02話 拝啓、今mobは幸せです
季節が移り変わり、翔太が村に来てから数か月が経った。
朝もやの立ち込める村を、翔太は慣れた足取りで歩いていた。
「おはようございます、翔太さん」
畑仕事をしていた老婆が、にこやかに声をかけてきた。
「おはようございます」翔太は笑顔で返した。「今日も早いですね」
「あんたも農作業、随分慣れてきたじゃないか」
翔太は照れくさそうに頭をかいた。
「まだまだです。みんなに教えてもらってばかりで」
村での生活にも少しずつ馴染み、翔太は畑仕事や家畜の世話を手伝うようになっていた。最初は戸惑うことばかりだったが、今では村の人々と和やかに会話を交わせるようになっていた。
仕事を終えて家に戻る途中、翔太は村はずれの小道を歩いていた。
ふと視線を上げると、近くの木陰に見慣れたシルエットが見えた。
「リリア?」
翔太が声をかけると、木陰からリリアがそっと姿を現した。
「翔太...お疲れ様」
リリアの声は相変わらず静かだったが、以前よりも柔らかさが増していた。
「ありがとう」翔太は思わず微笑んだ。「今日はどうしたの?」
「これ...持ってきた」
リリアは小さな籠を差し出した。中には色とりどりの森の実が入っていた。
「わあ、ありがとう」
翔太が籠を受け取ると、リリアは少し頬を赤らめた。
「あの...一緒に...食べる?」リリアが小さな声で提案した。
「うん、そうだね」翔太は嬉しそうに頷いた。
二人は村はずれの小さな丘に腰を下ろし、森の実を分け合った。甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「美味しいね」翔太は感想を漏らした。
リリアは微笑むだけだったが、その表情には確かな喜びが浮かんでいた。
静かな時間が流れる中、翔太はふと思った。この穏やかな日々、何気ない幸せ。かつての自分には想像もできなかった世界だ。
「リリア」
「うん?」
「ここに来られて、本当に良かったよ」
リリアは少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しい笑顔に変わった。
「翔太が...来てくれて...私も嬉しい」
二人は言葉を交わすこともなく、ただ並んで夕暮れの村を眺めていた。平和な空気が二人を包み込む。
その夜、寝床に入りながら翔太は考えていた。リリアとの穏やかな時間、村での充実した日々。自分はもう、この世界の一部になりつつあるのかもしれない。
ふと、翔太の心に美咲の笑顔が浮かんだ。
「美咲...」
翔太は小さく呟いた。
あの日、約束を守れなかったことへの後悔が胸をよぎる。美咲は今、どうしているだろうか。自分がいなくなってから、どれほどの時間が経っているのだろうか。
翔太は深くため息をついた。美咲への思いと、この世界での新しい生活。その間で揺れ動く気持ちを、まだ上手く整理することができない。
それでも、翔太は考えた。今の自分にできることは、この世界で精一杯生きること。それが、美咲への償いにもなるのかもしれない。
大きな野望も、特別な使命もない。でも、この平和な日常の中にこそ、かけがえのない幸せがある。そして、その幸せを大切にすることが、今の自分の役目なのだと。
翔太は心からそう感じていた。
明日もまた、穏やかな一日が始まるだろう。美咲への思いを胸に秘めながら、翔太は静かに目を閉じた。
***
翔太の意識が徐々に深い眠りへと沈んでいく。
現実の世界が遠ざかり、別の次元へと引き込まれていくような感覚。
深い、底知れない闇の中に沈んでいく。 身体を動かそうとしても、指一本動かすことができない。
声を出そうとしても、喉から音が出ない。
ただ、かすかに聞こえる声がある。
「翔太...」
美咲の声だ。
悲しみに満ちた、切ない声。
翔太は必死に応えようとする。だが、どれだけ努力しても、闇の中から抜け出すことはできない。
「お願い...戻ってきて...」
美咲の声が遠ざかっていく。
翔太は叫びたかった。「ここにいる!」と。
しかし、言葉にならない。
そのとき、翔太の背筋に冷たい戦慄が走った。
自分のすぐ傍らに、何かが潜んでいる。 それまで気づかなかった、あってはならない存在。
見えない。聞こえない。でも、確かにそこにいる。 闇の中で、翔太のすぐ隣に。
その存在からは、言葉にできない邪悪さが滲み出ていた。 まるで、暗闇そのものが意思を持ったかのように。
翔太の全身の毛が逆立つ。 この得体の知れない存在は何なのか。 どこか懐かしく、しかし同時に底知れぬ恐怖を呼び起こす。
それは、翔太の意識を押しつぶそうとしているかのようだった。 まるで、翔太の存在そのものを否定するかのように。
闇はさらに深くなり、翔太の意識を飲み込んでいく。 そして、その存在もまた、翔太と共に闇の中へと沈んでいった。
***
翔太は冷や汗をかきながら目を覚ました。
部屋の中は、まだ夜の闇に包まれている。 夢の中の感覚が、生々しく残っていた。
「夢...か」
翔太は小さくつぶやいた。
胸の奥に、言葉にできない複雑な思いが渦巻いている。 そして、何か大切なことを忘れているような、不思議な感覚が残っていた。
窓の外では、もうすぐ夜明けを告げる小鳥のさえずりが聞こえ始めていた。 新たな一日の始まり。翔太は深呼吸をして、ゆっくりと体を起こした。
今日も、この世界で精一杯生きていこう。 そう心に誓いながら、翔太は朝を迎える準備を始めた。
しかし、夢の中で感じた得体の知れない存在の記憶は、翔太の意識の片隅で、まるで何かを告げようとするかのように、かすかに脈動し続けていた。