婚約解消の決闘なのに、婚約者が私を勝たせるために鍛えてきます
いつでもない、どこでもない、そんな世界のお話。
婚約者が、私と別れるための剣を二本持ってきた。
「軽いほうをどうぞ」
「確認いたしますけれど」
私は差し出された練習用の木製の模擬剣と、その持ち主の顔を交互に見た。
「あなたから一本取れたら、婚約を解消する。そういう決闘ですよね?」
「はい。だから、その握り方では指を痛めます」
ルーク様は自分の剣を持ち直し、指を一本ずつ開いて、柄の握り方を見せてくださった。
腹が立つほど分かりやすい。
「……わざと負けるおつもりですか」
「いいえ。君が勝てるように教えに来ました」
庭の木陰で、父がお茶を飲んでいる。
わざわざ運ばせた肘掛け椅子に深く腰を下ろし、実に満足そうだ。二週間後にも同じ顔で座っているつもりなのだろう。
ことの始まりは、昨日のお茶会だった。
三週間前、十九歳の私は、父から婚約を告げられた。
相手は騎士のルーク様。二十二歳。父が昔からよく知っている家の次男で、腕も人柄も申し分ないという。
実際、お会いしたルーク様は礼儀正しかった。
私の話を遮らず、茶器を乱暴に扱わず、侍女にもきちんと礼を言う。黒髪は短く整えられ、軍服には皺ひとつない。
その方との結婚について、私が一度も返事をしていないことを除けば、申し分のない縁談だった。
「気に入らないところがあるのか、エリナ」
昨日のお茶会で、婚約を解消したいと告げると、父はそう尋ねた。
「あります。私の返事を誰も聞かなかったところです」
「おまえのために選んだんだぞ」
「では、私にも選ばせてください」
父の眉間に皺が寄った。
父は、私のために何かを選ぶのが好きだ。
ドレスも、馬車の行き先も、客に出す私の好物も。
ちなみに父が客に出す薔薇の砂糖菓子は、私の好物ではない。好きではないと言ったら、もっと上等な店から買ってくるようになった。
「世間のことも知らず、自分の身も守れない娘に、何もかも任せられるか」
「では、身を守れればよろしいのですね」
「ルークから一本でも取れるなら、おまえの判断に任せてもいいがな」
「婚約の解消も、その後の相手選びも?」
「ああ」
父は笑っていた。
私は、同席していたルーク様を見た。
「お聞きになりましたね」
ルーク様は、笑わなかった。
「聞きました」
こうして決まったのが、この決闘である。
国の法律でも、伯爵家の由緒ある習わしでもない。父が人前で言ってしまっただけだ。
ただし父には、一度した約束は守るという、たいへん結構な長所がある。
ルーク様が提案した試合の条件は、彼の左の上腕につけた赤い標的へ、五分以内に一度でも模擬剣を当てること。
三メートル四方の区画からは出ない。双方とも防具をつける。突きと組み付きは禁止。ルーク様は打ち返さず、防御と足運びだけで私の攻撃を避ける。
「強く打つ必要はありません。布にかすっても一本です」
剣を押し合う必要はなく、打ち返される心配もない。彼も、区画の外まで逃げ続けることはできない。
この方より強くなるのではなく、この条件で一度だけ届かせる。それが、私の勝ち方だった。
父はそれでも、私には無理だと考えたらしい。
二週間の練習期間を認めたうえ、ルーク様が先生を務めるという申し出にまで、気前よく頷いた。
「妙な気を起こして、わざと当てさせてはいかんぞ」
木陰から念を押され、ルーク様が頷く。
「そのつもりはありません」
そして、本当に、一度も当てさせてくれなかった。
上から振れば、横へ流される。
横から振れば、一歩で避けられる。
勇気を出して踏み込めば、赤い布はするりと逃げ、私は何もないところへ剣を差し出すことになる。
五分が終わるころには、息が切れ、腕は自分のものではないように重かった。
ルーク様の呼吸は、最初とまったく変わっていない。
「いまの私に、何か良かったところはありますか」
「途中で標的から目を離さなかった」
「そこですか」
「大事なことです。次は、腕だけで届かせようとしないこと」
