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蒼のマーガレット  作者: 夢前 美蕾
番外編
38/41

第11話 変わって欲しくなかった日常は

 見慣れた市場駅の駅舎を目にすると、二人の身体から一気に力が抜けるような感覚があった。

「いやあ……ホンマに足がパンパンになってもうたわ」

 真夏の夕暮れは遅く、一見するとまだ早い時間のように見えても、いざ時計を見ると六時前になっていて驚かされる。

 本当に、楽しかった時間がこれで終わりを迎えるだなんて信じられない。

「何なのよ、暇だったらもう一回行きたいってさっきは言ってたのに」

「後から疲れが来たんや、くっ……」

 真澄の表情からは疲れが全く見えなかった。だからこそ、視界の先に見える分かれ道を直視しない。

 これから先も純との日々は続く。つまらないことで笑い合って、今回のようにデートすることもきっとあるだろう。だが、彼女が求めているのはそうではなかった。

「名残惜しいけど、今日は楽しかったわ、真澄」

 今この瞬間が失われていくのが何よりも辛い。そして、無情に時間が過ぎていくのが苦しい。

「うん。それじゃあ、また学校でね」

 だが、純は疲弊した足を止めずに、小さく手を振って笑いかけながら真澄に別れを告げた。

 本来ならば正しい終わり。永遠のように見える長い退屈な人生の中で、半日という一瞬だけ行動を共にした、デートという物語の始まりと終わり。

 一方で、彼女は微笑んで片手を振りながらも、もう一方の腕が震えながら垂れ下がっていた。


「終わらせない、終わらせたくない、私が終わらせない……」

 目を見開いた真澄はふと思い出した。ここで帰ってしまっても、彼女という存在を心待ちにしている人間は誰一人として残っていない。

 やっと見つけた、自分を守ってくれる運命の人である純。片やパチンコで外出し、家にすら戻らない叔父の弘毅……

「ほんの少しだけ欲張るけど……良いわよね、純?」

 ピタリと足を止め、方向を変えて、生じる足音を消しながら、のんびりと帰っていく純の後を追う。

 ここから先は知らない道だった。家々や木々を通り抜けながら、気付かれないように一定の距離を取りながら足を進める。

 その新鮮な空気と、たった今彼の領域に踏み込んだという興奮が、彼女の欲望を存分に満たした。

「私が知らない純があっちゃいけないの。私を心から愛するってことは、私の言うことを何でも聞いて。私の思う通りに生きてくれるってことだから、ね?」

 少し気の抜けた、ゆっくりな足取り。きっと家に近付いてきたことで、無意識に今まで張ってきた気が徐々に緩んできたのだろう。

 その穏やかな背中が愛おしい。良い格好を見せようという外面に囚われない、ありのままの貴方が。

「おーい、ただいま」

 真澄は電柱の陰に隠れながら様子を見る。何の違和感も持たずに自宅に辿り着いた純は、鍵を開けて大切な家族のもとへと歩みを進めた。

「遅かったな純、もうご飯の支度はできてるぞ」

「ああ……ちょっと帰りの電車を逃してもうてな」

 中に入ってしまうと、こちらからはその姿が見えない。最後に視界に入ったのは、父を目にして表情が緩んだ純の表情。

 僅かに聞こえる軽快な足音が、ここが心暖まる安息な場所であることを示している。

「……何だろうな、この感覚」

 忘れていた記憶が徐々に蘇ってくる。かつて真澄にもあった……しかしながら、周りの人間たちから土足で踏み躙られた日常。

「まだまだ、私の知らないことはいっぱいみたいね」

 外を歩く者はいない。庭の小さな茂みに身を隠せば、周りからの目はやり過ごせるだろうか。


「親父、窓はどうする?」

「取り敢えず開けといてくれ。二階とトイレ以外の窓は、寝る前に閉めるから」

 完全に日が落ちても、相変わらずリビングは蒸し暑い空気で充満している。

 積み上がってきた空腹と僅かに滲む汗で渋い顔をした純が窓を開けると、幾分か涼しい、穏やかな空気が入ってきた……しかし。

「……ん?」

 彼は自分の視界を疑って何度か瞬きをした。向こうの茂みから誰かが見ている、気がする。

「おーい、早く食べないと冷めちゃうぞ」

「お……おう、すぐ行くわ」

 父の吾郎に呼ばれて視線を外した。ふと振り返ると、温かみのある食卓には豪華な料理が並び、香ばしい匂いを辺りに発していた。

「よぉし。そんじゃ、いただきます」

 豪快に手を合わせ、箸でまず掴んだのは、まだじんわりと湯気が残る大きな唐揚げ。

 先程の光景はきっと気のせいなのだろう。そう信じて無我夢中で頬張っていると、いつの間にか大きな口がリスのように膨らんでいく。

