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第4話 紫音のエチュード

「今日はどうかしたのかい、紫音?」

 夜になり、辺りはすっかり静まり返った。紫音は家の冷蔵庫を開け、冷たい緑茶を取り出した。

「ううん、別に」

 手に乗せた錠剤を口に入れ、緑茶で飲んだ。一口目では飲み切れずに残ってしまい、二口目でようやく喉に流し込めた。

「でも、悲しい顔をしてるよ。困ったことがあったらすぐに……」

「おばあちゃん!」

 そこから先の言葉は続かなかった。コップを少し乱暴に置き、紫音は部屋の扉に手をかけた。

「……何でもないから。それより私、もう寝るね」

「そうかい」

 自分に失望しない。これでも笑顔で接する凛子の優しさが、紫音にとってはより痛ましい。

「おやすみ……」

 そして、紫音は自分の部屋に戻った。


 紫音はすぐさま、布団を頭まで被った。自分でも気付かないが、どうやら悲しい顔をしているらしい。

 いや……悲しいとか、苦しいとか。そんなことさえ分からなくなるほど、私は追い詰められていたの?

(アイツに。あのこと、言うべきなのかな……?)

「おい、待てって!!」

 純が必死な声で叫んで、逃げる自分を止めようとした。あの時の叫びは、今も紫音の耳に木霊しているようだ。

「分かんない……私には何も、分かんないっ!!」

 深く閉じた瞼から、涙が零れ落ちた。

 ああ……やっぱり私は、悲しかったんだな。


 翌朝の探偵事務所。昨日までとは違い、部屋には純一人しかいなかった。ひっそりとした孤独感と、何も気配を感じない辺りの風景が寒々しい……

 いつもなら寝るのに、今日はちっともその気になれなかった。

「はぁ。今日は来ねぇのかよ……」

 気を落としているのは、紫音だけでなく純も同じだった。あの時の彼女が、今にも泣きそうな顔をした理由が分からない。

(心配……違うな。でも、何だかモヤモヤするんだよなぁ!!)

 頭を軽く掻きむしっても、この気持ちは治まらない。

「次会ったら、絶対に聞き出してやる……!」

 そうして椅子にもたれ掛かっていると、インターホンが鳴った。

「おっ、深山か!?」

 純は椅子から勢いよく立ち上がり、家のドアまで走った。

(しっかし……鍵もかけてないんだから、インターホンなんて鳴らさなくたっていいだろ。律儀な奴だな。)

