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王国の『蛇』

父は、ひどく言葉の足りない人だった。

寡黙(かもく)といえば聞こえがいいけれど、少し白髪の混じった髭を蓄えたその唇が開くのを見たのは、数えるほどしかない。


いつか来る戴冠(たいかん)の重圧に耐えかねて私が弱音を吐いた夜も、初めての公務で足が震えた朝も、父はただ黙って私の背中に大きな掌を添えるだけ。気の利いた励ましも、物語に出てくるような優しい格言も、ついに一度も聞くことはなかった。


けれど、その掌の温度だけは、どんな饒舌な言葉よりも雄弁に私を支えていたのだと、今はわかる。


私の知る父は、英雄でも聖者でもなかった。

ただ、嵐の中を誰よりも先に歩み出て、最後までそこに残る。

そんな(ひと)だった。


古びた扉がきしんだ音を立てる。

(…………)

あるじを失った書斎には、まだ微かに父の香りが残っていた。

机の上の灰皿に染みついた煙草の薫り。

歳月を感じさせる、少しくすんだ紙の匂い。

棚に並ぶ背表紙の列は寸分の狂いもなく、父の規律正しい生き方をそのまま写し取ったかのようだ。


どこかにあの人の気配がして振り返る。けれど、もちろんあの大きな姿も、その影も見当たらない。


『理想の王』と呼ばれた父。その背中は、私には遠かった。

それでも、私が婚儀を済ませ、孫に恵まれるまでは、ずっとそばにいてくれる。そんなことを勝手に思っていた。

けれど父は、三日前、あまりにもあっけなく旅立ってしまった。


遺品整理のさなか、棚の隅に見つけた一冊の日記。

そこには娘の私が戸惑うくらいに雄弁な父の姿があった。

《ドレスを(まと)った姿が妻と重なって見えた。やはり母娘なのだなと痛感する》

《あの子は今日も泣かなかった。強い子だ。強すぎるほどに。》


そこにいたのは私の知らない、けれど間違いなく私の父であることを示す証。

「……ずるいですよ、お父様」


玉座に座るということは、自分という個人を殺し、国という大きな器の一部になることだ。国を束ねる王冠の重みは、己を縛る(かせ)であると同時に誇りでもある。

父はそれを、不器用なほど誠実に背負い、貫き通した。

私に向けられる眼差しの中に、時折混じる『一人の父親』としての揺らぎ。それを押し殺して、彼は最後まで『王』であり続けた。


窓の外には、父が愛した庭園が広がっている。

庭師が枝葉を整えている薄紅色の薔薇は、特に父のお気に入りだった。


記憶の中の父の()は大きく、それと比べて今、日記をめくる私のそれはあまりに小さく頼りない。

数年前まで、この手は誰かに引かれなければどこへも行けなかった。

この庭でさえ、幼い私には見渡せないほどに広い世界だった。


それなのに。


ほんの少し前まで「守られるべき景色」だったそれが、今は「守らねばならない責務」として私の肩にのしかかる。


父が遺したのは、広大な領土でも、輝かしい名声でもない。

「沈黙の中で、誰よりも深く愛し抜く」という、あまりにも静かで、あまりにも重い覚悟の形だった。


私は鏡の前に立ち、ゆっくりと背筋を伸ばす。

鏡の中の自分は、驚くほど父に似た目をしていた。


「見ていてください。私がこの国をどう愛していくかを」


ただ、父がそうしたように。私もまた、この静寂の中で、誰よりも強く明日を見つめ続ける。


不器用なところも似てしまったけれど、それでも。

「私はあなたの娘なのだから」


◇◇◇


一週間後、典範に則り、王位継承布告のための式典が行われた。


管弦楽の優美な、だが歌劇や舞踏会とは異なる、しめやかな鎮魂のための楽曲。


式典はつつがなく行われている。

列席する諸国の使節の顔は穏やかだ。


けれど。

むしろ火種は国の内部にあるといったほうがいいのかもしれないと、私は広間の反対側……諸侯の並ぶ一角へと視線を移した。


こちらを窺ういくつもの目。

その奥に宿る光は、ひとつではない。

亡き王への哀悼の仮面を被った値踏みの場。


新女王という『材料』をいかに自らの(うち)に招き入れるか。

優雅な音楽の流れる中で、天秤は音もなく揺れ動いていた。


《あの子は強い。強すぎるほどに》

胸の内で日記のページの言葉を反芻(はんすう)する。彼らが私を『(ぎょ)しやすい小娘』と見ているのなら、それは好都合だ。その油断こそが、私の最初の守り刀になるのだから。


その席で私は初めに告げた。


「私は父ほど利発でも勇猛でもない。だが、私は女だ。貴公たちが思っている以上に、この国の『不純物』には敏感だ」


さっと潮が引くように、場が静まり返った。


「私のなすべき仕事は、来賓客の前で出来合いの笑顔を振りまくことではない。この国の底に蠢く羽虫を一掃することだ」


到底、新王の打つべき一手ではない。

それを承知の上で、私は『宣告』した。


剥き身の刃を前に、辺りは言葉もない。


これでいい。

少しは牽制になったはずだ。

言葉を鞘に収め、あらためて広間を見渡したとき。


(いささ)か強く踏み込みすぎではありませんかな。陛下」

慇懃(いんぎん)な声とともに、静まり返った広間の奥から、杖の石突(いしづき)が床を打つ音がひとつ響いた。

確か、年齢的には父と同じか、あるいは四つか五つほど上。


老獪(ろうかい)と言えば聞こえはいい。

だがその本性は、あらゆる手管(でくだ)で懐に滑り込もうとする、一匹の蛇だった。


「久しいな、ナファシュ卿」

「老いたる身に王都は少々遠いものでして……確か、母君(ははぎみ)の葬儀でお目にかかって以来ですかな」

まるで不幸を見計らったかのような男の来訪に、胸の内に泥のような思いが広がるのを、私はかろうじて抑え込む。


ナファシュは父の古くからの配下であり、西方領を統括している。魔導に長け、薬草学などの知識も豊富である。


戦乱の世に、父と共に戦場を馳せた『盟友』と聞かされている。だが、私はどうしてもこの男のことが好きにはなれなかった。


じっと地の底から見上げるまなざし。にもかかわらず、その目はむしろ獲物に喰らいつかんとするかのごとくぬらりと濡れ光っている。


「王も人の子……先王にも弱さは御座いました。人に言えぬ辛苦も」

思い出話のつもりなのか、父のことをつぶやきながら、這うような笑い声を漏らす。


「王は剣……なれど、容易く折れてしまわぬよう、肩の力を抜くのも王の務めで御座いますぞ」


私はただ、無言で蛇を見下ろした。かつて父がそうしてきたように。


獣を追い払うのに言葉は不要だ。


だが。

蛇の真の恐ろしさは、首を断たれてなお、敵を道連れにしようと噛みつく執念にある。


だから私は、相手のその身が朽ち果てるまで目をそらすことなく注視し続けねばならない。


「まずはそのお手並み、末席より見届けさせて戴きます」

(うやうや)しく頭を垂れ、男は御前(ごぜん)より退く。


「……若き御代(みよ)が、末永く続きますよう」


遠ざかる石突の音とともに、去り際に吐き出されたそれは、沈黙の中に溶けて消えた。


まるで、呪いのように。


◇◇◇


王の勤めとは、軍務や人事、隣国との折衝などといった『大きな仕事』ばかりではない。


むしろ、所領の分配や請願の認可の是非など、膨大な書類と向き合い、羽根ペンと印章を駆使する細かな政務のほうが多いといえる。


父はこの執務室で、山のごとき紙の束を、あの大きな掌で、ただ黙々と処理し続けていたのだ。

そのことを思い、背筋を伸ばす。


変わるということは、当然するべきことも多くなる。


かつて父が守ってきた頃とは、国の在り方も随分と変わった。


他国との緊張関係が緩和され、交易路が整備されると、隣国のヒトやモノが行き交うようになり、数字的に見れば、国はかつてないほどに潤っている。経済的な支障は特に見当たらなくなった。