「今日のデートはちゃんと楽しめたか、純?」

「ああ。やりたいことは全部できたし、スマスイや三木城なんかも……」

 満面の笑みでそう言いかけて純はふと手を止めた。何かがおかしい。吾郎には、友達と遊びに行くとだけ伝えたはずなのに。

「……は、何で知ってんの!?」

 彼は怒りもしなければ、言葉さえ発さずにただニコニコと笑う。悟られるようなことは言わなかったし、探りを入れられるような言葉は何も聞かなかった。

 もはや、大人の余裕と経験、そして偶然の勘で引き当てたとしか説明のしようがない。

「昨日からずっと表情に出てたぞ。それに純が風呂に入ってる間に、そこに置いてあった携帯にメールが来てたしな……」

 純が引き攣った笑顔を浮かべる。慣れない高い声で、吾郎は動かぬ証拠を突き出した。

「明日は私とのデートなんだから忘れないでよね、純?」

「今すぐ忘れてくれ親父ぃぃぃ!」

 一芝居打たれてしまったのは、自分の方だった。せっかくのご飯が冷めることも厭わず、純は顔を真っ赤にして吾郎の制止に入る。


「別に隠す程のことじゃないだろ。純も高校生なんだから、別に俺はどうとは言わん」

 吾郎は恥じることも悲しむこともせず、穏やかな顔で息子の成長を見守っている。

 だが、純はばつの悪そうな表情で俯く。彼にそう言われるだろうと分かっていたからこそ、真澄とのデートの件を口に出すことができなかった。

「今は……やっぱりダメかなと思ってさ。自分の都合を最優先することが」

 母は今も予断を許さない状況にある。両親が良いと言ってくれても、依然として彼は自分の感情を出すことに若干の躊躇いを残している。

「それは前にも言っただろう。お前の人生は、お前だけのモノだぞ……純」

「分かってても怖いんや、ちょっとだけ」

 こちらを受け入れようとする優しさが怖い。もし無くなってしまった時、自分は取り返しのつかない痛みを味わってしまいそうだから。

 先程まで湧き上がっていた食欲が、緊張と恐怖で僅かに下を向いて落ち始めた。

「あのな……純。自分のことも大切にする純と、自分のことを大切にしない純。母さんはどっちの方が嬉しいと思う?」

 だが、吾郎は手を差し伸べることを諦めなかった。人が一度で変わるのは有り得ないのだから、何度でも背中を押して心を突き動かす。

「そら……自分を大切にする俺の方、やと思うけど」

「だったら自分をもっと大切にしろ。広がった選択肢を、自分の手で狭めちゃ勿体無いぞ」

 迷わず箸を取り、掴んだ唐揚げを純に差し出す。改めて顔を見合わせると、視界の中の吾郎は頼もしくもどこか無邪気な表情を浮かべていた。

「ほれ。たくさん食って、彼女さんを守れるように強くならなくちゃな」

「……くっ、余計なお世話やって」

「残念だな。俺は頭がすこぶる悪いから、こういうやり方しか思いつかないのさ」

 母の容体が今後どうなっていくかは、純にも吾郎にも、そして誰にも全く分からない。

 だがたった一人の父親である彼は、今も人生の岐路に立たされつつある大切な息子に、ただひたすらに前を向いて欲しかった。

「ありがとう、親父」

 吾郎からほんの少しの勇気を貰うと、今まで眠っていた純の食欲が再び蘇ってきた。


 吾郎の鋭くもどこか前向きな言葉は、薄い網戸を通して辺りにも響き渡っていた。

「……あれが、私の欲しかった家族」

 母のいなくなった家庭からは、言葉では言い表せない寂しさと薄暗さが伺えた。

 それでも二人は前を向くのを止めない。逆境に挫けず、手探りでも未来を掴み取ろうとする……歩みを進めることを諦めた、真澄の家族とは違って。

「どうして……どうして私はああならなかったのよ。私だっていっぱい努力して、未来を掴むために頑張ったのに、それをあんな奴らにっ!」

 忌々しかった。純は他の誰よりも愛していて、そんな彼が自分のために身なりを整えてくれていることも、親切に接してくれることも悪い気分では無い。

 でも、心の底から羨ましくて腹立たしい。自分が手に入れなかったものを、彼は全て持っている。

「純の持っているもの、大切にしているもの……全部、ぜんぶ私が手に入れなくちゃ」

 真澄にとって、純は自分の所有物。悲しい時は慰めてくれて、嬉しい時は一緒に喜んでくれて、どんな時も自分という存在を賞賛しなければならない。

 純が持っていて、自分の持っていないものなんて、最初から存在してはいけない。

「完璧……ええそうよ、私は完璧なのよ。私があの人に捧げるんじゃなくて、あの人が私に捧げなくちゃいけない。信念も才能も愛も全部、私だけが持っていれば良いわ。そうでなくちゃ、そうでなくちゃ……私の人生は満たされない、満たされ、ないのよ」