 純は紫音がいると確信し、ドアを勢い良く開けた。

「おいみやま……ってあれ?」

「深山じゃないよ。私だ、三木だ」

 そこにいたのは三木巡査部長と、隣に新米の警察官、恵比寿伸也。

「こちらは赤石探偵事務所で合ってますか? 少々、お話を伺いたいのですが」

 新米の警察官……伸也の方が、昨日とは異なった優しい口調で聞いてきた。

「えっ? いいっすよ、俺なら全然……」

 困惑しながらも、純は彼らを事務所の中へと案内した。


「逮捕された!? 犯人がですか?」

「はい。容疑者の早期発見に繋がったので、ここでご報告とお礼をお伝えしようと……」

「……はあ。でも、深山は今日来てないんですよ」

 純は警察官と向かい合って話していたが、隣の空席に目をやった。本来は紫音が座るはずの、その椅子に。

「何かあったのかい?」

「何かあったのか聞こうとしたんですよ。あの後、どうも浮かない顔をしてたから。そしたら……逃げられました」

「ありゃ、そんなことがあったのか……」

 遼磨はいつもと変わらず、どこか親しみのある明るい声で純に語りかけた。

「あの子も気難しいお年頃だから、きっと人知れず悩みを抱えてるんだろう。そういう時は、年長者の我々が寄り添ってあげるべきだと思うよ」

 流石ベテランの警察官、といったところか。そこまで迷う素振りもなく、純に優しい言葉を投げかけてくれた。

「あの子のことが、心配なんだろう?」

「別に心配、ってわけじゃないです。ただ……」

 純は一瞬顔を俯かせ、テーブルに視線を落とした。

「深山はどこか危なっかしい所がある、そう感じたんです。生意気で、負けず嫌いで、意地っ張りだけど、無理して頑張ってるようにも見えてきたんです」

 純は紫音の態度や言葉が気に入らない、これは事実だった。だが彼女が弱い所を見せたくないために努力しているということもまた分かっていた。

「それが心配している、ということなんじゃないか? もっと素直になれば、君ももっと他人と仲良くなれるのになぁ」

「そ……そうですかね?」

 遼磨は少し笑いながらそう言ったため、純の顔にもほんの少しだけ、笑みが戻った。


「話を戻そうか。その犯人について、少し話そう」

 気を取り直し、遼磨はポケットから一つの写真を取り出した。四十過ぎ、少し顔は濃い目の男性だった。

「あっ! 依頼でマンションに行った時、上から降りてきた人です」

 純はその顔に見覚えがあった。満と共にマンションの部屋まで向かった時に、すれ違って外に出ていった男性がいた。

 まさか、あの男だったとは。

菊池(きくち)(ゆう)(すけ)。小野東高校で、化学の教師をやっている男らしい」

「小野東高校!? それ、俺の母校ですよ!」

 小野東高校は、市場駅の隣にある公立校。小野高校や工業高校からは少々離れ、南東の位置にある。真澄や純も、ここを卒業していた。

 見慣れない顔なので、純が卒業した後にどこかから新しく入ってきた教師だろうか。

「この男は、殺された横田さんの二つ隣の部屋に住んでいた。彼とは仲も良かったが、横田さんが菊池から金を借り始めてからは状況が変わった」

 遼磨は眉間にシワを寄せ、続けた。

「貸しても返ってこない状況が続いた。だから菊池は、横田さんの部屋に入って口論になったと。横田さんはお金に困っていたので返すことが出来ず、それに怒った菊池は……実験室からシアン化カリウムを盗み、横田さんを殺害した、と供述してる」

「なるほど……それで深山の言ってたように、誰かが入った形跡が残ってたんですね」

 遼磨は少し渋い顔で、純の言葉に頷いた。

「そう。でも、私が本当に伝えたかったのはそこじゃない」

「えっ、どういうことですか?」


「菊池は、ほとぼりが冷めたらあのマンションから逃げ出そうとしてた。既に家では、荷物が纏められていたんだよ」

「あっ……」

 そこで、彼らの言いたいことが理解出来た。

「もし君たちの推理が無ければ、あの男は今頃逃げていたかもしれない。それで、お礼を言いに来た」

 遼磨と伸也は、純に頭を下げた。

「ありがとう、赤石君。それに君の相棒にも、お礼を伝えてやってくれないか?」

「分かりました。あの子が戻ってきたら、そう伝えます。それと……」

 純は何かを言おうとして、迷った。でも踏ん切りがついたようで、しばらくしてから口を開いた。

「仲直りも、頑張ります」

「ああ。君ならきっと、出来るはずだ」

 そして遼磨たちは事務所の扉を開け、帰っていった。

「頑張るんだぞー!」

「はい!!」


「佐渡さん」

 純は満が住む、一〇二号室のインターホンを鳴らした。程なくして足音が聞こえ、ドアが開いた。

「赤石さん! おはようございます」

 以前とは違い、指には婚約指輪をはめた満が出てきた。

「犯人、捕まったみたいで良かったです」

「みたいですね。私も、この子も……これで一安心です」

 彼女にはすっかり笑顔が戻り、以前のようにお腹を優しくさすっていた。

「あの子……紫音ちゃんにも伝えて下さい。私たちを助けてくれて、ありがとうって」

「はい、伝えておきます……えっと、引っ越し先ってどこになるんですか?」

 純はふと気になり、満に聞いた。

「この近くですよ。ここもマンションの中では広いですが、一軒家に引っ越そうと思っています。暖かい緑に包まれて、この子も穏やかに育って欲しいから」

「そうですか……またお会いできる機会があれば、よろしくお願いします」

「はい。赤ちゃんが産まれたら、きっと……赤石さんや紫音ちゃんにも、挨拶してあげたいです」

 そして、純に小さくお辞儀をした。

「ありがとうございました」

「いえいえ。お役に立てたようで、こちらとしても何よりです」

 依頼人の笑顔が戻り、純も晴れやかな気持ちになった。そして、彼は探偵事務所に戻ろうと足を進めた。


 純は探偵事務所に戻り、ドアの前まで来た。

「ん……?」

 だが、そこで手が止まった。

(中に、誰かいるのか?)

