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闇に挑む薔薇

「管理官が王都に連行され、審問までの間の待機牢に投獄されて以降、息を殺すように各地から普請の陳情が途絶えました」

執務室で私が飲みかけのカップを置くのを見計らうように、ローレントが現状について報告する。


今回の一件はまたたく間に他の領地に伝わったようだ。自分の担当地域にまで火が回ることを避けたいのだろう。露骨すぎると思いながら、老獪な貴族の処世としては予想の範疇ともいえるリアクションだろう、とも思う。

だが、ローレントの淡々とした口ぶりは、かえって天秤が危うい方向へ傾きつつあることを指摘しているようだった。

「裏を返せば、それらはナファシュの息がかかった領土である可能性が高い、と言い換えることができるでしょう」


「……それで、あの管理官の様子は」

「まだ口を割らないようです」

ローレントの報告は相変わらず淡々としたものだった。だが、遅々として進まない調査に思うところがあるのだろう。声音には徒労への苛立ちが透けて見えた。

かたくなに口を閉ざすのは、忠誠心のあらわれか、それとも。

様々な思いが駆け巡るが、すべては憶測にほかならない。


可能な限り実態を知っておく必要がある。

私はあの男についてもう少し詳しく訊いてみることにした。


「彼の過去はわかった?」

「素性について資料をあたってみたのですが、各地を転々としていたようです」

ページをめくる乾いた音。

「南部では小隊長、中央湖畔の村ではギルドマスター……その都度名前を変えております。経歴ひとつ辿るだけでも骨が折れましたが……西方の出身であることは間違いないかと」


ローレントの報告に、ため息が漏れる。

簡潔だが中身はいびつ。

ここの騎士団には『あの男』の息がかかっている。

そう受け取っても何ら違和感がない。


ひょっとすると、各地で同じようなことが仕組まれているかもしれない。

温床となっている現実に、口の中に苦みを覚える。


この国の中に、あの男が何かしらの野望を実現するための細工が施されている。


そこらじゅうに張り巡らされていると考えると、暗澹とした思いになってしまう。


と、そこにひとりの官吏が小走りで近づいてくる。

耳打ちされた瞬間、ローレントの顔色が変わる。

「どうかしたの?」

「いえ、その」

私が問いかけると、彼は一瞬だけ言葉を濁した。


いつも沈着冷静な彼が報告を躊躇うなど、滅多にないことだ。


「それが、先ほど獄吏から連絡がありまして。……言葉通り、死ぬほど静かになりましたよ」


心臓が嫌な跳ね方をした。

私はローレントを押しのけるようにして、地下にある特別牢へと急いだ。湿った石造りの階段を下りるほどに、肺にまとわりつく空気の質が変わっていく。


牢獄の一番奥。

鉄格子の向こう側。管理官は、食事のトレイを前にしたまま椅子に腰掛けていた。

争った形跡はない。毒を煽って苦悶した様子もない。

ただ、その肌は驚くほど白く透き通り、まるで精巧な蝋人形と化してしまったかのようだった。


(何が――)

疑念に駆られて手を伸ばしかけた私の肩を、誰かの腕が鋭く掴んだ。

振り返ると、後から追いついたローレントがいた。

「検屍が終わっておりませんので」

諌めるような声に、自分が現場を荒らしそうになっていたことに気づく。

「これ以上は近寄らないでください」

普段の軽口ではない、低い声で念を押す。


見ていて気分の良いものではないが、目をそらしてもいられない。


「管理官に持病などは……」

「ありませんでした。酒呑みではあったようですが、体を壊すほどではなかったと聞き及んでいます」

有能な側近が頭の中の報告書をそらんじる。


ほどなくして宮廷医官が到着し、検分が始まる。


「どうやら、血管が詰まって血が行き届かなくなったようです」

「ということは、病死?」


「いえ……それにしては少し不可解な点が多いです。一部ではなく、血管全体が硬さを帯びているんです」

「……どういうこと?」

「なんというか説明が難しいのですが……どこかが詰まったというより、血そのものが粘りを帯びたような状態、と思っていただければ」


私が学んでいる帝王学には医学の講義もある。専門家には遠く及ばないが、基礎的な病理は学んでいる。だが知る限り、そんな症例は聞いた覚えがない。


「それに、もしも血管に問題があれば、むくみや顔色が青白いなどといった、目につく予兆があるはず。そういったものはまるで見当たらない。少なくとも、これは診断書を書くだけで済ませていいような代物ではありません」


