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蒼のマーガレット  作者: 夢前 美蕾
番外編
37/41

第10話 このままじゃ終わらせない

 七月になって蒸し暑さが現れ始めた教室に、これまた暑苦しい叫び声が響き渡った。

「クソっ……赤点取っちまったぁっ!」

「うわやべえ。ここにホンマモンのアホがおるわ!」

 期末テスト返却日の真っただ中、加えて高校に進学して初めての成績表が渡される日。

 全く勉強していないとホラを吹いて回ったお調子者たちは軒並み高得点を文字通り勝ち取り、理由も無く安心していた本物の落ちこぼれは沼にはまっていく。

「ふう……取り敢えずこんな所かな」

 最初にしてはできた方だろうか。真澄は成績表を上から下まで一瞥した後、そっとファイルにしまって周りの反応を見世物のように眺めていた。

「じーっ……」

「いい加減あっち向いてくれないかな、葵?」

 しかし、半ばひっくり返った体勢でこちらを見つめてくる友人に視線を阻まれてしまう。

 よくよく見なくても彼女……葵の成績は分かり切っていた。小学校の時からずっと、テストの点数を目にしてはショックを受けてこちらに泣きついてくる。

「ぐすっ、解答用紙が一問ズレてた……」

 涙を滲ませながら掲げたそれはツバメが飛び立つ絵のようにも見えた。つまり、ため息をつきたくなる程のペケマーク。

「あんな事件があったのに、そっ知らぬ顔で美術部に没頭してるから悪いんですよ……っと」

「うう、そこは否定できないけど」

 痛い所を突かれた様子で葵は俯く。先生の介入があったからなのか、一時は大事になりかけた美術部の騒動は収束に向かいつつある。

 だが犯人や、詳しい原因はまだ分かっていない……少なくとも、真澄の見える範囲では。

「確かにいたずらの件は怖いけど、部長は本当に優しい人だから。事件が起きた時だって、頑張ってみんなをまとめてくれたわけだし」

 葵は完全に部長の言いなりだった。個別に呼び出された時はすぐに行くし、美術部関連で催しがあった時も迷わず参加する。

「まあ……葵が良いなら私は何にも言わないけどね。あそこのアレみたいに赤点になっても」

「一緒に秘密を共有した仲じゃない、真澄の意地悪っ!」

 そっぽを向くふりをして、真澄は晴れ渡る空を眺める。この先事態が前に進まないなら、先生とは別にこちらで犯人捜しをしても良いのかもしれないと考え始めていた。

 他の誰かが忘れ去っても、私は決して自分を傷付ける奴を放って置いたりはしない。

「……というか、何か反応が普通だね。いつもだったら真っ先に自慢してくるのに」

 人を何だと思っているのだろう。葵に視線だけを向け、閉じかけていたファイルをそっと開いた。

「今年はメインイベントが控えてるからね。成績も良かったし、これで心置きなく準備ができるわ」

「イベントって、もしかしてバカンスとか?」

 半分正解、半分当たりといった所だろうか。いつも抜けている葵にしては珍しく勘が鋭いように見えて、真澄の表情が少し緩んだ。

「まあね。小柄な誰かさんと違って、美麗美脚スタイル抜群な私には以前のモノは合わないかなと思って」

 視界を外していても分かる。葵が分かりやすく羨ましそうにこちらを見つめるその姿が。

 まるでメンコやカードゲームのように成績を見せ合う同級生たちを横目に、真澄は高らかに夏休みの予定を宣言した。

「水着を買いに行くわ。もちろん、知り合いとビーチに行くのに備えてね」


 先週の期末テストが終わった際、その帰り道に真澄は純にこんな提案をしていた。

「もうすぐ夏休みだね……あの約束覚えてる、純?」

「ん、約束って?」

 何のことだっただろう。青い空を眺めながら、彼は頭の中の映像をふと振り返ってみる。

 考えても中々答えが見つからずに悶々としていると、不機嫌そうに頬を膨らませた真澄がこちらに歩み寄ってきた。

「スマスイに行くって言ったじゃない! 夏はビーチにも行けるから、思い出作りに良いかもって……」

 言葉にされてようやく気付く。着込んでいた上着はいつからか薄い半袖に変わり、既に町ではセミが鳴き始めていた。

「あれか……でも、競泳用の水着しか持ってないんだよな」

「買いに行けば良いじゃない。心細いなら私が選んであげようか、ピッタリなやつ?」

  耳に入ってきた声を反芻する。驚いて真澄の顔を見つめると、彼女はからかうように笑っていた。

「……もうガキじゃないんやし流石にええわ。当日までに買っとけば大丈夫なんやろ?」

 相手の口がへの字に曲がる。もしかして、一緒に買いに行こうとしていたのだろうか。

 それならはっきり言葉にすれば良いのにと思いながら、純は信号待ちの傍ら、この辺りで買い物ができる所を考え始めた。

「ええ……そうね。私も予定を確認しなくちゃだし、いつ行くかはまた後日に話し合いましょう」

 横断歩道を一歩先に渡る彼女。表情ははっきり見えなかったが、純は何か喉に引っかかっていることがあるように思えた。

「もし行くなら思いっきり楽しもうな。何度あるか分からん夏休みやし」

 互いの足が止まる。伝えたいことをはっきり口に出せた彼に贈られたのは、愛する人の輝く笑顔。

「楽しみじゃないとは、一遍も言ってへんで?」

「だったらそう口にすれば良いのに。素直じゃないんだから、もう」

 意気揚々と投げたボールがすんなりと跳ね返ってきたような気がして、純は少し面食らった。


 終業式の数日後、朝九時に市場駅前に集合。色々と話し合いを進めた上、決まったスケジュールは思ったよりも少しタイトな気がした。

「天気予報の馬鹿野郎、バリッバリの晴れやんけ……」

