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第7話 いつまでも、どこまでも

「紫音、ご飯よ!」

「は~い」

 祖母の凛子の声で、紫音は食卓へ向かった。

 昼食はご飯と味噌汁、それに野菜炒めと冷奴と、ごく一般的な料理が並んだ。しかし、紫音は一つの料理に目をつけた。

「いただきます」

 それは、イカナゴの釘煮だ。佃煮の一種で、イカナゴのこどもを醤油やみりん、さとうで煮込んで作る。

 所謂ご飯のおかずとして食べられ、風味良い辛さの中に甘みも感じるためよく合う。「あまり統一性や特色が無い」と言われている兵庫県だが、これは胸を張って自慢出来る郷土料理だ。

「……ばっかり食べは良くないよ」

「大丈夫だよ、分かってるから」

 釘煮に気を取られ、おかずをあまり食べていなかったことに気付いた。野菜炒めも比較的優しい味付けで、濃すぎないため食べやすい。

 最後に米粒を箸で回収し、紫音はゆっくりと席を立った。

「ごちそうさま」

「あっ、待って。お茶を入れるから」

 テーブルに並べられたお皿を片付けると、凛子は台所のやかんに火をつけた。

「よいしょ……今日は探偵事務所、行かなくていいのかい?」

 コップにお茶を注ぎ、二人分をテーブルに置いた。

「最近、依頼が来てないからね。今日は家でゆっくり寝ようかなって。あつっ……!」

「落ち着いて、ふーふーしてから飲んで」

 何も考えずに飲もうとしたが、意外に熱くて少し驚いてしまった。紫音はコップをゆっくりと口に近付け、息を吐いた。

「ふ~、ふ~……」

 そして、恐る恐る飲み始めた。

 まだ熱かったが……温かさが体にじわりと浸透していき、心地良い感覚になった。

「どう?」

「ちょっと熱いけど、いけるかな。ありがとう」

 しばらく、穏やかな時間が流れた。

 虫の鳴き声、どこからか吹く風。自分を取り巻く問題や揺れ動く心。人としての悩みや問題を一旦忘れ、自然は私たちを「生き物」に還してくれる。

 街から離れ、田舎には不自由な所も多いかもしれない。でも、良い所もたくさんある……「自分の生き方を見つめ直せる」と言うと、誇張し過ぎなのかもしれないが。

「じゃあ、これも下げとくね」

「うん」

 紫音は食器と共に、飲み干したコップも台所に下げた。

「ん、誰かな?」

 すると、家のインターホンが鳴った。凛子はまだ食事の最中なので、紫音が玄関まで出た。

「俺だ、深山」

「赤石さん!」

 扉を開けると、純が立っていた。いつもとは違い、ほんの少しだけ真剣な面持ちになっている。

「どうしたんですか?」

「いや、ちょっと急ですまんのだが……」

 いつもは退屈そうにしているのに、どうしたのだろうか。純は紫音の目を見つめ、何かを言おうとしている。

「付き合ってくれないか?」

「ええっ……!?」

 てっきり何かしらの事件が起きたのだろうと思っていたのに、この言葉は予想外だった。

「ま、ま、待ってください! 私まだ子どもだし、そんなことを急に……!」

 紫音は手をブンブンと振り慌てた顔をした。だがそんな反応は予想していなかったのか、純はとぼけた顔をした。

「は、何言ってるんだ? ちょっとデカいとこから依頼が来たから、付いてこいってことなんだが」

「へぇ……?」


「いちいち……赤石さんは紛らわしいんですよっ!!」

「怒るなって。てか、何と勘違いしたんだよ?」

「そっ、それは……」

 紫音はひとまず戻って着替え、少々急いで家を出た。

 ……というのも、粟生駅は一時間に一本しか電車が走っていない。もし乗り逃した場合は大変なことになってしまう。

