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ハルトムートは人の心がわからない

天災は人の心がわからない

一周目のハルトムート


柔らかな淡い金色の癖毛におっとりと優しげに垂れた深い青色の瞳。均整の取れた体つき。どんな時もおっとりと微笑んでいて、誰にでも分け隔てなく接する。まるで人間ではなく、天から遣わされた天使のように美しい絶世の美少年。

あまりの美貌に人ではないのではないかと言われるほどだが、ハルトムートは正真正銘のエインクライン公爵家の娘の産んだ子である。ハルトムートの母は本来であれば他家に嫁ぐはずだったが、兄らが後継を作る前に死んだために婿を取って家に残ることになった。だから次代の中核を担う子供たちから少し年が離れている。エインクラインの子でなければ出遅れたと言われかねないところだが、公爵家の中でも力ある家門であるため、寧ろ彼の世代が新たに生まれる程度の影響力がある。一つ下に第三王女が生まれたというのもあるだろう。

ハルトムートはあまりにも美しすぎる少年だが、人当たりは悪くなくて老若男女変わりなくフランクに恋に落としてしまっていた。柔らかく微笑んで小首を傾げれば、それだけで相手が激しい動悸に襲われる。まあ本人は恋に落とそうなんて思っていないのだが。

九歳の時の、王妃主催の元、ハルトムートと同世代の高位貴族子女を集めて行われた顔合わせのお茶会の場でもそうだった。公爵令息に相応しく仕立ての良い、彼の美貌を引き立てる華やかな礼服で現れた彼は前評判もあって注目の的だった。所作は美しく、マナーは完璧。話しかけられれば微笑を浮かべて相手を真っ直ぐに見る。

「ハルト様はこの庭園で一番美しいのは誰だと思いますの?」

「そんなものは、俺に決まっているでしょう?俺に並び立てる者なんて、誰かいましたか?」

「私はハルト様の隣に相応しいと思いますわ!」

末っ子で甘やかされて育った公爵令嬢が自信満々にそう言ったが、彼は小首を傾げる。

「引き立て役として俺の美しさを強調できる、ということですか?俺は一人でいても美しいので引き立て役は必要ありませんね」

「えっ」

「そもそも美しいものは俺だけで十分ですから、隣に立つ方は美しさで選びませんよ、俺は」

辛辣なことを言いながらも彼の微笑は崩れない。だから最初、彼以外の人間は彼が相当に辛辣なことを言ったことを認識できなかった。適当にあしらわれたぐらいにとった者はいた。

「では、ハルトムート様は伴侶に何を求めるんですの?」

別の令嬢が問いかける。

「伴侶に求めること?俺は次期当主ですよ。個人的な好みで伴侶を選ぶことはできません。しいて言えば、家にとって有益な方、共にいて安らげる方、でしょうか」

この場の子供の中で長子なのはハルトムートだけだった。他は皆、上に兄か姉がいる。兄姉に何かない限り家を継ぐことはない。高位貴族であるため、政略婚の可能性が高いものの、多少は自分の要望を通す余地がある。だからハルトムート相手に色恋じみた問いかけができたのだ。それに九歳なのでまだ政略婚というものを理解しきれていない。ハルトムートと違って。ハルトムートからすれば論外揃いだった。

もっとも、そのハルトムートの意志で相手を選べるかわかったものではないのだが。

「少なくとも、よく知らない相手にいきなり婚約を申し込んだりはしません。共に我が公爵家を支えられない者では意味がありませんから」

彼の表情は柔らかで美しいが、拒絶がにじんでいた。

高位貴族は高位貴族同士、特に年の近い者と婚約を結ぶことが多いため、立場的にはこの場の令嬢がハルトムートの婚約者になる確率はそれなりにある。令息も家に継ぐ爵位がないなら外に出て自分の力で生きていかねばならないのだから側近などとして仕える可能性はある。そのあたりを現実的に考えられている者がいなかった。

ハルトムートも特に拾い上げようと思う相手はいなかった。ハルトムートから見れば(年相応かもしれないが)マナーが及第点に達している者はいなかったためだ。

この場で最も身分が高いのは王妃と第二王女だが、その次は公爵家の嫡子であるハルトムートである。公爵子女という目で見れば同位と言える者はいるものの、道を切り開けなければ平民になるしかない第三子以降は格落ちする。許しなく名前で、特に愛称で呼ぶのは礼を失した振舞いと言えた。

それに彼は自分の美しさに惑わされるような相手を妻にしても安らぎはしないだろうと思っている。平たく言えば、好感を持った者すらいなかった。それを明らかに表に出しはしなかったが。

結局、ハルトムートはこの茶会で他の貴族子女に対して誉め言葉は一つも言わなかった。ハルトムートが笑みを崩さなかったので、本人たちは帰って会話の内容を思い出すまで気付かなかったが。

しかしそれでハルトムートの評判が下がったりはしなかった。ハルトムートが完璧に美しく優秀で、他の子供たちがそれに劣っていたのは事実だったので、純粋に褒められなくても当然だろうと思われたのだ。

その上、婚約を求める申し出は沢山来た。

ハルトムートに恋した令嬢からのもの、優秀さに繋がりを持とうとするもの。茶会で顔を合わせていない令嬢との縁談まで舞い込んだ。その中でも最たるものが第三王女との縁談だった。

エインクライン公爵家としては、ハルトムートの婚約は政略でしかありえないものの、特に此処でなければ困るという家がある状態ではなかった。高位令嬢でなければ、そして優秀でなければ途中で潰れる可能性がそれなりにあるものの(なにしろ絶世の美少年次期公爵の相手という誰もが羨む立場であるので)嫁の実家から引き出さねばならないものがない。家計は安定していて蓄えも十分あるし、これといって表立って関係の拙くなっている家もない。対立している派閥はあるものの敵対しているというほどではない。だから相手の家柄などは足きりにはなっても決定打にならない。

とはいえ、第三王女(確実に降嫁という形になる)との縁談を蹴って選んでも角の立たない家は概ねハルトムートが拒否をした。茶会に参加して人となりを大体把握していたからである。

「正直な所、甘やかされて育った方は伴侶として役に立つとは思えないので、第三王女もあまり気は進みません」

「お前はやる気になれば何でもできるが、必要のないことはしたがらないからな…」

公爵夫人とはけして甘い立場ではない。高位の貴婦人の取りまとめ役といってもいい。エインクラインは貴族派の中心であるから猶更である。王家からすればなんとか味方につけておきたい家であるともいえる。