 真澄が少し早めに来るだろうと考えた純は、予想外の熱さに肌が焼けるような感覚を味わった。

 自販機のボタンを叩き、駅舎の屋根に覆われながら苦痛を凌いでいると、彼女らしき人物は時間ピッタリに現れた。

「おはよう純……待った?」

「まあまあ待った。何なら熱中症になりそうだった」

 間髪入れずに答えると笑いの渦が巻き起こる。真っ白なワンピースに青いリボンを付けた彼女は、まるで絵本の世界から飛び出してきたお嬢様にも見えた。

「大げさなんだから。じゃあ行こっか、電車は確か四分後だよね?」

程無くして新開地行きの電車が音を立てて市場駅に到着した。通学絡みの平日程では無いが、車内は家族連れやお年寄り等で程々に賑わっている。

隅にある席に二人並んで座り、流れゆく景色を楽しみながら目的地に着くのを静かに待った。

「……ちょい、流石にこれは近過ぎねえか?」

「良いじゃない。何だか、仲睦まじいカップルって感じがするし」

 周りの察するような視線が痛い。僅かに彼女が首を傾け、体重を預けられると、ウェーブのかかった長い黒髪がこちらに当たって甘い匂いに晒される。

「離れろって言う度に近付いてあげるから。拒否権はナシね」

 日の光を受ける天井、長閑な外の景色、輝く星のような彼女の姿。意識と視界がうまくまとまらず、純はどうにも落ち着かなかった。

「なら……もっと近付け」

「ふふっ、純も私とくっつきたくてしょうがなかったのね。最初からそう言えば良いのに」

 心拍数が急に跳ね上がった。傷一つ無い綺麗な膝も、自分より小さな肩も、全てが密着して次第に思考が奪われていきそうになる。

 焦って辺りを見回しながら、迷惑にならない程のボリュームで純は必死に叫んだ。

「……いや、どっちやねーんっ!」

 冷房は風邪を引きそうになるくらい効いているのに、いつになっても車内は涼しくならなかった。


「月見山、須磨離宮公園前です」

 乗り換えも合わせて移動時間は一時間強。最寄りの月見山という駅は、果てしない住宅街の中に佇む静かな場所だった。

「何だか……久々に遠くに来たって感じやな」

「確かにね。神戸なんかはたまに行くけど、この辺りは凄く久しぶりだわ」

 改札を出ると日差しはより一層強くなっていた。それでも真澄は用意周到に日傘を取り出し、涼しい顔で細い路地を歩いている。

 大きい道路に出て南に真っすぐ下ると、同じく水族館目当てらしい観光客が歩いていた。

「そういえば、お土産とかどうする? 私は買おうかなって思ってるんだけど」

 イルカの人形を抱える赤ん坊を見て、真澄はワクワク感と若干の羨ましさが押し寄せてきた。

「お菓子をちびっと。非常食にもなるし、親父にもプレゼントしようかなって」

「お父さん……そっか」

 吾郎が喜んでクッキーを食べる姿をふと想像して、純はほんの少し表情が緩んだ。

 彼女から差し出された手を静かに繋ぐ。だが、当の真澄の顔に一瞬だけ陰りが生まれたことにはまだ気付かない。

「……おっ、見えてきたで」

 ペットボトルを首に当てていた純がふと顔を上げて指差す。テレビや本でも時折目にする、ガラス張りのエントランスが視線の先にそびえ立っていた。

「すごーい! ねえねえ、この辺りで写真撮ってみない?」

「ええな。場所は……今家族連れが撮影してるあそこにしよか」

 ようこそ、スマスイへ。老若男女問わず多くの客が押し寄せているその姿は、過ぎ去っていく時代の中でも神戸の観光地として活躍している証拠だった。

「ほらほら、そんなに距離取ってたら入らないわよ!」

 お互いの写真と、そして二人が入る自撮りを一枚ずつ。緊張で顔はいつもより硬いようにも見えたが、差し込んでくる太陽が映る人を輝かせてくれる。

「わ……わざと近付いてへんか?」

「細かいことは気にしないの。はい、チーズっ!」

 軽快なシャッター音が鳴り響いた。次に待つ人にお辞儀をして、純は頬を赤らめながら後退った。

「よし。写真はこのくらいにして、思いっきり楽しみましょう!」

 純の羞恥心も知らず、真澄はずんずんと前に進んでいく。一見すると、熱さを知らない太陽のように元気いっぱいで。

「ちょ、ちょっと待ってくれー!」

 一瞬だけ何か隠し事をしているように見えたのは、きっと自分の思い過ぎで気のせいなのだろう。


 ゲートを潜った二人を暖かく出迎えてくれたのは、端から端まで広がる大きなガラス水槽。

「綺麗……!」

 光が粉雪のように降り、魚たちが縦横無尽に泳いでいく。特に観光客の目を引いたのは、それらの陰に隠れて時折姿を見せる大きな存在。

 その生き物を僅かに視界に収めた真澄は、ゆっくりと歩みを寄せて後を追いかける。

「エイもいるのね! どうだろう、こっち見てくれるかな?」

「んっ……中々近付いてくれねえなあ」

 まだかまだかと待ち続ける。しばらくすると、視線に気づいたように裏側の顔を見せてくれた。

「わあ、すっごく可愛いわ。ニコちゃんマークみたい!」

 ガラスの反射を気にしながらも、ベストショットの撮影に無事成功できた。まだ始まったばかりなのに、久々の水族館に真澄は笑みを零している。

「おお、意外とチャーミングなんやなあ……」

 尻尾はやはり鋭利な形をしていたが、だからこそ見た目の可愛らしさが際立つような気がする。

 特にそのユニークさが人気なようで、二人が満足げに立ち去った直後にファンと思わしき子供たちがエイに駆け寄って声をかけていた。

「よし、ドンドン行ってみようぜ」

 さらに進んでいくと、徐々に通路が小さく薄暗くなっていく。海のいきものエリアと書かれたそこでは、様々な生き方を選んだ魚がそれぞれの個性を発揮しながら観客を楽しませている。