 真澄は暗がりから家の窓を探した。今はリビングの窓が開いているが、彼らが寝静まる頃には全ての窓が閉まって隙が無くなる……ただ一つ、とある場所を除いて。

「私は何も悪くない。こんな私を惨めな気持ちにさせた、貴方が悪いのよ」

 動くなら、今日この場所で。一切の躊躇いなく決断を下すと、不思議と頭は冷静に回り始めた。


「……ようやく、寝静まったみたいね」

 物音と人影が同時に消え失せた住宅街。茂みから姿を見せた真澄は、僅かに人が入れる程の大きさがあるトイレの小窓に手をかけた。

「ん……よい、しょっと」

 音を出してはいけない。折り曲げた足を窓にかけて、一瞬崩れかけた姿勢を確実に安定させる。

 十秒程のはずなのに、十分以上にも思える緊張の時間。閉じられていた便器の蓋に軽く足を乗せ、軋まないように力を押さえながら床に降りた。

「ぐう……かぁっ」

 廊下を通り過ぎる道中で眠る吾郎の姿を目にした。驚きで一瞬目を見開いたが、大きないびきに僅かな足音は完全に打ち消されていく。

「母さん、週末は日帰りで有馬とかどうだ……?」

「まったく、心臓に悪いんだから」

 大方、今は家にいない純の母が元気に戻ってきた夢でも見ているのだろうか。

 一階の部屋を探し回っても、彼の気配はどこにも無い。忍び足で廊下を歩く真澄の前に現れたのは、二階へと続く長く薄暗い階段。

 その先に純がいるかは分からない。それでも、残された可能性に賭けて進むしか無かった。


 探り当てた部屋のドアを開けると、間髪入れずに射し込んできた月光に黒髪が照らされる。

「あっ……ようやく見つけた、純」

 終わりの無い迷宮をひたすら歩き回り、ようやく宝箱を見つけたような高揚感と幸せ。

 静かに現れた新しい人物の気配を感じることも無く、ベッドで眠る純は静かな寝息を立てて夢の中にいた。

「まるで子供みたいね。下にパパがいなかったら、ぎゅって抱き締めてあげたいのに」

 真澄はまじまじと彼の寝顔を見つめた。本来ならば彼女には決して見せない、無防備で気の抜けたここだけの姿。

「また……どっか遊びに行こうな、真澄」

「……えっ?」

 前触れも無く名前を告げられた瞬間、真澄の思考がほんの一瞬だけ止まってしまう。

 だが、一旦閉じた瞼は開かない。先程の吾郎と同じように、それは愛する人と一緒にどこかへ旅立つ夢のように思えた。

「俺、なんにも分からんから……真澄の、行きたいとこ、に」

 言葉を返しても伝わるのだろうか。考える暇も無く、真澄は彼に語りかけるように口を開いた。

「もうすぐ色んな場所に行けるわ。私たちはもっと近付いて、家族のように……いいえ、家族なんかよりも親しい存在になれるのだから」

 話しながら、辺りを見回す。暗がりではあるが机や棚は整頓されていて、部屋が綺麗に掃除されていることがはっきりと分かった。

 時間にはまだ余裕がある。きっとこのどこかに、自分の求めている物があるはずだ。

「……でも、それにはまだ準備がいるのよ。幸せな生活を送るためには、お邪魔虫を一つ一つ、確実に消していかなくちゃ」

 引き出しを一つずつ開いていく。するとようやく、手元に冷たい金属のような感触があった。

「大丈夫。どれだけ回り道をしても、私たちは必ずゴールに辿り着けるわ」

 そう言いながら微笑む真澄の手の中には、純の家に自由に出入りできる合鍵があった。


 部屋にある物は大方探った。未来への種を植えるには、このくらいできっと十分だろう。

「今日はこのくらいにしてあげる。今度は貴方の意思で、私をここに招待してね」

 最後にもう一度だけ、微塵も起きようとはしない彼の寝顔に視線を移す。

 不意に悪戯したくなる衝動に襲われてしまう。純が起きないように唇は避け、もちもちと弾力のある頬に……僅かなキスを。

「ん……っ」

「起きちゃダメ。私に合鍵をくれたから、そのお返しよ」

 自身と、そして純の唇に手を添える。直後に彼は寝返りを打ったが、瞼は遂に開かなかった。

「今日は本当にありがとう。一人で心細くなったら、また遊びに来てあげる」

 見れば見る程可愛らしい彼の姿に背を向け、軽やかな足取りでドアへと進む。そんな彼女の表情は、先程よりもどこか輝いて見えた。


 翌朝、純はいつもよりもどこか違和感を抱えながら、瞼を開けて布団を捲り上げた。