第三王女がハルトムートを見初めたからとのことだから、それを理由に婚姻を結んで次代を抱え込もうという腹積もりもあるのだろう。

結局、一度見合いをしてやっていけそうであれば、ということになった。王城の一室での対面である。互いに母親を付き添いにしての茶会のような形でのセッティングになった。

「あっ――」

そうして、第三王女マリリエッタは目が合ったハルトムートに正面から微笑まれた(愛想笑いである)だけで失神してしまった。

「…これでは俺の妻は務まらないのではありませんか?」

自己紹介すらできずに倒れてしまった娘に王妃も流石に気まずそうな顔をする。

「マリリエッタも今日は緊張してしまっただけで、慣れればちゃんとできるはずよ」

「私のハリーの美貌に、こんな気弱な子が耐えられるか怪しい気もしますけれど」

ハルトムートの母はこの縁談に乗り気でも反対でもなかったのだが、この反応には反対に傾いたようだった。

王家の娘らしく美しかったとしても、まともに夫人を務められないのでは意味がない。まだ八歳とはいえ、だ。

そもそも王家の側から申し込んできた話である。

「顔を合わせるたび失神されていては怪我をさせてしまいますから、俺は気が進みません」

好感を持つ以前に会話もできていない。王都とエインクライン公爵領はそれなりの距離があるので、受けるのも断るのもタウンハウスにいる内に決めてしまいたい。

ハルトムートとしては特にこの縁談に旨味は感じていなかった。そもそも今急いで婚約を決めねばならない理由はハルトムートにはない。遅くても高等学校を卒業するまでに決まっていれば十分なのだ。早く決めたとて、途中で解消にならないとも限らないし。優秀な者ほど早く相手が決まるものとはいえ、貴族学校に入っていない年で決まるのは現代では少数派なのだ。

予定時間の内にマリリエッタが目を覚ますこともなかったので、ハルトムートはこれは破談だと思った。

しかし、マリリエッタがどうしても破談は嫌だというので、猶予期間を設けるということになった。一年の間にハルトムートとまともに会話できねばすっぱり諦める。できるようになっても本格的に婚約を結ぶかはその時の関係、うまくやっていけそうかによる。

当然猶予期間中に他の令嬢と婚約は結べない。ハルトムートはこちらにメリットがないのでは?と思った。婚姻を結びたいのはあくまでマリリエッタ及び王室であって、ハルトムートと公爵家は別に破談でも構わないのである。まあその猶予を承諾したのは大人の内で何やら政治的な取引があったからのようだが。

そしてマリリエッタは一年間、侍女を連れて公爵家に滞在するという荒業でなんとか日常会話ができるようになったのであった。

ハルトムートはマリリエッタに特に惹かれることもなく、愛想笑いで失神するならと笑みは向けず、年下だからと妹のように接した。マリリエッタは少なくとも今の所は、ハルトムートの望む妻に相応しいほど優秀な娘というわけではなかった。不出来というわけではなく、何ならハルトムートの理想が高すぎるくらいではあるのだが、ハルトムートの眼鏡には叶わなかった。

両家の再びの話し合いの場で意思を尋ねられたハルトムートは、

「マリリエッタ殿下に公爵夫人が務まるかどうか、このままでは難しいのではないかと俺は思います」

と返した。

ハルトムートはあまり細やかな心配りというものをしない。やればできるのかもしれないが、基本的にその気がない。妙な勘違いをされるからだ。だから甘やかされたいタイプと頗る相性が悪いのである。彼の妻が務まるのは自分でぐいぐいいけるタイプか、基本的に自立していて必要な時に助けを求められるタイプだろう。

そもそもハルトムート本人があまり積極的に人と関わりたがる人間ではない。必要ないなら一人で静かに過ごしたいのである。

対してマリリエッタは末っ子であり、最初から何処かに嫁入りするものと決まっていたので甘やかされ気味に育ち、自ら助けを求めずとも周囲が自然と世話を焼いてくれる立場にあった。自己主張は得意ではなく、相手が察してくれるのを待つ傾向がある。

ハルトムートとの性格的な相性は最悪であった。

「あの、お勉強が必要なのであれば、私、頑張りますわ」

ハルトムートも流石に何言ってんだこいつ、という顔をした。そんなことは当然の、大前提の話である。できなければ務まるわけがない。しかし、事細かに説明してやる価値があるのか、して理解するか怪しいものだと彼は思った。その手間をかける意味を感じない。

「俺は破談にした方がいいと思いますね。自分に何が不足しているかも自覚出来ていらっしゃらないのであれば。殿下が辛い思いをすることになるだけです」

「私、ハルト様と共にいるためなら頑張れます」

「あなたはマリリエッタをどう思っているのかしら、ハルトムート」

「…。…何とも思っていません。好きとも、嫌いとも。少なくとも、積極的に妻に迎えたいとは思いません」

ハルトムートは割と直球ギリギリのお断りの意志を示したつもりだったが、希望はあると解釈されて結局婚約は成立した。

といっても、正式な発表は貴族学校を卒業してからということになったが。マリリエッタがそれまでに使い物にならなければ破棄するので。まあ仮婚約のようなものである。他家との婚約はしない、という。

ハルトムートは婚約に全く乗り気ではなかったが、自分の有責で婚約解消になるのは何となくプライドが許しがたかったので、一般的な婚約者の務めは果たした。定期的に手紙を書き、誕生日プレゼントを用意し、大人たちの手配した交流の日にはちゃんと会話した。

しかし自分からマリリエッタに歩み寄ることはしなかった。マリリエッタが会いたいと訪ねてきた時に拒むつもりはなかったが、義務以上に関わりたいと思うような魅力を感じない。

他に惹かれる相手がいたわけではない。元々彼は対人関係において基本的に受け身だった。来る者拒まず去る者追わず。追い払うのは面倒だから適当にあしらい、追うほどの執着を他者に持ったことがない。

そもそも彼が望まずとも勝手に他の人間たちが彼の美貌に惹かれて集まってくる。勝手に彼の心の内を推し量って的外れなことをする。煩わしいくらいだった。

表向きにはハルトムートに婚約者はいないので、他家の娘からのアプローチは完全にはなくなっていなかった。

12歳でハルトムートが王都の貴族学校に通うようになるとそれはあからさまになった。マナーや身分の壁が完全になくなるわけではないものの、学校内では学問において生徒は皆平等ということになっている。

ハルトムートの周囲には常に男女問わず取り巻きのような人間がいた。ハルトムートにとってはそれは八割くらい迷惑なことだったが、止めさせる労力と得られる結果が総合的に見て釣り合わないので我慢していた。

一歳違いなので同時に通う期間があるとはいえ、学年が違う以上ハルトムートとマリリエッタが同じクラスになることはない。婚約が仮でしかないこともあり、ハルトムートが自らマリリエッタの所属するクラスを訪れるようなことはなかった。単に用事がなかったというのもある。

逆にマリリエッタの方からハルトムートを訪ねることもなかった。学校に通うために滞在しているタウンハウスに訪ねてくることはあったが、学校で自分から会いに行くことはお互いになかった。偶然会えば挨拶ぐらいはするが。

だから誰も二人が仮婚約中とは思わなかったし、ハルトムートはマリリエッタに婚約を続ける気はなくなってきているのではないかと思った。

良くも悪くも、彼が好意を持たれていると認識している人物は大体自分から彼に会いに来るし、迫ってきて好きだから好きになってほしいというし、他の女に牽制する。好意があるなら自分からそれを得ようと動くものだろう、と。