「とりあえず、急ぎますよ!」

「ああ、分かってるって」

 改札が西側にあるので、東側からだと一旦踏切から回らないといけない。純が一足先に改札まで着き、そこに紫音が追いついた。

「よし、間に合ったな」

「はぁ、はぁ……あ、新しい車両です」

 止まっている電車は、神戸電鉄の六五〇〇系。四年程前に製造されたばかりの新車で、現在も旧型車を置き換えるべく増備されている。

 阪急阪神グループでお馴染みとなりつつある、大型LCDも装備している。車内も木目調で、高級感と落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「新開地まで行って、阪急に乗り換えるぞ。先頭車両に座ろうぜ……って、あれ?」

 先頭車両に移動しようとしたが、貫通扉の所で立ち止まった。力を入れても、開かないのだ。

「おいおい何だよ、故障か?」

 しばし扉と格闘したが、扉は全く開こうとしない。

「……バカなんですか?」

「ばっ……!?」

 紫音はその様子に呆れ返り、ドアノブを軽く握った。すると、ドアが自動で開いた。

 要するにドアノブを握る、というよりも赤外線を遮ればドアは自動で開く仕組みだ。

「ここにちゃんと書いてますよね? ハンドルを軽くにぎるとドアが開きます、って」

「くそっ……!」

 純は悔しそうな顔をして、前の車両まですたすたと歩いた。

 座席は阪急と同様、アンゴラヤギのモケットが採用されている。袖仕切りはお洒落なデザインではあるが、肘周りの余裕があまりない……ここはもたれるのが最適だろうか?

「で、どちらから依頼が?」

「ああ。今回依頼が来たのは、芦屋財閥からだ」

「芦屋、財閥?」

 何となく、紫音も聞いたことがあった。

 芦屋財閥とは、その名の通り芦屋市の六麓荘に屋敷を構える財閥。

「事業活動の不当な拘束は行っていない」として独占禁止法をすり抜け、奇跡的に財閥解体を生き延びた。そこから規模を拡大していき、現在は都市再生機構、及び地方公共団体と共に市街地開発事業等を主に行っている。様々な企業と連携をとっている上、宅地造成や公営住宅の建設も数多く手掛けるため、莫大な資本金を抱えている。

 しかし常に「人々の生活を豊かにする」をモットーに動いており、決して市場を独占するような行為は行わない。そんな背景があり、現在も国内唯一、財閥として存続している。

「大企業から依頼……すごいじゃないですか!?」

「ふん、俺の知名度も少しは上がったか……」

 純は誇らしげな態度をとっているが、若干緊張の色も見られる。

「それで、芦屋川駅近くの喫茶店で待ち合わせることになったんだ。おお、汗が……」

 バッグからタオルを取り出し、首周りを拭き始めた。

「楽しみですね。どんな人が来るんでしょう?」

「さあな。あっ、ちょっと早めに着くと思うから、ついでに散歩しないか?」

 紫音は窓の方に視線を移した。窓枠のブロンズが光る中、太陽が眩しい程に光っている。

「良い天気ですからね……散歩しましょうか」


 その後、新開地で阪急に乗り換えた。神戸三宮で、特急を降りて普通に乗車する。

「おっ、こっちも新車か?」

「そうですね。阪急の新型車両、一〇〇〇系です」

 この車両は神戸電鉄の六五〇〇系同様、大型LCDが搭載されている。他には肩をすっぽり埋めることができる袖仕切り、もちろん座席もアンゴラヤギのモケットが使用されている。

 この車両の特色としては、走行の静粛性。普通でも一一〇キロ台を出すことのある神戸線では、宝塚線と比較しても速度が要求され、車両の劣化も早く新車、リニューアル車が多く走っている。

