君と暮らせたら
日常に一杯のコーヒーを。
蒸し暑い体育館。その中では十人の選手が白熱のプレーを繰り広げていた。といっても今日は練習試合で戦っているのはここの高校の生徒だった。わたしがずっと見ているのは六番のユニフォームを着ている「キミ」。一生懸命プレーしてる姿が格好良くて。その「キミ」がパスを受け取ってゴールを決める……
ピピピピピと無機質な電子音が部屋に響く。手探りで目覚まし時計を止めて、まだ眠い目を擦って起き上がった。何だかずいぶんと懐かしい夢を見た気がする。一つ大きく伸びをして仕事の準備にかかった。私が勤めているのはある洋服のデザイン会社。もうかれこれ三年目で、今のところ仕事は順調だし、何よりも楽しい。
「お疲れ様でした」
とちらほら聞こえてくるオフィス。今日は珍しく定時で仕事が終わった。特に寄るところも無くて、帰ろうとした時に声を掛けられた。声の主は同僚の詩織。詩織とは気が置けない仲だ。
「一緒に帰ろ」
そういってニコニコ微笑んでいる。
「あれ、里香は?」
「里香は用事あるって言って先帰った」
里香も詩織と同じく気の置けない同僚だ。
「そっか、じゃあ帰ろっか」
そして、オフィスを出てしばらく廊下を歩いたところで詩織が思い出したように口を開いた。
「そういえば、紹介したい店があるんだよね。前に良い店教えてもらったからそれのお礼」
言いながら詩織はメモを取り出した。メモに書かれていたのは店の名前と住所と営業時間と簡単な地図。
「ここのコーヒー絶品だったんだよね」
「ありがとう!今度行ってみるね」
コーヒー店巡りが好きな私たちはよく店を紹介し合っていた。
でも、最近は忙しくてあまり行けてなかったから何だか嬉しかった。
「じゃあね」
「また明後日!」
いつもの様に私たちは駅前で別れた。私の家はここから三駅行ったところ。まだ早い時間で比較的空いてる電車の座席に座ってさっき詩織に渡されたメモを取り出した。
今日は金曜日。明日、明後日は休みだから折角だしこの店に行く事にした。
朝、昨日詩織にもらったメモを忘れず鞄に入れて家を出た。今日は初春の陽気が気持ちいい。 最寄駅から電車に揺られて五駅。電車から降りると閑静な住宅街が広がる。
しばらく歩くと民家もまばらになって、やがて緩やかな上り坂になった。向かって右側には森が、左側にはちらほらと民家があるけど、そこ以外は低いガードレールで囲まれているだけで眼下にはきれいな街並みが広がっている。今日は快晴だから本当によく見渡せる。遠くにある山の稜線もくっきりと見えるほど。鳥のさえずりも聞こえて来て上り坂も苦にならない。
上り坂をしばらく歩くと目的の店に到着した。白木を基調とした建物で、店の前にはカフェ看板に白いチョークの字で店名の「Revoir」の字が書かれていた。扉を見ると「Welcome!」と書かれた小さな木の板がぶら下がっていた。
店の外観を一通り見て扉の前に立った。いつもこの瞬間はワクワクする。どんなマスターなんだろう。どんなコーヒーを入れてくれるんだろう。そんなことを思いながら扉を開けた。
チリンチリンと可愛いベルの音が響く。優しい木の香りが私を包んだ。電気は点いていなかったけど、外から差し込んでくる光で十分に明るかった。やっぱり詩織は凄い。私の好みピッタリなお店だった。
でも、店内には誰もいない様子だった。時間を間違えたのかと思って慌ててメモを確認してみた。うん、ちゃんと営業している時間だ。
取り敢えず一通り店内を見回してみると左の窓際の丸いテーブル席に突っ伏してる男の人が一人。カフェエプロンをしているからきっとここの店の人なんだろう。あの……と近寄りながら声を掛けてみるけど全く起きる気配が無いし、とても気持ち良さそうに寝ている。
開いている窓から時折風が吹いてきて真っ直ぐな茶色の髪を揺らす。睫毛が長くて綺麗だった。まるで映画の中の世界みたいで、ちょっと見とれてしまった。
でも、どこかで見たような、そんな雰囲気を感じた。誰かに似ているような、そんな気がした。
ちょっとは待ってみたけれどこのままじゃきっと目を覚まさない気がして、すみませんと声を掛けてみる。