「外傷もありませんし、毒のようなものを口にした痕跡も見当たりません」

『口にした』という言葉を耳にしたとき、置かれていたトレイが目の端に映る。

「……食事になにか混ぜられていた、という可能性は?」

「いたって普通の食事ですし、献立も他の囚人たちと同じです。混入についても厨師があらかじめ毒見をしているのでまず考えられません」

疑問を投げかけるたびに、それがことごとく否定されていく。

だが、状況が整理されているはずなのに、気分は晴れなかった。

まるで眼前で次々と扉が閉ざされてゆくような、暗闇にとらわれる気分だった。


「面会や手紙の類は?」

「一度も。そもそも今回の収容は極秘裏に行われているので、ここにいることを知る者は誰ひとりいません」


私は、父の日記に記されていた言葉を思い出した。

【蛇は暗がりに潜んでいる。一匹ではない】

ナファシュは単なる汚職の黒幕ではない。彼は、法も、倫理も、そして生命の理さえも書き換える「禁忌」を弄ぶ者なのだ。


管理官の死に顔は、苦痛ではなく、むしろ言葉にならない法悦(ほうえつ)に浸っているようにさえ見えた。

ナファシュは、この男の口を封じたのではない。

『王国の法が及ばない場所』へと、彼を連れ去ったのだ。


西方の薬草学には中央の医師でさえ知らない面がある。


何ひとつ証拠は見つかっていないが、こちらの預かり知らぬタイミングで何かを仕込まれたような不自然さをどうしても拭いきれない。


ひととおり医官の検分が済み、現場に触れても構わないとのお達しが出る。無論、現状を維持するという選定を踏まえたうえで、という条件つきだが。

「……やはり食事のものとは少し違う」

「どういうこと?」

私の問いかけに、

「口元からこぼれる香りが、かすかに鼻を突くような匂いがするように思えるもので」

さすがのローレントも訝しげだ。

「……それがいったい何なのか、今回の件と関係があるのか。今は何もわかりませんが、少しでも気にかかるものなら、覚えておいて損はないかと」

ここに来ていつもの面倒なくらいの周到さが心強い。


なにかまずい薬物をやっていたなら、連行の道中で異変を感じるはず。反応なので抑えようがない。だから即座にわかるはず。


状況次第で誰が敵になるか分からない。常に嗅覚を研ぎ澄ませておくあたりは戦場における心構えによく似ている。

仲間の協力を仰ぐことは必要だが、相手のことを信じすぎると裏切りを受けたとき、立ち直りがきつくなる。


父が対峙してきたもの。

その本当の正体が見えた気がした。


ただの貴族や諸侯ではない。

その奥に潜む、人の顔をした異形。

魂の奥深くに巣喰う怪物。


――背筋が震える。

女王が負うべき荷の重さをここに来て思い知らされた。


人として守るべき一線の向こう側にいる。


このまま女王として、突きつけられた「人知を超えた謎」にどう立ち向かうか。


王都には各地から才能と叡智が集結している。

大抵のことには答えを導き出すことができる。

そんなものは驕りだとあざ笑うように、事態は急転直下した。


◇◇◇


執務室に戻った私の肺の中は、重苦しい空気に満たされていた。


ここに来て、あの男につながるかに思われた肝心なルートがぷっつりと途絶えてしまった。


あの砦には新しい管理官が派遣されることになったが、すべてがこれで片付いたとはどうしても思えなかった。


モヤモヤとした思いを抱えながら、羽ペンを手に取り実務に手をつけようとしたときだった。


耳慣れた音が入り口の方から響いた。

三回のノックが二度。

わざわざ名乗らずとも済むこの独特のリズムを使うのはあの男しかいない。


「入りなさい」

案の定、ローレントの姿がそこにあった。

後ろには事務官の制服を着たもうひとりの男。


「何があったの」

このリズムは火急の要件の際に使うことが多い。

こちらも手早く済ませる。


「陛下にお手紙が届いております」

「手紙?」

耳慣れない(しら)せに思わず首を傾げる。

政務に関与する申し出なら、公的な書類か、あるいは使者からの口伝てで知ることが大半だ。そうした手順を使わないということは、ごく近しい人間、あるいは公的な書面に残してはならないことが書かれているか、ということになる。


