夏の章その3(前編)
……その時、水梨邸に来ていた"稲荷人"の小蓮は、一体どうすれば良いのか迷っていた。
というのも、水梨邸に現れた"リッサ"と名乗る"招かれざる異邦の者"と水梨邸の家主である伊鈴との間で、互いに毒を吐き合う言葉の応酬が繰り広げられた。
その結果、売り言葉に買い言葉の喩えよろしく、双方の間でとうとう交戦状態に陥ってしまったのである。
両者の内、伊鈴はそんなに離れていない場所にある集落を巻き込む事を避けるため、リッサに挑発を仕掛けつつ、邸の北側の山岳地帯へと移動を始める。
当然だが、リッサもその挑発に乗る形で追撃行動に移行していた。もっとも、その時リッサは……
『こいつ、アタシをワザと怒らせたわね。けど、同時に人気の無い場所へ誘導しているところから見て、可能な限り無関係な者を巻き込みたくない意図は感じたわ。』
……と、彼女(伊鈴)の考えを感じ取っていた。
そして、それと同時に『だけど、こちらとしても無人地帯で戦闘に及ぶならば望む所よ。極東に派遣されてから、色々ストレスが溜まってたから、それを存分に発散させて貰うわよ!』とも思っていたのであった。
ただ、リッサはまだ知らない。
今から対戦しようとする相手が、かつて水の鬼の王と呼ばれた存在である事を……
一方、そんなリッサに追尾されている伊鈴もまた、久し振りに力を振るうに値する相手が現れた事に心躍っていたという。
挑発をし、自身を追尾するように仕向けたのは近くの人里に被害が及ばないようにするだけではなかった。
自分の邸に来ていた小蓮を巻き込まないためでもあったのである……
『ふ〜む、ちゃんとついてきているね小娘。しかしまあ、空を舞う力を持っているとはちょっとだけ予想外だったかねぇ? 知ってる"超常者"は、尽く空は舞えないんだけど。異邦の超常者で、なおかつ空を舞う力を持つとなると……この娘、以前話に聞いた"ふぉとんぶらんど("光の枝"の事)"って"超常力"の使い手って事かねぇ。なら、少しは歯応えがありそうだね。』
背後から迫ってくるリッサを見て、伊鈴はそのように見定めていた。
昔の鬼の王としての余裕を秘めつつ、表情にその考えが出ないように見た目は平静を装う伊鈴。
だが、追尾して来る人物が母国においては"英雄"と呼ばれる存在である事を彼女は知らない……
そうしている内に、両者は佐世保と東隣の土地の境目付近の山奥に辿り着いた。
ここは佐世保、いや長崎側は比較的緩やかな山並みが続く土地なのだが、東隣の土地に入った途端、あたかも"カルデラ"の内側かと思える程に急峻な斜面の土地が南北に走っている場所であった。
そして伊鈴は、その中のとある峠道に降り立つ事となる。そこには看板が掲げてあり、"栗の木峠"という文字が記されていた。
伊鈴が降り立ち数秒後、彼女を追尾していたリッサも上空に現れ、その場で滞空しつつ彼女を見下ろす形で相対するのだった……
「こんな山奥までアタシを引っ張って来たんだから、それなりに楽しませてくれるわよね?」
「ふふっ、まあそう急ぎなさんな。こっちは退きはしたが逃げてるわけじゃないからねぇ〜。」
「ふん、随分な余裕の見せ方ね。だけど、その余裕……どこまで保てるかしら?」
「あら、そういう風に見えていたかねぇ。まあ、そう見えていたなら、まだまだあたしも捨てたモノじゃないって事になるか。」
「だから、その余裕見せつけ放題の傲慢さ、まさに鬼の特徴そのものよ。昔、直接対戦したヤツがまさにそうだったし……。少し前にも顔を会わせたけど。」
「ん、少し前に顔を会わせた?」
リッサが口に出した一言を聞き、伊鈴は何かを察しつつあった。
その結果『そういえば、ちょっと前に"風の子"が小火騒ぎを起こしたとか聞いたような気がするけど……もしかしてこの小娘、その件の当事者かねぇ?』と思ったとか。
小火騒ぎという表現の仕方をしてはいたものの、要は先代の風の鬼の王"閃風"がしでかしたアメリカ軍艦へのちょっかい出しの話を、自分の後任でもあった先代の水の鬼の王"今川美清"から聞かされていたのである。
それらの情報や今現在の状況を勘案した結果……
