にどこへ来るかは考えずに。


 また攻めた。

 また防がれた。

 彼が戻る場所を見た。


 もう一度。


 確信には足りない。

 けれど、いつもより少しだけ早く、彼が来る場所が分かった。


 その夜、寝室の敷物の上に、紐で小さな四角を作った。

 剣の代わりに、畳んだ扇を持つ。


 一歩。剣を防がれる。

 ここで腕を大きく戻してしまうと、次の攻撃が遅い。

 足を寄せ、扇を振りかぶらずに、小さく横へ返す。

 相手を追うのではなく、戻ってくる場所へ。


 何度か試すと、腕だけで急ごうとして、足がもつれた。

 やり直す。


 舞踏の先生に習ったように、頭の中で拍子を数えた。

 けれど最後は、相手の次の一歩に合わせる。


 ルーク様から教わっていない動きが、少しずつ形になってきた。

 できたからといって、彼に当たるとは限らない。

 何しろ私は、まだ一度も当てていないのだ。


 それでも、彼に見せたいと思った。

 見せたときに、驚いてほしい。


 その次に、あの笑い方をしてほしかった。


 試合の前日、最後の稽古でも、一本は取れなかった。

 私は新しく考えた動きだけは試さず、必要な足運びを何度も確かめた。


 ルーク様が二本の剣を袋へ収める。


「今夜は、もう振らないように」

「分かりました」

「考えついたことも、明日まで取っておいてください」


 私は目を瞬いた。


「……何のことですか」

「このところ、私の足を見て、嬉しそうな顔をなさるので」


 頬が熱くなった。

 勝ち方を考えていたときだけではない気がする。

 そこは気づかないでいただきたい。


「先生に報告しなくてもよいのですか」

「明日は、対戦相手ですから」


 彼は袋の口を結んだ。


 私も頷いた。


「では、明日。ちゃんと防いでくださいね」

「ちゃんと当てに来てください」


     *


 試合の日、父の椅子は、庭のいちばん見晴らしのよいところに置かれていた。

 その隣に、父の旧友である退役騎士が立っている。今日の審判だ。

 時間を計る執事と、少し離れて見守る侍女たち。


 私の人生を決めるにしては、ずいぶんこぢんまりした催しだった。


 いえ。

 決めるのは、私だ。


 防具の紐を確かめ、面を下ろす。

 格子の向こうで、ルーク様が左腕の赤い標的を見せた。

 私の剣の縁には、接触を確認しやすいよう白墨が塗られている。


「五分。一度でも赤い布に当たれば、エリナ嬢の勝ちとする」


 審判の確認に、私たちは頷いた。


 ルーク様は、いつもの構えを取った。

 知っている構えだった。

 それだけで、息が少し楽になった。


「始め」


 私は踏み込んだ。


 最初の一撃は、あっさり外へ流された。

 そのまま足を寄せて、角度を変える。

 今度は剣の腹で止められた。


 硬い音がして、腕に重さが返ってくる。


 父の前だからといって、ルーク様は私を褒めなかった。

 打ち損じた理由も教えてくれない。

 私が息を整えている間も、隙を見せずにこちらを見ている。


 本当に、対戦相手だった。


 私は右へ動いた。

 彼も動く。

 足を止めずに一度、二度。

 剣を小さく返して、赤い布を狙う。


 届く。

 けれど、届くところには、必ず彼の剣があった。


 何度防がれたか、途中から数えるのをやめた。


 うまくなったのだと思う。

 二週間前の私は、こんなに何度も、彼に剣を使わせることはできなかった。


 でも、うまくなっただけでは足りない。

 今日は、当てなければ。


「二分経過」


 執事の声がする。


 まだ三分。

 もう二分。


 息が上がってきた。

 防具の内側が暑い。

 額を伝う汗を拭きたかったが、目の前の人から視線を外せなかった。


 私は少し離れた。

 剣を下げずに呼吸を整える。


 ルーク様は追ってこない。

 そういう条件だ。

 この時間だけは、私が選べる。


 焦って腕から出すな。

 大きく振り回すな。

 当たらなかった場所に、いつまでも剣を残すな。


 教わったことを、一つずつ思い出した。


 私はもう一度、攻めた。