「持ってきて、今すぐ」

ローレントは私の声を聞くと同時に、事務官の男の手から封蝋のついた封書をひったくるように奪い、机の前にまでやってくると、それを差し出した。


国内外の事務に用いる官製の封筒ではないし、差出人の名前も記されていない。

だが、封蝋に押された印章に記された見覚えのある町の名が、私の心をざわつかせた。

ペン立てからペーパーナイフで取り出し、封蝋を剥がすと、中から便箋を取り出す。


《こんな形であんたに手紙を書くことになるなんて思いもしなかったよ。けど、この手の話は早めに伝えておいたほうがいいと思ったから、無礼を承知で送らせてもらうことにしたよ》


手紙なのに、したたかさを匂わせる独特な語り口。

私の脳裏に、酒場で見たあの不敵な笑みが浮かぶ。

だけど今は思い出にふけっている場合ではない。


《管理官のいたあの屋敷なんだけど、なかなか買い手がつかなくてね……不正の温床っていう、なんだかいわくつきの建物扱いされちまって……たらい回しになった挙げ句、私が泥をかぶることになったんだよ》


《で、その屋敷の酒蔵を整理してたら、西方の酒がいくつも出てきたんだよ。あの男が好んでたやつだ。あたしも仕入れたことがあって、懐かしくなって、1本だけ封を切ってみたんだ》


《そこで気づいたんだ。匂いが違うって。最初は時間が経てば風味が変わるなんてよくあることだから、今回もそうなんだと思った。でも改めて嗅いでみて確信した。これはそういう、時間によるものとは毛色の違う変化だって》

ヒルデがわざわざ手紙にしたためてきたほどの『違和感』。

今回の事件とタイミングが重なっていることが、あまりに気になった。


《私も商売柄、あの酒は扱ったことがある。だけど、アレはあの土地の――西の香りじゃない》


《あの酒、確か“あの男”が送ったものだろ?あんな事件があった直後だから、神経が過敏になってるのかもしれないとも思った。でも、胸騒ぎがして。気のせいならそれに越したことはないけど、私からすれば、あり得ない不自然さを感じたもんだから、念のために伝えておこうと思ってね》


《管理官の周囲でなにか起きないように気をつけた方がいいかもしれない。とりあえず注意だけはしておいていいと思う》


《こういうときの酒場のオンナの勘ってのは、案外当たるもんなんだ。くれぐれも気をつけろよ ――お節介焼きの姐さんより》


便箋を戻し、深く息を吐く。


ほんの少しだけ、届くのが遅かった。

けれど同時に、ほんの少しだけ裏にある真実に近づいた気もする。


ヒルデが気づいたそれは、恐らくただの先入観じゃない。


手紙を見ながらひとつの想いに至る。

「ローレント」

「いかがなさいましたか、陛下」

「さっきの医官を呼び戻して。今すぐに」

「……医官、でございますか」

「ええ。まだこの建物の中にいるはずよ」

状況が状況だけに声が上ずるのが抑えられない。


「それともうひとつ。厨房の調理担当者に、管理官が最後に食べた食事の『献立』と、その『仕入れ先』をすべて書き出させて。一箇所でも漏れがあったらタダじゃおかないって付け加えておいて」

私の気迫に圧されたのか、ローレントは珍しく『御意』という言葉すら言い残すことなく、走り去った。


数分後、戻ってきた医官は、私の差し出した手紙と管理官の検死記録を交互に見比べ、青ざめた顔で声をあげた。


「ありえない……話ではないと思います」


ある意味、認めて欲しくはなかった。

私が想像したことは、決して望んだ結末ではない。


それはつまり、他人の身勝手なエゴのために命が奪われたということ。

管理官は国庫の横流しという到底許されざることをした。

だが、どれだけ悪事を重ねようと、私利私欲で殺害されるなど、許されていいはずがない。ましてや、それを主導したと思われる人間によって口封じとして殺されるなど、もってのほかだ。


続いて私はローレントに配下の者を呼ぶように命じた。

集められた男たちに告げる。特別な任務として。


「国境そばの町まで赴き、管理官の詰め所から西方産の酒に関する資料を探し出すように。残された瓶を王都へ回せ。開けるな、飲むな、捨てるな。私が直に見る」


1時間もしないうちに、商隊に偽装した特務部隊が編成される。馬車が秘密裏に王都を発った。


密命を携え、車輪を軋ませながら荷馬車が砂利道をひた走る。


「西方から管理官に送られた物品のリストを可能な限り洗い出して。その中に酒があったら、いつから送られているのか調べておいて」

ローレントに命じる。あれほどの落ちぶれた騎士団の管理下で正式な書面が残されているか不安だったが、狙いは受け取った側の対応ではなかった。その逆、つまりナファシュからの送り状が残されている可能性だった。あの男はそこで下手な策を講じる男ではない。


