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古い記憶を探る

作者: さうろんぼ

令和3年現在、日本人男性の平均寿命はおよそ81歳だという。

もしも私が平均寿命まで生きることができるとしたら、ちょうど人生の折り返し地点を迎えていることになる。

この世に生を受けて40余年。

この頃、今を生きているということが、どれほど不可思議な事かと思うことがある。


過去と、現在と、未来。


祖父母は父方、母方ともに鬼籍に入っている。

父母は健在だ。

一つ年上の妻に、中学校2年生の長女、小学校6年生の長男。

気付けば、いつの間にか少年・青年期を過ぎてしまい、私を取り巻く環境も、年齢相応になってしまっていた。

この度、どうしてこのような書き物をしようと思ったのか、私自身よくわからない。だが何かを書きたい、書き残したいという、なにか焦燥感に似た思いに駆られ、こうして筆をとり始めた。

そもそも何を書きたいのかも定かではないのだが、とりあえず書き出しとして、自分の一番古い記憶を探ってみることから進めてみたいと思う。




しっかりと思いだせる記憶は、やはり3歳から4歳ころからだ。

最も古い記憶ははっきりしない。

機動戦士ガンダムの最終話を見た覚えがあるのだが、これが最も古い記憶かもしれない。当該作品の放映期間が1979年の4月から、1980年の1月までというから、当時の私は1歳半くらいであったろう。もちろん当時はそれがガンダムである、という認識はなく、後年になって「ああ、あれはガンダムの最終話だったのか」と気付いた次第だ。


具体的には、いわゆるラストシューティングと呼ばれる有名なシーンだ。

この場面で、ガンダムは大破する。

幼心に、無残に破壊される主人公ロボットに衝撃を受けたことを覚えていたのだ。

しかし、よくよく考えてみる。

放映時期から計算すると、当時の私は1歳半くらいだ。

その年齢の知能で、主人公ロボットをそれときちんと認識できるのだろうか?

もしかしたら、もうちょっと成長してから再放送を見たのかもしれない(私の住む地方で、再放送があったかどうかはわからない)。

ううむ、いまいち自信が持てなくなってきた。


でもまあ、ガンダムをアンパンマンに置き換えてみればどうだろう。

「1歳半の息子、アンパンマンが好きなんです」と言われれば、そこまで突飛な話でもないような気がする。


もうひとつ、最も古い記憶かもしれない場面がある。

それは、母方の祖母が脳卒中(※母はちゅうぶ(中風)と呼んでいた)で倒れた場面だ。

当時、祖母は古くからの知り合いであるおばさん連中と、焼鳥屋の下仕事として串打ちをしていた。祖母らはこの仕事を『肉刺し』と呼んでおり、祖母が倒れたのは、その肉刺しをしていたプレハブ小屋だったように思う。

これは何歳のことだか分からない。

窓際に居た祖母が、力なくふらっと倒れたことを覚えている。いや、覚えているというほど確かではない。その前後のことはまったく覚えておらず、非常にあいまいな記憶だ。

ただ、いつだったか母に聞いたところによると、祖母は確かに肉刺し小屋で倒れたという。なので、私が見たあの瞬間がきっとそうだったのだろうと思う。



その祖母は、わたしに物心がついた時には、入院生活を送っていた。

当時の私にとって、母方の祖母は『病院にいるおばあちゃん』という認識であった。

さらには女性のガンを患っていたらしく、放射線治療も行っていたようだ。

闘病生活は長かったが、私が中学校に上がるころには病魔を克服し、普通の生活を送れるようになった。

晩年は、転倒が原因で大腿部にボルトを埋め込んだり、軽度ではあるが認知症を患ったりと、徐々にひとりで生活することが難しくなり、養護施設で過ごすようになった後、2016年8月に90歳で永眠した。

米寿を迎えたとき、まだ元気なうちにと、姉の発案で大分県に温泉旅行に行ったことはとてもよかった。




さて、私の幼少の話に戻る。

幼少の時分、実父母にまつわる記憶はほとんどない。

父に関しては仕方がない。遠洋漁業の船乗りだったからだ。

一度漁に出かけると半年間ずっと洋上で過ごし、陸に上がって家族と過ごせるのはひと月ほど、という生活をしていた。これは私が小学校高学年になるまで続いたので、当時の父に関する記憶がほとんどないのはやむを得ない。