『なるほどねぇ。こりゃどうやら単なる"招かれざる客人"じゃなさそうだねぇ。となれば、これは少し本気になるしか無いか。もっとも、今のあたしの全力が通用するかどうか確認するにはもってこいの相手だろうけどね。』
……と考えたあと、リッサに向けて『小娘、あんたが今のあたしの力を測る上での一つの指標になるかどうか、たった今から確かめさせて貰うさね!』と、言葉を投げ掛ける。
それと同時に伊鈴が軽く右腕をリッサに向けるように強く振ると、すぐ近くにある石造りの施設を流れる山の"湧き水"が俄に噴き上がると、その水の塊がリッサ目掛けて襲い掛かったのである。
自分に向かって水の塊が迫ってくる中、リッサは『なるほど、ここにアタシを誘い込んだのは、ここの湧き水を武器として使うつもりだった訳か。……って事は、この鬼は"水"の力を操る奴という事になるわね。まさか水の鬼の王? いや、それならもっと派手な事が出来たでしょうね。』と思うと、おもむろに肘より先の左腕部分に意識を集中する。
すると、その部分が激しく発光を始めたのである。その発光がより激しくなると同時に、リッサは自らに向かって来る水の塊目掛けて突進。
塊に接触する手前で発光した左腕を塊を斬り裂くように横薙ぎに振るった。
次の瞬間、リッサの発光する左腕に接触した水の塊が形を崩して一気に蒸発したのである。
この様子を目の当たりにした伊鈴、思わず驚いたかのように瞳を見開きつつ『こいつは驚いたねぇ。水塊を斬り裂くだけでなく、同時に激しい熱を与えて蒸発させるだなんてさ。まるで"火の子"みたいな事をする。』と発言していた。
だが、その直後『しかしまあ、人の身であんな事を行えば、力を纏わせた部分に掛かる負担も無視出来る訳じゃないでしょうさ。』と、心の中で語る。
伊鈴がそのように見立てたのは、やはり先の戦役後に閃風本人から聞かされた"力を身体に纏わせて自分諸共滅しようと試みた人物がいた。"という話を思い出していたからでもあったという。
しかし伊鈴は、その人物と目と鼻の先にいるリッサが同じ部隊に属していた先輩後輩である事をこの時はまだ知らなかったのであった。
それを知るのはまだ先の話である……
しかし、戦闘はまだ始まったばかりである。
蒸発させたとはいえ、リッサの周囲には蒸発した水塊の残滓と言える水蒸気が霧か雲霞のように漂っていた。
その事を知る伊鈴は、すかさず二の矢とも言える手を用いた。
つまり今度はその水蒸気を操り、リッサの動きを拘束しようと試みたのである。
だが、当然の事ながらリッサもそれには勘付いていた。
水蒸気が自身に纏わりつくのに対抗すべく、今度は身体全体を発光、発熱させて水蒸気を更に細かく蒸発させ、同時にその場から退避するように動いたのである。
『チッ! 水の塊だけでなく水蒸気も操るかぁっ!! 全く大したモノだわ。何も知らないであのまま動かずにいたら、今頃窒息させられていたところだったわよ! こうなると、距離を取るのは愚行ってモノでしょうね。間合いを詰めて、接近戦に持ち込ませて貰うわ!!』
そう宣言するや否や、文字通りの"電光石火"の如くリッサは一気に間合いを詰めに掛かる。
その、迷いなき直線番長ぶりに対し、伊鈴は再度湧き水から水塊を作り出し、それをリッサの前面に押し立てる。
当然だが、リッサはそれを先程同様斬り裂きに掛かった。
だが、斬り裂こうと腕を振るう直前、水塊が複数に分裂し、自分を包囲するように展開した事から、リッサも直線番長的行動を止めて己を取り囲む水塊群を迎え撃つ構えを取るのだった。
『チッ、今度は複数に分割して包囲するか! こいつら一つ一つを潰していたらキリがないじゃない! ……だったら操る本体を潰すだけよ!!』
そう思いつつ、リッサはまだ地上に留まっていた伊鈴を睨みつける。
その視線に気付いた伊鈴の表情からは未だに余裕が感じられた。
その表情を見て、リッサの感情に火が着いたのは言うまでもなかった。
彼女は『全くムカつくわね。けど、その表情をすぐに歪ませてやるわ!』と叫ぶと、自身を取り囲む水塊群をものともせず、一気に伊鈴の側へと突進してきたのである。