酒や空き瓶という、隠滅の難しい物的証拠がある中で、送り状だけが存在しないという状況は、むしろそこに裏があるという疑いを持たれてしまう。


ここで正式な記録を残さなければ、逆に怪しまれることをあの男は知っている。


案の定、砦の書物庫には西方からの送り状が残されていた。必要のないものにあれこれ細工をする人間ではない。そういった知恵を巡らせて自滅することはないと思っていた。


そこで下手な知恵を働かせ、先回りをすればむしろ相手につけ込む隙を与えてしまう。


それだけ自信があるということだ。

だからこそ、それを覆すことは大きな意味がある。

必ずあの男を追い詰めるとわたしは胸に誓った。


◇◇◇


数日後、王都に運び込まれたのは、泥にまみれた数本の酒瓶だった。

特務部隊が命懸けで回収してきたそれは、執務室の重厚な机の上に、まるで不吉な供え物のように並べられている。


無言で目配せする。

「……始めます」

私の短い促しに、医官が震える手で一本の瓶の封を切った。

部屋の中に、芳醇だがどこか尖った、西方の酒特有の香りが広がる。

普段なら宴の始まりを想起させるその芳香が、悪魔の儀式の幕を開けるように私には思えた。


「陛下、こちらをご覧ください」

医官が用意したのは、管理官の最期の献立にも含まれていた、ありふれた『岩塩』を溶かした水だ。

何の変哲もない透明な液体。それを、小皿に注いだ赤黒い液体の中に一滴だけ落とす。


その瞬間だった。


(……っ!)

思わず息を呑む。

液体同士が混じり合った瞬間、液体の色がさらにどす黒い色に変わった。それだけではなく、粘土のような質感へと変貌したのだ。

それは液体というより、意思を持つ生き物のように、皿の縁にへりついた。


匙にへばりついたそれは、滴ることもなくまとわりついて離れない。


「この液体は豚の血です。そこにふたつの成分が混ざることでこのように変質します……管理官の血管の中で起きたのは、これと同じ現象だと思われます」

「……これが起きたら、どうなるの」


医官の声が上ずっている。

それが悪夢じみた計画を目の当たりにしたことによるものであることは間違いない。

「この酒には、単体では無害な、しかし特定の鉱物成分に強く反応する特殊な薬液が仕込まれていました。おそらく、長年の飲酒で彼の体内に蓄積したその成分が、獄中で出された『ごく普通の食事』に含まれる塩分と出会い、彼の血を瞬時にして凝固させた……」


「……つまり、引き金はいつでも引けたというわけね」

私の指先が、怒りで小さく震える。


ナファシュは、管理官が裏切った瞬間に殺したのではない。

彼が自分の手駒になったその日から、いつでも命を奪える「時限装置」を、贈り物という名の信頼の中に忍ばせていたのだ。

あの日、父が日記に記した『蛇』の正体。それは、法でも倫理でもなく、人の心の隙間に毒を流し込む、救いようのない悪意そのものだった。


この計画のタチの悪さは、厨房担当者が『管理官の好物は◯◯だ』くらいしか言い含められていないこと。それ自体は普通の食品であり、獄吏も責任を問われない。そもそも計画を知らないのだから当然だろう。