 一〇〇〇系は高速域でも静かに走り、加減速も驚く程に鮮やかである。

「よし、前の車両に移動するか」

 純は六五〇〇系の反省を活かし、ドアノブを軽く掴んだ……が、仕切り扉は開かない。

「この仕切り扉は手動ですよ?」

「ややこしいわっ!!」

 そう、一〇〇〇系では自動扉が省略されている。

「いや、見たら分かるでしょう。自動なんて、どこにも書いてないじゃないですか?」

「分かったよ、俺がバカだったよ!」

 純はまたしても不満げに、仕切り扉を抜けた。

「そうですね、赤石さんはバカですよ。一人で電車に乗ってそんなことしてたら、周りの人に笑われ……あいたっ!?」

 紫音がその後を追うように扉を潜り抜けようとしたが、閉まりかけていた扉に軽く体をぶつけてしまった。

「何やってんだ? まったく、しっかりしろよ」

「赤石さんがしっかり開けなかったからぶつけたんですよ!? バカ……」

「へへっ、わりぃわりぃ」

 その後、二人は四両目付近に座った。電車は静かに扉を閉め、三ノ宮駅を通り過ぎて走り出した。


「芦屋川、芦屋川です。出口は左側です」

 やがて電車は芦屋川駅に着き、二人は降りていった。電車が発車して通り過ぎると、周りは一気に静かになる。

「改札、ひっろ!」

「あの辺りの改札に慣れてると、ちょっと広く感じますね」

 改札は階段を下った先にあり、そこから南口と北口に分岐している。

「南に出るか」

 南口を出ると、すぐそこに小さなお菓子屋がある。子供や若者が集まっていて、僅かながら暖かさを感じられる。

 さらに駅の真下にある芦屋川では、何組かの親子が川に降りて遊んでいる。

 なるほど。周りは静かな住宅街だが、所々に活気さがあり、雰囲気は良い。

「こっちだ」

 そして、西に歩いていく。マンションや住宅が建ち並ぶ中、隣には阪急の路線が走っている。

 軒下制限高、二.五m。若干寂れた雰囲気も漂う線路下を潜り抜け、北側に出てきた。さらに雰囲気は変わり、小さな商店街のような街並みになった。

「……穏やかだけど、暖かくて。不思議です」

「流石、高級住宅街だな」

 二人はそのまま、目的地となる喫茶店まで歩いた。


 喫茶店は、駅の北側にある。純たち二人は南口から出たので、ぐるっと回って散歩した感覚だろうか。

「ここだな……」

 四人がけの椅子に、紫音と純が座った。

 向かい側の椅子は相手が座る。そう考えると、妙な緊張が湧き上がる。

「初めまして、赤石探偵事務所の赤石純です。赤石……探偵……」

「落ち着いてください。斉藤さんと話していた時はあんなに自慢げだったのに、こんな時になったら緊張するんですか?」

「つか、何でお前は冷静なんだよ……?」

 まるで立場が逆転したように、紫音は全く緊張の色が見えない……というよりも、実感が湧かない。

 大富豪の人と会うなんて初めてだし、緊張を通り越して「よく分からない」のだ。頭の中で、宝石を数珠のように身につけるマダムが浮かび上がる。

(まぁ、なるようになるか……)