彼は相変わらずマリリエッタのことは知人の娘程度の興味しかもっていなかったから、婚約解消になったところで何の問題もなかった。

「正式な婚約、ですか」

学校の成績という観点で評価すれば、マリリエッタはそれなりに優秀な成績を残して貴族学校を卒業し、そのまま繋がりのある高等学校に進学した。彼を追ってきたともいえる。

「俺はてっきり、解消するものと思っていました。義務以上の交流は求められませんでしたから」

手紙も交流会も義務を果たすためのおざなりなものでしかないのに何故続けたいのだろう、とすら彼は思った。

手紙は送られたものへの返信としてしか出してないし、当初から今までずっと枚数も熱量も変わっていない。便箋一枚だけ、話を広げないし時候の挨拶以外は既に周知の事実しか書かない。ほぼ社交辞令、本音など欠片もない。会って話す時も無難なことしか言わないし話を広げない。好意を口にしたこともない。マリリエッタの何かを褒めたことすらない。笑顔どころか愛想笑いすら向けない。

ハルトムートが好いて婚約を結んだ相手にそんな対応をされたら怒って関係改善のための要望を口にするだろう。あるいは脈ナシと解消するかもしれない。

しかしマリリエッタがハルトムートに要望を口にしたことはなかった。その上で婚約を解消するつもりがないということは。ハルトムートの愛はいらないが、公爵夫人になりたいということか?とハルトムートは首を傾げる。

ハルトムートとしては、自己主張のできない娘に貴族派筆頭公爵夫人として貴婦人の中でリーダーシップをとることはできないと思うので、マリリエッタは役者不足だろうという思いは変わっていない。

周りがよしなにしてくれるのを黙って待つだけなら人形と同じだ。マリリエッタは自然と周囲を動かすようなカリスマの類はないし、他家の貴婦人は別に常にエインクライン公爵家に都合よくは動いてくれないので、黙って待つだけでは良い方向にはいかないだろう。自ら駆け引きができなくてはならない。

「ハルトムートは気が向かないか」

「そもそも気が向いた瞬間は一度もありませんでしたよ。殿下を妻にしたところで最終的に家の利になるとは思えない。社交の助けになるとも思えません。自分の口で自分の望みを言わない方など人形と同じで飾りにしかならないでしょう。それともあの方は俺の好意はなくとも公爵夫人になれればいいとお考えですか。つまり、俺の妻でなくとも高位貴族の夫人という立場になれればいいということか、ということですが。それなら、他家に嫁いでいただきたいものですが、役割さえ果たしてくれれば俺は構いませんよ。家中で妻にまで気を配りたくないので」

要求せずとも気付いて対応してほしいというなら願い下げだが、ハルトムートに要求したいことがないというならそれはそれでよし。

ハルトムートのマリリエッタへの好感度は相変わらずゼロだが、逆に顔を合わせたくないほど嫌っているわけでもない。使用人と同じで用がなければ気にしない相手というだけだ。まあ婚約者としては本来それでは駄目なのだが。

「王宮からの書状にそのような記述はない。素直に取れば、殿下の気持ちは変わらず、当初の解消条件は免れたのだから正式な関係になりたいという意味だと思うが」

「正式の関係になったとして、俺は対応を変えるつもりはありませんよ。本人にはっきり要求されたらまた別ですが」

今まで正式でなく解消の可能性があったから遠慮していたのだ、と考えることはできる。しかし、ハルトムートからしてみれば、マリリエッタが自分に好かれたいと思っているとは思えなかった。

ハルトムートは、自分が無条件に愛され、甘やかされ、便宜を図られるのが当然だと思っている人間が嫌いなのだ。自分がそう思っていると思われるのも嫌である。

処世術として周囲に望まれるままに振舞っているだけで、彼は己の美しさを讃えられるのは好きではないし、好意という名の欲を向けられるのに辟易している。人に群がられるのは嫌いだ。

逆に、望まれていないならと自ら関わりにはいかないが、自立していて自我の強い人間に好感を持っている。自分はそうなれないので、バイタリティーがあって自己主張ができて、目標の為に頑張る人間に憧れている。

ただ、彼が自我を出しすぎると国がひっくり返りかねない。そういうのは望んでいないのだ。

それに彼は美貌を褒めることは好意の表明ではないと思っている。彼がマリリエッタに好意を示すような言葉を一度もかけていないのは、彼女から美しさを讃えられることはあっても好きだと言われたことがないからだ。

何なら外見以外を褒められたことがあるかすら怪しい。ハルトムートはマリリエッタが美しい人形がほしいだけなのではないかと思っている。だから交流で好感度が上がっていないともいえる。

「お前の方から歩み寄ってやるつもりはない、と」

「そうするメリットを感じません。そもそも破談にして他の婚約者を探す方が有益だと思っています。俺と殿下では性格が合わないというか…俺は彼女と婚姻することに魅力を感じていません」

「お前たちの関係が破綻しているという報告は受けていなかったが…」

「俺は家の不利益になることはしませんよ。婚約解消は望んでいますが、自分の有責になるようなことはした覚えがありません」

「ならあちらには解消する理由がないことになるだろう」

「自分で言うのもなんですが、俺と殿下の関係は婚約者として相応しいものではないと思いますが」

「そう思っていないから正式な婚約を、と言ってきているのだろう」

「王家は公爵夫人の務めを軽んじているのですか?」

否定しきれない。

しかし結局婚約は正式に結ばれ、公に発表もされた。かといって、ハルトムートは公の場でのマリリエッタとの接触を増やしたりはしなかった。パーティのエスコートなどを婚約者として務めるようになっただけである。

マリリエッタの方も自分からハルトムートに積極的に話しかけたり何かを求めたりはしなかった。ハルトムートの方から話しかけてくれないかと近くをうろちょろするだけである。最初の内はクラスメイトが取り持ったりしたが、ハルトムートに会話を弾ませようという素振りがないのを見てそれもなくなった。

マリリエッタとの婚約について聞かれてもハルトムートは「政略的な婚約だよ」としか言わなかった。

不仲説…より正確に言えば、ハルトムートがマリリエッタのことを全く愛していないという評判になるまでそうかからなかった。マリリエッタは噂を上手く否定できなかった。だからハルトムートの婚約者の座を他の娘が狙うことは止まらなかったし、それまでアプローチしていた娘の半数くらいはアプローチを止めなかった。妻でなく愛人でいいというものすらいた。ハルトムートも流石にそれはやんわりと窘めたが。

ハルトムートへのアプローチを止めなかった娘の中でも特に積極的だったのは、オーレル伯爵令嬢アンネリーゼだった。

ハルトムートの父の姉の娘だから従姉妹という立場になるが、実のところハルトムートとは血の繋がりはない。これはアンネリーゼがどうということではなく、ハルトムートが現エインクライン公爵家当主代理でありハルトムートの父ということになっている男と血縁にないからだ。別に母が浮気したわけではない。元々結婚するはずだった男と婚前交渉をしてハルトムートを身籠ってしまったので結婚が早まったが、いざ結婚となった直前にその男が死んでしまったのだ。その後色々あって入り婿になったのが現在のハルトムートの書類上の父である。