何回か声を掛けると、長い睫毛が震えてゆっくりと瞼が開いた。まだ、目の焦点が合ってない様子でゆっくりと私を見上げる。丁度目線が私の顔くらいまで来たときにしまった、というような表情を見せて慌てて立ち上がって
「すみません!」
と頭を下げて一言。
その様子やあまりの必死さに何だか可笑しくて、思わずふっと笑ってしまった。ぽかんとしている男の人。
「ごめんなさい!ついつい……」
そういうと男の人は勢いよく首を振って、
「そんな……お客様が来て下さったのにこんなので、本当にすみません」
なんて申し訳なさそうにしょんぼりする男の人。いや、この店のマスター。
「いやいや、大丈夫ですよ!」
「……ありがとうございます。メニュー取って来ますね」
と、まだちょっと申し訳なさそうにカウンターの中へ入っていく。それに合わせて私もカウンター席に移動した。
丁度席に着いたときにカウンターにメニューが置かれた。気が付けばもうそろそろお昼の時間。お腹も空いてきたからここでお昼を食べようかな。そう思ってパスタとデザートとコーヒーのセットを頼んだ。待っている間にデザインノートを取り出して、描きかけていたワンピースのデザインの続きを描き始める。
しばらくするといい匂いがしてくる。そして、どうぞと言って置かれたのは菜の花と筍のパスタ。とても春らしいし、見た目も綺麗。いただきます、と言って一口食べると本当に美味しくて。
美味しいと呟くと、マスターは嬉しそうに微笑んだ。それから、
「僕もお腹空いちゃったから食べようかな」
と、もう一つのお皿をカウンターに置いて食べ始めた。店のマスターが客と一緒にご飯を食べるなんて今まで見たことが無かったからびっくりしたけど、マスターの美味しそうにパスタを食べる顔を見てこういうのもありだな、なんて思った。
そうこうしていると、マスターは一足先に食べ終えてデザートとコーヒーの準備を始めた。壁側のカウンターにサイフォンが置いてあって、そこでマスターがコーヒーを作り始めていた。それをパスタを食べながら眺めていた。
フラスコを火にかけて、お湯が沸騰し始めたところで一旦火から外してコーヒーの粉が入った漏斗を取り付けつけた。そこからまた火をかける。漏斗にお湯が上がったら木べらで混ぜる。ちょっと経って火から外したらまた木べらで混ぜる。
フラスコにコーヒーが落ちていくのをしばらく眺めたところでパスタを完食した。そしてまた横に置いてあったデザインノートを広げる。しばらく書いて、あと色を塗るだけの所でデザートとコーヒーがカウンターに置かれた。また二人分。
「今日はホットケーキを焼いてみました」
と、マスター。ホットケーキにはバターとメープルシロップがかかっていてとても美味しい。コーヒーはカフェとだけあって、やっぱり一番美味しかった。
あっという間に食べ終わって、お会計を済ませた。
店を出る時に、
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
と、言うと、
「ありがとうございました!」
と、とびきりの笑顔で見送ってくれた。コーヒーも美味しかったし、マスターも面白い人だからまた近いうちに来よう。
それからというものの、あのカフェには度々行くようになった。
だけど、しばらくしたらまた仕事が忙しくなって、店にあまり行けなくなっていった。気づいたら最後にカフェに行ったのが約一か月前。
そんなある日、たまたま早く仕事が終わって時間が出来た。だから、カフェに久々に行ってみようと思った。折角だからと詩織と里香も誘ったけど二人とも終わってない仕事があるみたいで今日も一人。なかなか三人のタイミングが合わなくて残念だなと思った。
そして、会社から最寄駅まで歩いてそこから電車で八駅。
一か月ぶりの風景。ゆっくりと歩いて店に到着した。
そして、扉を開けた。見回してもまた誰も居ない。今回ばかりは本当に誰も居なかった。首を傾げながら店の外に出ると、右奥の方で何やら物音がする。