「あれ……俺、昨日いつ寝たっけな?」

 夢を見たような、何も見ていないような。頭の中の映像が曇って、明確な形を保っていない、

 父の吾郎とはあれきり特に何も話していない。それなのに、誰かと言葉を交わしたような記憶が朧気ながらも残っている。

 それこそ吾郎だけでなく、周りの誰もが寝静まったような真夜中の部屋で……

「気のせいか……まあ、気のせいやろうな」

「純、朝ご飯できたから下に降りてこーい!」

 寝起きで頭がぼやける中、リビングから吾郎の張り上げた声が耳に入ってきた。

 今も記憶の奥底に眠る甘い声。そして頬に残ったどこか柔らかい感触が、その瞬間に一気に掻き消されてしまった。

「分かった、今行くから!」

 きっと都合の良い夢なのだろう。彼女が遠く離れた、この家に来てくれることなんて有り得ない。


「須磨に行った時、出先で鍵を失くしたみたいでさ……」

 それから一ヶ月程の月日が経った、長い夏休みの明けた学校でのひと時。

 表情を渋くする純が思い切って絞り出した言葉に、隣に座って話を聞いていた真澄は、ほんの一瞬だけ目を丸くした。

「須磨って……デートの時?」

「それまではあったんやけどな。あれから色んな所を探し回っても、どうも見つからんくて」

 頭を抱えて机に突っ伏す彼は……今目の前にその犯人がいることには気付く素振りも見せない。

 山のように積み上がっていた課題が終わらなかったクラスメイトたち、二学期になって心機一転、授業に臨もうとする先生たち。

 無情に進む時計の針を見ると、時間は待ってくれないのだということを悟ってしまう。

「それは災難だったわね。見つかると良いけど……」

 どうだろうな、と猫のように目を細める純。この分だと、当分在処を突き止めることは無いように思えてくる。

「……ん?」

「どうしたの、何か思い出した?」

 真澄が再び励ましそうとしたその時、彼は前触れも無く、何かに気付いたように首を傾げた。

 視線の先を辿ると、目立ちたがりのふざけた男子たちが今まさに鬼ごっこをしている最中の、平和な廊下がそこにあった。

「そうじゃなくて……今、白石先生が通らんかったか?」

「白石先生が、あそこを?」

「ああ。何か凄い、急いでるみたいやったけど」

 体育教師の白石。がっちりとした身体と物静かな雰囲気が特徴な、普段はあまり喋らない先生という印象だった。

 驚いた真澄が廊下に目を向けても、彼らしき姿はもうそこにいない。

「……ふうん、何かあったのかもね?」

 何かあったのだろうか。しかし当事者でない二人には、白石が急いでいる理由は分からなかった。


 一年生のいる二階の教室。その二つ上の四階には、上級生が過ごす三年生の教室があった。

「佐渡さん、今日の部活はどうしようか?」

 美術部の女子生徒に呼ばれ、不機嫌気味の彼女はゆっくりと振り返る。

 周りの生徒は大学受験で緊張が高まる中、彼女……佐渡満が表情に怒りを滲ませているのは、別の理由にあった。

「ああ……文化祭が近いから、その準備でもやっとけば良いんじゃなあい?」

「何だか、気乗りして無さそうだね」

 いつもなら笑って返す程度の言葉。だが、今回は代わりに鋭い視線が返ってきた。

「当たり前じゃんっ! 連中が目を光らせてるから、最近はちっとも罠張れないしさあ!」

「ちょっと佐渡さん……声が大きいって!」

「夏休み挟んだから欲求不満なんだよ、うがーっ!」

 今はまさに七月までの一件を重く受け止めた教師たちが目を光らせ、被害に遭った生徒たちに聞き取りを行っている真っ最中だった。

 だが、ここで怯えて逃げるのは、満が今まで積み上げてきたプライドが決して許さなかった。

「まとめて……できないなら、一人ずつでも構わない。社会復帰が困難な怪我を負わせれば、あいつらも下手に動けなくなるんじゃあない?」

「本気で……やる気なの?」

 失うものは何も無い。それに、こちらには自分の言うことを何でも聞いてくれる便利な後輩がいる。

 大丈夫だと満は笑った。罠の一件が噂になろうとも、誰かに阻止されようともこちら側の優位が傾くことはあり得ない。

「当然だよお。文化祭の中でも……そして外でも、一番輝くのは美術部なんだから」