という完璧にも思える周到なやり口であった。


◇◇◇


「……ローレント」

「はっ」

控えていた側近の顔も、今は冗談のひとつも言えないほどに強張っている。


「この酒、そしてこの実験結果。すべてを記録に残し、厳重に保管して。それと――」

私は、窓の外に広がる王都の街並みを見据えた。

そのどこかに、今も平然と、優雅に毒を調合している男がいる。


遠くから、こちらを息を潜めて伺っているかもしれない。


◇◇◇


「ローレント」

「はい」

「明後日の予定だけど」

「夕刻より商工会の方々との晩餐会が入っております」


私は一瞬だけ視線を落とし、指先で卓上を軽く叩いた。

「それなんだけど、ちょっと場所と人数を変更するわ」


わずかな沈黙。


「……規模を縮小、ということでしょうか」

「そういうことになるわね」

如何様(いかよう)になさるおつもりで?」


「メンバーは私とあなた、それから精鋭数人」


「場所は――ナファシュの私邸」


ほんの刹那。

ローレントの手が予定帳の上で止まった。


「……それは」

「危険だ、と言いたいのでしょう?」


眼の前の男の言いそうなことは分かっていた。


「だからこそ、よ」


短い呼吸のあと、彼は静かに予定帳を閉じた。


「……かしこまりました。すぐに手配を」


毒には毒を。

王としての剣を振るう時は、今だと確信していた。


この国を蝕む毒を、取り除かなければならない。


◇◇◇


月光の下、隊列をなした馬群が行く。

夜明けとともに王都を発ったはずだった。

だが懐中時計の針はすでに想定していた時間を大幅に上回っている。


これだけかかるのは想定外だったが、為すべきことは何も変わらない。


無論、引き返すなどという選択肢は我々の地図には存在しなかった。


蹄の音が、乾いた舗装路から湿った土を蹴る音に変わる。

王都の灯りはすでに背後に沈み、残るのは揺れる草の音だけ。


先頭を行く騎士が手を挙げ、それを合図に行軍が止まる。


「ここから先はナファシュ卿の所領です」

目印の一本杉を見上げ、ローレントが囁くように告げる。


ひときわ高くそびえるそれは、侵入者を見定めるように、風をまとった枝葉をざわめかせる。


私は馬上から視線を闇の先へと伸ばす。

かつて父が、その魂を削るようにして守り抜いたこの国。

その内部に、毒を飼う男がいる。


「よろしいですか、陛下」

その響きには、夜の静寂を乱すことへの、あるいはこれから踏み込む場所への、隠しきれない躊躇いが混じっていた。


王である以上、見て見ぬふりは許されない。


「行くわ」


それは誰に向けた言葉でもなかった。


◇◇◇


しばらくしてたどり着いた私邸は、地図にも載らない森の奥にあった。


近づくにつれ、人の気配が消えていく。


辺りにはめぼしい集落も、灯りもない。

田畑や家畜、あるいは井戸などといった、人の息遣いを感じられるものが何ひとつ見当たらない。


まるで誰もこの場所に近づこうとしないかのようだった。


「妙ですね」

ローレントが周囲を見回す。

「この規模の屋敷なら、普通は門兵がいて然るべきですが」


だが門の前には、風に揺れる草の音しかない。


「……見られています。おそらく」

不意に、ローレントがつぶやく。


瞬間、空気が鉛を溶かしたように淀む。

息を飲むことすらままならないほどに。


生き物の気配がない屋敷。

まるで主だけが住んでいるような。

あらゆるものを遠ざけるかのようだった。


その屋敷の窓で。

ろうそくが消える間際のそれのように、かすかに明かりが揺らいだ気がした。


◇◇◇


重い樫の扉を押し開くと、そこには外の冷気とは切り離された、淀んだ空気が満ちていた。


「これは……」

部屋……いや、家全体に漂うのは、微かに甘い香り。

「ナファシュ卿が好んで焚く香料、ですね」

ローレントが辺りを見回しながら語る。


「ですが、これはさらに純度を高めたような……脳の芯を痺れさせる香りだ」

いつもの沈着冷静な顔が険しいものに変わる。

「害のあるものではないはずですが、あの男のことです。気を抜きませんよう気をつけください」

ローレントの声に気を引き締める。


独自の香りが別邸を染め上げている。