だが、豊かさが生むのは良い流れだけではない。

人の往来は恩恵だけでなく、(よど)みをも運んでくる。特にカネの集まるところには、蜜に群がるアリのように人と欲望が寄ってくる。癒着や搾取が横行する、不正の温床になりうる。


そうした腐敗を避けるために、私は備えつけの人形となることを避けなくてはならない。


おそらく、父と同じように、寡黙に公務に専念するやり方を踏襲すれば、それに乗じるかたちで『いざ御注進』と奸臣(かんしん)たちが取り入ろうとしてくる。

私を無学と侮った連中が。


報告によれば、国境付近の街に近い駐屯地では、勅命(ちょくめい)と称して余分な関税が徴収されているという疑惑が持ち上がっている。しかもその中枢にいるのは前線を守るべき騎士たちだという。タチが悪いのは、帳簿らしいものを残していないこと。つまり実態を把握しているのは当人たちだけ。聞き取りや視察といった表向きの調査だけではいくらでも誤魔化されてしまい、具体的証拠が掴めず、追い詰めようがないのだ。

名目は治安維持費。だが、その金がどこへ消えるのかを知る者はいない。


「……おそらくはこの一件、裏に手綱(たずな)を握る者がいると私は睨んでおります」

「やはりあなたもそう思う?ローレント」

女王は報告書に目を通しながら、側近に向けてつぶやく。

彼は幼い頃から補佐役として私の(かたわ)らで様々な『仕事』を黙々と処理してくれている。余計な小言は多いが、職務が途切れたことはない。いうなれば私の影のような存在だ。


実際、指摘の点については私も薄々気づいていた。

「軍属の暴走にしては手際が良すぎるし、額面も個人が扱える規模を超えている……『小遣い』というには桁がおかしいわよね」

「はい。それと……」


続くローレントの報告は看過できないものだった。

「交易に関する利権を、辺境伯(へんきょうはく)をはじめとする諸侯たちが掌握しようと画策している様子。ここまでタイミングが揃うということは、何かしらの形で結託していると見てよろしいかと」


税務管理を各部署へ移管すべきと主張してくる。

中央集権は権限の独占と印象づけることになり、地方への圧迫を生む。そこを衝いてきたのだ。


綺麗な庭に砂利(じゃり)をばら撒くように、細かな汚職を散見させて、先王の威光を削ぎ落とすとともに、能力不足をも印象づける。

王の指揮権を形骸化させるための策なのだろう。


「王都の貴族どもは財布のヒモを握って俺たちを従わせるつもりだ!」

「好き放題こき使ってポイ。非道きわまりない!」


そうであればいいのだが。

もし、もっと単純で卑小な腐敗だとしたら――それはそれで救いがない。


ゆくゆくは軍費承認権(ぐんぴしょうにんけん)を議会に掌握させる腹積もりなのかもしれない。

そうなれば、待つのは戦火に包まれる国土だ。


◇◇◇


本来であればすぐさま捕縛し、処断すべきところだが、もし即座に処罰を行えば、冷遇と判断した、あるいは曲解した一部の軍人からの反発を招きかねない。

事実ではないのだが、中には、駐屯地への派遣を左遷だと考えている人間もいる。

下手に動けばむしろ火種は大きくなる。


外から見れば、それは統率力の衰えであり、国境防衛が弱体化していると見做される。


それはこちらが意図するしないにかかわらず、他国に対する隙となって露呈する。

友好国には信頼低下のきっかけとして、緊張関係にある国には侵攻の口実として。


――父はこれをひとりで背負ってきたのか。

時折、我に返って恐ろしくなることがある。


『覚悟』なんて言葉は、いつまでたっても自分の人生には馴染まない。重いし、窮屈だし、何より可愛さのかけらもない代物。けれど、あの人の背中を見て育った私には分かった。このうえなく邪魔に思えるそれが、そのうえで価値があるものだと知ってしまっていたから。


その不格好な優しさが、どれだけ国や民を救い、そしてどれだけあの人から色々なものを削り取っていったか。


父を看取(みと)ったあの冬の夜。

私の目に涙はなかった。

物言わぬ父の眠るベッドの傍らで、私は背負ったものの重さを噛みしめることしかできなかった。泣くよりも先にするべきことがあり過ぎて、父の死でさえ、国という大きなものを傷つけぬための儀式の一部だった。


「王冠を手にしてから、幾度となく思い知らされた。あの人が守ろうとしたものの大きさに、ただ絶望した。……でもね」


思わず笑みが漏れる。


「不思議よね。絶望したはずなのに、その足は一歩も後ろに下がろうとしなかった」


逃げ場がなかったから、ではない。


王族という厄介な家の子として生まれたことは、ひとつの呪いであり、そして光でもある。


継承とは、一人の人間として慎ましく生きることを捨てねばならない。

けれど、失ったものだけではなく、私はたくさんの「かけがえのないもの」を手にしてきた。


日記を目にしたあの日から、私の中には、ひそかに熱のようなものが宿っていた。

それが、一国の主としての器が持つ『道を選びし者の矜持』といえるものなのかは、まだ私にはわからない。


けれど、すべきことは見えている。

現場を見ておかなければ、明確な判断はできない。


「必要なものを準備して」

「何をなさるおつもりで?」

ぎこちない間を挟んで、側近が問う。

「……あなた、ひょっとして止めるつもりじゃないでしょうね」

「滅相もない。第一、陛下は昔から言い出したら聞かないタチでしょう?」


目の前の男は肩をすくめるでもなく、淡々と語る。

こういう皮肉をさらりと混ぜてくるあたりが、相変わらず食えない男だと思う。

(ったく、毎回ひと言多いのよ)