私が構え直すと、彼は手を伸ばしかけて止めた。
「肘の位置を直しても?」
頷くと、手袋をした指が、肘をほんの少し下げた。
肩の力が抜けた。
「この位置を覚えてください」
私は肘よりも、その前の一言を覚えてしまった。
触れてもいいかと、聞かれたことを。
「……私が負けたら、予定どおり結婚するのですか」
父がお茶のおかわりを頼んでいる隙に、小声で尋ねた。
「君が望まないなら、私は結婚しません。試合の結果にかかわらず」
返事に、ためらいはなかった。
「君も承諾していると伺っていました。……私から確かめるべきでした。申し訳ありません」
彼は私に頭を下げた。
「では、あなたから婚約を断ってくだされば」
言いかけて、口を閉じる。
それでは父が、次の相手を見つけてくるだけだ。
ルーク様は、私の言葉の続きを待っていた。
「……いいえ。この約束で、父に認めてもらいたいのです」
「では、一本を取りましょう」
彼は左腕の赤い布を指で叩いた。
「二週間で騎士にはできません。でも、五分のうちに一度、ここへ届かせる方法なら、一緒に考えられます」
私は剣を握り直した。
自分の婚約を終わらせる相談なのに、この人はずいぶん真剣だった。
*
翌朝、私は寝台から起き上がるとき、自分の腕に裏切られた。
布団が重い。
髪を梳かす櫛も重い。
朝食のスプーンまで、私の婚約解消に反対していた。
庭に出ると、ルーク様が私の歩き方を見て言った。
「今日は剣を振るのを減らしましょう」
「まだ痛いとは申し上げていません」
「さっきから、一度も腕が揺れていませんでした」
よく見ている。
できれば、私が彼の左腕を見ている間に、そのくらいの隙を作ってほしい。
その日は、地面に引いた線を使って足を動かした。
一歩出る。後ろの足を寄せる。離れる。
最初のうちは、足元ばかり気になった。
「下を見ると、相手が動いたのを見落とします」
「見なければ、足がどうなっているのか分かりません」
「ゆっくりでいい。剣はまだ持たなくて構いません」
剣がなければ、少しましだった。
けれど持った途端、腕が先に飛び出して、足が置き去りになる。
三日目も、四日目も、赤い布には届かなかった。
「惜しい、と言ってくださってもいいのですよ」
「いまのは、半歩ぶん遠かった」
「励ましのお願いです」
「半歩なら、直せます」
そう言われると、もう一度だけ試したくなった。
五日目、思い切って斜めに踏み出したときだった。
慣れない動きに体が傾いたので、舞踏のときと同じように、残った足を引き寄せた。
剣が、いままでより少し前へ出た。
かつん、と木の音がする。
ルーク様が、さっと剣を跳ね上げた。
「いまのは届く」
私は顔を上げた。
「でも、防がれました」
「防がなければ、当たっていました」
ルーク様は剣を下ろし、私の足元を見た。
「いまの動き、もう一度できますか」
「舞踏の足運びなのです。体が傾いたので、つい」
「なるほど。足が交差しないように、少し小さくしてみましょう」
私は同じ動きを繰り返した。
今度は剣を持たず、その次は持って。
何度目かに、腕と足が一緒に進む感覚が分かった。
「あ」
「そう。それです」
ルーク様が笑った。
お茶会で見た、口の端だけを上げる笑顔ではなかった。
できるようになったのは私なのに、どうしてこの人が、こんなに嬉しそうなのだろう。
「もう一度、お願いします」
私は自分から、剣を構えた。
その日から稽古は、少し忙しくなった。
届くようになった剣は、今度はことごとく防がれた。
振り方を変えれば、足が止まる。
直すことは次々に見つかった。
それなのに、帰りたいとは思わなかった。
八日目、休憩を告げられても、私は剣を下ろさなかった。
「あと一度だけ」
「それで三度目です」
「今度こそ、という気がします」
「では、その気を休憩のあとまで取っておいてください」
彼は私から剣を取り上げる代わりに、自分の剣を先に地面へ置いた。
勝手に始めるわけにもいかず、私も置く。