 敬語には慣れているし、隣の純が余計なことをしなければ大丈夫だろう。

 すると、ドアが開いた。

「来ましたね」

「ひいいぃ……うぅぅぅぅ!」


「ようこそお越しくださいました。私は芦屋財閥の当主、芦屋一蔵(あしやいちぞう)と申します」

 一人は、六十代くらいの男性。黒いスーツに身を包み、厳粛だが優しい雰囲気が漂っている。

「初めまして、赤石探偵事務所の深山紫音です」

「え、ちょ……!」

 純が返す言葉に迷っていると、先に紫音が名乗り始めた。

「あ、すみません。同じく、赤石探偵事務所の赤石純です」

「よろしくお願いします……畏まらなくても宜しいですよ。今は我々が、依頼人ですので」

 隣に立っているのは、メイドの女性。だが、ただのメイドではない。

 黒と白をメインとした制服であることに変わりはないが、所々に金の刺繍が見られる。夜空に光り輝く星々をイメージして作られた制服、「Luminous star」

 芦屋財閥で務めるメイド・執事等の使用人の中でも、高位に属する証だ。本人は黒と茶色が混ざった髪を短く切り揃え、寸分も狂わぬ姿勢で立っている。

「使用人の教育係、及び芦屋様の秘書代理を務めさせて頂いております、御影(みかげ)(せい)()です」

 若い女性は、ほんの少し笑みを交えながら……そう名乗った。

「御二方は様々な事件を解決し、活躍してきたと聞いております……失礼ですが、深山さんはお幾つですか?」

「十四歳です。赤石さんと出会い、探偵事務所の仕事を手伝っていたのですが、殺人事件を解決したことがきっかけで、警察の方とも協力して事件の捜査をしています」

 純が硬直している中、紫音はすらすらと話を進める。

「十四歳で、ですか!? これは……驚きました」

「まだ未熟な所も多いですが、皆さんのお力になりたいと思っています」

「素晴らしい! この国の未来も、安泰というものですな」

 すると、メイドの清良が一蔵に耳打ちした。

「芦屋様、例の話を……」

「ああ、そうだったな」

 一蔵は軽く咳払いをした後、二人にこう語り始めた。

「我々芦屋財閥は、西神ニュータウンの再開発事業に取り組んでいます。具体的には、商業施設や住宅をさらに拡げ、街に活気を取り戻す、そんな計画ですよ」

「西神、といいますと。西神中央駅の付近ですか?」

「ええ、ご存知でしたか。ですがそれに反対の意を唱える企業が存在しているのです。それが、川田製作所」

 川田製作所とは、谷上に大規模な工場を持つ株式会社。鉄道や船、飛行機を製造する会社で、阪神・淡路大震災の後に急成長を遂げた企業でもある。

「西神に工場を設ける目的で、この事業に反対しています。ですが、当会社は裏で兵器の密輸、密売を行っているという噂が存在します。具体的には、暴力団や犯罪組織にこれを売り渡し、莫大な資本金を得ている恐れがあるのですよ」

 紫音は静かに、その話を聞いていた。川田製作所は名前だけ聞いたことがあったが、そのようなことを行っていたことは知らなかった。

「今まで彼等が警察の手から逃れてきたのは、様々な企業がこれに協力していたからでしょう。そこで、御二方にお願いがあります」

 一蔵は改めて、二人の目をしっかりと見つめた。

「我々芦屋財閥は、川田製作所と繋がっている企業を調査していきたいと考えています。赤石さん、深山さん。もし御二方が宜しければ、こちらに協力して頂けないでしょうか?」