「イワシ多っ!? こうやって獲物から身を守るんやな……!」

 群れて外敵を防ぐ魚もいれば、何かに擬態して周りの目から逃れる魚も存在する。

 イワシの動画を撮影する純を見守りながら、真澄がふと目を付けたのは砂に紛れて身を隠すカレイの水槽だった。

「へえ、こうしてみると全然分からないや」

 時間が経つと砂埃を上げながら姿を現す。ゆっくりと動くのがお茶目に見えて、何とか視線を合わせようと彼女は前屈みになった。

「こんにちは、貴方は一体どこから来たの?」

 当然ながら答えは返ってこない。だがその代わりに、偶然かもしれないが大きく口を開けてくれた。

 同じ海に住み着く魚でも、居場所を作り上げる方法は様々なのだと分かる。砂の擬態や群れの形成、そして……猛毒も。

「……あっ、この子フグじゃない! ふっくらしてて可愛いなあ、私大好きなのよ」

 後ろを歩いていた純を引っ張り、真澄は小さな水槽の中で頑張って泳ぐフグに目を付けた。

「写真撮ってくれないかな、私とフグが一緒に入る感じで」

「分かった。準備できたら合図してくれ」

 子供のような無邪気な笑顔。二人はいつからか忘れかけていた新鮮な喜びを、穏やかに呼び起こされたような気がした。

「……はい、フグのポーズよ!」

 そう言って真澄がとったのは、可愛らしく頬を膨らませてフグと並び立つ謎の仕草。

 込み上げる笑いを抑えながら、彼女らの輝きが最も際立つタイミングを見極めて彼は静かにシャッターを押していく。

「いやいや、いつまでも何してんねん」

「ぷしゅう……」

 何枚か撮り終わった後、彼女の膨らんだ頬を優しく押すと風船のように空気が抜けていった。


「よし、次はあっちのクラゲを見に行きましょう……ん?」

 向こうの輝く水槽を指差しながら、勢い良く振り向く真澄。だが、すぐ隣にいるはずの純はずっと遠くに立っていた。

 何かあったのだろうか。首を傾げながら歩み寄ると、一人の子供が彼の手を掴んでいた。

「ねえパパ、今までどこいってたの……あれ?」

「パパ……すまん、人違いちゃうか?」

 どうやら彼を父親と間違えたらしい。近くに家族らしい人影も無く、よく見ると男の子の瞳には涙が滲んでいた。

「はぐれてもうたんかな? 良かったら、どこで迷ったんか兄ちゃんに教えて」

 足を曲げて、少しでも子供を怖がらせないように接している。すると、相手の表情もみるみるうちに緩んできた。

「ウミガメの、水槽。ずっと探したけどいなくて……」

「うし分かった。兄ちゃんと一緒に行こう、きっと見つけれるで」

 放っておいても、誰かがきっと助けてくれるはずなのに。前に出て子供を助ける純の後を、真澄はゆっくりと追いかけた。

「今日はどこから来たん?」

「えっと……京都から」

 でも、何だか彼と初めて出会った時のことを思い出した。もうダメかと思っていたあの時、どこからともなく現れた純が諦めかけていた自分を救ってくれたのだ。

「そうか。ここから京都までやったら遠かったんちゃう?」

 子供に言われた通りに探していると、やがてこちらに向かって手を振る男性が現れた。

「善信! 無事で良かった、ずっと探しとったんやで?」

「パパ―!」

 館内の隅で強く抱き合う親子。その仲睦まじい様子を見て、純も思わず笑みが零れていた。

「ありがとうございます、息子を見つけてくれて」

「いえいえ。当たり前のことをしただけなので」

 幸せそうな家族。父親は優しく子供の頭を撫で、共にお辞儀をして次の場所へと向かう。

 今の自分には無いものだった。欲しくて手に入れたくて必死に頑張ってきたのに、勝手に無くなって戻ってこなかった大切な家族。

「……帰る場所があるのね、あの子には」

 幸せだった過去と、辛かった過去が同時に蘇ってきて、真澄は少しだけ胸が苦しくなった。


「ちょっとー、どうして私を放ってどこかに行っちゃうの?」

 館内を概ね見て回り、二人は三階にある休憩スペースで撮った写真を改めて確認する。

「すまん……でも、流石にあの子供を無視するわけにはいかんかったし」

「ふん。そこら辺のみんなに良い格好しちゃってさ、バッカみたい……」

 そういうのじゃないから、と反論する純にため息をつきながら、真澄はショップで購入したウミガメの形をしたパンに頭からかぶりつく。

 本当は、その心温まる優しさを自分一人だけの特別なものにしたいのに。

「でも……あの子を助けてる時の純、本当にパパみたいでカッコ良かった。そこだけは認めてあげる」

 ふと、あの時の複雑な感情が心の奥底から戻ってくる。今まで色彩豊かだと思っていたパンの味が薄れ、視界が徐々に狭まるような感覚を覚えた。

「……どうかしたのか?」

「ふふっ、やっぱり分かるんだ。流石に貴方の目は誤魔化せないわね」

 今この一見平和に見える水族館にも、真澄を苛立たせるものは至る所に散らばっていた。

 仲良し家族、新鮮カップル。その他大勢グループ客。見ないふりをしていたけれど、一度気になれば目の前にある様々な形の愛を、原形も留めずに壊したくなってしまう。

「私、小学校の頃にパパを亡くしたの。それ以来、ずっとどこかに穴が開いたような生活ばかり続けてた。家もあるし、お金も無いわけじゃないし、オシャレもできる……だけど何かが足りない、ずっとそんなことを考えてたわ」

 未だにぼやけていた視界に、大きく目を見開く純の姿がはっきりと映った。それでも彼女は平静を装って、テーブルに置いてあるジュースを静かに啜る。

「私は純が羨ましいよ。みんなにたくさん愛されて、真っ直ぐで曇りの無いその姿が」

 空気はどんよりと重くなった。でも後悔はしていない、これが私の正直な気持ちだから。

 顔を俯けながら相手の答えを待つ真澄。純が決心して震える口を開いたのは、それからしばらく経ってのことだった。

「……そうか。でも俺は真澄の気持ち、全部では無いけどよく分かるわ」

「本当に? それとも、適当に流されただけの同情?」

 ホンマに、と間髪入れずに即答する。探りを入れる彼女に対し、彼は一歩も引かなかった。

「俺もさ、昔から母さんの体が弱くて、支えてくれたのは親父だった。不満はもちろん無いけど、もし願いが叶うとしたら……俺も他のみんなのように親に認めてもらいたかった」

