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手の香り

作者: takumi

 陽が昇ると、朝食の前に、私は玄関を開けて外に出る。

 一度車庫に寄ってから玄関近くに戻るのだが、その頃にはアクティブな光景が展開されている。

 我が家のプリンセス、ビーグル犬のサフランが、私めがけて、つないでいる綱を引きちぎらんばかりの勢いで走ってきて、跳んで、跳ねて、忙しく動き回る。散歩の時間だと分かっているのだ。

 たまにそうやっていて、リードに足をひっかけて頭から転んだりするので、とりあえずサフランのところに行き、わしわしと撫でてやる。扇風機の代わりになりそうなくらいに尻尾がバタバタと動いている。

 やがてサフランの太陽みたいな香りを楽しみ終えると、首輪の辺りで綱を付け替えて…、「行くよ!」と一声すると、「ワン!」とひと吠えして、嬉しそうにサフランは駆け出す。

 サフランと一緒に、私も思い切り走り出す。一日に一度、全力疾走の時間だ。

 なかなか楽しい時間なのだが、これが母親には大層評判が悪い。私が思い切り走り始めるものだから、たまに母親が散歩に連れて行ってあげようとした時も、サフランは同じように走ろうとするのだそうだ。肥えた母親は犬に引っ張り回されるのがしんどいらしく、自分のできるペースで走るらしい。多分それ、走っていない。


 さて、そんな感じで、朝の散歩はスタートする。

 走るといっても、思い切り走り出すのは最初だけで、道端のにおいが気になってサフランが嗅ぎに止まりなどもあり、少し走ったらすぐにジョギング程度のペースになる。これがまた丁度いい。

 特に今日は空気も冷えた11月。朝はしんと冷え、それが静寂と、払暁の希望を感じさせるような陽の明るさを際立たせて、数回の深呼吸でも、心の奥まで空気が行き渡るように、心地いい。サフランも同じように感じるのかなと目線を下ろすが、心に草の中のなにかの匂いを嗅いでいるこいつとは目線も合わない。まぁ多分、心地いいんだと思う。


 そうやって、近場をぐるっと走った頃。

 今日は、珍しい子と鉢合わせした。

 平松清子という高校生である。田舎の子ながら進学校に通っていて、その中でもそれなりの成績を残しているとのこと。両親は教師であり、ついでに陸上競技の短距離走でも成績上位者に名を連ねるという。優等生、と言うのは簡単だが、将来の愉しみな子であることは間違いない。

 そしてこの子は、

「おはようございます!」

 と、にこりと笑って挨拶をする。こういうところも、よくできた子だなと感心する次第である。

 こちらも、おはようと笑って挨拶をする。気持ちのいい挨拶をしてくれる人には、自然とこちらも笑顔で挨拶をするのは、ちょっとした人の性質かなと思う。

 清子ちゃんは、こちらにぺこりと頭を下げた後、腰を落として、サフランに手を伸ばした。これまでも何度かサフランの散歩の時に会っていて、よくこのわがまま犬を撫でて可愛がってくれていた。

 しかし今日は、撫でられる直前にサフランは一瞬首を引いた。そしてその後、何事もなかったかのように頭を撫でられて、嬉しそうに体を擦り付けていた。

 優しそうにサフランを撫でつける清子ちゃんを少し見てから、私は言った。

「…またタバコ吸った?」

 清子ちゃんはこちらを見上げた。目が丸くなっている。

「よく分かりましたね、ちゃんと着替えて、シャワーも浴びたのに」

「うちのサフラン、わがままなお姫様だけど鼻は効くからね。見てれば分かるんだ」

「そっか~、こいつか~」

 清子ちゃんは腹を見せ始めたサフランを強めにぐりぐりと撫でると、こちらを向いて、唇に人差し指を当てつつ、にへへという感じで笑って言った。

「この事は、ウチの親には内緒にしててくださいね」

 そう言って、笑って手を振って、走って行った。

「もちろんだよ」

 と答えたが、もう走り始めてるあの子には聞こえていなかったかもしれない。


 何となく、気勢が削がれてしまった。周りの期待に応えようと頑張って、頑張った分だけまた期待が膨らんで、また頑張ることになって。ちょっぴりしんどい。そんな話を、彼女から聞いたことがあった。

 誰もが、自分にできる最善を尽くしている。大人はまだいい、ある程度未来が見えるから。子供は、ずっと先の自分がどうなっているのか分からない。頑張る子ほど、大変だろう。

 そんなことを考えて、ふぅとため息をつくと、落とした目線の先にサフランがいた。溜息をついた私を気づかっているような、それでいて散歩の再開を待っているような、何とも言えない顔だ。

 そんな我が家のプリンセスに言った。

「よし、行くか」

 私が走り出すと、察してサフランも嬉しそうに走り出した。

 走っている間は、何も考えなくて澄む。今日も晩秋の香りが心地いい。それだけを感じていればいい。

 これくらい、シンプルでいたいと思う。

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