内心で吐き捨てつつ、こちらも素知らぬ顔で


「状況からして、単に気まぐれとは思えない。淡々と計画は進んでいるはず。となると、調査の行き帰りの時間が致命傷になることも考えられる。現地で見聞きするのが一番よ」


決して物見遊山(ものみゆさん)では済まされない、危険と背中合わせの強行軍だ。念には念を入れる必要がある。


さて、国境付近となれば、

「往来は多いでしょうね……旅の行商人あたりが妥当な線かしら」

「上の人間には顔が知られているのでお気をつけくださいませ」

釘を刺す側近を横目に、私は先のことを思う。


籠の中の果実がすべて腐りきっているとは思えない。どこかに付け入る隙はあるはずだ。


私は救いを願いながら手荷物の支度を始めた。


国境の町までの旅路はおよそ3日。

目的が目的ゆえに下手に目立つわけにもいかない私たちは、ありふれた安宿に身を寄せ、夜の帳が下りるのを待ってから酒場へと向かう。


酒場は低い天井の下に愚痴や喧騒混じりの煙を溜め込み、けだるい夜の匂いを煮詰めたような独特の空気を抱えていた。

笑い声はあるが、腹の底からではない。どこか湿り気を帯びている。


いつの時代も、人々が本音を漏らすのは酒場と相場が決まっている。

琥珀を煮詰めたような深い茶色の液体は、寡黙な男たちの口をこじ開ける魔法の水だ。


国を束ねるのが王なら、酒場を束ねるのはあの男だろう。

胸の奥でひとりごちて、私はカウンターに目をやる


隅のテーブル席で気配を消すような真似はしない。私はあえて、視線が集まりやすいカウンターの真ん中に腰を下ろした。


「一杯、もらえるかしら」

言葉を返さず、店主は無言で鈍く光る黄金色の液体を注ぐ。


ほどなくして、前にグラスが差し出される。

くぐもった灯りを呑み込んだ酒が、揺れながらこちらを見返してくる。


特定の客に肩入れするのは、この商売においては二流のすることだ。過剰なサービスは、それだけで揉め事の火種になる。


彼はあくまで、この場所の『流れ』を俯瞰(ふかん)しながら、その時々に最適な答えを導き出そうとしている。


見極めることを徹底しているはずだと、そう私は踏んでいた。


……いいわ。私の読み通りよ。


「旅の方で?」


さり気なく懐に入り込むような、低く平坦な声。


「商売です。各地の何かを都市部で売り歩く感じで」

「へえ、行商の方ですか」

「ええ。国境沿いは商売の匂いがすると聞いて」


「匂い、ですか」

店主は思いがけないセリフを耳にしたという顔をする。

「こんな辺境にそんなニオイがするとは思えませんがねえ」


「兵の方々も羽振りがよろしいとか。往来も多い。悪い土地ではないのでしょう?私はそう聞いているけど」


「ええまあ、確かに悪い場所ではありませんよ」


即答だった。

単なるその場しのぎの合いの手ではない。

この土地を愛する者の、本心からの言葉であることが伝わってきた。


「身内びいきってわけじゃありませんが、ここは人が温かい……ときおり強火のバカもいて火傷しそうになりますがね」

軽口を織り交ぜながらも、表情はまじめだ。

「昔からこちらに?」


「小さい頃はここにいました。でも商売を始めてからしばらくは王都のほうにいたことがありまして」

店主は手元のグラスを磨きながら、遠くを見るような目をした。

「しばらく勝手気ままにやってたんですが、親も年老いてきて、郷里に戻りこの店を継いだってわけです。まあ、よくある身の上話ですよ」


この男は中央の理屈も、ここの実情も知っている。

今回の件の情報を探るにはうってつけだ。


「身の上話ついでに、この町のことを教えてくれない?」


「別に構いませんが……」

そう前置きをしたうえで、


「町のことを知りたいなら、もう一つの酒場があります」


布巾を置く音が小さく響く。


「……王都の空気を知る者には、こちらは物足りないでしょう」

そこで初めて、彼は私をまっすぐ見た。

「――陛下」


「そんな気品あるように見える?」

背筋を貫く戦慄に蓋をして、鼻で笑ってみせる。


「そんなお世辞で吊ろうとしても追加注文なんてするつもりはないわよ」

グラスの中のものを煽る。

強いものを口にして頭の中をまっさらにしないと誤魔化せそうになかった。


「勘違いならすいません。でもね……あんたみたいに、やたらと真っすぐに『中身の見えない相手』を真っ向から睨みつける胆力のある奴は、そうそう見ないものでね」

そう言って店主は低く笑う。


「この辺りじゃあ、そんな目で人を見るのはよほどのお偉いさまか、世間知らずくらいなもんです」

「私はどっちに見える?」

「どちらでも、という感じですかね」

先程までとは違い、何かを含んだような曖昧な物言いだった。


「度胸とバカ正直さ。両方持ち合わせてるなんていうのは王族の特権かなと」


(……食えない男ね)


「ま、だいたいのお客さんは王様扱いしておけば上機嫌になるもんです」


つまり、訝しげな反応をした私は……。


「ま、いいわ。今夜は女王さまになってあげる。」

開き直りめいた返事で酒場の悪趣味なジョークに乗っかっておく。


「とりあえず、教えてくださる?その酒場」

「裏路地を二つ抜けた先。看板は出していません」


なるほど、と私は納得する。


この街にある酒場と言えばここ一軒だけ。

少なくとも下調べした限りではそのはずだった。


となれば、その店はギルドに営業申請を出していない、つまりもぐりの酒場。

粗野な雰囲気を漂わせながらも目の行き届くこの店に比べれば、そうした店のほうが『しつけのなっていない野良犬』の巣食う可能性は強い。


「どうぞご無事で」

店主はわずかに頭を下げた。


◇◇◇


「どうぞご無事で……ですか」


店主の言葉は、単なる別れ際の挨拶にしては、やけに重く響いた。沈黙の中に溶けるように消えたその言葉は、まるで不穏な予兆のように、私の背筋を這い上がってくる。


「……なんだかきな臭い物言いだったわね。なんだか忠告のような」


思わず口にした独り言に、隣を歩くローレントが小さく鼻を鳴らした。


「実際、そうだったのかもしれません。そちらの方が本番だ、という意味で。まさか、陛下がここまで直接足を運ばれるとは思いませんでしたが」


皮肉な物言いはいつものことだ。しかし、彼の声にはいつになく、わずかな緊張の色が混じっている。私もまた、背中に冷たい汗が伝うのを感じていた。店主の言葉が頭の中で反芻される。『王族の特権』などという言葉遊びが通用しない場所。それがここなのだ。


「……さっきまで震えておられましたね」


さらりと投げつけられた不意打ちに足が止まりかける。

「見ないふりをするのがあなたの仕事でしょう?」

「見ないふりをするのは公の場だけです」


しれっと反論してくる男に、私は思わずため息をつく。


「あんなこと言われて震えるなという方が無理でしょうに」

本音を漏らした後、

「それでも舞台の真ん中で立っていられるかどうか。それが、王の仕事なんでしょ?」

私はそう告げて先へと急ぐ。


この有能で軽薄な男がどんな顔をしていたのかは、わからないし、知りたくもなかった。


歩みを進めるにつれて、表通りのにぎやかな気配は薄れてゆき、入れ替わるように生臭い静寂を湛えている。

薄闇色の路地は、店のあった通りの喧騒が嘘のようだった。湿った空気と、ごみと埃が混じったような黴臭さが鼻を突く。煌々と輝く王都の夜とは似ても似つかない、底の見えない闇が広がっていた。


ここには自分の知らない世界がある。

(なおのこと、知っておかなくてはならない)