 女子生徒と顔を見合わせる。ここからが正念場だが……きっと私たちなら乗り越えられる。

「活動に精を出すのは結構だが……筋は通して貰わんとな?」

「はっ……?」

「……ひいっ、白石先生!?」

 だが、そんな彼女らの間に一人の男性が突然入り込むと、満たちの表情は一変する。

 生徒たちよりも二回りは大きい、ただ静かに佇んでいるだけでも異様な雰囲気を醸し出す、強面な体育教師……白石。

 普段はここにいるはずの無い彼が、表情を険しくして狼狽える満にゆっくりと迫った。

「私はのんびりと放送室に行く暇も無いのでな。佐渡にどうしても聞きたいことがあったので、こうして足を運ばせて貰った」

 このままではまずい。視線を逸らして助け舟を求めたが、先程まで隣にいたはずの女子生徒は既に姿を消していた。

「あのバカっ、いつの間に……」

「来てくれるな? 美術部部長、佐渡満」

 白石が満の瞳を睨む。余裕を貫いていた部長は、今や首輪を繋がれたペットのようだった。


「予告も無く人を呼び出すなんて、ちょっと非常識じゃないですかあ?」

 職員室の奥まった所にある生徒指導室。今まで様々なことをやって来たが、満もここに呼び出されるのは初めてだった。

 まるで逃げ道を潰すように白石が扉を閉め、妙に落ち着いた様子で椅子に座る。

「今に分かる。本当に非常識なのはどちらなのか、な」

「……はあ、意味分かんないです」

 絞り出した言葉は去勢に近かった……いや、去勢でも構わない。少しでも怯えて口を閉めてしまえば、それで終わりのような気がするから。

「靴に画鋲、階段にワックス。最近この学校で起きた、いたずらの件については知っているな?」

「噂に聞いただけで、犯人については知りませんよ?」

「そうか……美術部の部員がやったという目撃証言がある、と言ってもか?」

 恐れていた事態が起きてしまった。額から滲み出る汗を抑えるのに必死だったが、きっと驚いた表情は向かいに座る白石には気付かれているだろう。

 自分だけでは無い。実行した後輩たちにまで、既に犯人捜しの手は回っていた。

「それは……後輩たちが勝手に、面白がってやったことでは?」

 狡猾に、しかし真摯にこちらを見つめる白石は岩のようだった。荒れ狂う風の中でも決して動かず、ただひたすらに自分という存在を保っている。

「今回の件に限らず、美術部では昨年から多くの退部者と登校拒否の生徒たちが出ている。部長として、その件は全く認知していなかったということだな?」

「私はこの部を変えようとした。その足を引っ張っているのは、後輩たちの方ですよっ!」

 生徒指導室の外にもはっきりと響き渡るような声で、満が叫びに近い声を上げる。

 絶対に認めてはならない。今はただその言葉だけが、ぐるぐると何度も回り続ける頭の中で唯一、その存在を有していた。

「部の平和を脅かす先輩たちがいなくなって、ようやく美術部はあるべき形に戻ろうとしていた……それなのに、どうしてあんたたち先生は私の邪魔をするんだぁっ!」

 両手で勢い良く机を叩き、怒りを滲ませて立ち上がった満に白石は目を細める。

「そうか……あくまでも、自分が主導したと言うつもりは無いということだな」

 ため息をついた後に次の手段に出る……と思いきや、彼は険しい表情を一旦緩めて、満の強い言葉に頷く素振りを見せた。

「これから美術部に一人一人聞き取り調査を行っていく。事件の真偽がどうあれ、退部者が続出している部活をこのまま放置するわけにはいかないからな」

 もう良いぞと白石は立ち上がり、指導室の扉を開けて満に外に出るよう促した。

 だが、それは決して解放では無い。真相を突き止めて、今度こそ逃げ道を失った満を確実に追及していくための、一時の猶予に過ぎなかった。

「この学校でいじめは許さない。美術部の代表たる佐渡には、その意味がよく分かるだろう?」

 最後に白石の口から放たれた言葉は、満に残された時間は少ないということを暗に告げていた。


「合鍵は後でどうとでもなるけど、あの部長はどうにかしなくちゃな……」

 その日の放課後、真澄は普段と変わらず美術室に足を運んでいた。

 絵の題材は、獲物を狙う一人の狩人。表情の険しさも意識しつつも、今まさに弓矢が放たれるという躍動感を意識して筆を運ぶ。