 それが、依頼の内容だった。つまり対立企業の汚職を暴くために、協力して欲しいというものだろうか。

 紫音はしばらく考え、純に小声で聞いた。

「どうしますか?」

「う~ん……ちょっと考える時間が欲しいかもな」

「やはり、そうですよね」

 紫音は一蔵の方に向き直り、こう言った。

「しばらく考えて、答えを出すことは可能でしょうか?」

「……分かりました。お決まりになりましたら、お手数ですがこちらにご連絡を」

 電話番号が書かれた紙が、紫音のもとに渡された。

「ありがとうございます」


「はあ、何も喋れなかった……」

「緊張し過ぎですよ……芦屋さんから渡された電話番号です」

 電話番号が書かれた紙を、純に手渡した。

「しかし、疑問点が残ります」

 改札を通り、階段を上がろうとしたが……立ち止まって、紫音は首を傾げた。

「何故こんなことを、私たちに頼んだのでしょう……?」

「えっ? そりゃあ、助けが要るからじゃ……」

「それはもちろんです。でも、こんなこと……私たちよりも、他に頼める人がいたんじゃないですか?」

 紫音の言葉に、純が首を捻った。

「確かに。わざわざ連絡して、俺たちに名指しで依頼してきたのは違和感があるな」

「何か、他に目的があるのかもしれません。私たちに連絡をしてきた理由が」

 すると二人が話しているうちに、ホームに電車が入ってきた。

「でも、それが何かは分からないんです」

「どの道、今判断するのは危険だな。様子を見るのが一番か……」

 早足で階段を駆け上がり、純たちは電車に乗り込んだ。


 その後、一蔵と清良は車に乗り、屋敷への坂を上っていた。

 昔はドライブが趣味だったこともあり、一蔵は自信で車を運転し、家族と出かけていた。だが六十を超えてからは、車を運転することはなくなり、清良に任せている。

 自分の運転に、不安を感じたという理由もある。それに……

「しかし、どうして彼らにあんな依頼を?」

 一蔵はふと、清良にそう聞いた。というのも、川田製作所の問題については県警と連携して調査を行っているため、わざわざ探偵に依頼をする必要がないと考えていたのだ。

 依頼をするべきだと提案したのは、清良の方からだった。

「警察はいざという時に、応用が効きません。確かな証拠が無ければ動けませんし……また、もし県警が動いていると向こうに勘づかれてしまえば、警戒を強められて逆効果です。幸い、あのお二人は殺人事件も解決した経歴をお持ちになっていますし、先程様子を見ていましたが、信頼出来ると、そう判断しました……以上が、表向きの理由です」

「裏向き、本当の理由は?」

 こんな話をしていても、清良の運転には全くズレが見られない。ありとあらゆるものに意識を向け、完璧に対処する。そこに、余分な動きは一切しない。

「神戸電鉄の粟生線。あちらは、元々宅地を開発していて、伸び代があると思っています」

「つまり、我々の勢力を拡げる余地があると?」

「はい。現在は利用客が低迷していますが、芦屋財閥の力があれば、今の一〇〇〇%の利用客を確保できるでしょう。」

「一〇〇〇%か……大きく出たな」

 清良は顔を俯けて、淡々と話している。だが一蔵はそこに、燃えるような情熱を感じた。

「利用客が確保できれば沿線住民が増え、沿線住民が増えれば商業施設が増え、商業施設が増えれば利便性が増し、利便性が増せば、我々の事業は成功します。しかし、それには問題があります」

「問題とは何だ、御影?」

 しばらく沈黙した後、答えがあった。

「小野市で、連続通り魔事件なるものが起きています。犯人は大型の刃物で人を襲い、この数ヶ月でも三人が亡くなられています」

「なるほど。どうにかして対処しなければ、被害者は増えていくかもしれない。それは確かに問題だな」

 清良のハンドルを握る力が、少し強くなったように見える。

「私は粟生に出向きます。川田製作所の一件を解決すると共に、通り魔犯の正体を突き止めてみせます」

「突き止めて、後は警察に任せるのか?」

「いいえ」

 そこでようやく、彼女の表情がはっきり見えた。

 怒りだった。眉間にシワを寄せ、体は震え、今にも爆発しそうな「怒り」を見せている。

「私がこの手で打ち倒します。警察の対応を待っていれば、日が暮れますよ……!」

 彼女の目つきには、怒りさえ超えた殺意が感じられた。

(御影がこうなれば、私にも止められない。面倒な事にならなければ良いんだがな……)