覗いてみるとそこにはマスターの後ろ姿。とバスケットボールのゴール。ちょうど、ボールをシュートしたところだった。そして、マスターが放ったボールはそのまま綺麗にゴールへ入っていった。
何だかとても懐かしい気がして、
「ナイスシュー!」
気づいたら私はそう声を掛けていた。あまり話したことが無い人に話しかけるのは得意な方では無いから自分で言って驚いた。
そう言うと、マスターは振り向いて少し驚いた表情をしてから、
「バスケ、やってらっしゃるんですか?」
と、言った。
「いや、ちょっと応援の方を……」
と、言うとマスターは急にボールを私にパスした。あまりに急だったから落としそうになったけどすんでのところでキャッチした。するとマスターはゴールから離れてゴールの方を見つめた。
代わりに私がゴールの前に立ってボールを投げてみた。すると、私の予想に反してボールはゴールに入って地面に落ちた。
「ナイスシュー!」
と、後ろから聞こえて来た。
振り向くとマスターがニカッと笑った。その笑顔にドキッとしてしまった。何でだろう……と考えていたらマスターが心配そうに近寄って来る。
その時にはっきりと思い出した。初めて会った時にどこかで見たことがあると思ったのも、バスケットゴールに向かうあの背中の懐かしさも、そして、今ドキッとしたのも、全部全部高校時代に恋していた人にそっくりだったからだ。
「大丈夫ですか?」
気づくとマスターはもう目の前に来ていた。
「あ、いえ、何でもないです」
そう言って笑うしかなかった。
「ありがとうございました!」
そういっていつものように見送ってくれたマスター。その声を聞いて家に帰った。
そして、家に着いて真っ先に向かったのは本棚。今日の事がきっかけでちょっと学生の時を振り返ってみたかった。その本棚にはデザイン関連の本や衣服関連の本が並ぶ中、隅の方にまとめて卒業アルバムが置かれていた。その中から高校の時のものを取り出して開いてみた。
定番のクラスの集合写真に始まってたくさんの忘れていた思い出がよみがえってきた。そういえばあの時誰がどうだった、とかそんなこともアルバムを見ていると思い出してくる。
アルバムも半分くらいに差しかかった時、一枚の紙のようなものがページに挟まっていた。裏をめくってみるとそれは写真で、私と幼馴染の美樹、バスケットボールのユニフォームを着た男の子が二人写っていた。そのうちの一人は「キミ」だった。その「キミ」と今日のマスターが重なって見えてまたドキッとした。
そういえばこのときは確か美樹が頼んで写真を撮ってもらったんだっけ……。
そう、あの時。三年生の引退試合の終わり。美樹が、折角なんだし写真撮ってもらおうよと言った。
でも、全然勇気が出なくて。しばらく黙り込んでいたら、
「ねえ、このままでいいの?」
なんて言って、強引に私を引っ張っていった。
「ちょっと待ってって……痛いってば!」
なんて言う私の言葉には耳を貸さずにずんずん歩いていく。「いっそのことその後思い伝えてみたら?」
「そ、そんなの無理だって」
「またとないチャンスだよ? 今のままじゃきっとこれが最後くらいだよ」
「そんなこと分かってるけど……」
それからちょっとの間二人とも黙り込む。少しして美樹が
「私も頑張るからさ」
と、少し小さめの声で言った。
そうして、美樹は帰り支度をしていた背番号六番と十番に声を掛けた。こんなに近づいたのはクラスが一緒だった一年生の時以来。だから、やっぱりドキドキする。
「写真一緒に撮ってもらいたいんだけど……」
私はその様子をじっと見ているだけ。すると、背番号十番の男子が良いよ、と答えた。それに続いて「キミ」も同じように答えた。
そして美樹が取り出したカメラを他の部員の人に渡して撮ってもらうことにした。撮るときに男子は美樹に隣で撮っていい?と声を掛けられていて、私は自然と後ろに下がった。
すると「キミ」は私の隣に立った。
「一年生の時以来だよね。凄い久しぶりな感じするな」
なんて話しかけて来る。
「そう……だね」
なんて答えしか出て来なかった。
部員の人が撮るよ、と声を上げた。皆でカメラに向かってポーズする。