 微かに物音が聞こえ、中に誰かの気配を感じる。例にならって親父は上で寝ているはずなので、それ以外で中にいるとしたら……

「紫音か!?」

 純は急いでドアを開け、中の部屋まで走った。

「おい、紫音!」

 部屋の扉を開けると……そこには純の予想通り、紫音が座っていた。

「お邪魔してます。それと……」

 紫音は少し恥ずかしそうな顔をして、小さな声で言った。

「下の名前で呼ぶのはやめてください……ちょっと恥ずかしいです」


「昨日はすみませんでした、あんなことを言ってしまって」

 まず紫音は昨日のことについて謝罪し、頭を下げた。

「それは良いんだよ。でもお前が何で苦しんでるのか。それが分からずに、その……

 心配、だった。」

 やはり恥ずかしくて片言にはなったが、純も思っていることを紫音に伝えることができた。

「教えてくれ。お前が隠してること」

「私の……」

 紫音は胸に手を当て、そして力を込めて握り締めた。恐らく、彼女自身も相当迷ったのだろう。

「分かりました……話します。でも、この話を聞いて……私のことが変だとか、笑い物にはしないで下さい。お願いです」

「ああ、覚悟は出来てるよ」

 そこで、最後の扉が開け放たれたような気がした。

 私の辛い過去が初めて、私から離れて他の人に知られてしまう。正直これを吐き終えて、私が私でいられるかなんて、もう分からない。

「分かりました、話します……」

 もう、どうにでもなってしまえばいいか。

 それよりも私は、アイツの、純の言葉を信じたかったから...


「私は、他の子とは違ってたんです」

「違ってた? 具体的には、どういう?」

「そうですね。本を一度読んだだけで内容が理解出来たり、相手の動きや表情から、考えていることが分かったりとか」

「なるほど……何だか、かっこいいな」

「いえ。私はこの力が、何よりも大嫌いです。これのせいで私の人生は、取り返しのつかないことになったから」

 語り出しは、そんな感じだった。

 紫音は神戸で産まれた。優しい両親にも恵まれ、特に問題もなくすくすくと育っていった。

「紫音、また本を読んでるのか?」

 小さい頃から変わっていて、図書館の本をどれだけ読み漁れるかを一人で挑戦していた。

「そうだよ、お父さん。本には、たくさんの世界が広がってるから!」

 文学が中心だったが、それに枝分かれするような形で法律や生物学等、様々なジャンルに興味を持った。

 だが彼女には友達がおらず、紫音自体もさほど気には留めていなかった。

(ドッチボールをして、遊んでる……あんなことして、突き指でもしたらたいへんなのに。ほんと、みんな馬鹿だなぁ……)