 一蔵は最後に、力を抜いて座席にもたれた。


 純と紫音は、ようやく粟生に戻ってきた。

「やっと帰ってこれた……今日はちょっと、早めに寝ていいか?」

「別に良いですけど……何で私に聞くんですか?」

 空を見上げると、もう日は沈みかけていた。

「あぁ、でも……今日の依頼、もう一度じっくり考えるべきかもな。ちょっと時間あるか?」

 純はふと紫音に聞いた。考える時間が欲しいとは言ったものの、先に二人で話し合って、どうするべきか決めておいた方が良いような気がした。

「あ、はい。じゃあ、探偵事務所に行きますか」

「ああ」

 そのまま二人は探偵事務所の前まで歩いた。

「ただいま!」

 確か父の吾郎も寝ているはずなので、部屋は無人のはずだ。だが、部屋には誰かの物音がする。

「あれ? 親父、起きてたのか?」

 純が首を傾げて部屋の扉を開けると……


「あ、おかえりなさい! 純君!」

 なんと、真澄が立っていた。

「あれっ、真澄さん!? どうしてここに?」

 純は驚いて大きな声を出してしまった。すると、真澄は少し顔を赤くした。

「何だか、純君に会いたくなっちゃったの。インターホンを鳴らしたら吾郎さんが出てきて、ここで待ってれば帰ってくるって」

「ああ、そういうことか。用事もないのに、わざわざ待っててくれたのか?」

「用事はあるわよ! 純君に会いたいってだけじゃ、来ちゃダメ? 私、ちょっぴり寂しかったの」

 今度は頬を膨らませ、恥ずかしげに目を背けながら言った。

 ちなみに彼女は、今日は黒いシャツを着て、下は白いデニムを穿いている。カジュアルな服装で来ているが、髪型はいつもと異なりハーフアップで、オシャレさが付け加えられている。

「今日は二人で、たくさんおしゃべりしよ? さあ、遠慮せずに座って」

「いや、遠慮も何も、ここ俺の家なんだが……」

 純は冷蔵庫を開け、飲み物を探った。

「あの、私もいるんですけど……」

 そして……紫音は、完全に存在を忘れられているような気がして不安になった。


「そういえば、真澄さんって美術部だったっけ?」

 緑茶を喉に通し、純が真澄に聞いた。

「え、ほんとですか!?」

 紫音が驚く中、真澄はゆっくりと頷いた。

「そうよ。花の絵を書くのが、好きだったかしら」

「ああ、だからあの家にも……」

 紫音は真澄の家にマーガレットの花が飾ってあったことを思い出し、納得した。

「でも、今は描いてないわよ」

「えっ? 真澄さんの絵、ちょっと興味あったのに」

 すると、真澄の表情が少しだけ変わった。少し浮かない顔になり、鮮やかな青空のような瞳が、一瞬だけ濁ったような気がした。

 いや、気のせいだろうか。

「何かね。以前みたいに、上手に描けなくなったの。怖い……また、あんなことになったらって。」

 すると純たちの表情を察したか、急に彼女は正気に戻った。

「あっ、ごめんね! 今はちょっと、描けないかな」

「そうか……」

 紫音は窓から、外を眺めた。もうすぐ六時になり、辺りも暗くなっていくだろう。

「赤石さん。もう遅いので、帰ります」

 最後に純にお辞儀をして、紫音は部屋を去っていった。

「ああ、今日はありがとな」

「紫音ちゃん、またね」

 そして、真澄は扉を閉めた。

「純君。ちょっと、ビールが飲みたいかも」

「ああ、良いよ」

 純は徐ろに立ち上がり、今度は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


 半分を自身のコップに。そして、もう半分を真澄のコップに移した。

「探偵の仕事、最近はどう?」

「そうだな。今日も遠方から依頼があったし。順調、ってとこだろ。」

「そうだったのね。私も頑張らないとなぁ」

 そんな話をしているうちに、二人はそれぞれビールを飲み干した。

(あぁ、何か眠くなってきたかも……)