ハルトムートはこの事実を教えられることなく自力で突き止めたが父には特に隔意を持っていない。父から適切な扱いをされていると認識しているからだ。ちなみに二つ下の弟はちゃんと夫婦の血を引く子である。

アンネリーゼは元々、ハルトムートと高位子女との茶会やマリリエッタとの仮婚約などの前から面識・交流があった。父の実家ということで、オーレル家が少なからずプライベートに関わりを持っていたのだ。まあ、父は血縁だからという理由で実家の兄弟を優遇したりはしなかったが。

ともかく、アンネリーゼは昔からハルトムートのことをハルト兄様と呼び慕っていた。実兄よりも慕っていただろう。

それがいつから恋情や野心を伴ったものになったのかは、ハルトムートにはあまり関心がなかったので覚えていないが、ともかくやや無作法なくらいにアンネリーゼはハルトムートに遠慮なく近づいて甘えたりしていた。

ハルトムートも全く咎めないわけではないが、アンネリーゼの馴れ馴れしさを拒絶しなかった(もっともこれはアンネリーゼが特別なわけではない。ハルトムートは余程不快でなければ誰にでも概ねそう)。

「ハルト兄様はマリリエッタさまのことは別に愛してないんでしょう?」

「ああ」

「だったら、マリリエッタさまとの婚約は破棄して私と婚約しましょう?」

「それはできない」

「何で?兄様はあの子より私の方が好きでしょう?」

「お前と婚約を結んでもエインクライン公爵家にメリットがない。俺は家にメリットのない相手は妻にしないよ。恋と結婚は別問題だからな」

もっとも、ハルトムートは別にアンネリーゼのことも特に恋情は持っていない。マリリエッタよりは自己主張が激しい分の好感度があったが、特に妻に望むような気持ちはなかった。

実家に力があるわけでもなければ、本人に殊更優れた部分があるわけでもない。ただ付き合いがあるだけの平凡な令嬢だ。ハルトムートからすれば対象外といってもいいくらいだった。妻にしても役に立つか怪しい(これはマリリエッタにも思っている)。交流は受け入れても、それだけだ。義理といってもいい。

そもそもハルトムートはアンネリーゼも他の令嬢も、なんならマリリエッタも、誰とも個人的な交流を望んだことはない。エインクライン家にとってより良い嫁を探す手段として交流しているにすぎない。まあマリリエッタとの婚約がある限り他の娘を妻に迎えることはできないのだが。

「は、伯爵家から公爵家に嫁ぐことはできるはずでしょう?叔父さまがそう(・・)なわけだし…」

「家格じゃないよ。アンネリーゼじゃ公爵夫人が務まらない。機転も人望も知識も所作の美しさも足りてないからな。特にうちは貴族派の中心といえる家だ。他の貴婦人たちに対してリーダーシップのとれる者でなければね」

「そっ…そんなの、マリリエッタだってできないでしょう!」

「だから俺は婚約解消したいんだけどね」

もしもそこでアンネリーゼがハルトムートの言った条件を満たせる令嬢になろうと奮起し努力していたら話は変わっていただろう。しかし彼女にはそんな真面目さはなく、努力するより他者を貶めることを選ぶ人間だった。

アンネリーゼはハルトムートに恋する他の令嬢たちも巻き込んで、マリリエッタをハルトムートに相応しくない娘と非難した。権力を笠に着て嫌がるハルトムートに婚約を強要しているとか、ハルトムートに愛されてないとか、公爵夫人に相応しくないとか噂を流した。(ある意味事実ではある)。

ハルトムートは特に肯定も否定もしなかった。ハルトムートは婚約が解消になればいいと思っていたし、マリリエッタが直接何か訴えてくるならそれはそれでいいと思った。

「てか実際ハルトムートはマリリエッタ殿下のことどう思ってんの?こんだけ浮気しといて愛してるなんてことないと思うけど」

やや不良な貴族子息の集まりでそう問いかけられ、ハルトムートは少し考える素振りをしてから言う。

「俺と同じことをマリリエッタ殿下がしても、公爵家の籍に余所の男の種で産んだ子を入れるような真似さえしないなら俺は咎めないよ。興味ないし。自分は言わなきゃ何もしないくせに、何も言ってない自分の望みを叶えてほしいってのは虫が良すぎるだろう?」

「お前が、殿下に話しかけてるの見たことないけど」

「だって俺が殿下に望むこととかもう婚約解消くらいしかないし。それは婚約についての話の度に言ってる。聞いてもらえたことないけど」

「あー、お前公爵家の嫡子だから王女が嫁に来ても来なくても同じなのか」

「そもそも俺の美しさが気に入っただけで、俺のことが好きなわけじゃないだろう、殿下は」

ハルトムートがそんな風に吐き捨てたのを見て、ハルトムートもこの状況を歓迎してないんだなと居合わせた子息たちは思った。

「逆に他に好きな子がいるなら、そう言ってお前から解消したらいいんじゃね?この状況でも婚約を続けてもいいことないでしょ」

「俺に好きな女とかいないよ。あの子なら公爵夫人が務まりそうだなって思った子は何人かいたけど、俺と殿下が正式な婚約になった時点で他の男と婚約しちゃったし。せめてあの時、仮でおさらばできたら他の子と婚約できる目があった気がするんだけどな…」

「え、例えば誰」

「シャペロン伯令嬢とか、ダランベール侯の次女とか、ボナール子爵令嬢とか」

彼が上げたのは同世代の少女たちであり、彼の婚約が成立してほどなくして他家との婚約が成立していた。

「全員才女だけどあんま美人ではなくない?」

「美しいのは俺で十分だろ。目にするのも悍ましい顔というわけでもなし、見目はどうにでもなる」

「美の化身みたいなやつは言うことが違うわ」

「でもやっぱ連れ歩くなら可愛い子の方が良くないか?あと胸が大きい子」

「胸は知らんが顔が可愛いかどうかは貴族ならそこに資産や時間をかける余裕があるかどうかだけの話だろ。余程根本的に造形が醜いとか傷跡があるってんじゃなきゃ、化粧と服装で可愛いは作れる。…ああ、あと食生活と運動量」

「可愛いは作れる」

「俺の美しさは生まれつきだが」


ハルトムートにはマリリエッタ以外に愛する女がいるが、マリリエッタが婚約解消を受け入れないから思い人と結ばれることができないのだという噂が流れたが、マリリエッタは婚約の解消は申し出なかった。

