第1話
1832年(天保三年)9月13日の情景だ。
稀代の盗人“ねずみ小僧”こと中村次郎吉が、江戸市中を引き回されている。
ただ、その姿は違和感にあふれていた。
馬上の次郎吉は華美な着物を着て、その顔にはおしろいが塗られ、あろうことか口紅まで引かれていたからだ。
見物人からは、ヤジとも戸惑いともいえない声が漏れる。
「なんで化粧なんかしてんだ?女みてえに」
「お上の辱めだよ。女の腐ったような野郎ってこった」
「でも、あれじゃどんな奴だかわかんねえぜ」
場面は鈴ヶ森刑場に変わる。
磔刑の執行。
処刑人たちが黙々と槍を清めている。
次郎吉はというと、引き回しの時同様おしろいに隠されその表情は読めない。
「…されば、執行!」
処刑人たちが槍を構える。
柵の向こうで何かの騒ぎが起きた。
興奮した野次馬の声だ。
突然次郎吉が顔を上げ、目を見開いた。
「みんな、聞いてくれ!」
見物人たちがざわつく。
「問答無用。問答無用である!」
慌てた見届け人が処刑人たちに顎で促す。
「俺の名は…ねずみ小僧!」
「問答無用!」
次郎吉の胸に槍が突き刺さる。
「中村じろ…き…」
喉元への一撃が、リアルだった。
「降りた⁉」
はっと目を覚まし叫んだあとで、自分の喉元を確認した。
大丈夫。ただの夢だ。
(…ここに、触媒はないはず)
床に散らばった肖像画などの史料を見る。
御子柴舞は歴女だ。日本史をこよなく愛している。
歴史研究は、作られた誤解との闘いだ。
一度沁みついたイメージは簡単には拭い去れない、とつくづく思う。
「遠山景元」晩年の肖像画を見る。
例えば、名奉行としてたびたびドラマにもなる遠山の金さんこと遠山金四郎景元。
彼が町奉行になるのは四七歳。
街中で暴れ回る歳ではないし、そもそも町奉行は今の法務大臣にあたり、彼がお裁きをした具体的な記録は一件のみ。
景元が一二代将軍家慶の前で模範裁判をしたことがあり、そのとき家慶が「名裁き」と絶賛したことから名奉行・金さんのイメージが定着したのだ。
「水野忠邦」の肖像画を見る。
天保の改革で知られる水野忠邦は倹約令を出したためか、清廉潔白のイメージがある。
だが、実際は賄賂と裏金を駆使して老中に成り上がった出世欲と金銭欲の権化だった。
歌舞伎絵の「次郎吉」を見る。
ふたりと同時代に生きた次郎吉が、盗んだお金を困っている人たちの家に投げ込んだ『義賊』というのも、後世の歌舞伎作者が作り出した創作である。
当時の町奉行が取った調書「鼠賊白状記」によると、次郎吉は十年間で百回近く江戸市内の武家屋敷に忍び込み、三千両とも一万両以上とも言われる金品を盗み取った。
だがその金はすべて博打に使われているのだから、義賊だなんてちゃんちゃらおかしいぜ、と舞は思うのだ。
窓の外を見やると、巫女たちが掃除やおみくじの準備などをする御子柴神社のいつもの朝の風景だ。
「舞ちゃ~ん。ごはんできてるわよ」
野太い声がする。
服を着替えて下りると、テーブルには朝食が用意されていた。
養父であるトランスジェンダーの武蔵坊弁慶が、がつがつと先に食べている。
「おかあさんに、ご挨拶しなさいよ」
言われて舞は、仏壇に向かって手を合わせる。
そこには実母・とよの遺影があった。
「ねえ、弁ちゃん。おかあさんも巫女だったんだよね。やっぱり、降霊能力強かった?」
「パネエよ。史上最強のシャーマンだったさ。なにせこのあたしも、とよに蘇らされたひとりだからね」
御子柴舞は母から受け継いだその降霊能力を使って、歴史上の理想の男性を現代に蘇らせ、その人との愛の結晶をこの世に送り出す…それこそが、選ばれた巫女としての彼女の宿命なのだ。
「でも、降霊術には色々制約があるからね。例えば、あんたの降霊術は男にしか効かないのよ」
「私が百合に走ったら、役に立たないってことね?」
「走るな、アホ。さて。あたしは社務所の仕事があるから、先に出るわよ。あんたは、大学まじめに…」
「クシュン!」
舞がくしゃみをすると、ポンと煙が出て弁慶の姿が白ダルマに変わってしまった。
これもまた降霊術の制約のひとつだ。
「あ、弁ちゃん。ゴメン」
中野大学までは、毎朝バスで通っている。
舞は大学で日本史の研究をしながら理想の"昔の男"を探している。
なぜ、現代の男性ではダメなのか?