 わがままを言ってはいけない。自分にかけた戒めで、純は何度も口から出かかった言葉を飲み込んだ。それでも、心のどこかには行き場の無い感情が眠っている。

「だからさ……一人で抱え込んだらあかんやろ。今の俺たちは恋人同士、ある意味運命共同体のようなもんやし」

 互いに見つめ合い、二人の時間が止まる。真澄はしばらく呆気に取られた後、小さく微笑みながらいつもの明るい表情に戻った。

 そうだ。いつの日だって純は、苦しむ自分の味方になろうと頑張ってくれている。

「……そうね、そうだったわ。純が私を放ってどこかに行こうとしたことなんて無いし」

 ふと手元を見ると、そこにあったはずのウミガメパンはもう無くなっていた。太陽は煌々と光を発しており、この幸せな時間がまだまだ続くことを示している。

「行きましょう。夏休みの思い出作りはまだまだ終わらないわよ!」

 元の姿に戻った真澄に安堵しながら、純は頷いて静かに立ち上がった。


 お土産を選ぶ……というよりは人の波を頑張って掻き分け、二人はイルカやクラゲが描かれたお菓子を手にショップを出た。

「ふぅ、まさかここまで混んでるとはな……」

 どうせ夏休みなのだから、わざわざ休日にしてしまったのが間違いだったのかもしれない。

 喜んで計画を立てていた数日前の自分を少し恨みながら、お菓子の箱を眺める真澄が視界に入って純は足を止めた。

「どうした、そんな不満そうな顔して」

「……なーんか足りないのよね。ロマンティックなお土産が欲しいのだけど」

 言葉にした真澄も何が不満なのか分からなかった。だが今持っている魚のクッキーは、可愛らしいもののどこかありきたりな気もしてしまう。

「ねえ、あれやってみない?」

 口をへの字に曲げる真澄が指差したのは、子供を中心に多くの観光客が並んでいるスペース。

 はずれ無しと銘打ったくじ引きのブースには、一回千円という高い料金を裏切らない数多くのぬいぐるみが並べられていた。

「……ショップで買う方が良くね?」

「何が出るか分からないから良いんでしょ? ね、せめて一回だけ!」

 こちらの腕を抱きしめ、無邪気な笑顔でおねだりをする真澄に押し負け子供と呼ぶには背丈の高い二人が賑やかな列に並んだ。

「目標はもちろん、あの大当たりね」

 景品は三種類のペンギンのぬいぐるみ。しかしサイズが等級に応じて異なっており、一等は棚の最上段に等身大に近い物が堂々と鎮座している。

 先陣を切った子供たちは総じて大きなペンギンを狙い、そして呆気なく敗れていく。

「ええっ、僕あのデカペンギンが良かったのにぃ!」

「ごめんなさいね……それじゃあ次の人、お願いします」

 淡々と頭を下げて次を促す係員に、真澄は意気揚々と一枚の千円札を手渡す。

 球体の中には竜巻のように何枚ものくじが飛び交っている。当然見分ける術は無く、頼りになるのは運と己の決断力だけ。

「……いくよ。うりゃあ!」

 深呼吸を交えて視界の中で光った一枚を手に取る。係員が静かに頷き、くじを開けると……


「凄い、大当たりですよ!」

 係員が目一杯の力で祝福の鐘を鳴らす。真澄がはずれくじを終えた後、次に待っていた人が大当たりを引いた瞬間に。

「ぶぅ……こんなの不公平よ」

「くじ引きなんてそんなもんやろ。だからショップで買った方がええって言ったのに」

 真澄が引いたのは、可愛いが千円には満たないであろう小さなぬいぐるみ。

 せめてもう一人後に並んでいれば。くじ引きに背を向けた瞬間に鳴り響く鐘の音程、彼女の心を奥底に沈める悲しいものは無かった。

「まあいいわ。この子のサイズなら机の上にも置けるし……勉強のお供にはちょうど良いかもね」

 改めて鞄にしまう前に目を合わせてみる。喋りも動きもしないはずなのに、今にもトコトコ歩き出しそうな妙な愛くるしさを抱えている。

「この子の名前はベルたんにしましょうか。これからよろしくね、ベルたん!」

 お目当てのくじを外したはずなのに、何かをやり切ったように真澄の表情は不思議と軽やかだった。

「何かこう、もう少しカッコ良い名前とか無いんか?」

「失礼なことを言うのはやめるのです、ベルたんったらベルたんなのですー!」

 腹話術のようにぬいぐるみの腕をパタパタさせ、いつもより高い声で彼女は叫ぶ。