木陰のベンチで隣に腰を下ろすと、紙袋を差し出された。
「途中で買いました。胡桃と蜂蜜のパンです。お好きですか」
「好きです」
答えてから、なんだか可笑しくなった。
「どうかしましたか」
「私の好物を、私に聞いてくださったので」
紙袋を開くと、香ばしい匂いがした。
丸いパンが二つ入っている。
私はひとつを取り、もうひとつを彼に渡した。
「ルーク様もお好きなのですか」
「非常に」
返事が、いつもより速かった。
「薔薇の砂糖菓子より?」
「あれは、少し……」
「石鹸を食べている気がしませんか」
ルーク様がパンを持ったまま、顔を背けた。
肩が震えている。
「笑ってはいけません。父は、私のために高い石鹸を探しているのです」
「君が先に言ったんでしょう」
とうとう声を出して笑われた。
私も笑ってしまった。
笑いが収まるころには、彼の膝に胡桃の欠片が落ちていた。
皺ひとつなかった軍服の人が、今日は稽古着の袖をまくり、パンを食べながら胡桃を拾っている。
「笑う方だったのですね」
口にすると、彼がこちらを見た。
「それは、私も思っていました」
「私、お茶会でも笑っておりましたよ」
「私もです」
目が合った。
今度は二人とも、すぐに笑った。
その午後、私はいつもの歩幅で三度攻めてから、一度だけ踏み込む間を遅らせた。
剣は防がれたけれど、ルーク様の足が半歩、余計に動いた。
「いま、何を変えました?」
「内緒です」
初めて、そう答えた。
彼は少し驚き、それから、楽しそうに剣を構え直した。
*
試合まであと四日という朝、父が言った。
「ずいぶん仲良くなったようだな」
庭へ向かう途中だった。
私は足を止めた。
「よいことだ。婚約を取り消すなどと言わず、このまま――」
「試合は、します」
思ったより強い声が出た。
父が目を丸くする。
「そこまで言わんでもいいだろう」
「約束ですから」
そう答えて、私は庭へ出た。
ルーク様が、二本の剣を並べていた。
私のものは、柄に布が巻き足してある。少し緩んだと昨日話したところだった。
彼が顔を上げる。
「おはようございます。今日は、どうしますか」
私はすぐに答えられなかった。
剣の握り方を覚えた。
届く距離も、足の運びも、少しだけ分かった。
彼が蜂蜜のパンを好きなことも、笑うと案外止まらないことも覚えた。
あと四日で、これが終わる。
勝ったら、終わる。
「エリナ様?」
「今日は、試合と同じ形でお願いします」
防具をつける手元を見られないように、私は少し横を向いた。
その日の私は、ひどかった。
せっかく身についたはずの足運びが乱れる。
近づけたと思うと、そこでためらう。
気づくとその顔を見ていて、目が合いそうになると慌てて逸らした。
三度続けて、同じ場所で剣を防がれた。
「いったん止めましょう」
ルーク様が剣を下げた。
「腕は痛みますか」
「いいえ」
「では、何を見ていました?」
あなたの顔です。
そんなことは、言えない。
「……勝ったあとのことを、考えていました」
彼は何も言わずに待った。
その待ち方にも、私はすっかり慣れてしまった。
「勝ったら、もう、稽古に来ていただく理由がなくなるのですね」
口にした瞬間、逃げ出したくなった。
私は下を向き、柄に巻かれた布の端を親指で押さえた。
少しして、ルーク様が答えた。
「この稽古は、終わりますね」
声は優しかった。
優しいから、困った。
「……あなたは、平気なのですか」
彼の手が、左腕の赤い布に触れた。
結び目を確かめるような、短い動きだった。
「寂しくはなります」
私は顔を上げた。
「なら、どうして」
「寂しくならないために教えなかったら、君は今日も、この布に届かないままです」
彼は苦笑した。
「それを喜べるほど、器用ではないので」
返す言葉がなかった。
ルーク様は、私のために用意した剣を見ていた。
私がうまくなれば嬉しそうに笑う人だ。
明日は来ないでほしいと、一度も思わせなかった人だ。
この人と、明後日も会いたい。
四日後も、その次の休日も。