「進んでる、真澄?」

「ぼちぼちって感じね。本調子じゃないから、これからギア上げていかないと」

 横から声をかけてきたのは、同じく作業に取りかかっている親友の葵だった。

 何事も無かったかのように口を開く彼女……しかし、真澄の前に立ち塞がる邪魔者としては、葵もまた例外では無い。

 この美術部では、目にする者全てを疑わなければならないような世界が広がっていた。

「私も頑張らなくっちゃな。部長も褒めてくれたし、このまま負けていられないよ」

 そうだ、このままの状態で彼女を放っておくことも真澄にはできない。

 表情を緩めるような素振りを見せながら、頭の中では葵と満をどのように対処するかという考えでいっぱいになっている……その時。

「葵ちゃん、ちょっと話があるんだけど」

「……ぶ、部長?」

 前触れも無く背後から現れた満が、絵を描き続けていた葵の肩を優しく叩いた。

「えっと……話ならここでも良いのでは?」

「ここではちょっと言えないのよお。ほら、恋の相談的な?」

「ちょっと、何をするつもりですか?」

 突然の事態に首を傾げながらも、不審に思った真澄は迫りくる彼女を止めに入る。

 だが、ゆっくりと振り向いた満がこちらに指示したのは、わざわざ包み隠すことの無い、明確な拒絶の表情だった。

「あんたはお呼びじゃないから。一人で絵でも描いてなさい」

 困惑する葵を強引にでも連れて行く。最初は抵抗していた彼女も、何かを察したのか突然大人しい表情を見せている。

「……そう言われて、黙っているとでも?」

 二人の姿が消えたことを確認すると、急いで作業を中断した真澄は美術部を飛び出した。


 人目のつく場所を避けた二人は、程無くして階段の踊り場で足を止めた。

「どうしたんですか、部長?」

 一歩遅れて真澄が物陰に隠れる。満が一瞬だけ辺りを見回したが、こちらに気付くような素振りは一切見られない。

 視線は合わせないようにしつつも、話を聞き逃さないように耳を澄ませる。

「急にごめんねえ。今日呼び出したのは、ちょっとお願いがあって……」

 相変わらずの猫撫で声だった。先程向けられた冷たいものではなく、まるで可愛いペットに命令するような口調と態度。

「体育の白石にいたずらしてさ、それを真澄ちゃんのせいにしない?」

「……えっ?」

 葵と真澄の驚く声が重なる。彼女の顔は見えなかったが、明らかに困惑している様子が伺えた。

「真澄のせいにするってどういうことですか?」

「真澄ちゃんに以前いたずらしたんだけど、失敗した上に一連のことが先生にばれかけてね。だからここで全部真澄ちゃんのせいにすれば好都合かな、なんて」

「好……都合。そうなんですね」

 半信半疑の言葉。しかし追及するようなものではなく、葵のそれには若干の好奇心が混じっている。

 一時は大人しくなっていた彼女が久々に見せる、穏やかさと強かさが複雑怪奇に絡み合った、怪物のような歪な心。

 満の言葉を受けて、それがみるみるうちに膨らんでいくように思われた。

「二度と外を歩けないように、熱湯でもかけて大火傷にしてやろうかな。真澄ちゃんの私物を現場に置いておけば、あいつらはまず向こうを疑うはずだし」

「そのために、私を計画に乗せる……ということですね?」

 もはや疑いようも無い。真澄の作ったデッサンを裏で汚し、以前の部員たちと同様に追い出そうとした犯人は……佐渡満。

「嫌ならはっきり言ってくれたら良いわあ。残された時間は少ないから、どちらにせよ白石はぶっ潰すつもりだけどね」

 だが彼女にも分からないことがある。葵が過去に、真澄に行っていたことと抱いていた感情。

 だからこそ、本来ならば友情と服従を天秤にかけたはずのこの話に、葵がすんなりと快諾することもまた予測できなかった。

「大丈夫ですよ。その計画、私にも協力させて下さい」

「……あら、すんなり受けてくれるなんて意外ねえ」

 真澄の呼吸が荒くなる。恐れていたことが現実になり、それが目の前まで迫って来ていた。

「私、昔から真澄のことが憧れでした。勉強でもスポーツでも勝てない、何をしてもあの子の方が上……だからこそ見てみたいんです、あの子が顔を崩して泣き叫ぶ姿が。ぐちゃぐちゃになって地を這いつくばって、私に助けを求める姿が、ね?」