その時の「キミ」の笑顔がとても眩しく見えた。
そんなことを思い出しながらまたページをめくる。そして、最後までめくってゆっくりとアルバムを閉じた。
気づくとアルバムを開いてからもう一時間は経とうとしている。もう、お風呂に入って寝ないと。それから、デザインノートに取り掛かることもなく、この日は寝た。
春も終わりに近づいたある日の午後。夕暮れ時の日差しが少しだけ眩しかった。そんな中でひたすら歩を進めた。そして、すっかり陽も落ちた時にようやく目的の場所に到着した。
カフェ「Revoir」
私はその扉の前に立っていた。こんなに緊張するのはいつ振りだろうか。少し震える手で握りしめた鞄の中には、お守り代わりのあの写真と、綺麗にラッピングした小さなお菓子の箱。
意を決してその扉を開くと、聞こえて来たのは女性とマスターの声。
「でも、覚えてるなんて珍し」
「あ、そんな事言うんならもうあげないからね」
「えー、じゃあごめん」
「じゃあって何だよ!じゃあって!もの目当てかよ」
「それじゃ駄目なの?」
「この馬鹿」
と、言ってマスターは女性から取り上げた包みで頭を叩いた。
「いった!もう、冗談だってば」
なんてマスターと親しげに話していた。マスターが敬語を使ってないなんて初めて見た。それにしても二人ともとても楽しそうで。何だか胸が苦しい。今日は帰ろう。そう思って扉を閉めようとした時にふとマスターと目が合った。
「……いらっしゃいませ」
「あ、どうも……」
と、遠慮がちに席に着く。隣の女性は目がパッチリしててショートカットがよく似合う元気な女の子って感じ。
その女性が私の顔を見て一言。
「私とどこかで会ったことありませんか?」
「え!?……いや、多分無いと思います」
記憶力は良い方だから無いはず。
「あれ、おかしいな……」
と、しばらく考えてから言ってから彼女は自分の腕時計を見てぎょっとした。
「やばい、帰らないと怒られる!ごちそうさま!あ、あと誕生日だから今日はにいの奢りね」
と、言って慌てて出ていく。
「実桜待て、肝心なもの忘れてる!」
「あ、本当だ。ありがと、じゃあね!」
そういって彼女は風のように去って行った。しばらく呆然と彼女が去って行った扉を見つめていた。
「初めて会ったらびっくりしますよね」
と、目の前のマスターは苦笑い。
「あの子、隣の家に住んでた子なんです。もう、凄い小っちゃい時から知ってて。本当の兄妹みたいなんですよね」
なんて言って笑った。それから、そういえば、と言って注文を聞いてくれた。頼んだのは、初めて会った時に頼んだパスタとデザートとコーヒーのセット。
待っている間にデザインノートを広げようかと思って鞄を探しても、見つからなかった。こんな時に見つからないなんて。
だから、気を紛らわせるためにカウンターの中を眺めた。サイフォン、冷蔵庫、温かみのある木の扉。
そして、目線が食器棚に行ったその時に、思わず自分の目を疑った。見間違いなんじゃないかと、もう一度その方を見た。でも、見間違いなんかじゃなくて。落ち着いていた手の震えがまたぶり返した。
そこにあったのは紛れもなく「あの写真」だった。私は急に怖くなって俯いてしまった。
「どうしましたか?大丈夫ですか?」
とマスターがパスタを作る手を止めて聞いた。それでも、顔が上げられなくて、しばらくすると、マスターはそんな私を見かねてかゆっくりと語り始めた。
全ての話が終わった時に私は自然と顔を上げて、マスターを見つめていた。何とかして泣きそうになるのをこらえていた。こんなことがあるなんて、信じられないと思った。
そして、私が震える声で目の前に居る「キミ」の名前を呼んだ。
その刹那、時間が止まった。一瞬のようにも感じたし長くも感じた不思議な時間だった。
そして、「キミ」が今までに見たこともないような真剣な表情でこう言った。
「ずっと、ずっと貴女の事が好きでした」
その時、私の目から涙が零れ落ちた。
きっと、今が今までで一番幸せな時。
零れ落ちた涙も拭わないまま、私はこう答えた。
「私も、ずっと貴方が好きでした」