外の景色を見ると、くたびれたサラリーマンや腐った魚の目をした若者の姿しか見えない。
(今の男には夢がない、覇気がない…一所懸命さがない‥ん?)
隣に立つ乗客が、舞のお尻を触っているのに気づく。
「一つ所に命を懸ける!」
男の手首をひねり上げる。
「命を懸けて触ってる?」
「痛い痛い!」
「痴漢、あかん」
舞は痴漢男にそう諭し、車内の喝采を浴びた。
中野大学文学部棟に着いた。
(やべ。痴漢を突き出してたら遅刻した)
「日本史 大潮研究室」という札が貼られたドアを開ける。
「失礼します」
だが室内に、学生はいなかった。
「遅い。論文オリエンテーションは、もう終了したで〜」
ただひとり大潮教授が黒板を拭いていた。
「御子柴くん、やな。論文のテーマ、決まったか?」
「あ、はい。『ねずみ小僧次郎吉』で行こうと思ってます」
「次郎吉か。ほな、論点を挙げてみ」
「はい。定説には、私なりに疑問に思うことが四つありまず」
と、チョークを取って板書していく。
『論点①捕まらない理由』
「まず、次郎吉の盗みは十年間で百回近くに及んでいます。なぜ、こんなにも成功したのか?」
『論点②一回目の捕縛』
「ふたつ目。二年目に一度捕まりますが、このときすでに32回も大名屋敷を荒らしておきながら、所払いという軽い刑で釈放されたのはなぜか?」
『論点③二回目の捕縛』
「みっつ目。二回目の捕縛は、その後七年近く経ってからです。今度の疑問は、なぜそのタイミングで犯行に及び、なぜ捕まったのか?」
『論点④別人説』
「よっつ目。捕えられた次郎吉は市中引き回しにされます。でもこのとき、見物人が多いという理由で、華美な衣装に白粉といういでたちでした。もちろん異例です」
「捕えた次郎吉は別人だった。だから奉行側は素顔を見せたくなかった、と言いたいわけやな」
「あるいは、世間が顔を知っているような人物だった…とか?」
大潮は聞きながらお茶を啜っている。
「面白そうやが、次郎吉はあんまり資料も残っとらんからなあ」
舞はさらに「忠邦→遠山→次郎吉」と三角関係図を板書した。
「次郎吉だけではなく、水野忠邦と遠山の金さんを絡めてみようかと思ってます」
「忠邦と景元は上司と部下やけど、ふたりとも次郎吉とはどうつながるんや?」
「仮説を立ててみました。まずこの『鼠賊白状記』の中で、次郎吉が初めて盗みに入ったと証言している文政六年…」
文政六年、1823年から話は始まります。
遠山の金さんこと景元は、当時旗本の家の養子にはなったものの、まだ江戸市中をふらふらしている素行不良の侍でした。
この日も賭場には、丁半博打に興じる遠山金四郎の姿がありました。
「よっしゃ、今度こそ半だ!」
腕まくりをして有り金全部を張る袖口からは、桜吹雪の刺青が覗きます。
壺が開けられ、丁の目。
「ちきしょ~、今日もオケラだ」
と、金四郎のうしろから付き人が囁く。
「金さん。寺社奉行からお呼び出しです」
「何?お奉行から?」
もちろんのちの老中で遠山景元の生涯の上司・水野忠邦ですから、そそくさと引き揚げます。
「へへえ。お奉行様にはご機嫌うるわしゅう」
忠邦邸の中庭でひれ伏す金四郎の前に、白房の十手が放り投げられます。
「金四郎。お主は今日から北町奉行の同心として市井の揉め事、厄介事をつぶさに精査し、大事があれば私に報告致せ」
十手を拾いながら、金四郎は不審に思う。
「北町奉行?寺社奉行の水野様が、何ゆえそのようなお役目を?」
「私はいずれ老中になる。町奉行の仕事も進んで経験しておこうと思ってな」
(要は、あちこち嘴突っ込んで目立っとこう、ってことか)
わからぬように顔を伏せ鼻白む金四郎。
そんな金四郎を手招いて、忠邦は声を潜める。
「それと例の件をお主に任すゆえ、しかるべき方策を探るのだ」
(例の件たあ、諸藩からの付け届けをどう受け渡しするか、だな)
金さんは北町奉行の非常勤の同心として、取り調べに立ち会います。
そして囚われた者の中に、さる藩邸に空き巣に入った次郎吉という盗賊がいた、と仮定します。
金四郎が次郎吉から聞いた話はこうです。
鳶職人の次郎吉、齢二三。
左官の仕事でお屋敷の塀を繕いに行った際、中が御妾さんと女中ばかりであることに気づく。
そこで武家屋敷に空き巣に入ることを思いついた…。
金四郎は考えます。
いったいなぜ武家屋敷たる場所がそこまで無用心なのか?