 何がともあれ、真澄が満足ならそれで良かったのかもしれない。二人の安堵の表情は、お金では決して買えない幸せの色が広がっていた。

「何やそのちゃちい腕……筋トレせんと強くなられへんで、こっち来いベルたん!」

 俺が鍛え直してやる。そう言わんばかりに迫る純と、逃げる真澄との小さな鬼ごっこが始まった、

「きゃー、このままじゃ襲われちゃうのですぅー!」

 もしかすると、今この瞬間が人生で最も楽しいかもしれない。互いの心の声がぴったりと重なったことに、彼女らはまだ気付いていなかった。


「ほらほら、もっと早く空気入れなくちゃ」

 貸し出されたパラソルの中で、両手に収まるボールに空気が吸い込まれる音が延々と響き渡る。

「無茶言うなよ、俺もこんなん久しぶりで分からんわ……」

 ビーチでは既に、宿題や仕事という重苦しい概念を丸ごと吹き飛ばした全国の観光客で芋の子を洗うような混雑となっている。

 水着に着替えた二人は、ボールや浮き輪を手にその客の嵐に突っ込もうと準備を進めていた。

「……あっ、日焼け止め塗り忘れちゃった。塗ってくれない?」

「俺は召使いか何かか……?」

 息を弾ませて一休みをする純の隣で、彼女は寝そべって背中を差し出す。ゆっくり振り向いた視線は、こちらの感情を弄ぶ時のそれだった。

「ほぉら、私の肌が焼けてジリジリになっちゃっても良いの?」

 鈴のような声で言葉にされると、頭の隅に追いやったはずの羞恥心が湧き上がってしまう。

「知るかよ、バーカ」

「そうは言っても迷わず助けてくれるのは、やっぱり純の優しい所ね」

 慣れない様子で、緊張に震えた手で、けれども優しく日焼け止めクリームが塗られていく。

 本当はもっと躊躇って欲しかったけど、彼の真っ直ぐさや暖かさをその身で感じられたように思えて、真澄の表情は徐々に緩んできた。

「ほら、これでええやろ?」

 塗り終わると飛び退くように純は後退った。どうやら、彼が勇気を出せるのはこれが限界らしい。

「ありがとう……それじゃあ、行きましょうか」

 頬を赤らめた彼の海パンがふと視界に入る。迷いに迷った末に選んだと言っていたそれは、いかにも夏らしいヤシの木が描かれた黄緑の水着だった。

 敢えて言葉にはしないが、意外とこういうのも悪くないのかもしれないと思ってしまった。


「私バレーの経験ないから優しめに……ねっ!」

「そんなこと言うたら俺もやで。とりゃっ!」

お手製感溢れる簡素な境界線の向こう側で、弾丸のようにボールを打ち合う。

見るも眩しい紫外線が両者の肌を焼かんとする真夏の砂浜で、手加減一切無しの本気のビーチバレーが幕を開けた。

「そんなにテストの点数良いなら俺にも個別指導してくれ……やあっ!」

 打つ度に相手の不満を叫び合う。どちらから始めたかもう忘れたが、回数を重ねるごとに互いの語気が強くなっていく。

「便利屋じゃないんだから。お願いするならもう少し言い方ってものが、あるでしょ!」

「そうかよ。だったら言い方次第なら聞いてくれるって、ことか!?」

 純の打ったボールが宙を舞う。まずい、力を入れ過ぎて少し空回りしてしまったか。

「その素っ気なさが可愛いのよ。直したりしたらただじゃおかないんだからっ!」

 チャンスと言わんばかりに、その隙を突いた真澄が力一杯にスマッシュを放つ。

 軌道は純の立つ領域内から大きく外れ、まさに場外ホームランと言わんばかりに明後日の方向に飛んでいった。

「……ふふん、私の勝ちね」

「ちくしょう、デタラメやろこんなもん……」

 場外に転がったボールを拾えば、次は二回戦という名目でまた別のゲームが幕を開ける。

「先に落ちた方が負け、一回勝負よ」

 押し相撲を海で行う、という経験はあるようでない斬新なアイデアのように感じられる。

 向かい合い、相手のバランスを崩せば勝ちの単純明快なルール。だが波が定期的に押し寄せるお陰で、今までに無い緊張感が背筋に押し寄せてきた。

「ハンデとか無くてええんか? これでも一応、俺は由緒正しき男子なわけだが」

「私が大丈夫と言えば大丈夫。このビーチでは私が決めたルールが全てよ!」