そんなセリフを胸の奥で噛み締めた。


突きあたりにあったのは、ここにたどり着くまでに通り過ぎた家と変わらない、なんの変哲もない家。


「ここ……で、いいのよね」


入り口の前でつぶやく。


何も見逃していないつもりだったけれど、不安が先に立つ。


この場所は、酒場というよりも『掃き溜め』という言葉のほうがしっくり来る。


角を曲がった瞬間にネズミらしき群れが散り散りに逃げ出していくのを見たが、おそらくは店の中の空気もそれと大差ない代物だろう。


◇◇◇


年季の入った扉が断末魔にも似た悲鳴を上げる。それを合図に、中の男たちの目がいっせいに入り口に突き刺さる。


そこにいるのは、もちろん私たち。


足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。

吸い込んだだけで胸焼けするような酒の匂い。


一応酒場の体をなしてはいるが、そこで飲む酒は嗜むものというよりも、束の間の現実を忘れるために浪費される、その場しのぎの麻酔薬という感じに思えた。


表の酒場が纏っていたけだるい夜の匂いなど、まだ上品なほうだ。ここはもっと、剥き出しで、無作法で、ひりついている。

充満する安酒の臭気と、質の悪い葉巻の煙。そして、何より――獲物を値踏みするような視線の群れ。


暴力的なまでの「生気」が、お嬢様にすぎない私の頬を叩いた。

目を覚ませ、さもなくば死ぬぞ。

そう訴えかけるように。


ギィィ……と、扉が閉まる音が再び鼓膜をなぞる。

退路を断つその音に、肺の奥が絞られるのを感じた。


「……野良猫が迷い込んだみたいね」


低く、枯れた笑い声。

カウンターの奥。煙の向こう側にひとりの女がいた。薔薇のような赤いドレスに身を包み、慣れた手つきでグラスを拭きながらこちらを見ていた。


店内の視線が、一斉に私と、背後に控える側近に突き刺さる。

値踏み、嘲笑、剥き出しの敵意。

隣の男の指が、鞘の縁を鳴らす微かな音が聞こえた。彼にとっても、ここは『守備範囲』をとうに越えているのだろう。


「営業中とは思えない空気ね」

私はこれみよがしに嘆息してみせる。

「楽しくお話しでもしようかと思って来たのに拍子抜けだわ」

「誰だか知らないけど、随分と勝手に決めつけるのね、あなた」


「店の良し悪しがあなたみたいな育ちのいい子にはわかるのかしら」

だいたい、この手の界隈で「育ちが良い」なんていうのは、「俺より弱そうだ」という評価を、ひどく回りくどく言い換えたものでしかない。


つまりは舐めきっている。

けれど、それは裏を返せばあからさまな油断だ。私からみれば、この状況は絶好の勝機といえた。


「あなたこそ、客を見た目で決めつけていいの?」


あからさまな挑発を投げ返しても、主と思しき女の表情は揺るがない。


店主だけではなかった。

丸テーブルに酒瓶を並べていた赤ら顔の大男が、刺すような眼差しを向けている。

男は私の返した視線に気づくなり、不機嫌そうな顔にもうひとつ苛立ちの色をプラスした。


立ち上がった男が踏み込んでくる。

その一歩一歩に、積み重ねてきた暴力の重みが宿っているのがわかる。


禿げ上がった、筋肉をまとった男。

お世辞にもカタギには見えない。


その男はほんの数歩で眼の前までやってくると、

「ガキの遊び場じゃねえんだ、ひねり潰されたくなけりゃ、とっととお家へ帰んな」

品性というものを何処かに置き忘れてしまったかのような尊大な態度でがなり立てる。


だが、あいにくと私はこんなところで引き下がるほど聞き分けのいい人間じゃない。

「そんな難癖つけるくらいなら、遊んでるほうがマシじゃないかしら」


「このクソガキぃ……舐めてやがんのか!」

見た目どおり、なんともシンプルな回路を搭載しているようで、男はスプーン一杯の火種で爆発する。


おそらくはその腕っぷしで気に入らない連中を黙らせてきたのだろう。だが、そんな路地裏の喧嘩に毛が生えたようなものは、本格的に格闘の心得のある人間には通じない。


騒ぎの気配を嗅ぎ取った周りの客がテーブルを遠ざける。おそらくこの店では何度も似たようなことが起こっているのだろう。その挙動はやけに手慣れていた。


この機に乗じて代金を払わず店を抜け出す者もいた。


この場をしのぐには、ひとまず眼前の厄介ごとを片付けるしかなさそうだ。


「てめぇもだ、そこの優男」

「このアマも大概だが、さっきから涼しい顔してやがるお前も気に入らないんだよ」

まずいことになったと思った。


私は知っている。

自分なんかより、この男のほうがよほどあぶなっかしいことを。


トン、と側近の靴が床を鳴らす。

それに釣られるように、巨漢の視線が音の場所に落ちる。

その刹那、男の顎を剣の柄が捉えた。


剣を使っての痛烈なアッパーカット。自分の身になにが起きたのか理解する間もなく、男の頭が跳ね上がった。

そのまま重力に抱き寄せられるように、もんどり打った巨駆が倒れる。

ごすん、と鈍い音がして、男はそのまま床に叩きつけられた。


「来るなり揉め事たぁ、随分なお客人だね」

伸びた男をカウンター越しに見下ろしながら、女主人が嘆息する。


「仕掛けてきたのはこっちの男でしょ?それとも、ここはお客を選ぶのかしら」


努めて平坦に、けれど喉を震わせないように声を出す。

父がしてきた沈黙を、無理やりにでも自分の中に引きずり込む。


「客は選ばないよ。ただ、『値段』は相手を見て決める。……あんたみたいな上等な毛並みの人間が、こんな掃き溜めで何を求めてる?」


女店主は拭いていたグラスを置き、両肘をカウンターに突いた。

自分の店を掃き溜めと称する。タチの悪い冗談にしか聞こえないが、その目は笑っていない。


「カネの話をしにきたの」

「……カネ?」

「ええ。仕事柄、その手の噂には興味を惹かれるものでね」

警戒心を保ちつつ、あくまで商売人として振る舞う。

「だったら無駄足もいいとこだよ。この店にたむろする連中なんて、儲け話なんてものには縁のない連中ばっかりさ」

吐き出されたセリフに誤魔化しているような気配は伺えない。おそらくは本音なのだろう。

その言葉どおり、この店には明日の仕事にさえ困り果てているような連中がたむろしているように見える。都合のいい儲け話が転がっている雰囲気ではない。


「まったく下手な芝居をうつね、あんた」

開口一番、女主人は見透かしたようにつぶやく。

「あんたみたいな、その真っすぐすぎる目が、どれだけここじゃ『場違い』か分かってないだろう」


私は答えず、ただ女の瞳を射抜くように見つめ返した。


女が口を開く、

「今のあんたは、グラスの中で溺れた羽虫みたいに厄介者扱いされるだけ……つまんで取り除かれる前に、這いずり回って逃げ出すんだね」

「つまみ出す前に、なぜ落ちたのかを知ろうとしないなら、また同じことが起きるわよ」

「……自分が虫であることは否定しないのかい」

「そう聞こえたなら謝るわ。楽しく話しましょう?」


女の目はまだ警戒を解いていない。

まあ当然だ。あの騒ぎの直後なのだから警戒されないほうがおかしい。


けれどここで引いても、おそらく『先』には進めない。

「……それとも、この店には聞かせるほどの与太話もないのかしら?」


見え透いた挑発とともにカウンターに置いた皮袋の中身が、じゃらりと音を立てる。


その音色だけで、意味を察したらしい。女店主はじっと私を見つめる。

「カネの話……ねぇ」

紫煙混じりの深いため息が、カウンターを満たす。


「いきなりその手の話を持ってくるやつは面倒だって相場が決まってる。あんたもそのクチかい」

呆れながら小さく笑うと、背後の棚からラベルの剥ぎ取られた黒い瓶を取り出した。


「……座りな、お嬢さん。あんたのその『綺麗な目』が、いつまで曇らずにいられるか……賭けてみるのも悪くない」


「あたしはヒルデ。いちおうこの店の主人さ」

紫煙(しえん)をくゆらせながら、

「といっても、『片錆』なんて気に食わない呼び名のほうが通っちゃいるけどね」

と、自嘲気味に笑う。


長い髪でほとんど見えないが、左側の頬の部分に火傷の痕らしきものが見える。

訳ありな店の空気を体現するような、なまめかしくも触れがたい、抜き身の刃にも似た強さをまとっていた。


「国境の守り人が、いつから『通行税』以外の小遣い稼ぎに精を出すようになったのかを知りたくてね」


一瞬、酒場の喧騒がふっと消えた。

あちこちで椅子が軋む音が聞こえる。側近の足が、半歩前へ出る。


「……勇気があるのか、ただの馬鹿なのか」


女店主がニヤリと口角を上げた。そのかおは、先ほどの表の店主よりもずっと「この土地の真実」に近い気がした。


「あの騎士様連中が幅を利かせ始めたのは、あなたの父上が亡くなってから。新しく派遣された男が町の広場で委任状とやらを読み上げてたからイヤでも覚えてるわ」

忌々しげに吐き捨てる。


「しばらくして、奴らはあちこちで金を取るようになった。名目はバラバラ。しかもこの店にまでやって来て。うちの店が闇営業だってことがわかっているはずなのに、そこはお咎めなし。それどころか、むしろ私たちからも金をせびる始末。どう考えてもカタギの発想じゃないわ」