 電車に長く乗っていたからか、椅子に座ったら急に眠気が増してきた。

「ちょっとだけ……ちょっとだけ、目を瞑るか」

 隣に真澄がいることも忘れて、純は椅子で眠ってしまった。


「あれ、純君?」

 真澄はほんの少し困惑した様子で、純に声をかけた。

 目を瞑ったまま、反応が無い。耳を澄ませると、すやすやと寝息が聞こえるような気がする。

「寝ちゃった……のね。純君も、ううん、純も。たくさん頑張ってるもんね。うん、そうだよね」

 少しだけなら、バレないだろうか。真澄は純の頭を優しく撫でた。すると、少しだけぴくんと動いた。

「……!?」

 純の顔に、うっすらと笑みが浮かんだように見えた。

「ふふっ。何だか、子供みたいで可愛いな」


「はっ……!」

 うっかり寝てしまうと、いつも突然目が覚めてしまう。二時間ほど寝ていたのだろうか。時計を見ると、もう九時前になっていた。

「あっそうだ! 真澄さん、起きてくれ!」

 向かいでは、真澄も同じように寝てしまっていた。取り敢えず真澄の体を軽く揺すって起こそうとした。

「うっ、ぅぅん……」

 すると、すぐに彼女は起きた。だが、まだ眠いのだろうか。目は完全に開いてないし、何だか様子がおかしい。

「……」

 真澄は何かを呟いて、純の方を向いた。

「ん、何だ?」

 何かを言ったはずなのだが聞き取れない。彼女の方に歩み寄り、耳を傾けた。

「はこんで」

「ん?何を?」

「私を、はこんで? 酔っ払ったみたいで、うまく歩けないの……」

 何だろう。とても、まずいことを頼まれたような気がしてならなかった。


「はぁぁぁぁ!?」

 純は数瞬経ってから言葉の意味に気付いた。いや、そもそも。彼女はコップ数杯、缶ビールの半分しか飲んでいないはずなのだが。

「いやっそれはダメだろ!?待ってろ、日岡さんを呼んでくるから!」

 純は慌てて、瀬名を呼ぼうとした。だが、真澄にぐいと腕を掴まれた。

「瀬名をよんだら、どうなると思う?」

 笑みを浮かべながらそう言われ、純は何やら不穏な気配を感じた。

「私は家の用事で、ちょっと出かけるって彼に伝えたのよ。つまりね、私がここにいるのを瀬名は知らないってこと。どうなるかなぁ? 瀬名がここに来て、酔っ払った私と、その隣にいる純君を見たら?」

 すると、純の顔が徐々に青ざめていった。

「殺される……! いや、あの、別に俺は何もしてないんだが!」

 どうするべきか、純は迷った。

「余計なことはするなよ! ちょっと、ここで待っててくれ!」

 取り敢えず吾郎を呼ぼうと思い、階段を駆け上がった。


「親父、ちょっと大変なことに……ああ、やっぱ寝てるかぁ」

 相変わらず、吾郎はいびきをかきながら布団で寝ていた。

「まぁでも、親父を起こしたところで何にもならねぇよな……落ち着け俺、冷静になるんだ...」

 自分にそう言い聞かせ、純は吾郎が寝ている部屋を出た。

(マジで運ぶしかねぇのか? まぁ、この距離なら問題は無さそうだけどさぁ……)

 階段を下り、純は部屋に戻った。すると、真澄がふらふらと歩いていた。

「はやく、はこんでよぉ……」

「本当に酔っ払ってんのか! 待て、危ないから!」

 純は真澄の体を支えようと、彼女の方に駆け寄った。

「よし……えいっ!」

「なっ!?」

 すると、何を思ったか。真澄は純の背中に回りこみ、抱きついた。

「これで、はこべるでしょ?」

 彼女の甘い匂いと、ほんのり暖かい肌を感じ、純は少しドキッとした。後ろで浅い呼吸音が聞こえ、感じたこともない感覚に驚く。

「くそっ……ああもう! 運ぶから!運べば良いんだろ?」

 純は真澄を背負い、探偵事務所を出た。


「んふふ。純君に運んでもらえて。私、とってもうれしいよ?」

「それは良かったなぁ……はぁ……こんなとこ、日岡さんに見られたらどうなることやら」

 純は真澄を背負っていることも忘れて、冷や汗をかいていた。

(今日、何かとこういうのばっかだな。もう許してくれ、俺が何したってんだ!?)