 先手必勝と言わんばかりに両手が突き出された。よろめきそうになりながらも、うまく受け流して純は心置きなく反撃に移る。

「どうしていつも俺をからかうんや、一緒にいたいって思うなら言葉にすればええのに!」

「それぐらい察してよ、赤ちゃんじゃないんだからさ……!」

 前によろめき、後ろに倒れそうになる。負けてもどうせ水を被るだけ、それなのに何故かどちらも勝ちを譲りたくなかった。

 牽制し合う中で互いの目が合う。照り付ける日光を浴びて、どちらも宝石のように輝いていた。

「言ったな……このかまちょめっ!」

 そして次の瞬間、身構えることを忘れた両者はどちらも全力の張り手を受けてしまう。

「ぬおっ!?」

「ひゃあっ……!?」

 押し相撲という不毛な争いの結果は、同時にバランスを崩したことによる引き分けと表現せざるを得なかった。


 全身で浴びてしまった海水は、意外にも周りの熱さで程良い温度になっていて心地良かった。

「なーんや、意気揚々と挑んできて全然やないか」

「貴方こそ……本当は由緒正しき男の子じゃなかったの?」

 真っ白だったフリルの水着が僅かに透けていく。真澄の濡れた黒髪が太陽の光を受け、妖精のような神秘的な輝きを放っていた。

 互いにしばらく動かない。もう少しだけ、この心地良い水の感覚を味わい続ける。

「なあ、この勝負って景品とかあるん?」

 純が引っかかっていたことを口にする。彼女は頭を捻り、そういえば買った時のことを何も考えていなかったのを思い出した。

「そうね、どうしようかしら……」

 視界の先には海で遊ぶ元気な子供たちが映っていた。かき氷、焼きそば等の賑やかな屋台。魅力的なものはたくさんあったが、自分の求めているものとは何か違う。

「帰り道に寄っていきたい場所があるから、そこでスイーツを奢る。これでどう?」

「もちろんええけど……真澄は大丈夫なんか? 負けたら二人分払うことになるで」

 上を向いていた視線がふと交わる。薄笑いを浮かべた彼の表情は、手加減をする気の無い挑戦的な態度が現れていた。

 そうだ。一対一の勝負というのはどこでも、そしてどんな時であっても本気で挑まなくては。

「問題無いわ。どうせこれから私が全勝するもんね!」

 合図と共にお互い浅瀬に潜った。赤いパラソルの立つ場所を目印として、二人の競争が幕を開ける。


「あー負けた。ホンマ勝てんかった、真澄は強いなー!」

 負けたとは思えない陽気な声で叫びながら、純は一歩前に出て帰り道を歩いていた。

「何やってんのよ、本気出して戦いなさいって言ったでしょ?」

「俺は一言も八百長なんて言ってへんで? 真澄の努力と実力が獲った勝利や、素直に喜べって」

 そんなことを言われても、あれから本当に真澄が全勝してしまったのだから説得力は皆無だった。

 小さなペンギンの相棒を手に入れ、欲しかった勝利も手に入れた。なのに、真澄は頬を膨らませながらそっぽを向いている。

「……けど、なんだかんだ言って楽しかったやろ? 俺も知り合いと海行ったの久しぶりやし、目一杯遊べた気がするわ」

 純はこちらをからかうように笑顔を浮かべた。本当は私がからかうべきなのに、遊ばれるなんてガラじゃないのに。

「違う……凄く楽しかったけど、そうじゃないもん」

「拗ねるなよ。ほら、これ奢ったるから元気出しい」

 一足先に改札を通った彼が差し出してきたのは、自販機で買った小さな炭酸飲料。

 次の電車までは幸い少し時間がある。ベンチに腰を下ろして蓋を開くと、仄かな心地良い香りが夢の世界のように広がっていった。

「こういうことじゃないのに。純のばーか」

 小さく頭を下げて、こちらの表情を隠す。純は敢えて、彼女の赤く染まった顔から視線を外した。


「上の丸、三木上の丸、三木城址前です。左側の扉が開きます、ご注意下さい」

 明朗なアナウンスが聞こえてきて、ブザーと共にドアが開く。真澄が徐に腰を上げたのは、故郷に程近い三木上の丸という駅だった。

「お……行きたかった場所ってここやったんか?」

「ええ。図書室で三木城の本を読んで、絵のモデルにしてみようかなって」

 八十年以上前に建てられた木造の駅舎は、その力強さと美しさを色褪せることなく見る者に訴える。

