融けた鉛の夢
涙が、止まらなかった。雪の振る街で私はなんだかセンチメンタルな気持になって、そのまま涙を流した。何を願う訳でもない、何を憂う訳でもない。ただ私は心が痛くなって、涙を流していた。
「鉛が!鉛が!!私の目の前で融解してしまっている!何を示すか!それが何を示すか!!!」
私は何も分からないまま、ただそうやって涙を流して喚いた。雪の振る中、融解する鉛を前にして私は熱に怯えていた。答えなどない、それは何も示さない。ただ、強熱を帯びた融解する鉛を前にして、発生した熱光線と赤外線に貫かれて身を灼かれているだけだった。
目覚まし時計がけたたましく音を鳴らす。その音で眠りについてた私は叩き起こされた。
「頭痛っ……」
レースのカーテンから陽が漏れいていた。私は起きたようだ。目覚まし時計のけたたましさに当てられたのか、それとも余りに悪い夢見に当てられたのか。分からなかったけど、頭痛が収まるように私は頭を押さえて、朝の支度を始めた。フライパンに油を引いて、卵を割り落とす。蓋をして目玉焼きを蒸し焼きにしている間に、キッチンから離れて着替えをする。オフィスカジュアルな服装に身を包んだ後、また目玉焼きの面倒を見ようとキッチンへと戻った。けれど、消した覚えがないのに、コンロの火は消えていて、蓋を外せばフライパンの上には黒鉄でできたそれよりも深い黒をした円状の闇が広がっていた。
「ああっ……今日もまたこれか」
コンロの火は消えているはずなのに、フライパンは過熱されて赤く、そして白く発光していった。フライパンはやがて融解していき、重量に負けてぐにゃりと変形した。
「何も示さない、それは何も示さない」
私は目を閉じてそう唱えた。幾つも幾つも、その言葉を唱えた。何が起きたか忘れた頃に目を開くと、フライパンは取っ手だけを残して忽然と消えていた。まるで私が取っ手だけもってキッチンに来たかのように、先の出来事の痕跡は何一つとしてなかった。
「毒された。毒されてしまった」
私の中で何かがそう謳う。何が私を毒すというのだろうか、何を知り何を見て何処に在るのか。そんな問いに一切の疑念を持たず「分からない」と、そう答えた。
玄関を開いて外へ出る。そこには知らない街が広がっていた。先に開いた玄関扉は振り返っても見つからなかった。街の中には金属がな何かに打たれる音が響く。周囲を見渡すと、私は気付かぬうちに道路の真ん中にいたようで、周りでは袈裟を来た仏僧たちが銅鐸を叩きながら白線の内側を整然とした列をなして行進していた。
「示された、示された。皆はいづこか示された」
僧たちはそう謳う。そうだ、そうだった。私は此処である。私は此処だから、自分と言う位置情報をもってまた歩く。私が此処である以上、歩くと世界が動いた。私の座標は変わらない。私は座標だから。けれど、しばらくすれば私に雨が降り始めた。そこで私はふと自分自身が世界から切り離された個であることを思い出した。雨は私の衣服にしみ込んで、私を重たくした。
「そうだ、仕事に向かわねば」
私は思い出したかのように仕事場へ向けて進んで行った。全く知らない街だけど、歩けば知らない場所へ出た。どこがどこだか知ったこっちゃないが。私は仕事へと向かう。経済世界に生きる我々は経済活動を行うように仕向けられているから。生産を行い、消費を行う。そのサイクルの中に生かされているから。
「融解が!止まらない!」
突如私はそう叫んだ。何故かはわからない。ただ融解が止まらないと思って、その観念に耐えかねていた。空には星が浮かぶ。星々から高熱を帯びた赤外線が発されて世界を融かそうとしていた。私はそうやって融ける世界に生きられるか不安に駆られた。世界は何も示さない。私もまた、何も示さない。互いに示されることの無い関係で、私と世界は定義されていた。だから私は駆け出したのだった。示せよ、示せよ。私に世界の何たるかを、世界に私の何たるかを。互いに示し合い、その先で何を願う?