そして、伊鈴の目の前に降り立ったと同時に、今度は右手首より先が発光し、その右手から光の刃が発生すると、一気に伊鈴目掛けて突きを打ち込む。
その光の貫手が比較的小柄な伊鈴の身体を貫いた……ように思われた時、ふと両者の視線が交差する。
すると次の瞬間、貫かれた側の伊鈴の身体が酷く歪みだし、まるで水風船が破裂する様に弾けたのである。
これにはリッサも一瞬驚くも、すぐに伊鈴の本体の位置を察知して、その方向を見る。
その時、伊鈴はリッサの頭上へと浮遊移動しており、先程までとは立場が逆になっていた……
『驚いたねぇ〜。まさか水塊群の包囲を食い破ってあたしの懐に飛び込んで来るだなんて。こちらが"水分身"を事前に仕込んで無けりゃ、今頃胴体に大穴が開いていたところさね。しかしまあ、向こうは接近戦を意識した動きをしてるね。本来なら鬼として迎え撃つところだけど、どうやらこちらも戦闘の勘が鈍ってるみたいだし、あまり向こうの土俵に乗る必要はないさな。』
……伊鈴はこの様に考えたあと、不意に空を見上げる。
そして何かを考えたあと、その身を更に高い空へと昇らせ始めたのである。
この動きにリッサは『地上戦は不利と悟った? いや、違うわね。恐らく何か悪知恵を働かせているに違いないわ。なら、その誘いに乗ってやろうじゃない! 仮に罠があったとしても、光の刃で斬り裂いてやるわよ!』と口走ると、伊鈴の後を追って空高く舞い上がって行くのだった……
一方、ひとり水梨邸に残されていた小蓮は、遥か遠くで起きている戦いの様子をわからず、どうした物かと悩みながら庭先を行ったりきたりと往復しながら考えていた。
『ああ、一体どうしたら良いんだろう? 誰かに救援を求める? いや、今から那苗様を呼びに行ってどうにかなる気がしない。あのリッサと名乗る客人、ただならぬ雰囲気を纏っていた感じがする。かといって、鈴鹿様が居る神社まで行くにしても時間が掛かるし……。せめていづる様が帰ってきて下されたら何とかしてくれるのでしょうけど……』
そんな事を考えながら、往復する速度がだんだん速くなる小蓮。
彼女自身も、一般人と比較すれば充分に強い部類には入ってはいるのである。
だが、そもそも彼女が知る範囲の人物達が一部を除いて、彼女の常識とか価値観とかを吹き飛ばす位には強過ぎるのだ。
つまり、平均的という言葉が意味を成さないのである。
斯くして迷う一方の小蓮であったが、その迷いの時間は唐突に終了する。
なぜなら、彼女からすれば今一番に来て貰いたい人物が水梨邸に到着したからである。
『おや? お~い駄狐、お前そんなところで何ウロウロしてやがるんだ?』
その声と共に水梨邸の庭先に飛び降りるように着地したのは、言わずもがな"東雲いづる"その人であった……
「ああっ! いづる様、丁度良い所に! 実は伊鈴様が」
「婆さんがどうした……って言いたいが、だいたいの事は察しているから安心しろ。さて、婆さんと"つまらん珍客"は……ふ~ん、"国見山"の方に行ってるみたいだな。」
「はい! 確かにそちらの方に向かって飛び出して行きましたが……いづる様、なぜそれを?」
「んぁ? まあ、婆さんなら、あっちの方に行くだろうと思ってた。西寄りだと烏帽子、東寄りだと県境越えて"佐賀"に出ちまう。南側だと早岐とか広田辺りだし、そうなれば自ずとな。」
「始めから伊鈴様の動きが予想できていたんですか。」
「まあ、そういう事だな。伊達に二十うん年の間、付き合いもそれなりにある訳だからな。」
そう語りつつ、いづるの視線は既に伊鈴が向かった先の方を向いていた。
そして『ほ〜ん、相手の奴、婆さんと互角の勝負をしているって感じかな? 適当なところで横槍を入れて良さそうだが、婆さんも久し振りに戦闘を楽しむだろうな。とりあえず、邪魔しないように様子を探っておくか。』と述べると、おもむろに縁側から邸の中に入り込むのであった。
このいづるの行動に、小蓮も呆れ返るのであるが、邸の中から『心配すんな。ああ見えて"元・鬼の王"なんだぜ? よほどイカれた相手でもなければ、負ける事は無いさ。』という声が聞こえてきたため、小蓮は心配しながらも邸の方に向かうのだった……
ー 後編へつづく ー