ヒルデのような、幾度も修羅場をくぐり抜けたであろう女がそこまで言うのだ。到底軽い話ではない。


「あんたの父上の時代はね、兵は守る側だった。今は違う。子どもが騎士を見ると、母親の後ろに隠れるのよ」


「本当なら管理する側が厳しく言うもんさ。ところが、そいつがけしかけてるって話だ。最悪だろ?」


「あの鼻持ちならない態度が気に食わないのよ。吐き気がする。鼻につく西の響きといい……あたしらはああいう奴を信用しない」


この国の威信を守るための、誇り高き職務。

それが騎士であり、その誉れであるはずだ。


そんな騎士を子どもが恐れる。

そのような国がまともであるはずがない。


それを許すのなら、

糺せず見過ごすのなら、

私には冠を戴く資格などない。


「駐屯地の詳しい情報が欲しい。詳しいやつはいるか」

「あー、なら少し時間がかかるかな」


「どのくらいかかる?」

「そいつ次第だね」

ヒルデはつぶやき、店の隅へ顎をしゃくる。


嫌な予感がして、私は視線を追った。


「……そう、さっきあんたのツレがのしちまったその男さ」


まったく、ひどい種明かしだ。


「とっとと起きな。あんたに大事な用があるんだとさ」

「用事だぁ?いったいどこのどいつ……が…」

毒づきながら顔を上げ、そのまま男は固まる。

「……なんであんたが」

居心地の悪い時間を押しのけるように、男が口を開く。


「あなた、近くの駐屯地で仕えてたって本当?」


問いには答えず、代わりに男は私の背後に立つ側近をじっと睨みつけていた。ローレントのほうも、様子をうかがうように男の方へ視線を向けている。


まだ因縁をふっかける気か。厄介ごとはもう沢山だと、溜め息を呑み込んだそのとき。


「……見事、というほか()えな」

厳つい男の口からこぼれたのは、ひどく端的な称賛だった。


「単なる行商人の護衛にしては強すぎる。あんた、どこでその剣技を学んだ?」

「………」

「誤魔化そうとしたって、その腕が何よりの証拠だ。あの間合いを一瞬で詰めたうえで、的確に弱点をつくあの技術。ただものではない」

「……買いかぶりだ」

「確証はないが、あの構えと体捌き……北耀(ほくよう)の流れを汲んでいるな。師は誰だ」

「さあね」

「なるほど。名は明かせぬということか。ますます気に入った」

「語ればそこが弱みにつながる。戦いに身を置くものとして、それは絶対に避けなければならないからな」

側近は何も語らない。認めも否定もしない。


けれど、男はそれを拒絶とは受け取らなかったらしい。むしろ楽しげに口角を上げた。


「いいぜ。俺が知ってることなら協力させてもらうぜ」

「やけに聞き分けがいいわね」

「今やこの体たらくとはいえ、騎士としてやってきた事実まで捨てちゃいねえ。負かされた相手に虚勢を張るほど野暮じゃねえから」


「あんたは技も心も本物だ。……だが今の騎士団は違う」


「剣を振るうのではなく口先だけで相手を丸め込むことに執心していやがる」

後輩の体たらくに呆れ果てているらしい。




「今の騎士団に抜け道の穴を埋めるような気概があるとは思えない。仮に気づく奴がいたとしても、今の腑抜けた奴らじゃあ、どうせ大したことじゃないと見過ごしてるはずだ」


男の知る抜け道を使って内部に侵入。裏にいる関係者とつながる証拠を持ち帰り糾弾する。


「リスクは大きいですが、上手く行けば貴族を牽制する十分すぎる武器になるはずです」


翌朝、靄が立ち込める町を、私たちは出発した。

目的地はもちろん国境そばの駐屯地。

国境の非干渉地帯を挟んだほんの数メートル先には、同様に隣国の駐屯地がある。


今私たちがいるのはその両方を望む丘である。


高々と掲げられた王国の旗は、湿った風を受けて重たげにたなびいている。

一見すれば、そこにあるのは父の時代から変わらぬ、国境を守るための強固な石造りの要塞だ。


最前線で務めに励む兵士たちは、日夜この国のために身を粉にして働いている。

そう信じていた。


だが兵士は牙の抜けた獣の群れに成り下がっていた。


隣国が穏健派であるために大きな問題が起こらずこれまでは維持できた。


そんなものは単なる幸運でしかない。風向きが変われば、虫食いでボロボロの砦などあっけなく陥落しかねない。


事態は急を要していた。


とはいえ。

(彼に任せて大丈夫なのかしら)

不安のほうが勝っていた。


やけに自信たっぷりな彼を見ていると、なおさら心配になってくる。


見上げるほどの威容を誇る砦の外壁。

一見すると、一分の隙もない難攻不落の要塞という印象を受ける。


だが数年前、天を砕くかのような雷霆がその一角を直撃し、堅牢を誇った石造りの壁は無残に崩落した。


「記録によれば、その年に修繕は完了、となっています」


隣を行く側近が、教科書どおりの事実を口にする。

それに対し、先導する男は息を殺しながら、口角を吊り上げた。

「帳簿の上では、な」


正確な時期までは思い出せないが、そんな申請があったかもしれないと思い起こす。


「……ここだ」

男が指さしたその場所は、確かに他の部分と明らかに異なった色合いをしていた。

だがそれは、単に修繕のせいでそこだけが新しいようにも見える。


男の合図で、私たちは影に潜り込む。朝日に照らされた壁面は、遠目には完璧に修復されているように見えた。他の場所よりも比較的新しい石材が整然と並び、一度は失墜した砦の威信を見事に取り戻したかのように。