 出口からスロープを静かに下ると、交通量の多い道路沿いに異彩を放つ大きな看板が視界に入った。その名も三木合戦の地、三木城址。

「日が暮れる前に行っちゃいましょう。入口は……あの階段ね」

 看板の指示に従い、高架を潜ってすぐの大きな階段。迷うまでも無く分かりやすい道だった。

「……ん、ちょっと待て。階段ってこれで合ってるよな?」

「ええ、そのはずだけど……」

 しかし、二人の前に現れた分かりやすい大きな階段はある意味最大の難所だった。

 親切にも両端に付けられた手すりが無ければ真っ逆さまになりそうな急角度、龍のように長く果てしない高さ。それらはまさに、来る者の魂を確かめる試練のようだった。

「ちょーっと、思ってたよりも高いわね」

 経緯は全く違うが、真澄は先日階段から落ちかけた際の光景を思い出した。もし油断して足を踏み外してしまったらと想像すると、嫌な苦笑いが浮かんでくる。

「ま、まあ行きたいって言ったのは私だし? 純にはしんどいかもしれないけど、私にとってはこんなの余裕だから、まあ我慢して頑張れば……」

「足震えてるぞ、大丈夫か?」

 勇気を出して一段を踏み出そうとした真澄の肩を、純はちょっと待てと言わんばかりに優しく掴む。

「絶対に手を離すなよ……もしコケても俺が支えたるから、ゆっくりと上ってくれ」

 先に前に進んだのは純だった。彼の左手をぎゅっと握り、もう片方の手で手すりを掴む。

 彼の背中は何だか頼もしかった。いつもは照れ屋で、肝心な時に一歩が踏み出せなくて、自分の気持ちを言葉にできない人だと思っていたのに。

「……あ、ありがと。でもどうして?」

「そうしたいって思ったからや。自分の感じるように……思うままに生きろって、親父に言われたからな」

 失敗しても、助けてくれる人がいる。その安心で真澄の及び腰は徐々に和らいでいき、前に進むための力になった。

「さあ、あともうちょっとの辛抱やで」

 気の迷いでうっかり下を向かないように努力しながら、二人は最後の一歩を踏み出していく。

 永遠のようにも思われた時間はここで終わりを告げ、小さく狭かった空間から広く静かな世界がうっすらと現れた。

「わぁ……!」


開けた静かな空間には、三木城が歩んできた歴史を伝えるための石碑や石像が佇んでいる。

そこからさらに小さな階段を上ると、険しい道のりを辿ってでも真澄が求めた雄大かつ荘厳な景色をその目に収める事ができた。

「おお……凄えなこれ!」

「後ろの山まではっきり見えるわね。お天気で本当に良かったわ」

 川を挟んだ三木の街並み、さらにここから遠く離れたショッピングモールの姿まではっきりと見える。もし望遠鏡でもあれば、ひょっとすると自分たちの家も……

「何か、別世界にいるみたいやな。地元にこんなええ所があったなんて思わんかったわ」

 シャッター音が何度か響き渡る。しっかりとカメラを構えていた真澄は、ふと何かを思いついたかのように純に歩み寄った。

「せっかくだから純も一緒に撮りましょう、ほら、こっちに立って?」

「えっ……ま、まあええけど」

 いきなりどうして、と純の困惑する表情を、真澄はそれ以上の輝く笑顔で打ち消した。

「これも夏の思い出作りの一環、記念撮影よ」

 突然のことで思い付かなかったが、ポーズは無難にピースで良いだろうか。

 あの険しい階段を再び下らなければいけない、という光景は一旦頭の中から消して、二人は今この瞬間の最高の幸せをカメラに収めた。

「距離はえっと……一応こんぐらいか?」

「十分よ。それじゃあ、はいチーズっ!」


 絵のモデル集めを終えた真澄たちが次に訪れたのは、三木上の丸駅のすぐ隣にあるジェラート店。

「おお、中々広い店やないか」

 名物は甘栗のようで、店先にもそれを模した人型のキャラクターが利用客を歓迎している。

 ジェラートの他にもお菓子やお土産が取り揃えられている所を見ると、どちらかというと観光客向けの雰囲気が漂っていた。

「なるほど……イートインスペースはここにあるのね」

「良いなぁ。ちょっと隠れ家みたいな感じで」

 できる男に二言は無い。約束をしっかりと覚えていた純は、自腹で二人分の甘栗ジェラートを指差して注文した。

「お待たせしました。零れやすいのでお気を付け下さいね」