「ハルト様に、私ではない愛する方がいるというのは本当ですか?」

「そうだと言ったら、君は婚約を解消するのか?」

「それは…」

「俺が殿下を愛してないのは既に伝わってたはずだと思うんだけど、何の為にそんなことを聞きたいんだ」

「…私との婚約を解消したら、アンネリーゼと結婚するのですか?」

「は?そこで何故アンネリーゼ嬢が出てくるんだ。アレに公爵夫人が務まるとでも思っているのか?」

「だ、だって…ハルト様が愛しているのはアンネリーゼなのでしょう?」

「彼女に愛を囁いた覚えはない。せいぜい火遊びの相手だよ、アンネリーゼは。俺の妻となる女は貴族派の貴婦人を取りまとめることのできる貴婦人でなければならない。前から思っていたが、君は公爵夫人というものを軽んじているのか?」

「わ、私、そんなつもりじゃ…」

「そんなつもりなく軽率に侮辱する言葉が出る方がなお悪いね。君はそれで公爵夫人が務まる気でいるのか?」

明らかに腹を立てた様子のハルトムートにマリリエッタは俯いて黙り込んだ。何の反論もする素振りもないマリリエッタにハルトムートは溜息を吐く。

「そういう(黙って耐えていれば乗り切れると思っている)ところが嫌なんだ。婚約を解消したくないけど、自分を変えるつもりもない、なんて我儘がすぎるんじゃないか」

「・・・」

「まあ、今更期待なんてしてないけどね」

彼は独り言のように零す。

「二代続けて公爵夫人が派閥の取りまとめができないなんてことになれば、エインクラインは筆頭公爵を名乗れなくなるかもしれないな。王家にはその方が都合が良いのかもしれないが」

この国は公侯爵が多いこともあって総合的には王室より貴族議会の方が権力が強い。王室が貴族派の筆頭公爵の力を削ぐことを目論んでも不思議はなかった。そもそも現状その気になればエインクラインが王位をとってハルトムートが次の王になることも十分可能なのである。ハルトムート本人にそのような野望がないのが余計にややこしいのだが。彼はただ役目を果たそうとしているだけである。

そのようなやり取りの後も婚約は解消されず、お互いの振舞いが良い方向に変化することもなかった。

マリリエッタは同年代の少年少女を取りまとめられず、ハルトムートの愛を請うたり助けを求めたりもせず、自分が悲劇のヒロインであるような顔をして黙って勉学に打ち込むばかりだった。

ハルトムートは婚約者がいるのをわかっていて近づいてくる女生徒を決定的に拒むことはせず、求められれば抱くことまでするようになった。もっとも、避妊はきっちりして既成事実による婚約乗っ取りは許さなかったが。そんな手に出るような阿婆擦れなどに筆頭公爵夫人が務まるわけがないからだ。

すり寄ってくる女に応えてやるからといってハルトムートはその女に好意を持たなかったし、性欲旺盛なわけでもない。積極的に相手が勃たせてくれるから抱けるだけだ。寧ろ幼い頃から男女問わず性欲を向けられてきて無意識に忌避感を持っていたし、性欲は薄かった。


関係が改善されないまま婚約は進み、マリリエッタが高等学校を卒業すると婚姻が結ばれ、マリリエッタもエインクラインの屋敷に住むことになった。

「父上、聞きたいことがあるのですが」

「何だ?」

「愛人ってどう扱うものなのですか、一般的に」

「…殿下との仲が冷え切っているのは知っていたが、新婚の時期から愛人を迎えるのは流石に醜聞になると思うが」

「アンネリーゼが愛人で良いから俺と別れたくないって聞かないから。まあ恋人付き合いだった覚えはないけど、この先日陰者として生きる覚悟があるなら、手を出したのは事実だし責任取らなきゃいけないかなって」

父は頭痛がするという顔をした。

「…妾宅として小さな家と使用人の一人二人付けてやって、生活費を出してやる、というのが一般的なんじゃないか。そうやって囲って会いたい時に会いに行く」

「別に俺から通いたくはないな…屋敷か離れに住まわせて客分(いそうろう)扱いでいいかな」

「…アンネリーゼ嬢を好いているというわけではないんだな」

「マリリエッタよりはマシってだけで、妻に迎えたいと思う相手じゃないし。明らかに公爵夫人が務まる器じゃない。俺が好感を持つ娘なんて他の男にも好感を持たれるに決まってるんだから、もう皆売約済みですよ」

「そうか…」

正式にハルトムートが当主になるのは、仕事に慣れてからということになっている。既に成人しているので実質当主ではあるのだが。当主交代が正式になると繋ぎでしかない父は権限がなくなって手伝えなくなるので。

屋敷の使用人には二人のことについて、

「妻のマリー、俺の指示と矛盾しない限りは彼女の指示には従ってやってくれ」

「愛人のアンネリーゼ。扱いは客人(いそうろう)と同じでいい。家に対する口出しについては聞き流せ」

という指示を出した。マリリエッタが愛人が同じ屋敷で暮らすことへの不満や拒絶をハルトムートに訴えなかったのでアンネリーゼが余所へやられたりはしなかった。

初夜のマリリエッタが完全にマグロだったので、ハルトムートはマリリエッタと枕を共にするのは子を産ませるためだけにすると決めた。自分で勃たせて寝ているだけの妻を抱くのが苦痛だったので。元々性に淡白だったのもあり、排卵に合わせて月一だけで本人は困らなかったし、アンネリーゼに寝室に訪ねる許可を与えたら十日に一度くらいは来たのでその時に抜けば十分だった。

仮にマリリエッタが自分から動けばハルトムートは拒まなかったかもしれないが、マリリエッタは自分からは動かなかった。使用人たちに対しても碌に指示を出さない。自然と放置されることも多くなった。エインクライン一家は自ら動いて要望ははっきり述べるが、そうでない時は放置してほしいタイプが多いからである。何の指示もなく勝手な判断で使用人が動くことは寧ろ忌避されていた。

二年ほどでマリリエッタは懐妊した。ハルトムートは使用人に妊婦だから手厚く世話するように指示を出したが、自分は特に寄り付こうとはしなかった。一緒にいてほしいと言われたことがないので、そういう発想がない。

アンネリーゼが妊娠しないのは単にハルトムートがきっちり避妊していたからだが、不相応にも妊娠したマリリエッタに嫉妬する様子を見せたので、そちらの警戒をしたのもある。この国では男女の区別なく跡継ぎにできるので、ハルトムートの血を引いた健康な子でありさえすればとりあえず跡継ぎにできるのだ。ただハルトムートは妻以外の女と子を作るつもりはなかった。相続がややこしくなるからである。

マリリエッタはなんとか母子無事に女児を出産した。生まれた子にハルトムートはエヴァンジェリンと名付けて乳母を付けた。マリリエッタが自ら育てることは期待していなかったし、マリリエッタにもそのつもりはなさそうだった。

エヴァンジェリンがすくすく健康に育っていくのでハルトムートは二人目を作る必要はないと判断して、マリリエッタが産褥から回復しても夜訪ねることはしなかった。その分、娘に時間を割いた。