だが、男がその表面に指先を触れた瞬間、乾いた音を立てて漆喰の欠片がぼろぼろと剥がれ落ちた。


「おい、見てみろ。これが『血税の結晶』だ」


男がナイフの柄で壁を軽く小突く。

と、返ってきたのは中身の詰まった重厚な石の音ではなく、虚ろな空洞音。


壁の向こう側が空洞なのではない。

壁の中身そのものが空っぽなのだ。


修繕費という名目で、予算は確かに計上されていた。

だがその大半は役人の懐へと消え、現場に回されたのは表面をなぞるだけの安物の漆喰と、内側に詰め込まれた廃材ばかり。


男がほんの少し力を込めて壁を押し込むと、精巧に描かれていたはずの石積みの壁の模様が沈み込み、積み木が倒れるようにそのまま呆気なく内側へと崩落した。


「中抜き万歳だな。おかげで俺たちの仕事は、ピクニックより簡単だ」


突きつけられた無様な真実。

それに追い打ちをかけるような男の揶揄が、その不正を、怠慢を見逃していた私の胸に、鋭い棘となって刺さる。


崩れた隙間に手をかけ、男たちは闇の奥へと吸い込まれていく。

トップの腐敗が作り出した『最短ルート』。

難攻不落と謳われた砦の内部へ、私たちは難なく侵入することになった。


側近に手を取られ、砦の中へと踏み入れる。


弁解のしようもない怠慢の証。

嘆かわしい限りだが、今回ばかりはその腐敗ぶりに感謝せざるを得なかった。


「ひでえな。俺がいた頃より薄汚れてやがる」

辺りをぐるりと見渡した男の口から呆れ声が漏れる。


彼の言葉どおり、砦の中は惨憺たるありさまだった。


この乱れた規律を糺すためにも、女王として毅然と振る舞わなければ――そう思った矢先、転がっていた瓦礫が私の行く手を阻む。


まずい、と思ったときには立て直しの効かないほどの角度に私の体はつんのめっていた。


不運と不器用さを天に呪ったとき、すかさず伸ばされた腕が脳天から床に突っ込みかけた私の身体を支えた。

「お怪我は御座いませんか」

と、ローレントの声が降ってくる。

「ちょっとふらついただけよ。だから早く離して」

そう告げて側近の手を無理矢理に引き剥がす。


が、ここまで派手に転んでは何も起こらず済むはずもなく。


「おい、誰かいるのか」

曲がり角の向こうから誰何(すいか)の声とともに軍靴の音がした。


ゆるみかけた空気に再び緊張が走る。


私はとっさに男の腕を引き、物陰へ身を滑らせ……ようとしたが、男は視線を避けられる場所を探すどころか微動だにしない。

大柄の男を簡単に引っ張り込むことなどできるはずもなく、やむを得ず私たちは自分らだけ物陰へと隠れた。


と、男はなんのつもりか、これみよがしにふらりと壁に手をつき、あえて足をもつれさせた。蹴飛ばされた空き箱が壁にぶつかり、派手な音を立てる。


ほどなく、角からひとりの騎士が姿を現す。

隠れはしたものの、酒場の男は避けることさえしない。そうこうするうちに巡回中の男もこちらに気づき、近づいてきた。


巡回の騎士が足を止める。

こちらに気づいたらしい。視界遮るもののない回廊だから当然だ。


騎士との距離がゆっくり縮まる。

手が剣にかかる。

視線が合う。


元騎士も、見張りの男に当たり前のように近づいてゆく。


「よぉ」

普段から挨拶し慣れているかのような素振りで、やって来た男に挨拶をする。

肝の太さは戦場で培われたゆえ、というところかもしれない。

それがいい方向に運んでくれるかどうかは別だが。


沈黙。


そして──


騎士が男のそばで鼻を鳴らす。


「……なんだ、交代か」

不審者のはずの男の姿を、巡回の騎士はあっさりと受け入れた。


目と鼻の先で起きていることが、にわかには信じられなかった。


「ずいぶん飲んでやがるな……おい、持ってるなら一口よこせ」

男の酒臭い息を避けるように、巡回中の兵士は顔をそらす。


だがそういう男のほうも、明らかに目が据わっている。どちらかといえばおぼついていないように見える。


どうやら、やってきた男は元騎士の男の息が酒臭いことから、相手の男を仲間……いや、同類だと判断したらしい。


飲んだくれていることが理由で信用できる相手だと判断されてしまう現実があまりにも悲しかった。


「わりぃな、詰め所に置いてきちまったよ」

「なんだよ、気付けに一杯引っ掛けようかと思ったのによ……俺の分も残しといてくれよ?」


それだけ告げて男がふらふらと引き返す。


命拾いをしたはずなのに、胸の奥に広がったのはなんともいえない苦みだった。

こんな連中に国の命運を預けていたのかという冷たい現実。


鬱々とした気分になる。


「おい、行くぞ」

先導の男の事務的な響きに、ふと我に返る。


こんなところで立ち止まって肩を落としている場合じゃない。自分には、まだやるべきことが残っている。


「この先が資料室だ」

男が声をかける。


案内された部屋は、およそ管理という言葉からは程遠い空間だった。


投げ捨てるように置かれた冊子の表紙には埃が積もっている。


それでも資料は山のようにある。

今の担当官が就任した当時、つまり父が亡くなり、自分が王位を継いだ当時の記録を探し出す。


指先を真っ黒にしながら、積み上がった「過去」の山を一つずつ切り崩していく。

堕落を極めたような連中な連中が元の位置に入れておくはずもなく、乱雑になっていたので苦労はしたが、


指先の感覚が、埃と紙の匂いで麻痺し始めた頃だった。

雪崩を起こしそうな書類の山の隙間に、見覚えのある筆跡が挟まっているのを見つける。


「……あった」


引っ張り出したのは、背表紙が半分剥げかけた一冊の報告書だ。

父が死に、自分が「それ」を継いだ日の日付。


「おい、見つかったのか」


扉の近くで番をしていた男がこちらを振り返る。

私は慌てて感情を押し殺し、手にした冊子を懐にねじ込んだ。


「ああ、お望みのものはあったよ……思っていたより、ずっと汚い代物だったけど」


皮肉の一つも言わなければ、立っていられなかった。


出口へと向かう足取りは、来た時よりもずっと重い。

けれど、胸の奥で燻っていた火種は、今はっきりと「怒り」という形を帯びて燃え始めていた。


◇◇◇


酒場へと戻った私たちを、ヒルデは出迎えてくれた。

「二階を使いな」

宿まで持ち帰ることも考えたが、結構な紙の束を持って町中を歩くのはリスクが高い。下手に目立ってしまっても嫌なので、ここは誘いに甘えることにする。


そこに書かれていた男の名前と経歴を見た私の口の中に苦いものが広がる。


男の前任地。

それは西方だった。


更に帳簿をめくり、愕然とする。

『予備費』なる名目で、費用が外に流れている。


一度や二度の話ではない。むしろ定期的に泣かされている、というほうが正確だった。


砦の運営は管理官に一任されている。

中央、つまり王都から事細かに指示してもよいのではないかという考えもあるかもしれない。


前述のとおり、私たちが今いるこの国境沿いの町、ならびに砦は王都から馬車を走らせても三日を要する遠隔地である。そのため、逐一中央の承認を仰ぐようなやり方では、たちまち政務が立ち行かなくなってしまう。青果店や肉屋の営業許可ひとつに往復6日も費やすなど、あまりに非合理だ。申請する側にとっても、せっかくの品物が傷んでは商売あがったりである。このようなさまざまな理由が重なり、一定の裁量は現地に委ねられる形となった。


ただし財政については中央が補填を行わず、自立的運営を原則とすることが前提とされた。つまり、予算は出すが赤字や失策の穴埋めをしない。その代わりに口出しは最小限に抑える――責任はそちらで負えというわけだ。


それが中央と地方の暗黙の取り決めだった。


だが、一見合理的に思えるこのやり方は、その地域を担当する管理官の権限が必要以上に強くなる。貴族のように増長した一部の人間による横流しや収支のごまかし、あるいは現地勢力との癒着を自然に生み出してしまう。