 せっせとスプーンが刺されたアイスを運ぶと、彼女は用意周到なことに椅子に座って待っていた。

 ふと顔を近付けると、小さな粒となった栗が仄かな匂いを発している。日差しが照り付ける暑い夏にはたまらない逸品のように思えた。

「美味しい……栗のアイスも意外と悪くないわね」

 純はコーン、真澄はカップに乗ったジェラート。ふと隣を見るとコーンの方が何だか立派に思えてきて、彼女はついスプーンを伸ばしてしまった。

「……ねえ、ちょっと一口だけ良いかな?」

「えっ、味は甘栗の同じやつやろ?」

「むうっ、そういうことじゃないの!」

 他人が食べているもの程美味しく見えてしまう。おねだりに負けた彼は、コーンに乗ったジェラートを真澄の方に黙って差し出した。

 大きく口に運び、残ったアイスをほんの少し舐める。大して気にしていなかったのに、彼女と視線がぱっちり合うと何だか恥ずかしく思えてしまう。

「じゃあ……俺も一口だけ良いか?」

「もちろんよ。さあ、スプーンを出して」

恥ずかしさを振り払って、誤魔化して純もほんの少しジェラートを掬った。そんなに眺めなくても良いのに、真澄はわざとらしくこちらをまじまじと見つめている。

「ん、美味い」

 先程食べていたものよりほんの少し甘く思えたのは、きっと気の狂った自分の勘違いなのだろう。


 気が付くと、無限にあるように思えた二人のジェラートはもう空になってしまっていた。

「どうだった、このお店?」

 夢中で食べていたからか少し頭が痛い。でもこの痛みも、ある意味夏の風物詩のような気がして悪くは無かった。

「めっちゃ良かったわ。水族館も楽しかったし、暇やったらもう一遍行ってもええな」

「ふふっ、純は本当に元気なんだから」

 店を出て電車に乗れば、幸せな時間はもうすぐ終わりを告げる。きっと扉の向こうには、蒸し返る程に暑い今までに日常が待っていることだろう。

「ねえ、これからも純はずっと私の傍にいてくれるかな?」

「……ん、どうした突然?」

 水族館の時を思い出す、彼女の真面目な声色と表情。しかしあの時と違って、今の真澄には前に進む覚悟と強さが滲み出ていた。

「私、これから色んな問題に向き合わなきゃいけないかもしれない。友達のこと、家族のこと……それこそ純の力だけじゃ乗り越えられないくらいの、高くて険しい大きな壁を」

 叔父の弘毅や、葵に満。添い続けられる運命の人が現れても、真澄も周りを取り囲む問題はまだまだ解決の色が見えない。

 それだけじゃない。彼らの凶行によって、関係の無い純が巻き込まれることだって。

「もし私が折れそうになっても、今までのようにいかなくなっても……純はそれでも私を助けてくれる?」

 純の表情は見えない。こちらがわざと目を逸らしているから、受け入れてくれなかった時のことが恐ろしくて怖いから。

「……そこについては俺もずっと考えとった。さっきの時もそうやったけど、真澄には俺に言えない色んな問題を抱えとるんやろなぁ、って」

 でも、彼の芯はそれでも揺らぐことは無かった。身を寄せて、こちらの少し湿った髪に触れて、傷付けないように優しく撫でる。

「困った時はいつでも俺を呼んでくれ。真澄のためなら、俺は地獄にだって一緒に行ったるから」

 俺は離れない、絶対に。結ばれた手は解かれることも無く、一人で凍えていた真澄の心をしっかりと繋ぎとめていた。

 こうやって二人で手を繋げる平和な日々は、果たしていつまで続いてくれるだろうか。

「ありがとう。そう言ってくれるだけで、私はすっごく安心したわ」

 真澄たちはそのまま店を後にする。扉を潜る寸前、彼女は純の頬に軽くキスをした。

「……はっ?」

「プレゼントよ。黙って受け取りなさい、私の可愛いナイト君」

 次の電車は何分後だろう……いいや、何分後だって自分たちは一向に構わない。

 すぐ隣に自分を守ってくれる運命の人がいるから、そして、すぐ隣に自分が守りたいと思える大切な人がいるから。

「ははっ……何やねんそれ、おっかしいの」

 彼女の冷たく暖かい一瞬のキスは、いつまでも純の初心な肌に残っていた。


 続く

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