ときどき船上の父にあてたメッセージを、カセットテープに録音していたことは覚えている。


一方、母についてはどうだろうか。

実は父と同様で、母に関する記憶もほとんどない。

私は4歳のときに保育園に通うようになったのだが、その入園手続きか何かだったのだと思う。手を引かれて保育園に行ったのは覚えている。

同じように卒園式のときも母といたことは覚えている。

記憶らしい記憶と言えば、これだけだ。これしかない。

だが、このことにも理由がある。

私(と、ひとつ下の弟)は、母と一緒に暮らしていなかった。

ふたりとも他人の家に預けられていたのだ。


私は木村(仮名)という家に預けられていた。

弟は岩野(仮名)という家に預けられていた。

木村と岩野は、ともに祖母の肉刺し仲間で、古くから親交がある人だったようなのだが、私たちと血のつながりはまったくない。

本当に赤の他人だった。

ここでは、私の面倒を見ていた人を、木村のおばさん、弟の面倒を見ていた人を、岩野のばあちゃんと呼ぶことにする。


木村と岩野は、同じ長屋の隣同士だったので、私と弟は離れて暮らしていたというわけではない。感覚的には寝室だけが別という感じだ。

保育園から帰ると、わたしはいつも弟とふたりで遊んでいた。

ちなみに、私には弟のほかに4つ上の姉もいる。

姉だけが実家で生活していた。

私と弟はというと、週末だけ実家に連れて帰られ、そこで1~2時間ほど過ごし、また預け先に戻る――という生活をしていた。実家と預け先との間は、自動車で20分くらいで、この生活は私が小学校に就学するまで続いた。



幼いわたしは、木村の家で生活することに何の疑問も抱いていなかった。

一体何時から木村で暮らしていたのか分からない。

物心がついたころには木村で生活しており、それが当たり前だと思っていた。

木村のおばさんからは、私の記憶には残っていない、私自身のエピソードを聞かされることもあったし、おそらく相当に早い時期から預けられていたように思う。


そういった生活環境であったし、この時期の私の記憶——思い出といってもいい——は、木村のおばさんと弟が大半を占めている。


木村の家は五右衛門風呂だった。おばさんはときどき斧で薪割りをしていた。

風呂を沸かした薪が、熾きになったら火箸で取り出し、七輪にいれていろいろと作ってくれた。卵のぐじゃぐじゃ(と当時は呼んでいた。要はスクランブルエッグだ)だったり、かきもちを焼いたり。

風呂に入り、頭を洗われ、一緒に10数えてあがった。


三輪自転車の荷台に、弟と一緒になかよく詰め込まれ、近所の商店まで買い物に行った。乗り物感覚で楽しかった。

保育園の送迎バスから降りたら、わたしが木村のおばさんに手を引かれ、弟が岩野ばあちゃんに手を引かれ、「お手つないで、野道をゆけば――」と謡ってもらいながら長屋まで帰った。

あずきのアイス(今でも売っているあの固いやつだ)をお使いしてほしいと言われ、弟がついてきたことに腹が立った。自分ひとりでできることを見せたかった。 


弟と近所の家で飼っていた亀を見に行った。

弟と二人で「宇宙刑事ギャバン」を見ていた。

蜂に刺されたときは、アロエを塗ってもらった。これは岩野ばあちゃんだった。

よく喧嘩で弟を泣かせていた。泣き止ませるために、ぐるぐるパンチで叩くふりをして失敗、自爆する演技をした(伝わるだろうか?これをやると笑って泣き止んでくれていた)。


ぱちんこ屋についていった。落ちている球を拾って、景品のお菓子と交換してもらった。たしかパイの実だったと思う、玉25個で交換してもらった。

私の真似をしてお菓子を交換しようとした弟は、店員さんからダメと言われた。

まあ本来は遊戯の結果、獲得した玉で景品を交換するものなので、そもそも私が交換してもらえたことの方がおかしいと言えばおかしい。融通の利く店員さんだったが、2回目は駄目だよ、ということだったのだろうか。それとも私のときは拾った球だと気づいておらず、弟のときは拾っている姿を見ていたのか。


ぱちんこ屋でもうひとつ。

別にやることもないものだから、手持ち無沙汰にしていたら、遊技台に座らされて少し遊ばせてもらった(まあ、私たちのような幼児が入店させてもらっている時点で、おおらかな時代だったものだと思う)。

すると私が座らされた台がフィーバーした。近くの台に座っていた母が慌てて駆け寄ってきて交代——ああ、思いもがけずこんなところに母の記憶があった。


夏祭りの花火大会は楽しみだったが、花火の大きな音は苦手だった。

キャラクター物の綿菓子を買ってもらえるのが嬉しかった。


この辺にしておこう。

このころの思い出は、挙げればキリがない。



さて、ここで木村の家と、岩野の家の構成に触れておきたい。

まず弟の預けられていた岩野からだ。

岩野のばあちゃんは天涯孤独の身であった。

これが分かったのは、彼女が亡くなったときのことだ。

私たちが暮らしていた当時は、ひとりで暮らしているおばあちゃんとしか思っていなかったが、伴侶も、きょうだいも、こどもたちもいなかったようだ。

亡くなった当時、私たちは中学生になっていた。 

葬儀の場には、それまで一度も会ったことのない人が沢山いて、「来てくれてありがとうね」と涙ながらに礼を言われた。この人たちは誰だろうと不思議に思ったものだが、母が言うには、岩野のばあちゃんは創価学会員だったそうで、天涯孤独の身の上ではあったが、同じ学会員の方々が葬儀を挙げてくれたのだそうだ。