私は、はっきりそう思った。
「もう一度、お願いします」
剣を上げた。
「今度は、腕を見ます」
「さっきは、どこを?」
「内緒です」
彼が小さく笑った。
笑わせておいて、私はその左腕を狙った。
きちんと防がれた。
ただ、今度はその先も見ていた。
私の剣を外へ流したあと、彼は一歩で姿勢を戻す。
区画の端へ追われても、できるだけ中央へ。
右へ避けても、左へ逃げても、余裕を作ると、中央へ戻る。
それは、足を自由に動かせる場所を保つための、彼にとって自然な動きだった。
ただ、私の剣を大きく外へ流したときだけ、戻り始めた赤い布と、彼の剣の間が空く。
ほんの一瞬。こちらが振りかぶり直しているうちに、その隙間は閉じてしまう。
私は、赤い布を追いかけてばかりいた。
その布が、次にどこへ来るかは考えずに。
また攻めた。
また防がれた。
彼が戻る場所を見た。
もう一度。
確信には足りない。
けれど、いつもより少しだけ早く、彼が来る場所が分かった。
その夜、寝室の敷物の上に、紐で小さな四角を作った。
剣の代わりに、畳んだ扇を持つ。
一歩。剣を防がれる。
ここで腕を大きく戻してしまうと、次の攻撃が遅い。
足を寄せ、扇を振りかぶらずに、小さく横へ返す。
相手を追うのではなく、戻ってくる場所へ。
何度か試すと、腕だけで急ごうとして、足がもつれた。
やり直す。
舞踏の先生に習ったように、頭の中で拍子を数えた。
けれど最後は、相手の次の一歩に合わせる。
ルーク様から教わっていない動きが、少しずつ形になってきた。
できたからといって、彼に当たるとは限らない。
何しろ私は、まだ一度も当てていないのだ。
それでも、彼に見せたいと思った。
見せたときに、驚いてほしい。
その次に、あの笑い方をしてほしかった。
試合の前日、最後の稽古でも、一本は取れなかった。
私は新しく考えた動きだけは試さず、必要な足運びを何度も確かめた。
ルーク様が二本の剣を袋へ収める。
「今夜は、もう振らないように」
「分かりました」
「考えついたことも、明日まで取っておいてください」
私は目を瞬いた。
「……何のことですか」
「このところ、私の足を見て、嬉しそうな顔をなさるので」
頬が熱くなった。
勝ち方を考えていたときだけではない気がする。
そこは気づかないでいただきたい。
「先生に報告しなくてもよいのですか」
「明日は、対戦相手ですから」
彼は袋の口を結んだ。
私も頷いた。
「では、明日。ちゃんと防いでくださいね」
「ちゃんと当てに来てください」
*
試合の日、父の椅子は、庭のいちばん見晴らしのよいところに置かれていた。
その隣に、父の旧友である退役騎士が立っている。今日の審判だ。
時間を計る執事と、少し離れて見守る侍女たち。
私の人生を決めるにしては、ずいぶんこぢんまりした催しだった。
いえ。
決めるのは、私だ。
防具の紐を確かめ、面を下ろす。
格子の向こうで、ルーク様が左腕の赤い標的を見せた。
私の剣の縁には、接触を確認しやすいよう白墨が塗られている。
「五分。一度でも赤い布に当たれば、エリナ嬢の勝ちとする」
審判の確認に、私たちは頷いた。
ルーク様は、いつもの構えを取った。
知っている構えだった。
それだけで、息が少し楽になった。
「始め」
私は踏み込んだ。
最初の一撃は、あっさり外へ流された。
そのまま足を寄せて、角度を変える。
今度は剣の腹で止められた。
硬い音がして、腕に重さが返ってくる。
父の前だからといって、ルーク様は私を褒めなかった。
打ち損じた理由も教えてくれない。
私が息を整えている間も、隙を見せずにこちらを見ている。
本当に、対戦相手だった。
私は右へ動いた。
彼も動く。
足を止めずに一度、二度。
剣を小さく返して、赤い布を狙う。
届く。
けれど、届くところには、必ず彼の剣があった。
何度防がれたか、途中から数えるのをやめた。
うまくなったのだと思う。
二週間前の私は、こんなに何度も、彼に剣を使わせることはできなかった。