エヴァンジェリンはハルトムートと同じ薄金の髪に母親とよく似た紫がかった瞳をした美しい少女に育った。といっても、ハルトムートほど人外じみて並外れた美貌ではない。

エヴァンジェリンが一人で動き回るようになれば子守りの侍女と護衛をつけた。父に会いたいと訪ねてくれば仕事中であっても「ペンを置く時間をくれマイガール」と手を止めてまっすぐ娘に向き合い、一人の人格を持つ人間として尊重した扱いをした。母親があまり娘に真っ直ぐ向き合わないこともあり、娘は父親の方に懐いていた。

エヴァンジェリンが物心ついて暫く経つ頃には、彼女はこの屋敷が普通ではないことを理解していた。ハルトムートほどではないにしろ、賢い子だった。

「おとうさまはどうしておかあさまに冷たいの?」

「俺がマリーに冷たい?んー…そうだな。お父さまはお母さまに好きとか愛してほしいとか言われたことないから。好いてない相手にまとわりつかれても、鬱陶しいだけだろう?だから、立場上必要な時以外近づかないことにしているんだよ」

「…でも、おかあさま…何でおかあさまはおとうさまに愛されないのに、エヴァはおとうさまに愛されるの、って怒るの…」

「…。…お父さまは、お母さまが自分でお父さまに私のことも愛してって言ってきたらそう努力していたよ」

「じゃあ…」

ハルトムートは、しー、とエヴァンジェリンの口を人差し指で押さえる。

「人に言われてするんじゃ、お母さまのためにならないからね。言っていいのはヒントまでだよ、エヴァ。人はいつまでも子供じゃいられないんだから」

娘に危害を加えるようなら、マリーとは別居か離婚に持ち込んだ方がいいかな、とハルトムートは考えていた。

エヴァンジェリンはエインクラインの跡取り娘だ。自分の時のことがあるので、エヴァンジェリンには可能な限り本人の望んだ男を婿に添えてやろうと思っている。勿論、家に害のない前提ではあるが。既に当主の座はハルトムートに継承されており、家中で一番強い権限を持つ者は彼である。

だが、エヴァンジェリンが七歳の時、ハルトムートがエヴァンジェリンを連れて領地を回って屋敷を留守にしている間にマリリエッタは急死した。アンネリーゼの手による毒殺であることがほどなくしてわかった。本人が愚かにも自白したからである。

「だってハルトさま、妻じゃない女に孕ませるつもりはないって言ったじゃない。後妻なら、身分を気にする必要もないでしょう?私の方がマリーよりハルトさまの良い妻になれるわ」

ハルトムートに愛人を後妻にするつもりは一切なかった。なので、アンネリーゼのことは同じ毒で殺し、王宮にマリリエッタの死が毒殺とバレたら下手人として差し出すと決めた。しかし幸か不幸か王宮が真相に気付くことはなかった。



30手前で妻を亡くしたハルトムートの後妻になることを望む女性は何人もいた。ハルトムートの美しさに陰りはなかったし、悪評も一切ないわけではないが、同情的な空気の方が強い。

ハルトムートとしては再婚はあまり気が進まなかった。エヴァンジェリンのことを思うと、下手な女を家に入れたくない。ただ、パートナーはいる方が楽ではある。ちゃんと社交のできる女で、エヴァンジェリンに危害を加えないもの、と考えると自分から寄ってくるような女はあまり望ましくないように思えた。野心家ならエヴァンジェリンを排して自分の産んだ子を後継に、と考えかねない。

まあハルトムートとしては、それで家の為になるのなら、必ずしもエヴァンジェリンを当主にしなくてもいいのだが。そうはいっても、エヴァンジェリンは公爵家と王家の血を引く娘なのだから適当なところに嫁がせるわけにもいかない。王族の血が濃すぎて孫や曾孫の代でトラブルになりかねない。優秀な子を修道院にやるのも勿体ない。

ハルトムート個人としては元々結婚願望がある訳でも、かつて恋に落ちた令嬢などが存在するわけでもない。政略的に必要ないなら結婚したいとは思っていなかった。とはいえ、マリリエッタに操を立てるつもりもない。愛人がいた時点で操も何もないが。

「…エヴァは、お父さまが新しい妻…エヴァの母代わりになってくれるかもしれない女性を迎えるとしたらどうする?」

「お父さま、お付き合いしている女性がいるの?」

「探すべきかと思っているだけで具体的に迎えたい人がいるわけではないよ。優秀な女性は当然うまくやっているはずだからね」

ハルトムートとの年齢的なつり合いを考えると、行き遅れか出戻りか未亡人が主な選択肢になる。主に務めてもらいたい役目が社交であることを思えば、悪評の立っている女性は避けたいところだ。

「エヴァは、お父さまの幸せも大切だと思うわ」

「俺の幸せか。考えたことがなかったな。当主としてこなすべきことが第一だったから」

己の幸も不幸も思考の外だった。ハルトムート自身が幸せであることよりも、公爵家一門や領民、派閥の者の安寧を守ることの方が重要であると決めてかかっていた。それはある意味で筆頭公爵として当然のことではあったけれども。

ともあれ、エヴァンジェリンが後妻を迎えること自体には反対ではないようなので、ハルトムートは本格的に再婚するに相応しい女性がいないか探し始めた。公爵夫人として社交のできる人間が必要なので半端な相手は迎えられない。

情報を集めている中で、かつて不良を気取っていた友人(今は真面目に伯爵をやっている)から、昔ハルトムートがいいなって言っていた女性が一人、離縁されて実家に戻っているらしいことを聞いた。

前ダランベール侯爵の次女、アリシア。伯爵家に嫁いでいたが、白い結婚で相手が愛人宅に入り浸っていて、アリシアは子を産まなかったが愛人に子が出来たので離婚になったらしい。

調べられる情報はありったけ調べた後、ハルトムートはダランベール侯爵に向けてアリシアとの再婚を打診する手紙を送った。ちなみに現ダランベール侯爵はアリシアの兄である。ハルトムートよりちょっと上の世代だ。侯爵からは本人の意向にもよるということで、顔合わせの茶会がセッティングされた。

「久しぶりですね、アリシアさん」

「ええ、久しぶりですね、エインクライン公爵さま。まさかこのような形で会うことになるとは、思ったこともありませんでした」

「それは、俺があなたに求婚するのが予想外、という意味ですか?」

「…ええ。だって、学園でも私とあなたはクラスメイトという以上の交流はなかったでしょう」

「それはまあ。俺は王宮に押し付けられた婚約が付いて回っていましたからね。節目節目で解消を申し出ていたんですが、受理されるまでに俺が余所の令嬢を口説くわけにもいかなくって。でも、正式になるまでは解消されたらあなたに婚約を申し込みたいと思っていたんですよ」

「…ご冗談を」

「俺はあなたに求婚するために此処にいるんですよ。本心です」

信じられないという様子でまじまじとハルトムートを見るアリシアに彼は微笑してみせる。

「あなたなら公爵夫人として派閥の夫人たちを取りまとめることもできるだろう、と。…あなたが聡明で周囲の人たちをよく見て適切な行動をとれる人間なのは知っていますから」