木村はというと、おばさんには旦那がいた。

旦那——木村のおじさん——は、まあそんなに私を好いてはいなかったのではないかと思う。別に酷くされたとか、そういったことは断じてない。

私たちにさほど関心を持っている風ではなかったと思うが、そもそも赤の他人の子を受け入れ、家に住まわせていたのだ。もう、それだけで十分ではないか。


木村はおじさんとおばさんの二人で暮らしていた。

4人いる実子は、すでに成人してみんな家を出ていた。

孫らはおおむね私と同年代で、ちょっぴりだが私がいちばん年上だった。

今思えば、彼、彼女らが木村を訪れるのは、盆正月くらいではなかったろうかと思う。

そんな事情はあるものの、おばさんに一番可愛がられていたのはわたしだったと思う。

これは、勘違いだとか思い込みではないと断言できるほど、確かな実感として私の中にある。


木村のおばさんは、血の繋がった実の孫よりも、赤の他人の子である私をより愛してくれていた。木村で暮らしていた数年間、私にとっては実の母以上に、母であった。


昔から『三つ子の魂 百まで』という。

多くの人は、幼年期に親からの無償の愛情を受けて育つことだろう。

私の場合は実の母以上に、木村のおばさんから受け取った愛情が、心の奥に大切なものとして残っている。小学校就学前のほんの数年間だが、この頃に受け取った愛情は、今の私が人間らしくあるための核をなしていると言っても過言ではない(実父母らからの愛情がなかったと言っているわけではないので、そこは誤解のないようにお願いしたい)。


誰に何と言われようと幼年期の私にとって、すべてを委ねることができる絶対的な安心感を与えてくれる存在が、おばさんであった。

繰り返すが、当時の私にとって、実の母以上に母であった。


私は20代後半で結婚したのだが、挙式にはおばさんを新郎の恩人として招待した。

このときに晴れの姿を見せることができたのは、今更ながらとても良かったと思っている。


私が結婚してからのち、いつだったろうか。おばさんは脳梗塞を患った。

それからというもの、訪問介護のお世話になったり、養護施設でリハビリとか受けたりしながら、最終的には寝たきりの生活を送っていた。

おばさんの部屋には、わたしが贈った我が子の写真が飾ってあった。


そしておばさんは、平成31年3月に亡くなった。

それが知らされたのは、職場の送別会のときだった。

1件目の店を出て、2件目に向かって皆で歩いている途中だった。

実家の母からの電話であった。

飲酒をしていたし、そういう意味で理性のタガが日頃より緩んでいたせいもあるだろう。電話口で伝えられた訃報を聞きながら、私は飲食店の立ち並ぶ往来のど真ん中で、人目もはばからずに泣いた。喉の奥から、絞り出すような声がでた。


すでに葬儀は終わっていたそうだ。

初七日を過ぎ、木村の家が多少落ち着いたであろうタイミングを見はからって、母は私に連絡したとのことだった。





一般家庭の価値観において、なんの血のつながりもない子を引き受け、実の孫以上に愛情を注ぐなど、まずありえないのではないだろうか(養子縁組や里子里親の関係はまた違うのであろうが、ここでは別のものとさせていただきたい)。


なぜ、幼少期の私が木村に預けられていたのかは未だにわからない。

当時の大人同士の間で、一体どんな話し合いがあったのか。

そのことを気にする時期もあったし、いまでも全く気にならないかと言えば嘘になるが、だが、些事だと思うことにした。

わたしには、おばさんからの愛情を受け、あの時期を過ごしたという記憶がある。

だったら、それで十分なのだ。

そういうことでよい。

血のつながりはなくとも確かな愛情を受け、わたしは幼少の自分を過ごした。


木村のおばさんのことを母と呼んだことはついぞなかったが、私には、生みの母と、育ての母と、ふたりの母がいた。

そういうことなのだ。


奇妙な環境だったとは思う。

だけど、間違いなくわたしは幸せだったし、これを書いている今、泣きたくなるような幸せを感じる。


そんな感情をくださった貴女へ。

もう触れることも話すこともできませんが、積年の想いを、ここで告げます。


ありがとう。

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