でも、うまくなっただけでは足りない。
今日は、当てなければ。
「二分経過」
執事の声がする。
まだ三分。
もう二分。
息が上がってきた。
防具の内側が暑い。
額を伝う汗を拭きたかったが、目の前の人から視線を外せなかった。
私は少し離れた。
剣を下げずに呼吸を整える。
ルーク様は追ってこない。
そういう条件だ。
この時間だけは、私が選べる。
焦って腕から出すな。
大きく振り回すな。
当たらなかった場所に、いつまでも剣を残すな。
教わったことを、一つずつ思い出した。
私はもう一度、攻めた。
彼の左腕へ向けて振る。
剣を外へ流され、返した一撃も止められる。
それでも足を止めず、少しずつ区画の端へ寄せていく。
ルーク様が横へ抜け、中央へ戻ろうとした。
赤い布と剣の間が、一瞬だけ開いた。
見えた。
けれど、そこから剣を返しても遅かった。
私の剣が届く前に、彼の構えが整った。
硬い音とともに、また外へ弾かれる。
遅い。
見えてから振り始めては、間に合わないのだ。
「残り一分」
父の茶器が鳴った。
そちらを見ている暇はなかった。
私はまた踏み込んだ。
斜めに出る。
足を寄せる。
一度、二度と攻め、彼を区画の端へ寄せる。
もう一度、赤い布を狙った。
彼の剣が、私の剣を大きく外へ押し流した。
柄を通して、強く押し返される力が伝わる。
私は押し返そうとせず、後ろの足を引き寄せた。
次に戻ってくる場所は、もう分かっていた。
剣が離れた瞬間、私は振りかぶらず、小さく横へ返した。
狙ったのは、まだ赤い布のない場所。
彼の次の一歩で、その布が通るところ。
彼が、中央へ戻ろうと踏み出す。
ルーク様の目が動いた。
彼の剣が戻ってくる。
間に合ってしまう、と思った。
また防がれる、と。
それでも狙いを変えず、踏み込む足に合わせて剣を振り抜いた。
こつん。
白墨を塗った縁が、赤い布をかすめた。
手元に、小さな感触があった。
ほとんど同時に、彼の剣が私の剣を弾いた。
両腕が外へ振られる。
けれど柄は離さなかった。
踏み直した足も、白線の内側にあった。
「一本!」
審判の声がした。
私は動けなかった。
ルーク様も、一瞬だけ動かなかった。
左腕を見た。
赤い布の上に、細い白い線がついていた。
「そこですか……」
面越しに、息を吐く声が聞こえた。
その声が少し悔しそうだったので、私はようやく、自分が当てたのだと分かった。
「いつも、真ん中へ戻るから」
息が足りなくて、言葉が途切れた。
「追うより……戻る先を、狙おうと」
彼が面を上げた。
眉を寄せ、もう一度、自分の腕を見る。
「戻るところまで、見られていたんですね」
それから、私を見た。
あの笑い方だった。
「見事です」
私は笑おうとした。
けれど息がうまく吸えなくて、変な顔になった。
「勝ちました?」
「はい」
「私が?」
「君が」
剣を持った手が震えた。
重くなったからだけではなかった。
ルーク様は、私の剣を取り上げなかった。
私が自分で下ろすまで、そこで待っていた。
*
父は、いつの間にか椅子から立ち上がっていた。
私は面を外し、乱れた髪を耳に掛けた。
「お父様」
「ああ」
「約束を」
父はルーク様を見た。
ルーク様は、赤い布の白い線を隠さなかった。
やがて父は、私へ向き直った。
「婚約は解消する。今後の相手選びも、おまえに任せよう」
言ったあと、長いため息をついた。
「……まさか、当てるとはな」
「よい先生を選んでくださいましたから」
父が口を開き、閉じた。
横でルーク様が咳払いをした。笑うのを我慢しているのが、私には分かった。
その日の午後、解消の書面ができた。
父とルーク様、それから私が署名した。
両家の親族へ知らせを出すよう、父が執事に命じる。
私の知らないところで決まった婚約が、私の目の前で終わった。
「ただし、心配はするからな」
父はペンを置きながら言った。
「それは、どうぞ」
「意見も言う」
「聞きます。返事は、私がします」
父は渋い顔で頷いた。