それはまるで、(かれ)の腹の中に放り込まれたかのようだった。


◇◇◇


「ようこそ……とはいえ、陛下の退屈を紛らわせるようなものは何もございませんが」

「あなたがいれば充分よ、それより」

目の前の男を睨みつける。

「驚かないのね、ナファシュ卿」

「滅相もございません。驚いておりますとも」

館の主は、ゆっくりと振り返りながら唇の端をいびつに釣り上げる。

「予定は承っておりませんでしたが、先王も突然お越しになることがありました」


「そんな答で納得しろと?」

ナファシュはわずかに首を傾げた。

「納得というものは、無理に()いるものではありません」


相変わらず食えるところのない男だ。


「この私邸は、あなたの側近でさえ把握していない土地にある。私たちも辿(たど)り着くのに骨が折れたわ」


沈黙。

やがて、静かな声。

「それでも、辿り着いたではありませんか」

「遠回しな言い方は必要ないわ」


「私が言葉にするまでもありません。こうして今、陛下がここに立っておられる。それがすべてでしょう」


つまり、

「……来られる場所であれば、隠れ家とは申しますまい?」


こういうことらしい。

けれど、そんな理屈で誤魔化されはしない。


「どなたかに此処(ここ)の場所を窺ったのでしょう?」

男の低い笑い声。

「……誰に聞いたのです?」

「聞いていないわ」

端的に事実を告げる。


「それでは――」

彼の目が、わずかに細まる。

「良からぬ(すべ)でもお使いになったのですかな」


女王は目の前の冷ややかな目を跳ね返すように男を睨みつけた。

「シラを切り通すつもりなら話してあげるわ」


「あなたは領主として、きちんと仕事をしているわ」

最初に口にしたのは称賛だった。

「時間があれば所領(しょりょう)のほとんどをくまなく視察している……たった数か所の例外を除いて」

男の眉がぴくりと動いた気がしたが、構わず続ける。


「あなたが視察していない土地は五か所。

そのうち四か所は軍事境界線上。

政治的に兵の配置を知られるわけにはいかない。足を運ばないのも合理的……が、この一か所だけは違う」


「……ほぉ」

「政治的な理由とは別に、なおかつそれと同じくらいの慎重さで頻繁に出入りしていると知られてはならない場所」


「そうやって違和感の先を調べさせた結果、ここにたどり着いた……とまあ、種明かしをすればこんなところよ」


ここまで話しても、領主の顔には余裕が見える。

それも当然だ。私が今下したのは、単にこの場所が秘密の私邸であることを突きつけただけだ。


重要なのは、ここで秘密裏に何をしたかということ。


「客人を迎えるなど、久しくなかったもので……お茶のひとつもお出しせず申し訳ない」

「安心なさい。悠長に話をしにきたわけではないから」

この男のペースに飲まれてはいけない。


「……して、ご要件は」

男の瞳に(くら)い輝きが宿る。

「あなたが集めた裏金の使途について、詳しく聞かせて……どうせ、ろくでもないものでしょうけど」

「滅相もない。むしろ国を案じてのこと」

そう告げて、老いた領主は若き女王を見据える。


「募兵と訓練」

あっけなく目的について暴露する。

「反乱でも起こす気?」

「そんなことをするなら、外からけしかけたほうが手っ取り早い」

男は即座に言い切った。


この男ならやりかねない。

そして、決めたならば何が何でもやり遂げる。

そんな強い意志を感じさせる声音に、背筋を寒いものが走る。


「覇を唱えることで牽制する。それが意味を持つ」

男の声には一切のゆらぎがない。


「陛下のやり方で、民の安寧を本当に護れるとお思いか?」

「……私がどう思うかは関係ない」

「王たるもの、思いの強さこそ人を惹きつけるには大事なものと心せねば」

この男は、ほんの些細な隙でさえ的確に突いてくる。

心の強さを試している。


「大事なのは結果だけよ。父上が作り上げたこの国を守る」

「私はいくつもの『結果』を見てきました」

しわがれた声が私の言葉を切り捨てる。


「喉を裂かれ、悲鳴すらあげられず死にゆく仲間をご覧になられたことは?自分のナイフが敵の腹を刺す感触は?友の死骸を引きずって血煙の中を逃げ帰った経験はございますか?」