 だが、さほど気に留めていなかったことが、後に紫音を後悔させることとなった。


「ちっ、どけよ根暗。不愉快だからとっとと消えろ」

 最初は……何だっただろう。

 クラスの人に絡まれたことに、素っ気ない言葉を返したことがきっかけだったか。

 それすら紫音は忘れたが、これだけは言える。自分が誰とも関わりが無かったことが祟り、クラスに助けを求める人間もおらず、いじめられた。

「きゃっ!!」

 そして、それは伝染病のように広がる。

「お前くせぇんだよ!」

「ジメジメしやがって、お前は石屋川にテント張って住むのがお似合いだよ、このホームレスが!!」

 トイレの個室にいた際に、ホースで水をかけられた。

 慌てて外に出たら、蹴り飛ばされて壁にぶつけられた。

「うぐっ……!?」

「二度と学校来んな、薄汚いホームレス!!」

 私が動けなくなったら、彼女らは楽しそうにトイレから去った。

「こんなことして、何とも思わないの!?」

「はぁ? お前に生きてられると、私らの友達が不快に感じるじゃん? それに、こうしたら私たちが楽しいからね!!」

 そして、手を叩いて合唱された。

「「「じーさつしろ!! とっととじーさつしろ!!」」」

 その他にも、名札を跡形もなく割られたり、教科書類や、様々な道具を盗られたり。暴力も振るわれたり。

 ここで羅列するには、あまりに多過ぎた。

「あのー……私の教科書、知らない?」

「ああ、無かったから借りたわ。ありがとね、お馬鹿な便利屋さん」

 隅から隅まで落書きされた教科書が帰ってきて、そのような事を言われた時は、流石に紫音も泣きそうになった。

 でも、泣いたら泣いたで、

「てめぇ、先生に媚びてんじゃねぇよ!!」

 こうやって殴られる様は、目に見えていた。

「そう……それなら良かった」

 こうした言葉を返すしか、紫音にはできなかった。


「ただいま」

 私が帰ってきたら、お母さんは驚いた顔をした。

「またアザができてる……いじめられたの?」

「うん。もう仕方ないよ……慣れれば何とかなるし」

「そんなことないわよ、紫音!」

 お母さんはそう言って、いつも私を抱き締めてくれた。

「お母さん、恥ずかしいよ……」

「大丈夫だから、安心して。お母さんやお父さんも、紫音の味方よ」

 少し恥ずかしい気持ちになるけど、私はお母さんの暖かい体を抱き締め返した。

「ありがとう」

 この時が、私にとっては一番幸せ。私も、一人じゃないんだって分かった。

「お母さん、大好き」

 でも、そんなある日のことだった。


「ねぇ、紫音の話だけど……」

 お父さんとお母さんが、こっそり何かの話をしていた。私はそれを物陰から聞いていた。物音は立てないように何とか頑張っていた。

「あの子、段々おかしくなってる。理由もなく笑いだしたり、そうかと思えば突然泣きだしたり。これ以上、私たちの手に負えるのかしら?」

「確かになぁ……これ以上そんなことが起きるなら、ちょっと考えないといけないか」

 私を捨てようとしてる。ずっと信じてたのに、裏切られたんだ、捨てられるんだ。

(いや……こんなの、信じたくない!!)

 紫音は部屋まで駆け込み、そのまま閉じこもった。

「でも、いじめられてるのも事実なんだし。これからも俺たちがしっかりと向き合っていかないとダメなんじゃないか?」

 しかし、二人の話は紫音が逃げた後も続いていた。

「それも……そうね。ごめんなさい、変なこと言って。」

「良いんだよ。お前がそのくらい、紫音のことが心配だってことは分かってるから。」

 その言葉は、紫音には届かなかった。

 彼女はそれに気付かず、自分の最後の望みが断ち切られたことに、大きなショックを受けていた。

「私はもう、誰にも愛されてない。誰にも大好きって言ってもらえない。もう……ある日突然捨てられちゃうの?」

 気味の悪い妄想が、次々と浮かんできてしまった。

 そして……ここから、私の心は壊れていった。


 私の心に住み着いた「悪魔」はまず、私の夢にその姿を現した。

「紫音、ちょっと来なさい!」

 お母さんの声で、私はリビングまで駆け寄った。彼女の手には、二つに割れた皿があった。

「紫音、なんて事してくれたの!?」

「ちょっと待って!私、そんな事知らな……」

「口答えはやめなさいっ!!」

 お母さんは、私の頬を思い切り叩いた。

 そして、髪を引っ張った。

「やめて、お母さん……っ! 痛い、痛いよ!!」

「そんな嘘をついて、恥ずかしいわ!!

 それだけじゃない、紫音がそんな噓をつく子だなんて思ってなかった、こんなことしてたら親の私が恥ずかしいじゃない!! 私がっ! 恥ずかしいのよっ!!」

 そして、壁に投げ飛ばされた。これは夢のはずなのに、何故か痛みのようなものを感じる。

 あの時のお母さんの顔は忘れられず、今も私の胸にチクチクと刺さる。

「おい紫音!!」

「何……?」

 今度は、お父さんの声だった。声が聞こえた方にまで走ると、そこにはお父さんが血相を変えて立っていた。

「お前、この成績は何だ!? 親を舐めてるのか!!」

 今度はぐしゃぐしゃになった、0点の答案用紙が突きつけられた。

「だから、そんなの知らない……」

「うるさい! どうせくだらない本ばかり読んでたから、こんなことになったんだろ!!」

「いやっ……! 痛い、痛いから!! お父さん、やめて!!」

 今度は、何度も体を殴られ、蹴られた。


「はっ……!」

 そして突然、目が覚めた。

(今のは……今のは。)

