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ロッカールームで千佳は着るものを一通り揃えることが出来た。ラインが言った通りそれは極めてシンプルな装いだったが、千佳はそういう服が嫌いではなかった。むしろ、同級生の間で流行っているファッションは、煩くて嫌いだと感じていた。ただ、もちろんそのまま着られる状態ではなかった。
「洗いたいわね。」
それは流石に無理ね、とラインは笑った。それから、服を広げて、と言った。
「糸をイメージしながら、服の全体をどちらかの手で撫でてみて。終わったら裏側もね。」
千佳はその通りにした。千佳の指先から糸が落ちるようにするすると伸びて、服の繊維の中へと滑り込んでいった。
「こういうのってお尻から出るものじゃないの?」
「あなたお尻から糸を出したいの?」
そんなわけないでしょ、と千佳。
「構造上、指先から出る方がいろいろと便利でしょ。スパイダーマンは正解よ。」
なるほど、と言いながら千佳は補強の終わった服から身にまとっていく。
「凄く着心地がいい。ブランドものみたい。」
これ以上の糸はないわ、とラインは誇らしく言った。
その日は研究所で眠ることにした。睡魔はなかったが、今までと同じサイクルを続けたほうがいい、というラインの助言による決定だった。
「身体にどんな作用が起こるかわからないからね。平気だからって動き続けてたら、精神と身体の状態に誤差が生じる可能性があるわ。身体だけ過労、なんて状態になるかもしれない、わかる?」
千佳は頷いた。
それから一番状態のいい部屋を選んで蜘蛛の糸でハンモックを作り、ぐっすりと眠った。
どんな夢も見ることはなかった。夢を見ることのない身体になったのか、それともたまたまだったのか、まだ千佳にはわからなかった。おはよう、とラインが言った。
「あなたは眠ったの?」
挨拶のあとで千佳はそうラインに聞いた。もちろん、とラインは短く答えた。
「これからどうする?」
ラインはそう続ける。千佳はある街の名前を告げる。
「私を殺した人たち、その街から来たらしい。その街がどこにあるかわからないから、とりあえず駅を探す。私が住んでた街の駅に行くわけにはいかないから、違う街まで移動しないとね。」
「もう家には帰らないつもりなの?」
もう死んじゃったからね、と千佳は笑う。
「これから身体にどんな変化が起きるかわからないし、ご飯だって、いままでと同じように食べられるかわからない。どんな変化も父さんや母さんには気付かれると思うし、割り切って違う人間になるべきだと思うの。」
その方がいいかもね、とライン。
「私にもそのあたりのことはどんな保証も出来ないから。」
じゃあ、決定、と千佳は少し強い調子で答えた。
「私が捨てられた場所をとりあえず見てみるわ。荷物が一緒に捨てられたかもしれないから。」
千佳の持っていた学生鞄は少し離れた場所で見つかった。財布の中にも手を付けられてはいなかった。バイト代を貰ってそのままだったのは運が良かった。制服も近くに捨てられていたが、破られていたので着ることは不可能だった。
「電車に乗るくらいのお金はあるけど…臭うから避けたいわね。」
そうね…とライン。
「カナブンとかの力を使えば飛べるけど、昼間じゃ目立つしね。」
「あんまり早く走るのもダメか。」
とりあえず移動しよう、と少し考えてから千佳は言った。
「どこかでもう一着、安い服を揃えて、それを着て電車で移動しましょう。」
それがいいわね、とラインも同意する。
「ねえ、この服ってコインランドリーで洗っても大丈夫かしら?」
どうかしらね、とライン。
「私は自分の糸を洗濯機にかけたことがないからね。」
じゃあ最初の実験といきますか、と千佳はおどけた。そうして二人は、自分たちの運命を繋げた研究所を離れることになった。
獣道を下りながら、様々な能力を試してみた。軽く飛んでみたり、素早く動いてみたり。時々はいい匂いのする樹を選んで、その液を啜った。
「いちいちそれっぽく変身するのかと思った。」
一通りやってみて千佳は言った。そこについてはなんとも言えないわね、とラインは答えた。
「さっきも言ったけど、初めてのことだから…糸のように、それが必要だと感じれば変化もあり得るかもね。」
試してみようか、と千佳は言い、自分がカナブンになるイメージを持ってみた。少し身体がモゾモゾする感じはあったけれど、変化はしなかった。
「変わろうとする意志を身体が感じてるから、練習次第ではなんとかなるかも。」
うーん、と千佳は考え込んだ。
「変化する必要性…。」
おいおいでいいんじゃない?とラインが助言する。そうね、と千佳も同意する。
「初日だものね。とりあえず街を目指しましょう。」