立て続けに突きつけられたのは、彼の経験した『地獄』だった。


「まだまだお若いですな」

蛇は(わら)う。

「仕方ありますまい。だが、それゆえにどこまでも青臭い。今の世が『結果』などとは笑止千万」

(あざけ)りというよりも、(あわ)れみに近い響き。


「力づくにでも手に入れなければ奪われる。

そういう世界にいた」

半歩近づく。

「私は先王……あなたのお父上と、いくつもの死線を渡り歩いてきた」

どこか思い出話のようなつぶやき。

けれど、その唇は血塗られている。


「志の合わぬ相手と語り合おうなど、夢見がちな乙女でも許されない」

「馬鹿にしないで」

「馬鹿にしているのはあなたです、陛下」

男の声が断じる。


「まさか……あなたのお父上が、理想で剣を振るっていたと?」

退かないどころか、にじり寄るかのようにナファシュの語気には力がこもっていた。


「その甘さが民の命を危機に晒すことになる」

この男は単なる戦争狂などではない。

(まつりごと)のあるべき形として、剣を持つことを『正しきもの』として組み込もうとしている。


「私を退けたいのならば……武をもってなされませ」

「残念だけど、それは無理な相談ね」

ナファシュの顔に険が刻まれる。


「この期に及んで夢物語にすがるおつもりか」


「ここであなたが斃れても、それは頭目が死んだだけ」

「張り巡らせた網を取り払えるわけじゃない」


「いつまでその強がりを通せますかな」

男が懐に手を伸ばす。


わずかに月明かりを反射して閃いたそれを、

踏み込んだ男の手刀が叩き落とす。

床にナイフが散らばった。

「ここは私が」

言うが早いか、ナファシュが鼻先まで迫る。


二段構えのやり口。

だが、ローレントは怯まない。更なるナファシュの刺突を紙一重でいなし、返礼に横薙ぎ一閃。


対するナファシュも、軽業師を思わせる後ろ飛びで、元の位置まで退く。

父と同年代の動きとは到底思えない俊敏さ。


「北の剣技、ですか」

今の一瞬で、ナファシュが即座に見抜く。

「懐刀で終わらせるには惜しい腕だ」


速度はわずかにローレントが上回っている。けれど、地の利はまぎれもなくナファシュの手の内にある。

互いに動くことがままならない。絵に描いたような膠着状態の中、互いの視線が、見えない火花を幾度も散らす。


「これほどまでに動かせる『駒』を持ちながら、あなたはそれでも終わらぬ夢を見るのですか」


「夢にすがっているのはあなたのほうよ、ナファシュ卿」

「なに?」

「結局、あなたは覇道という理想に酔い、それを通そうとしているだけ」


「夢などではありません」

「ならば、現実をお見せしましょう」


ナファシュは懐から小さな筒を取り出した。


「薬には、こういう使い道もあるのですよ、陛下」


その声音はどこまでも穏やかだった。

教壇に立つ教師が、お気に入りの生徒の前で真理を説くように。


「救うも、滅ぼすも、用い方次第」


指先が、机の下へと滑る。


わずかに漂う乾いた匂いに、私は目を細める。


――火薬。

部屋まるごと消し飛ぶかもしれない。


けれど、私の声は、驚くほど静かだった。

「それが、あなたの選ぶ結末?」


「選ぶのではありません。あるべき形に整えるのです」


つぶやくナファシュの指先が何かを弾こうとした――その、瞬間。


窓硝子が枠ごと砕け散り、黒い影が転がり込む。

暴風の如く部屋を襲ったその塊は床を滑り、ナファシュの腕を打ち払う。


「ぐぬうッ!?」


きん、と澄んだ音をたてて弾かれた金属片が弧を描く。

床を転がるそれをローレントが拾い上げ、内ポケットに入れる。


乱入者――元騎士だった男、ギュスターヴが低く構える。


「遅い」

つぶやいた声は、自分でも驚くほど静かだった。

「外を固めるよう命じたでしょう」


「助けに来てもらってそりゃねぇだろ、陛下さんよォ!」


ナファシュの目が、わずかに細まる。


「……読んでおられたか」


「幼くても分かるわ。あなたが『逃げない男』だってことくらいは」

「屋敷に漂う香りも、延焼させて完全な証拠隠滅を狙った揮発性の液体のもの、ですね」

ローレントがつけ加える。

「そこまでご存知とは」


充満していた甘ったるい死の香りは、皮肉なほどあっけなく霧散していた。乱入者が身をもって生み出した風穴によって。


だが、男はなおも笑みを絶やさない。

「まだなにかするつもり?」

「そういう話ではございませんよ、陛下」


ナファシュは、滑らかな手つきで自身の乱れを整える。


「いま、あなたは自ら証明なさったではありませんか。結局は力に頼らねば己の意志を通せないと」

笑顔を貼りつかせたままの蛇の前に、私は踏み出す。

「いいえ」

「あなたを殺さないためよ」


男の笑みが、固まる。


「死ねば、あなたは殉教者になる。

語られぬ真実は、やがて神話になる」


髪の毛ほども視線を逸らさない。逃がさない。