 そして、隣にある真澄の家に着いた。

「はいこれ、鍵」

 純の目の前に、家の鍵らしきものが手渡された。

「やっぱり、俺が開けるんだな……」

 瀬名が玄関で待ち構えていないことを強く願い、純は鍵を開けた。


「やっぱり、瀬名は寝てるみたい」

 玄関には明かりも灯っておらず、誰もいなかった。

「じゃあ、部屋まではこんで」

「えええぇ……まぁ、ここまで来たら仕方ねぇのか?」

 真澄を背負ったまま、静かに階段を上った。すると、足元でギシリと音がした。

「ひぃ!?」

 思わず大声を出しかけたが、ぐっと堪える。

「何だかドキドキするね、純君」

 真澄が耳元で、小声で囁いた。

「ああ、ドキドキするよ。日岡さんが起きないか心配でな……!」

 幸い瀬名の部屋が奥で、真澄の部屋が階段を上がった手前にあった。

「がんばれ、がんばれ!」

 ドアを開く際に、音を立てなければ大丈夫だろう。つまり、ここが最後の関門だ。

「くぅっ……」

 ここまで集中したのは、久しぶりだった。純は静かに……静かに、ドアを開けた。


「お疲れさま!」

「あー、死ぬかと思った……」

 最後に腰を下げ、真澄をゆっくり下ろした。彼女はのそのそと、ベッドに潜った。

「ねぇ、最後に一ついい?」

「何だ?」

 真澄はにかっと笑いながら、純に聞いた。

「もしも、この世界が跡形なく消えちゃったとするとさ、私と純君だけが生き残ったら、どうする?」

「えぇ、変な質問だな……」

 純は返答に困った。だが、ここは自分の素直な気持ちに頼るのが一番だと信じ、こう答えた。

「みんながいなくなるのは寂しいけど……真澄さんだけでも、生き残ってくれて嬉しいと思う。二人で楽しく生きて、楽しく死んでいきたいかな……なんてな」

 すると、真澄はくすくすと笑った。

「一〇〇点満点の答え、ありがとう! それじゃあ……ちょっと種明かししてあげる」

「種明かし?」

 真澄は少しばつの悪そうな顔をした。

「実は、瀬名はこの家にいないのよ。」

「ほーん……は?」

 純はもう、言葉が出てこなかった。

「今日、家の用事で出かけてたのは、瀬名の方だったのよ。家でじっとしてろ、純君には会うなって言われてたのに……私、悪いことしちゃったなぁ」

「いや、今までの俺の努力は!?」

 張り詰めていた糸が、一気に切れたような感覚だった。今まで瀬名に気付かれないように、必死で努力してきたというのに。

「でも私、とっても楽しかったわ。純君……私が立てなくなった時は、またおんぶしてね」

「は、はぁ」

 まだ純は納得できなかったが、今更叫んだところで仕方ない。

「そんじゃな……おやすみ」

「おやすみなさい。純君、お仕事頑張ってね!」

 純は軽く手を振り、扉を閉めて去っていった。


「ふふっ。あんなちびっとのお酒で、酔っ払うわけないじゃない」

 真澄は今までの動きが嘘だったかのように、ベッドから軽く立ち上がった。酒に酔っ払ったというのも、彼女の嘘。実際は、これっぽっちも酔っ払っていなかった。

 クローゼットを開け、まずはヘアピンを外して机に置いた。彼女の黒髪が月の光に照らされ、幻想的な輝きを放っている……もっとも、本人には見えないのだが。

 薄暗い部屋の中で服を脱ぎ、寝間着に着替えた。そして、ベッドに飛び込んだ。

「純のばーか」

 枕を抱きしめながら、足をパタパタと上下させた。


「大好きよ。いつまでも……どこまでも」


 続く

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