「それは…つまり、恋とかそういうのではなくて、有能さを買ってくれている、ということですか?」

「はい。…公爵家の嫡男が個人的な感情だけで伴侶を選ぶなんて、とてもできません。俺はあなたがクラスメイトの中では最も伴侶として迎える時に利益がある人間だと判断していました。…まあ、マリーが婚約解消に応じなかったので、匂わせることもできませんでしたが。俺の都合であなたの未来を閉ざしてはいけませんしね。…まあ、あなたと結婚した男は結局見る目がなかったようですが」

「喜んでいいのかわからない評価ですわ」

「意味のない問答をするのは時間の無駄ですから、単刀直入に言いましょう。俺はあなたにビジネスパートナーになってほしいんです」

「ビジネスパートナー、ですか」

「俺が求めるのは公爵夫人として社交を担ってもらうことと、娘…エヴァンジェリンの高貴な女性としての振舞いの見本になることです。それ以外の部分は公爵家の不利益にならないのであれば、あなたの好きにして構わない。公爵家の跡継ぎは余程のことがない限りエヴァになるのであなたに産んでもらう必要はない。白い結婚か…望むならあなたが愛人を持っても許容しましょう。俺の血を引かない子を公爵家の籍には入れないという制約は付けさせてもらいますが」

「…言ってはなんですけど、学生時代は大分、その…プレイボーイでしたよね?」

「アレは単に寄ってくるものを拒まなかっただけで、俺の方から誘ったことは一度もありません。いっそ俺の有責の婚約解消でもいいと思ってあえて不貞ととられることをしていたんですが、文句を言ってくることすらありませんでしたね。彼女は俺と結婚できさえすれば、心がなくても良かったんでしょう。ただ、美しいものを傍に置きたかっただけで」

彼はそう言って肩をすくめてみせる。

「下世話なことを言うと、マリーのことは子を作る義務があるので抱きましたが…人形のようにじっとしているだけの女を抱くのは苦痛で仕方なかったので、あなたにその気がないなら夫婦になっても抱きません。その気があるなら努力はします」

「そ…そう、ですか」

「…ああ、あなたと伯爵は白い結婚だった、のでしたね。俺に愛人はいませんよ。正確に言うと、もう(・・)いません。妻が持つなというなら新たに持つこともしません。今は愛人でもいいからと寄ってきている女もいませんしね」

「…そもそも、エインクライン公爵が再婚するというなら喜んで手を上げる女性はいくらでもいますよね」

「筆頭公爵夫人が務まるだけの能力があることと、エヴァに危害を加えてこないか、と考えると、その幾らでも手を上げてくる女性では望ましくないんです。野心家なら当然、自分が産んだ子を後継にしたいでしょうから」

「この国では後継を第一子にすることが多いですが、第一子でなければいけないわけではありませんからね…」

「エヴァは王家の血が濃すぎるので余所に嫁に出すのは少々危ういんです。そうでなければ、子の出来次第では考えなくもなかったのですが」

とはいえ、これから子が産まれてもエヴァンジェリンとは十歳近く年が離れることになるので、スペアとして扱うのも正直微妙だ。

「元第三王女の娘ですものね…いえ、半分ならそこまででもないのではありませんでしたっけ。公爵家はそれ自体が王家のスペアみたいなものとはいえ」

「ええ。俺自身も半分王家の血筋なんです。父が前王の王弟ですから」

「…前公爵は伯爵家の方では?」

「父上と俺は血が繋がってないんです。俺は母上が婚姻前に婚約者と交わってできてしまった子なので。それで慌てて婚姻しようとしたらその前に婚約者が死んでしまって、婚外子にするわけにはいかないので、急遽祖父上に選ばれたのが父上というわけです」

「さらっとヤバいスキャンダルを暴露された?!」

「母の世代には公然の秘密だと思いますよ。母が王弟と婚約していたのは公になっていたはずですから」

別に法的に問題のあることをしたわけではない。ハルトムートが公爵家の血筋なのは自明のことだし、家を出ないなら父が誰かは些末な事なのだ。王族以外と交わるなら、だが。

「エヴァの伴侶は王族の血筋ではない、侯爵家か、伯爵家か、いっそ才覚ある下級貴族などでもいいと思っています。本人の意向次第でもありますが」

「…あなたとマリリエッタ様の娘なら、余程美しい子なのでしょうね」

「俺ほどではありませんよ。顔を合わせた人間がトチ狂ったことはありませんから」

ハルトムートはアリシアをまっすぐ見る。

「話を戻しましょう。俺の妻になっていただけませんか、アリシアさん」

「わ、私ではあなたと並んだら見劣りしてしまいます。こんな地味な女…」

アリシアは髪も目もよくある色をしている。顔立ちは貴族らしく整っているが、華やかさには欠けているかもしれない。

「見目など、化粧と衣装を変えて堂々とすればなんとでもなります。あなたは不健康に痩せすぎたり太りすぎたりするわけでもありませんし。公爵家には母の伝手で美容技術はありますから」

「何もしなくても美しい方に言われましても」

「少なくとも俺はあなたの見目は問題にしていません。品性は悪くありませんし、表に出して問題ある外見ではないでしょう。寧ろ問題があるのは俺の方です。俺は…普通にしているだけのつもりなのに、特に言葉を交わしてもいない相手から迫られることがありますから」

「…あー」

社交界でハルトムートが全然笑わない人間だという評判だったのをアリシアは思い出した。愛想笑いをすると相手が勘違いするから段々笑わなくなったということだろう。貴族学校の頃は普通ににこやかな少年だった覚えがあった。

「俺はあなたなら俺の妻、公爵夫人が務まると思ったから求婚しているんです。断るのなら、やりたくないか、条件が合わないという理由にしてください」

「私に、務まると思うんですか」

「でなければ申し出ません。後継はもういますから、何が何でも妻を娶らなければならないわけではありませんからね。でも社交上、有能な妻がいる方が助かるので。母もマリーも夫人としていまいち派閥を掌握しきれていなかったので、今エインクラインはゆるぎなく筆頭公爵を名乗るには少し不安があるんです」

ハルトムートも父も有能だったので、権勢が揺らいでいるというほどではないが、盤石とは言えない。この状態では次代は苦労することになるだろう。しかもエヴァンジェリンは女公爵にならなければならないのだ。

「私は…学生時代もクラスの中心にいたわけではありませんよ」

「必ずしも話題の中心にならなくても手綱をとって情報が全部集まってくるようになれば十分です」

「手綱をとる、ですか」

「今、うちの家門でご婦人方に多少なりとも影響を持ち情報を集めることができているのは弟の妻と祖父の弟の系譜の方になってしまうので、相手が公爵や侯爵になると強く出られないんですよ。弟はうちの爵位の一部を継いだとはいえ、伯爵ですからね」