享保の改革以降は二年のうち半年間が参勤の義務。
残りの一年半は藩邸の当主は不在の状態。
その間警護を厚くすれば幕府から謀反でも企てているのかと要らぬ詮索を受けてしまう。
だから、当主不在の屋敷はしたくても警護するわけにはいかなかった。
(ふむ。こいつは、裏金運びに使えるな)
金四郎はさっそく忠邦の屋敷で報告をします。
でも忠邦、縁側に火鉢を置いて興味なさげに調書を読んでいます。
「次郎吉、と申すか。ただの鼠であろう?私は大事あれば報告せよと申したはず」
「…仮に諸藩からお奉行様に付け届けたい物があったとします。ところが届けようとした前の晩に、この鼠がごっそり盗んでしまったので届けられなかった」
ここでようやく忠邦も興味を持った。
「…ふむ」
「しかしお奉行様がある日蔵を覗いて見たら、身に覚えのない品物が積まれてあった…盗まれた物が右から左に移っても与り知らぬが道理。例え、その金が…」
「金?」
「その贈り物がお奉行様からご老中に渡ったとしても、何の疚しいこともございませぬ」
忠邦はしばらく考えて
「遠山景元。その者をどう裁く?」
金四郎に謎かけをする。
「取るに足らぬ微罪ゆえ、ここは同心の拙者に身柄をお預けくださいませ」
「お主が、そこまで申すなら」
全てはお主の一存だぞ、と忠邦は調書を火鉢にくべる‥。
夜の江戸市中。
人気のない道に大八車を引く黒装束の男と金四郎。
岩崎邸の前に着いたところで、金四郎が帳面を改める。
(唐津藩岩崎邸、ここだな)
金四郎は、黒ずくめの男に語りかけた。
「今夜からおめえはお上公認の盗人だ。但し、盗む屋敷も隠す場所も俺が指定する」
男は無言で頷く。
「おめえに符牒を授けてやる。『ねずみ小僧』だ。まずは、この屋敷をかじってこい」
その言葉にも、男は黙って頷いた。
岩崎邸の裏木戸が開き、堂々と黒装束の男が入ってきて庭を横切る。
途中、見張り番と遭遇するが
「お役目ご苦労様です。奥座敷はあちらで」
そこには、盗って下さいとばかりに千両箱が積まれている。
男は箱を二つばかり小脇に抱えて外へ出る。
金四郎はというと、岩崎邸前で大八車にどっかりと腰をかけている。
(何とも張り合いのねえ仕事だな)
裏金を運ぶのに、なぜこんな手の込んだ小芝居をするのか?
例えば同心が二人、向こうからやってくる、とします。
金四郎は塀の裏に「チュウ、チュウ」などとねずみ言葉で合図を送る。
塀の内では、箱を抱えた男が立ち止る。
真夜中の大八車はやはり不審。
同心のひとりが金四郎に提灯をかざして、軽く尋問。
「その方、夜分にこんな所で何をしておる」
金四郎は慌てず騒がず、懐から十手を取り出して見せる。
「よ、ご同業。お互い冬の夜勤はこたえますな」
「これはご無礼。白房の十手、寺社奉行の方ですな。それは?」
片方の年配の同心が筵のかかった大八車を指す。
金四郎が十手で筵をどけると、棺桶が現れる。
「お屋敷の高貴な方が急に亡くなられてな。内密に寺へ運ぶところでござる」
「内密?」
「うむ。お奉行の関係者ゆえ、しばらくは秘匿せねばならん…おっと、貴殿らも今宵のことは」
金四郎が口の前に指を立てると同心ふたりも頷き、一礼して去って行った。
それを見届けた金四郎は「よし、いいぞ」と塀の向こう側に声をかける。
裏木戸から男が現れ、棺桶に千両箱を詰め込む。
この金は一旦忠邦の屋敷に納められ、一定量貯まったところで、老中・水野忠成のもとへ賄賂として運ばれます。
つまり『ねずみ小僧』とは、賄賂を運ぶ下手人に与えられた符牒なんです。
第2話につづく