 そして、葵の微笑みが真澄の心を奈落へと突き落とした。最後の望みさえも断たれ、何も無い暗闇へと真っ逆さまに、落ちていく。

「取り返しのつかないことになるのも……意外に、悪くないかもしれません」

「分かったわ。詳しい話は私の家で話しましょう、可愛い可愛い葵ちゃん?」

 そこからの会話は聞くに堪えなかった。二人に背を向けて廊下を歩き、半ば本能に突き動かされるように足を進めていく。

 誰かが落とした小さな消しゴムを、腹立たしさを交えながら目一杯の力で蹴り飛ばす。

「やってくれたわね、本当に……!」


 美術室に戻った真澄は、空っぽになってしまった心で筆を手に取った。

「このままだと学校を追い出されちゃうのかな、私……」

 再び葵に裏切られた、道を踏み外した満に蹴落とされる。それらも大きな衝撃だったが、真澄の心が揺れ動くには足らなかった。

 純と過ごした大切な日々が、ようやく手に入れた理想の世界が崩れ落ちてしまう。

「全部真澄ちゃんのせいにすれば好都合かな、なんて」

「取り返しのつかないことになるのも……意外に、悪くないかもしれません」

 真澄は椅子の背もたれに身体を預け、彼女たちが今日話していた言葉を一つ一つ思い出していた。

 昼休みに見かけた白石と、先急ぐ満。美術部の悪事を見抜いた先生たちの追求が迫っていることは、その場に居合わせていなくともはっきりと分かった。

 その状況すらも今の彼女は、真澄を排除するための踏み台として使おうとしている。

「友達はいつだって私を守るために生きていかなくちゃいけないの。寂しい時は私の傍にいて、悲しい時は励まして、そうやって友情を育んでいく……」

 周りに聞こえない程の小さく低い声。両手が小刻みに震え、何かの予兆のように筆が落ちた。

「葵はもう……私の友達じゃ、ない」

 残された方法は一つしか無い。しばらく深呼吸をした後、真澄はゆっくりと目を見開いた。


 日が落ちた後……葵は約束を結んだ満に連れられて、とある場所へと足を運んだ。

「今日は親もいないから、気にせず入っちゃって」

「わあ……お邪魔します」

 いつもとは違う道、違う場所。満が家のドアを開けた時、葵は何だか異世界に来たような気分だった。

 遠慮気味な彼女とは正反対に、家の主は何の躊躇いも無く大きな足音を立てながら、少し急な階段を軽やかに上っていく。

「ごめんねえ。前もって約束しておけば、何か買っておいたんだけど」

「ふふっ。大丈夫ですよ、部長」

「取り敢えず、何か良さげなお菓子が無いか探してみるね」

 可愛らしい机に、クッションに、ぬいぐるみ。一見すると、普通の女の子のような可愛らしさとお洒落さの入り混じった部屋に見える。

しかし壁には今まで撮ってきた写真を参考に、色んな人が驚き、悲しみの表情を浮かべる生々しい絵が飾られている。

写実的、芸術的にも見えるが、そこには目を離せば動き出しそうな恐ろしさも感じられた。

「これは、部長の獲物たちですか?」

「……獲物とも言えるし、私は魂の残骸と呼んでいるわあ」

 クッキーと紅茶を持った満が部屋に戻る。学校を出た彼女は、一層無邪気さが増してあどけない子供のようだった。