「自らの殉死……それすらも計画の中にあった、違うかしら?」

沈黙が続く。

けれど、流れている空気は明らかに変わっていた。


「けれど、生きて裁かれれば話は別よ。あなたの言葉も、積み上げた行いも、すべて白日の下に晒される……夢想家の無様な絵空事として」


沈黙。


ナファシュの唇がわずかに歪む。


「蛇を『生かす』と?」

「あなたなら知っているはずよ。蛇の毒には、別の使い道もあるってことくらい」


長い、長い間。


やがて彼は両手を広げた。


「……お見事です、陛下」


元騎士が一歩近づき、拘束具を取り出す。


ナファシュは抵抗しないどころか、素直に両手を差し出す。

ただ、その目はなお女王だけを見ていた。


「ですが」


その声は低く、柔らかい。


「毒は、目に見えるものだけとは限りませぬぞ」


私は瞬きひとつせずに、それに応じる。


「ならば、それも暴いてみせる」

私は言い切る。そして。

「父から聞いているわ、ちゃんとね」


その言葉に、ナファシュは目を開く。

「なるほど」

その顔から、憑き物が消えたように見えた。


「見届けるといたしましょう、あなたが受け継いだものを」


その瞬間、勝敗は決した。


◇◇◇


私邸での一件から数日が経過し、王都には表向きの平穏が戻っていた 。


だがその床下では、煤けた気配が今もじりじりと蠢いていた。


ナファシュが投獄されたとの一報は、彼に尻尾を振っていた他の領主たちを震え上がらせるには十分すぎるほどの衝撃だったらしい。各地から聞こえていた不協和音は、今や『女王の裁定』を待つ激しい動揺と畏怖へと姿を変えている 。それはひどく不自然で不気味な静寂となって大陸を包んでいた。


執務室の机には、かつて管理官を死に至らしめた「西方産の酒」と、それに関する膨大な調査資料が置かれている 。


『酒』は各地に送られていた。

それこそ、海岸の訓練所から山嶺の見張り小屋に至るまで。


それぞれの領地に編成されていた私兵は、騎士団の予備役という形で吸収され解散。一部の過激な貴族からの自治権の剥奪は横暴だという突き上げもあったが、頭目であるナファシュが捕らえられたという現実が、その熱を炎上にまでは至らせなかった。


三回のノックが二度。

間を置かずにローレントが入ってくる。


「彼の様子は」

「変わらず穏やかなものです。陛下のことを訊かれることはありますが」

「あなたのことだから、世間話にかこつけて私の愚痴でも吐いてるんじゃない?ナファシュが気の毒だわ」

「私が話すのは『事実』のみです」

その事実とやらが何なのか気にはなったが、ろくな答えが返ってこない気がしたので、それ以上詮索はしなかった。


(ひょっとするとこの二人、馬が合うのかもしれないわね)

薄ら寒い想像をあわてて振り払う。


現在、ナファシュは獄吏すら近づけない完全な隔離状態にある。

彼の食事を運ぶのは、ローレントとその部下だけ。徹底した、そして静かな孤独。


「彼がしようとしていたのは、父への反発だったのかしら」

独り言めいた私の問いに、ローレントは少しだけ間を置いて答えた。


「……あの方は、勝とうとしたのです。陛下の御父君にではなく、移りゆく『時代』に」


かつて父がナファシュと共に死線を越えてきた日々。

そこには彼が語ったとおり、地獄に等しい時が流れていたのは事実だ。

けれど、それでもなお父は清廉であろうとした。

同じ時を過ごしながら、そこには差が生まれた。

彼は父の治世を甘いと思っていたのだろうか。


彼がなぜ「毒」に頼る覇道を選んだのか。

その理由を、私はまだ測りかねていた。

苛烈とは言い難い父の手腕を、彼はいかなる色の瞳で見つめていたのか。


窓から差し込む朝日はまばゆい。

だが、この国を覆う暗雲は未だにあちこちに残っている。


王というものは、えてして孤独なものである。

民とともに歩みながら、行き着く先は常に己のみを信じなくてはならない。


父もまた、そうしてこの国を守ってきたのだろう。


そして今、その役目は私のものだ。


だからというわけでもないが、

ふと、ヒルデたちのことを思い出す。

あの手紙に、影の功労者へ感謝を込めた返事のひとつでも書こうか――そんな気になった。


町といえば、今回の立役者となったあの男。

確かギュスターヴ……彼はあの町で自警団を結成したらしい。あの屋敷を本拠地にして近くに練兵場を開くと言っていた。


世の中、なにが起こるか分からない。


国をひとつの生命に喩えるなら、私の代は、まだ産声をあげたばかりの赤ん坊のようなものだ。


「『毒』を『薬』に変える」という困難な道を選んだ私の戦いは、まだ始まったばかりである。


(やれやれ、やることが山積みだわ)

私はため息交じりに、目の前の書きかけの財務表に、古ぼけた栞をそっと挟み込んだ。

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