「知るか!!!私はどこにも無い!!」
その場所を駆けた。そこが世界に在る場所かもわからないけど。私は駆け出した。寄り道はない。けれども、本来向かう先はどこにも無いから、行く先すべてが寄り道かもしれない。ただどこにも無いという自覚の下に、向かうべき場所に向かおうとしていた。
「ああ、知った場所、私の生きた場所」
駆けて駆けて、終ぞそこへとやって来た。私の知った街、私の生きた街、私の在った街。世界にその街はあった。世界に含まれたその街に包含されていた私はまず間違いなく世界に在ったのだ。けれど、今ここに私は在ったのだろうか。過去に在った事実が、今在ることを連続的に示す訳ではないから。
ふと、涙があふれてきた。どこにも向かえなかったことなのだろうか、それとも自らの過去に何を覚えたのだろうか。本当にただ涙が止まらなかった。
「私の知った、私の生きた場所で、融解を知らねばいけないのだろうか」
知った場所が、融け始めた。さもそれがまやかしだったかのように融けだした。私の住んだ家が、私の通った学校が、私の仕事したその場所が、あらゆる思い出を包含した街が、融解し始めた。
「示せ!示せよ!それが何か!それが何者だったか!それが何処なのか!」
涙を流して私は慟哭した。どれほど叫んでも、街は融けて行った。夢見た世界に何を祈るか、涙を流したまま、また駆け出した。向かう先など、未だないのに。ただその場にいられなくなって、流した涙の止まらない内に駆け出した。ここで、こうやって在った。融ける街が歌いだす、伴奏など無い。ただ知らない歌を歌い始めた。高音も低音も噛み合った美しい歌だった。美しくて、美化した思い出に重なるその歌を聞けば、やはり記憶に残ったものが消える悲しみが、名残惜しさが押し寄せてきて、やっぱり涙はとめどないものにされてしまった。
走り続けていれば、気付いた時には三日月が優しく私を照らしていた。その優しさに泣きついた私は、その温かさに涙を枯らして行った。故に焦燥も緩やかなものになり、何かを急いでいた足も落ち着いてゆらりと歩くようになっていた。
「ありがとう、貴方にありがとう」
私は三日月にそう伝えた。涙も枯れて、もう大丈夫だと思ったから。私が三日月に背を向けて、また向かった時、三日月が融け始めた。
「そうか、そういう事だったのか」
私は肌でそれを理解した。融けて行ったそれは、ただ私が忘れて失ったものであるという事に気が付いた。優しさで包んだ三日月が私を送ってすぐ融けたのだから。私の中で遠く風化していったという事なんだと、私がそれを融かして行ったのだと、私が起こした事なのだと、そう理解した。
「だったら、もう一度向かわなきゃ」
私は気付けばまたそこにいた。雪の振る街。近代的とも中世的とも、あるいは古典的ともいえる街。何者がいるか知らない街。誰が何をどう示すのだろうか、私はもうそんな事分からなくて良くなった。目玉焼きの味ももう分からない、銅鐸の叩かれる金属の音だって聞こえない。街ももう知っているし、知った街は思い出としてそこにあった。
「ありがとう、示してくれて」
私の目の前にはやはり融解した鉛がそこに在った。今の私は泣いていない。歩いて鉛に近づく。そして、私は溶け落ちる鉛の中へと身を混ぜて行った。
また、目覚まし時計が鳴った。けたたましい音で叩き起こされたから、やっぱり頭が痛い。けれど、今回は夢見が良かった。レースから洩れる陽を目一杯受けて、私は起床した。そして、油を引いたフライパンの上に卵を割り落として火にかける。蓋をして蒸し焼きにしている間にオフィスカジュアルな服装に着替えている最中におもいだした。
「あっ、今日は日曜日か……」