 今までで一番酷い夢だった。体をふと見回すが、アザも傷もない。

 あれは現実ではなく、ただの夢だったんだ、と必死に言い聞かせた。

 でも、お母さんもお父さんも。私を捨てようとしているのは事実なのだ。

「お願い、許して……! 私が悪かったから、悪かったから! 許して下さい、ゆるして!!」

 これはきっと、神様の天罰なのだろう。

 私は誰にも愛されてないし、私なんかが誰かを大好きなんだって思うことが、間違いだったんだろう。それなのに、思い上がったから。

 蜘蛛の糸は切れ、私は地獄に落ちていく。

「おねがい、ゆるしてよぉ……!」

 涙が溢れ出て、止まらなくなった。なのに、私のお願いに誰も何も答えてくれなかった。


 そして、私は何度も何度もあの夢を見た。

「そんなのだから、あんたはねぇ……!」

「そんなことしてるから、お前は!!」

 もう、心が限界だった。お母さんやお父さんが私を殴り、罵倒する夢を見るのは。

「どうしたの、紫音?」

「あっ……」

 気付けば私は、食卓にいた。お母さんは私を心配して、優しい声をかけてくれた。

「辛いことがあるなら、お母さんに言って。私は、紫音の味方だから」

 ……いや、違う。お母さんが私に、こんな優しいことを言うはずがない。本当のお母さんは、ありもしないことで私を殴って、引き倒すはずだ。

 これは現実ではなく……夢なんだ。


「……嘘つき」

「えっ?」

 気付けば、私は立ち上がっていた。

「お母さんの嘘つき!! そんなこと言って私を安心させて、きっといつもみたいに殴るんでしょ!? そんなに殴りたいなら、早く殴ればいいじゃない!!」

「ちょっと紫音、どうしたの!?」

 暴れる私を、お母さんは必死で押さえつけた……やっぱり、本当のお母さんは私が困ってても助けようとしない。

 私が暴れたりすれば、すぐに怒って殴るはずだ。

「やっぱり、これは夢なんだね。こんな夢を見ても、何にも嬉しくない!!」

 皿を何枚も壁に投げつけ、大きな音を立てて割れた。

「落ち着いて、お願い!!」

「うるさいっ!! 貴方なんて、もうお母さんとは思わないから!!」

 そして私は、家を飛び出してしまった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 そこからのことを、私はよく覚えていない。ひたすらに走ったかもしれないし、とぼとぼと電車に乗ったのかもしれない。

 私は三宮の、センター街にいた。

「ひいっ……やめて、見ないでっ!!」

 多くの人々が私を見ている。軽蔑の目と、汚物を見下すような表情。

「なんだこいつ、気持ち悪いな」

「近付くなや、ゴミクズ」

 彼らの声が、脳に直接響き渡ってくるようだった。

「これ以上私を見ないで!! 軽蔑しないで、嫌いにならないで私を捨てないで!! 私のことなんて、ほっといてよ!!」

 そんなことを叫んで、私は崩れ落ちた。

「ゆるして、ゆるして、ゆるして……う、ううっ、う、うわぁぁぁん……!」


 そこで警察に連れられて、色んなことを聞かれたような気がする。

 でも、よく覚えていない。それよりも私は、彼らの持っている拳銃に目が入った。

(あれで頭を撃てば、私は楽に死ねるのかな……ああ、あの銃が欲しいなぁ...)