 彼の左腕へ向けて振る。

 剣を外へ流され、返した一撃も止められる。

 それでも足を止めず、少しずつ区画の端へ寄せていく。


 ルーク様が横へ抜け、中央へ戻ろうとした。

 赤い布と剣の間が、一瞬だけ開いた。


 見えた。


 けれど、そこから剣を返しても遅かった。

 私の剣が届く前に、彼の構えが整った。

 硬い音とともに、また外へ弾かれる。


 遅い。

 見えてから振り始めては、間に合わないのだ。


「残り一分」


 父の茶器が鳴った。

 そちらを見ている暇はなかった。


 私はまた踏み込んだ。

 斜めに出る。

 足を寄せる。

 一度、二度と攻め、彼を区画の端へ寄せる。


 もう一度、赤い布を狙った。


 彼の剣が、私の剣を大きく外へ押し流した。

 柄を通して、強く押し返される力が伝わる。

 私は押し返そうとせず、後ろの足を引き寄せた。


 次に戻ってくる場所は、もう分かっていた。


 剣が離れた瞬間、私は振りかぶらず、小さく横へ返した。

 狙ったのは、まだ赤い布のない場所。

 彼の次の一歩で、その布が通るところ。


 彼が、中央へ戻ろうと踏み出す。


 ルーク様の目が動いた。


 彼の剣が戻ってくる。

 間に合ってしまう、と思った。

 また防がれる、と。


 それでも狙いを変えず、踏み込む足に合わせて剣を振り抜いた。


 こつん。


 白墨を塗った縁が、赤い布をかすめた。

 手元に、小さな感触があった。


 ほとんど同時に、彼の剣が私の剣を弾いた。

 両腕が外へ振られる。

 けれど柄は離さなかった。

 踏み直した足も、白線の内側にあった。


「一本!」


 審判の声がした。


 私は動けなかった。


 ルーク様も、一瞬だけ動かなかった。

 左腕を見た。

 赤い布の上に、細い白い線がついていた。


「そこですか……」


 面越しに、息を吐く声が聞こえた。


 その声が少し悔しそうだったので、私はようやく、自分が当てたのだと分かった。


「いつも、真ん中へ戻るから」


 息が足りなくて、言葉が途切れた。


「追うより……戻る先を、狙おうと」


 彼が面を上げた。

 眉を寄せ、もう一度、自分の腕を見る。


「戻るところまで、見られていたんですね」


 それから、私を見た。


 あの笑い方だった。


「見事です」


 私は笑おうとした。

 けれど息がうまく吸えなくて、変な顔になった。


「勝ちました?」

「はい」

「私が?」

「君が」


 剣を持った手が震えた。

 重くなったからだけではなかった。


 ルーク様は、私の剣を取り上げなかった。

 私が自分で下ろすまで、そこで待っていた。


     *


 父は、いつの間にか椅子から立ち上がっていた。

 私は面を外し、乱れた髪を耳に掛けた。


「お父様」

「ああ」

「約束を」


 父はルーク様を見た。

 ルーク様は、赤い布の白い線を隠さなかった。


 やがて父は、私へ向き直った。


「婚約は解消する。今後の相手選びも、おまえに任せよう」


 言ったあと、長いため息をついた。


「……まさか、当てるとはな」

「よい先生を選んでくださいましたから」


 父が口を開き、閉じた。

 横でルーク様が咳払いをした。笑うのを我慢しているのが、私には分かった。


 その日の午後、解消の書面ができた。

 父とルーク様、それから私が署名した。

 両家の親族へ知らせを出すよう、父が執事に命じる。


 私の知らないところで決まった婚約が、私の目の前で終わった。


「ただし、心配はするからな」


 父はペンを置きながら言った。


「それは、どうぞ」

「意見も言う」

「聞きます。返事は、私がします」


 父は渋い顔で頷いた。

 いきなり何もかも変わるわけではないのだろう。

 それでも、私の返事を待ってくれた。


 窓の外では、庭の椅子が片づけられていた。


 ルーク様が立ち上がる。


「では、私はこれで」


 私は椅子の肘掛けを握った。

 疲れた腕が、少し痛んだ。


 まだ、終わっていない。


「お待ちください」


 彼が振り返る。