ハルトムートは、にこりと微笑する。

「うちの使用人は主の命に従いますから、できるでしょう?アリシアさん」

「…何故、そう思うんです」

「学生時代はさりげなくできていたでしょう。俺も求められれば必要な手伝いはしますよ」

アリシアは考える素振りをした後、聞く。

「では、あなたは何故マリリエッタさまは助けなかったのですか」

「マリーには助けてほしいと言われたことがありませんでしたから。俺は求められないお節介はしません」

「…マリリエッタさまは助けてほしいと思われていたはずです」

「…。俺がはっきり口にしたお願いを聞いてくれない相手が、口にしない願いを持っていたとして、何故俺が察して叶えてやらなきゃいけないんです。俺に何のメリットもないのに」

正確に言えば公爵夫人が務めを果たさないのは家にとって不利益になるが、度を越していればそれを理由に離縁することも可能になる。尻ぬぐいをして婚姻を続けるより離縁をする方がいい、というわけである。

「それは…」

「助けてほしい、と直接告げられていたらそうしたと思います。彼女は我が家で暮らしたこともあるのだから、知っていたはずなんです。うちは言われたことはやれ、言われないことはやるな、という方針だと。或いは、気付いていなかったというなら、それこそ俺が彼女では公爵夫人は務まらないと再三言ったのがただの事実だったというだけのことです」

「…マリリエッタさまを憎んでいらっしゃったの?」

「ん…そうですね。そうかもしれません。俺は彼女を魅力的だと感じたことはないし、何度もそう伝えたのに出会ってから死ぬまでずっと俺を束縛してきました。俺に好感が持てる相手ではない上に、公爵家にも益がない…寧ろ損だったと言えるでしょう。どちらも不幸になるだけなのは明白なのに、エインクラインに損害を与えることなど問題にならぬとしがみ付かれれば、それは悪感情にしかなりません」

「…何処までいっても、ハルトムートさま個人としての情ではなく、エインクラインの当主としての判断なんですね」

「我が公爵家の家門や寄り子の貴族は多くありますし、領民も多数います。当主が判断を誤ればその全てに悪影響が出かねないのですから、個人の好悪で決めていいものなど…精々紅茶に入れる砂糖とミルクの順番程度のことくらいですよ」

彼はそう言って肩をすくめた。

「俺はあなたにとって、顔が美しいだけで何の魅力もない男ですか?アリシアさん」

「…いいえ。きっと、あなたの求婚をお受けすれば、前夫や私を地味で面白みがないと言った方たちを見返せるでしょうね」

「それがあなたのお望みであれば俺も助力しますが」

「…見返したいと、思っています」

二人はじっと見つめ合う。そうして、考えをまとめたアリシアが口を開いた。

「求婚、お受けします」

「では契約書を作りましょう。お互い、相手に何を望むのか、何を望まないのか」


エヴァンジェリンがアリシアに懐くまでそう時間はかからず、アリシアもまた義母としてエヴァンジェリンと誠実に接した。

地味と言われたアリシアの外見も、確かにハルトムートの言う通りメイクと衣装で美しいと言えるものになり、堂々とした立ち姿で、ハルトムートの隣に立っても不相応とは言われなかった。ハルトムートが妻を大切にしているのが見てわかったというのもあるだろう。アリシアは見る間に筆頭公爵夫人として貴族派の夫人の中心に立った。

立ち位置が盤石になった後の、多数の貴族が参加するパーティでアリシアは前夫に遭遇してしまった。前夫は事業に失敗して愛人に逃げられていた。

「俺が間違っていた。再婚しよう、戻ってきてくれアリシア」

「ご冗談を。私は既に再婚して愛する夫がおりますので」

「アリシア、君は俺を愛してるはずだろう?俺も君がいなきゃダメなんだ」

アリシアの手を取ろうとした前夫の手を、ハルトムートが払いのける。

「俺の妻に何か用か?」

「ハルト」

「おいで、アリス」

ハルトムートは二人の間に割って入ってアリシアを庇うように立つ。

「衛兵を呼ぶべきかな。嫌がる婦人に無理矢理迫るなんて、到底紳士のすることじゃない」

「エ、エインクライン公爵…」

大して面識はなかったが、ハルトムートは有名だったし一つでも評判を知っていれば彼のことだろうと一目見ればわかった。ハルトムートの方もすでにその男がアリシアの前夫だろうと見当がついていた。

「ああ。そして君は彼女をこう呼ぶべきだ。エインクライン公爵夫人、とね」

「くっ…」

「わかったなら自分のすべきことをすることだ。貴族であるなら、当然果たすべき役目というものがあるものなのだから」


エヴァンジェリンに当主の座が譲られるまでの間にハルトムートとアリシアの間には二人の子供が生まれた。夫婦としての仲も良好で代替わりして隠居してからも共に暮らした。

「あなたは、いつまでも若々しく美しいままなのね」

「王族の祖先には人ならざるものの血が流れていたらしいという話があるから、俺はその先祖返りというやつだったんだろう。まあ、外見など些末なことだ。俺の方が長く生きるというなら、アリスが死ぬまで一人にしないでいてやれる」

「…馬鹿ね。じゃあ、あなたは誰に看取ってもらうのよ」

「子供たちの誰かが看取ってくれるんじゃないか。それに俺は一人になることは別に苦じゃない。周りが俺を一人にしないだけでな」

見目も中身もハルトムートはずっと変化していなかった。娘たちよりも若く見えるほどだ。三十代くらいで変化が止まっているのだ。アリシアはもう、しわくちゃの老婦人になっているというのに。

「私、もうあなたと並んでも夫婦には見えないわ」

「俺たちのことを知らない人間の前に出る時は老紳士の外見を魔術で被ってみせようか。君が死んだ後に後妻を取るつもりはないし」

「あなたの年を取った姿なんて全然想像もできないわ」

アリシアは苦笑したが、ハルトムートは宣言通り公式の場では老紳士の姿で出るようになった。そうすると二人仲睦まじくお似合いの夫婦であると見られた。更に言えば彼の美しさでトチ狂ったことをする人間もほとんどいない。老いてなお美しいとは言われるが。

「もっと早くこうするべきだったらしい」

「そうかしら」

「この方が快適だからな」

真面目な顔で彼が言うので、アリシアはくすくすと微笑った。

「俺は本気で言っているんだが」

「それはわかっているわ。…ねえ、あなたは今、幸せなのかしら」

「ん…そうだな。俺は果報者だと思うよ」

彼はそう言って微笑んだ。



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アンネリーゼもマリリエッタも自分の事しか考えて無くてロクなもんじゃなかったけど、最後にアリシアと添う事が出来て幸いでした ハルトムートは自分の事しか考えてないようでちゃんと貴族当主としての義務や責任を…
なんというか不思議な話ですね。違う展開なのに後味は似ているというか…キャラがブレていないということなのでしょうか。 求められすぎるから何も求めないというのはありそうですし、王家に近い家ならば満たされな…
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