つまり、悪意がなくとも密室政治めいた構造そのものが腐敗を生みやすい。現地の裁量を大きく認めた結果がこれだ。制度の持つ副作用ともいえた。


葬送の儀。

そのわずか5日後から、金は動き出していた。


「……こんなもの、認めた覚えがないわ」


もたれかかった石壁のひんやりとした感触が、揺らぎそうになる心に、女王としての矜持を取り戻させてくれる。

「行きましょう。この町に巣食う『虫』たちが、誰に牙を向いたのかを教えてやるために」


私は管理官の元へ向かう決意を固めた。


資料室で手に入れた「決定的な証拠」を握りしめ、私は、側近とかつて騎士だった男を引き連れ、町の中心部にある管理官の屋敷へと足を踏み入れた。


突き当たりの執務室。

鍵すらかかっていないのが明白な、わずかな扉の隙間。

そこからこぼれてくるのは、ランプの薄明かりだけではない。

任務に励む者の発するものとは思えない下卑た笑い声と、甘ったるい酒の匂いが、夜気に混じって廊下まで流れてきていた。


男の靴がドアを勢いよく蹴り開ける。


「……ん〜?」

男は気だるげに、開け放たれた扉の前に立つ私たちに怪訝なまなざしを向ける。


「貴様ら何事だぁ?許可なく国の管理区域に立ち入るとは……」

贅肉のついた体を揺らし、デスクから顔を上げたのは、西方から派遣された管理官だった。

この男の顔には見覚えがある。就任式で見ているからだ。だが、以前見たときよりも羽振りがいいようだ。明らかに肥え太っているのがわかった。到底騎士のトップを務める男の風体ではない。


権力という毒に溺れ、今や醜悪な欲望を隠そうともしていない醜悪な肉塊。

前線を守る騎士たちを統括する立場にありながら、いきなり部屋に踏み込まれたという緊急事態に、まるで対応しきれていない。


アルコールに侵食された脳細胞はまともに回転せず、緊迫感のかけらもない。


そんな男の背後の壁には、かつて父が掲げたのと同じ王国の旗が、皮肉にも誇らしげに飾られている。


その旗の下で、この男は外聞もなく醜態を晒している。

心の奥底が、ざわりと逆立った。


「管理官、あなたに聞きたいことがある」

感情を覆い隠し、つとめて冷ややかに告げる。

「『予備費』。そして『修繕完了』の虚偽報告。説明を求めます」

「……何のことかさっぱり分かりらんな」


「市民が金の使い方に口出しする権利なんてないんだよ、とっとと失せろ!」


「資金の使い道は一任されている。けれどそれは健全な運用がなされることが前提。お金はあなた自身の財布じゃないの。恥を知りなさい」

なおも噛みつこうとする男の机に、私は無言で、埃にまみれた一冊の報告書に叩きつけた。

男の仏頂面(ぶっちょうづら)にわずかな亀裂が走る。


「あなたは貴重な国庫を西方にいる『何者か』への献上品に変えた」

「いや、それは先王の時代の混乱による事務的なミスで……」


そこまで並べ立てて、男の顔が凍りつく。


「いや、なんというかその」


男の表情に、ようやく『目の前の女が何者か』という疑念への正解が浮かび上がる。


「……ヘ、陛下がなぜ、このようなごみ溜めのような辺境に……」


自分の管理する土地に向けたものとは思えない、その口ぶりからは、もはや管理者としての責任感を、どこかに売り払ってしまっていることを如実に示していた。


管理官の額から、滝のような脂汗が流れ落ちる。 椅子を蹴立てて立ち上がろうとしたその不格好な体を、私の鋭い視線が射すくめた。


「この『予備費』と称された資金。どうみても流用していることは明らか。西方領へ向けた定期的な献金……これを事務的なミスと言い張るつもり? もしそうなら、あなたの無能さは、この国の安全保障を脅かす重罪よ。 そして、この『修繕完了』の報告書。 外壁の中身が安物の漆喰と廃材で埋め尽くされていることも、あなたの言う『事務的ミス』に含まれるのかしら」


うぐ、と男は溺れるような声でうめいた。目線をさまよわせ、うつむく姿には騎士としての矜持など微塵も感じられない。


「証拠はすべてここにある。 側近、連れて行きなさい。この男の任を直ちに解き、王都の監獄へ。それと、西方のナファシュ卿へ親書を送りなさい。 『あなたの飼い犬を、一匹捕らえた』と」


――ナファシュ。


その名を耳にした男の顔が、糾弾されたとき以上に青ざめる。


「やめ……やめてくれ」

明らかに声音が変わったのに気づいた全員が男を見る。

「お願いだ、それだけはどうか……ッ!」

ふんぞり返っていた椅子から転げ落ち、這いつくばるように私のもとにすがりついてくる。

「私は命じられて……だからっ」

あまりに哀れな姿に、私は顔をしかめた。


あの男の存在が、この俗物にはどんな刑罰よりも恐ろしいというのか。


「このままでは終わらぬぞ!……貴様らは、何も分かっておらぬ!」

刑務官に引きずられながら男が(わめ)く。だがそれも遠ざかってゆき、凍りついたような静寂が戻った。


背後の壁に掲げられた旗が、窓から吹き込む風に冷たくはためいた。 父が愛し、守り抜こうとしたこの国を、私は一粒の『不純物』も残さず清めてみせる。たとえその道が、どれほど険しく孤独なものであろうとも。


管理官が連行され、主を失った執務室を後にしたとき、廊下の影で待っていたのはあの禿げ上がった元騎士の男だった。

「なかなかの啖呵(たんか)だ。スーッとしたぜ」

男は曇りのない顔で笑う。


「本当に行っちまうのか、お嬢ちゃん……いや、陛下」

男は決まり悪そうに頭を掻き、それでもどこか晴れやかな顔で私を見下ろした。


「ええ。王都で私を待ち構えている『毒蛇』たちの相手をしなきゃならないから」

私は努めて不敵に笑ってみせる。


「あんたのツレにぶちのめされたときはどうなるかと思ったが……」

男は隣に立つ側近を一度睨み、それから私に無骨な拳を差し出した。

「今のあんたの目は、あの頃の騎士たちが見上げてた旗と同じ色だ。……悪くねえ」

あれだけ真っ向からぶつかりながら、そこに因縁のようなものはこれっぽっちも見えない。


「きれいに決めてくれて、今じゃスッキリしてるぜ」

その言葉が、答えのような気がした。


そのとき。


「ローレント・ノインツだ」

背後から思わぬ台詞が飛んだ。

男も驚いたのだろう。不意打ちめいた側近の声にぽかんと口を開けている。

だがすぐに晴れやかな笑顔を向けながら

「ギュスターヴ。ギュスターヴ・ブランドだ」

互いに名乗りを済ませると、握手を交わす。

「貴公の助力なくして計画は遂行し得なかった。礼を言わせてもらう」


「あんたこそ、いい働きっぷりだったぜ」

それは、どんな着飾った貴族の祝辞よりも、今の私には誇らしく響いた。


隠れ家めいた酒場の前では、女主人のヒルデが相変わらず紫煙をくゆらせて立っていた。

「羽虫どころか蝶だったとはねぇ。大したタマだよ、あんた」

「おかげさまで。この街の『不純物』は、私が責任を持って片付けるわ」

「やりすぎないよう気をつけとくれよ」

女主人は釘を刺すようにつけ加える。

「あたしらには居場所が必要なんだ」

「……そうね」


まともに見えても腐ったもの。

無茶苦茶に見えても輝いているもの。

私の世の中の見方を、この街は裏切ってくれた。


正体を知ってなお、何ひとつ変わることのない彼女とのやり取りが嬉しかった。


私が馬車に乗り込もうとすると、遠巻きに見ていた女の子が、母親の背中からおずおずと顔を出した。周りに目を向けると、木の陰や家の窓からこちらを見ている子供も見える。我が物顔でうろついていた騎士を恐れていた彼らの目に、今は怯えではなく、得体の知れないものを見るような好奇心が宿っている。