「人は叫んで、苦しむことで魂が輝く。魂を再現することはできないけれど、私は少しでもその美しさを表現したいのよ」

「凄い。本当に絵が好きなんですね、部長は」

 静かに紅茶を啜る葵は純粋に心を輝かせていた。どこか遠い存在だった憧れの先輩に招かれ、今は手を伸ばせば届くような位置にいる。

 そんな風に考えていると、ふと満が椅子から立って彼女の方に歩み寄った。

「まあね。でも私が一番大好きな存在は、今こうして目の前にいるわねえ」

「……えっ?」

「ごめんなさいね。話し合いなんて、口実を付けて呼び出しちゃって」

 視界がぐるりと回る。葵の周りを包んでいた時間が、ほんの一瞬だけピタリと停止した。


「この間彼氏と別れちゃってさ、人肌ってヤツが恋しくなっちゃったの」

 頬に付いたクッキーの残骸が舐め取られる。葵は今、呼吸を荒くした満に押し倒されていた。

「どういう……ことですか?」

「私ねえ。相手が男の子でも、女の子でも良いと思ってるのお」

 彼女の頬の赤らみは、単なる部員や、親しい部員に向けるもの……では明らかにない。

 もっと奥底の、全てを知り尽くしたいという無限の欲求。葵をベッドに突き飛ばした満は、渦巻いた欲求の中に牙を仕込んでいた。

「本当に可愛い子ねえ。可愛いだけじゃない、垢抜けた雰囲気も賢しい仕草も、その全てが貴方の美しさを存分に引き出している」

 このまま前に進めば、二人は交わり合って一つとなる。逆に引っ込んでしまえば、二人は普通の先輩と後輩に戻っていく。

「……いつから、私のことを?」

「最初から。私を慕ってくれた嬉しさ半分、見た目の可愛さがもう半分かなあ」

 葵の額から汗が滲み出ていた。恐怖では無い。体験したことの無い光景と、視界いっぱいに広がる彼女の姿に、ただただ圧倒される。

「このままじゃどうにも一方通行ねえ……貴方はどう思う、葵ちゃん?」

 早く答えを出して欲しい。わざわざ言葉にしなくとも、満の視線と表情がそう告げていた。

「私、は……」

「私は?」

「私も同じ気持ちです。部長に奪われるなら、文句も抵抗もありません」

 葵の頭の中には、いつも大切な……そして壊したくてたまらない、真澄の姿があった。

 彼女の姿を思い浮かべながら、満と関わるのは卑怯だろうか。いや、彼女の唇が目前に迫った今、そんなことを考えて躊躇している暇は残されていなかった。

 愛が愛で塗り潰される。最後には淀んだ色になっていると分かっていても、混じってしまう。

「貴方の思うようにして下さい。私も無知ながら、部長の思い描く未来についていきます」

 潤む瞳、上目遣い。葵の放ったその全てが、満の心のスイッチを押すのには十分な力を持っていた。

「良い子……じゃあ始めるわあ、初心者には優しめにしてあげる」

 今日は他に誰も足を踏み入れることの無い、暗闇と重たい感情が入り混じる満の自室。

 遂に秘密を打ち明け、覚悟を決めた彼女は艶かしい唇を輝かせ、今も頬を赤らめる葵の唇目がけて襲いかかった。


 続く

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