いきなり何もかも変わるわけではないのだろう。
それでも、私の返事を待ってくれた。
窓の外では、庭の椅子が片づけられていた。
ルーク様が立ち上がる。
「では、私はこれで」
私は椅子の肘掛けを握った。
疲れた腕が、少し痛んだ。
まだ、終わっていない。
「お待ちください」
彼が振り返る。
私は父を見た。
「お父様。少し、二人でお話をしても?」
父は何か言いかけ、それから、机の上の書面へ目を落とした。
「……分かった」
書面を持って出ていく。
扉が閉じた。
初めてルーク様にお会いしたお茶会より、ずっと緊張した。
いまは、お茶会ですらない。
ただ私が、自分で引き留めただけだ。
「ルーク様」
「はい」
「次のお休みに、私と出かけてくださいませんか」
彼が、返事をしなかった。
試合ではあれだけ素早く動いていた人が、まるで動かない。
私は慌てて続けた。
「稽古ではありません。剣も、防具も、いりません。あのパンのお店へ、今度は私も行きたいのです。そのあと、川沿いを歩いて……」
そこで息を吸った。
勝負の途中より、呼吸が難しい。
「あなたと、二人で」
ルーク様が、ゆっくり瞬きをした。
「……婚約は、解消したばかりですが」
「はい。ですから、今度は私の申し込みです」
手のひらが汗ばんでいる。
剣の柄がないと、どこへ力を入れたらいいのか分からない。
「あなたに会いたいのです。婚約者だからではなく、剣を教えていただくためでもなく」
顔を上げた。
「好きになったので」
言えた。
言えたけれど、彼はまだ黙っている。
もしかして私は、とんでもない思い違いをしていたのだろうか。
親切な先生だっただけの人に、困ることを言ってしまったのでは。
「……お返事をいただけますか」
ルーク様は、片手で口元を覆った。
「すみません。望んでいたことが、一度に起きたので」
指の隙間から見える頬が赤かった。
「私も、君が好きです。ぜひ、一緒に出かけてください」
私は、ようやく息を吐いた。
「そんなに望んでいらしたなら、もう少し当てやすくしてくださっても」
「ちゃんと防ぐよう、言われましたので」
そうだった。
私が言ったのだった。
二人で笑った。
「ひとつだけ、聞いてもよろしいですか」
ルーク様が言った。
「四日前、稽古中に見ていたものは?」
意地が悪い。
もう先生ではないのに、答え合わせを求めてくる。
「あなたのお顔です」
私が答えると、彼はさっきより赤くなった。
どうやら剣より、こちらのほうが当たりやすいらしかった。
*
次の休日、ルーク様は剣を持たずに迎えに来た。
稽古着でも軍服でもない、濃紺の上着を着ていた。
私も今日はドレスだった。父が用意していた淡い桃色ではなく、自分で選んだ青いもの。
「お待たせしました」
「いえ。……よくお似合いです」
その一言で、庭を一周走るより心臓が忙しくなった。
あのパン屋へ行き、胡桃と蜂蜜のパンを二つ買った。
店先でルーク様は、それとは別に、小さな焼き菓子の棚を真剣に見ていた。
「非常に、お好きなのでしたね」
「はい」
「一つずつ買って、半分にしませんか」
彼がこちらを見た。
「その提案には、弱いです」
剣ではあんなに隙がなかったのに。
紙袋が一つ増え、私たちは川沿いの道を歩いた。
庭の三メートル四方とは違って、どこまでも行けそうな道だった。
急いで踏み込む必要も、次にどこへ戻るのか読む必要もない。
隣の人が、私の歩幅に合わせている。
私は少しだけ、彼のほうへ寄った。
道が石橋へ続くところで、ルーク様が空いている手を差し出した。
「手を、お借りしても?」
あの庭で、肘に触れる前に止まった手を思い出す。
今日も、その手は私の返事を待っていた。
剣を持たないその手を、今度は私から取った。
(了)
お読みいただき、ありがとうございました。
剣ではなかなか隙を見せないルークも、エリナの言葉には防御が間に合わなかったようです。
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