「また来るわ。次は、青臭い行商人としてではなく、この国の主として」

社交辞令ではなく、本心から私はそう告げた。


◇◇◇


「まさかあなたが自分から名乗るなんてね」

背もたれに身を預けながら、側近の顔を見る。

「他意はありませんよ。単に貴族としての儀礼に則ったまでです」

手帳に何やら記しながら、素知らぬ顔で告げる男の態度はどこまでもそっけない。

「不器用ながら謝意を伝えてきた相手を前にして、こちらだけ名乗らないというのは、それこそ私の美学に反しますから」


革の手綱が馬の背を打ち、馬車が動き出す。

石畳を叩く蹄の音を聞きながら、私は懐にある父の報告書を強く抱きしめた。遠ざかる国境の砦を見上げれば、そこにはまだ、脆く崩れやすい平和が危うげに鎮座している。


守らねばならない。

私を震わせたあの掌の温もりを、今度は私がこの国に与える番なのだから。


◇◇◇


王都へと戻った私を待ち受けていたのは、喉元に絡みつくようないくつもの申請書だった。


今回の一件はあくまで管理官が独断で行ったことであり、西方領並びにナファシュ卿はなんら関与していない。それでもなお追及を続けるというのならば、我々は中央の横暴に断固として対抗する。


覚悟はしていたつもりだった。

それでも、時は躊躇なく私を疲弊の淵へと追いやる。

逃げ場のない重圧に押しつぶされそうになることも、一度や二度ではなかった。

そんなとき、私は吸い寄せられるように書斎の扉を開く。


弱音を吐こうと思えば、決して出来ないわけではないのだろう。

けれど、父の治世を間近で見てきた私は、そこに付け込まれてしまうのを、どうしても許したくなかった。

大切なものを誰かに踏みにじられたくないと、意地を張ってしまう。


けれど。

ならば私は、どこへ行けばいいのだろう。

王でない私を、誰が受け止めてくれるのだろう。


……そんなふうに心が揺れてしまう自分が、為政者失格に思えて少し情けなかった。


ときおり、父の言葉を聞きたくなった。

あの人ならどうしただろうと、考えてしまう。


私はもっと話をしたかったのだろうか。

いくつもの思いに駆られながら、机の上で、古びた日記を開く。

それが未熟な私を支えてくれた。


だが。


その日私が目にしたのは、見たことのない父の顔だった。



《王として民の前に立ち、賛美の声を浴びるたび、私は途方もない罪悪感に(さいな)まれる。決して、私は人々に称えられる人間などではない。取り返しのつかない罪を重ねながら、言い訳を続けている。あの娘の目を見るたび、私は己の醜さに耐えられなくなる。私はいつか、この罪を償うことができるのだろうか》


そこに記されていたのは、罪の告白だった。


《日々の中で積み上げた功績は、この大罪を隠すための虚飾に過ぎない。民を欺き、天を欺き、私はこの手を汚し続けた》


書き連ねられた言葉が胸をつまらせる。

いったい父は何をしたのか。

国を束ねるという仕事は、理想を掲げるだけでは済まされない。この世界は綺麗事だけじゃ動かないのは私とて百も承知だ。けれど、清廉潔白を貫いたはずの父がここまで悔いることとは、果たして何なのか。


私や国民たちに隠して、国を売るような、あるいは誰かを犠牲にするような恐ろしい企みに手を染めていたのか。


すがる思いで開いた日記が、今は恐ろしい悪魔の(あぎと)のように感じられる。

父への不信感と、得体のしれない恐怖が、暗い書斎に満ちていった。


もうよそう。

胸が潰される思いで閉じようとしたときだった。


ページの隙間から、薄い何かがこぼれ落ちた。

ただの栞と思われたそれを拾い上げたとき、思考が止まり、記憶が巻き戻る。


あれは――そう、隣国の姫の誕生祝賀会に招かれた日の、その帰り道。

母と乗った馬車の窓から見えた景色に、私は思わず御者を呼び止めて停めさせた。

外へと飛び出した私の眼前に広がっていたのは、丘一面に咲き誇る花の海だった。名もなき色とりどりの花たちは、王宮の庭園に咲く手入れされたそれとは異なる、厳しい自然の中で咲き誇る命の輝きだった。


黄金のごとき西日に照らされたその光景に、幼い私の心は一瞬で奪われた。

ただ、この美しさを、この震えるほどの感動を、誰かに……父様に伝えたい。

胸を焦がす想いに駆られるまま、しゃがみ込み、花を摘んで持ち帰った。

あの日のことが、風や土の匂いまで蘇ってくる。

その中のお気に入りを、押し花にして薄紙に挟み込んだ栞を、父にプレゼントした。

あのとき、父はいつもの顔で

「そうか」

とだけ答え、それを机の上にそっと置いたのを覚えている。


そんなものがここにあったことに戸惑いつつ、少し癖のついたそのページを開く。


◇◇◇


《私は己の無能さを呪う。最も身近な人間ひとりを幸せにしてやれないという残酷な仕打ちをし続けてきた。王女として育てることが、父として愛さないことと同義であってはならないはずなのに。

私の罪とは、父親として抱きしめてやるという当たり前のことを、ただの一度もしてやれなかったことだ。

王である前に父でありたかった。あの子の涙を、この手で拭ってやりたかった。なのに私は、国や民を口実にそこから逃げ続けた。あの子の前で上手く振る舞えないことを、どこかで怖れたのかもしれない。いずれにせよ、私は、あの子から家族の温もりというかけがえのないものを奪い去った、どこまでも卑怯な人間なのだ》


指先が震え、視界がにじむ。

父が恐れていた『罪』の正体は、血塗られた陰謀などではなかった。

王冠の重さに耐えかねて、たった一人の娘を抱きしめる手さえ失くしてしまった、不器用で孤独なひとりの男の悲鳴だったのだ。


栞の花は、長い年月のせいですっかり色褪せている。

けれど、父はこの小さな贈り物を、ずっと、ずっとここに挟んで大切にしていた。

私が知らない夜にも、見つめていたのかもしれない。


民の前で紡ぐべきは言葉ではない。

この国の新たな歴史であり、希望だ。


そのことを、愚直なまでに貫いた父。

父の作り上げたものを、大切にする。


『王』などという仰々しい肩書き。

それがただ臆病で弱虫でしかない私の細い肩に乗り、ひとりの少女としての生き方に背を向けさせてから、もう幾度かの季節が流れた。


世界はままならない。

王としての正しい在り方など、本当にあるのかと幾度も己に問いかける。


勝ち得た果てにあるものが地獄であり絶望ならば、戦うことに意味はあるのか?


その答えは、きっとこうだ。

一緒にいたい人が居る。

それだけで、地獄は地獄でなくなる。

生き続ける理由なんて、それだけでいい。


私室に戻った私は、化粧棚の上に置かれた小箱を開ける。


誕生日に父から貰った髪飾り。

自分の趣味とはだいぶ違った、ひと昔前の流行を引きずった、すこし皮肉を混ぜた言い方をすればセンスのよくないもの。けれど大切なそれを宝箱から取り出し、右耳の上の癖っ毛の部分につける。そして、その上から冠を戴く。


重苦しい冠は、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


過去を思い出として懐にしまい込んでいても、それはただの荷物、あるいは置物でしかない。けれど、それをひとりの人間の生き方として読み解くことができたならば、それは女王として前に進むための『覚悟』という名の力に変えることができるはずだ。私は私のやり方で、あの人が愛したこの景色を守り抜く。


どれだけあがいても、あの人には届かないかもしれないけれど、それでも。


継がれゆくものを守るために。前を向いて進んでゆく。

私は静かにそう誓った。


けれど。

それですべてが片付くほど世の中は甘くはないと、私はすぐに思い知らされる。


嵐は、すぐそこまで来ていた。

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