 私は父を見た。


「お父様。少し、二人でお話をしても?」


 父は何か言いかけ、それから、机の上の書面へ目を落とした。


「……分かった」


 書面を持って出ていく。

 扉が閉じた。


 初めてルーク様にお会いしたお茶会より、ずっと緊張した。

 いまは、お茶会ですらない。

 ただ私が、自分で引き留めただけだ。


「ルーク様」

「はい」

「次のお休みに、私と出かけてくださいませんか」


 彼が、返事をしなかった。


 試合ではあれだけ素早く動いていた人が、まるで動かない。

 私は慌てて続けた。


「稽古ではありません。剣も、防具も、いりません。あのパンのお店へ、今度は私も行きたいのです。そのあと、川沿いを歩いて……」


 そこで息を吸った。

 勝負の途中より、呼吸が難しい。


「あなたと、二人で」


 ルーク様が、ゆっくり瞬きをした。


「……婚約は、解消したばかりですが」

「はい。ですから、今度は私の申し込みです」


 手のひらが汗ばんでいる。

 剣の柄がないと、どこへ力を入れたらいいのか分からない。


「あなたに会いたいのです。婚約者だからではなく、剣を教えていただくためでもなく」


 顔を上げた。


「好きになったので」


 言えた。


 言えたけれど、彼はまだ黙っている。

 もしかして私は、とんでもない思い違いをしていたのだろうか。

 親切な先生だっただけの人に、困ることを言ってしまったのでは。


「……お返事をいただけますか」


 ルーク様は、片手で口元を覆った。


「すみません。望んでいたことが、一度に起きたので」


 指の隙間から見える頬が赤かった。


「私も、君が好きです。ぜひ、一緒に出かけてください」


 私は、ようやく息を吐いた。


「そんなに望んでいらしたなら、もう少し当てやすくしてくださっても」

「ちゃんと防ぐよう、言われましたので」


 そうだった。

 私が言ったのだった。


 二人で笑った。


「ひとつだけ、聞いてもよろしいですか」


 ルーク様が言った。


「四日前、稽古中に見ていたものは?」


 意地が悪い。

 もう先生ではないのに、答え合わせを求めてくる。


「あなたのお顔です」


 私が答えると、彼はさっきより赤くなった。

 どうやら剣より、こちらのほうが当たりやすいらしかった。


     *


 次の休日、ルーク様は剣を持たずに迎えに来た。


 稽古着でも軍服でもない、濃紺の上着を着ていた。

 私も今日はドレスだった。父が用意していた淡い桃色ではなく、自分で選んだ青いもの。


「お待たせしました」

「いえ。……よくお似合いです」


 その一言で、庭を一周走るより心臓が忙しくなった。


 あのパン屋へ行き、胡桃と蜂蜜のパンを二つ買った。

 店先でルーク様は、それとは別に、小さな焼き菓子の棚を真剣に見ていた。


「非常に、お好きなのでしたね」

「はい」

「一つずつ買って、半分にしませんか」


 彼がこちらを見た。


「その提案には、弱いです」


 剣ではあんなに隙がなかったのに。


 紙袋が一つ増え、私たちは川沿いの道を歩いた。

 庭の三メートル四方とは違って、どこまでも行けそうな道だった。

 急いで踏み込む必要も、次にどこへ戻るのか読む必要もない。


 隣の人が、私の歩幅に合わせている。

 私は少しだけ、彼のほうへ寄った。


 道が石橋へ続くところで、ルーク様が空いている手を差し出した。


「手を、お借りしても?」


 あの庭で、肘に触れる前に止まった手を思い出す。

 今日も、その手は私の返事を待っていた。


 剣を持たないその手を、今度は私から取った。


(了)

お読みいただき、ありがとうございました。


剣ではなかなか隙を見せないルークも、エリナの言葉には防御が間に合わなかったようです。


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だ、だれか……ぶらっくこーひーをはやく……(口から砂糖をはきながら
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