 私が家に帰ったら、お母さんは泣きながら私を抱き締めた。でも、私は怖くなった。

「何してるの!? 怖い……やめて!! 私に近付かないで!!」

 そして、私は部屋に篭もるようになった。

「紫音、大丈夫?」

 お母さんがたまにやって来て、ご飯を持ってきてくれたけど……

「きゃぁぁぁっ!!!」

 私の目にはもう、お母さんが化け物のようにしか見えなかった。

「ここから出して!!お願い、私を助けて!!」

 壁をドンドンと叩き、壁を引っ掻き回した。

「やめなさい、紫音!」

「はっ……!」

 私はその一瞬だけ、正気に戻った。

 震えながら、手を眺めると……私の指には血が滲み、痛みがじわじわとやってきた。


「紫音は、どうなんですか?」

 そして、私はお医者さんの所に連れて行かれた。後ろにはお父さんとお母さんがいて、お医者さんの言葉を待っている。

「……ですね」

 そして、病名を言った。

 それは心の病気で、精神的ストレスや身体的ストレスが重なる等様々な理由で、脳に機能障害が起きる、というモノだった。

 最悪、自殺に走るのも十分に有り得る病気。

 病名は極めて短い二文字だが、その二文字は両親の心に重くのしかかるのには十分だった。

「うっ……ううっ!!」

「そんな……!?」

 後ろでお母さんが啜り泣き、お父さんが呆然としているのが見える。

 何で、そんな顔をしてるの?どうせ私を捨てるつもりなんだから、それなら私がどうなろうがいいじゃない。

 それなのに……そんな顔、しないでよ。


「それじゃ、行ってきます」

 私はこうして、祖母の家に行くことになった。

 バッグの中には、お医者さんから貰った錠剤があった。これを飲み始めてから、私の心は落ち着き始めた。

 まだそれでも悲しい気持ちになることはあるけど、以前よりはずっと気持ち良い。

 本当はこれを飲まずに、自分の心で……

「ううん。そんなこと、もうどうだっていいや。


「私は周りの子たちとは違ってたから。神様は、私からありとあらゆるものを奪っていったんです」

 その話を、純は黙って聞いていた。私を軽蔑しているのか、悲しんでいるのか。

 こんな時に限って私は何も分からない。

「結局、私は自殺することさえできませんでしたよ。例えば、電車に身を投げれば体なんて散り散りになる。その一瞬で、私は楽になれるって。なのに……」

 一方的な思いは止まらず、私の目からは涙がボロボロと溢れている。

「私は、自殺をする勇気も無かったんです! 気が弱いし、足も竦んで……その一歩も踏み出せないほど脆くて、弱くて!!」

 目の前に純がいることも忘れて、私は無我夢中で叫んでいた。

「私はどうしようもない大バカです!!それでも、嫌いにならないで欲しいって。私、おかしいですよね……?」


「……確かに。お前が今まで辛い過去を経験して、それで誰も信じられなくなったってのは分かった」

 純はようやく、重い口を開いた。

「でもな。お前が頑張ってくれたお陰で、救われた人たちもいるんだよ」

「……えっ?」

 その言葉は予想外だった。悲しみで歪んでいた紫音の顔が、ほんの少しだけ変わった。

「佐渡さんも、お前に感謝してる。助けてくれてありがとうって、そう言ってたぞ」

「依頼人の佐渡さんが、私に……?」

 信じられなかった。私はてっきり、なんの役にも立たないって……

「佐渡さんだけじゃない。三木さんも、お前のお陰で事件が解決できたってよ」

「ありがとう、小さな探偵さん」

 紫音はふと、青年の言葉を思い出した。飼い犬を一緒に探してくれて、ありがとうと言ってくれた。

「でも私、生意気で根性も無くて、どうしようもないんですよ?それでも……」

 それでも私のことを大事に思ってくれますか、紫音がそう言う前に純は口を開いた。


「それでも、俺はお前のことが大事だ」

 純はどうするべきか迷ったが、やがて、紫音の頭を優しく撫でた。

「あまり自分を責めるな。お前が今までしてきたことやなくて、お前がこれからやりたいことを考えるんや。その方が、お前も楽しいだろ?」

 純は反射的に、そう言っていた。

「ありがとう、赤石さん。それと、お願いがあります」

「ああ、何だ?」


「私も一緒に、この探偵事務所で働かせてくれませんか? 貴方と一緒なら、私も……色んな依頼を解決して、みんなを幸せにできるかもしれないので」

「ああ、もちろんだ。よろしくな、深山」

 純が差し伸べた手を、紫音はしっかりと掴んだ。

 ここから、どんな事件が二人を待っているのだろうか。それは、誰にも分からない。でも二人なら、きっと大丈夫だろう。

「よろしくです、赤石さん」

 二人は手を繋いで、未来へと歩みを進めた。


「きみは、きみのいきかたをまもればいい。ぼくは、きみのことがすきだ」

 おんなのこに手を差し伸べた時の、かりうどの言葉。今のこの光景は、何だかそれに似ている気がした。

 いじめられたおんなのこに、かりうどは優しい言葉をかけて助けてあげた。

「かりうどさん……わたしも、だいすき」

 童話が現実になることなんて、有り得ないかもしれない。でも童話に心を動かされ、誰かを助けられるようになりたいと思った人は、きっといるはずだ。

 純もその一人であり、そして紫音の人生を大きく変えていった。

 これからは、二人の物語。この二人がこれからどのような人生を歩み、どれほどの多くの人間を救えるのか。

 彼らの戦いは、ここから始まっていく。


 続く

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