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蒼のマーガレット  作者: 夢前 美蕾
番外編
33/41

第6話 私だって、誰かのために生きたかった

 それは尚子が通行人に暴力を振るい、学校にいた真澄が靴を奪われる少し前のこと。

「よし……一緒に帰ろう、葵」

 鞄にしっかりと教科書類を詰め込み、教室を出る準備を進めていた彼女に、葵は申し訳なさそうな表情で手を合わせた。

「ごめん、今週掃除当番だから先に帰ってて!」

「ああ、そうだったわね。それじゃあまた明日」

 中学に上がってから何か特別なきっかけがあったわけじゃない。じわじわと好奇心が膨れ上がって、それはほんの出来心のようなものだった。

 同じく当番だった女子たちと集まり、先生の目を逃れて小さく囁く。

「ねえ聞いた? 昨日この辺りで人が襲われたって」

 ちりとりを用具入れに直しながら、葵は何気無く口を開いた。少しやんちゃで粗暴なクラスメイトの面々は、すかさず話題に食いついてくる。

「あー……知ってる。通りがかりのおっさんがバーチャンに襲われたやつでしょ?」

「そうそう。その人ね、実は斉藤さんの所のおばあちゃんらしいよ」

 窓の外からは、自分の名前が呼ばれたことなど全く気付かない真澄の後ろ姿が見える。

 周りを取り囲む人の目が丸くなっていることが分かった。そしてしばらくすると、それは彼女に対する憎悪に変わっていく。

「えっ、それちょっと怖くない?」

「やっぱりあいつ不良の娘だったんだよ。前々から気に入らないって思ってたんだよねー」

 ヘラヘラと笑う一人の女子の手には真澄のノートが握られていた。これ盗んじゃおうよ、という提案にクラスメイトも笑顔で手を叩く。

「ってか竹田さん意外だな、あいつと仲良さそうにしてなかったっけ?」

「えっ、そうかなあ……?」

 かつて下手だと真澄に馬鹿にされた演技で、葵は周りの人間を騙し動かしていく。

 嘘をつく度にどこかズシリと心が重くなるような感覚があったが、それすらも今の彼女には心地良く思えてきた。

「昔から近所に住んでるってだけで、別にそんな仲良くないってば」

 こうして蒔いた種がどのように広がっていくかは、彼女自身にさえ予測できなかった。


「冷蔵庫にご飯が入ってるから、小腹が空いたら適当に食べていなさい」

 住民たちの重苦しい足取りとは裏腹に、雀が軽快に鳴く月曜の朝。

変わらずに機嫌を損ねたままの藍奈が出勤する直前に残したのは、たったそれだけの素っ気ない言葉だった。

「えっ、ちょっと待っ……」

「ほら、もう行くからね」

 真澄は急いで玄関に駆け寄るが、その姿すら見えずに鍵がかけられてしまう。

「……何なのよ、本当に」

 行方知れずになってしまった靴の代わりに、予備で置いてあった物を静かに並べる。

 きっと外では葵が待っているのだろう。先週は遅刻しそうになったから、恐らく今日は早起きしていて、いつもの無邪気な笑顔が自分を出迎える。

「私も、そろそろ行かなくちゃ」

 囲まれた嘘に目を細めながら鞄に手を伸ばす。小さな格子状の窓から、嫌になる程眩しい朝陽が差し込んでくるのが分かった。

「お待たせ……ん?」

 何かを忘れているような感覚を残しながら、真澄は静かな路上に一人立ち尽くす。

 今日こそ家の前で待っているはずの葵はそこにおらず、しばらく経って約束の時間になっても現れることは無かった。


友人のいない通学路を寂しく感じながら教室のドアを開けると、見覚えのある人物と目が合った。

「あっ、いたいた……葵」

 どうして連絡しないまま先に行ったのだろう。そう思って彼女に近付いた真澄は、ふと首を傾げた。

 葵の様子がおかしい。床に散らばった何かを凝視しながら、信じられない光景を目の当たりにしたかのようにその場で凍り付いている。

「葵、どうしたの?」

 一歩近付いて、ようやく気付いた。中学の入学式で葵と撮った自身の写真が、原型を留めない無残な状態で床に破り捨てられている。

「ま、真澄……」

「これは……!?」

 誰が、どうしてと考える前に、真澄は目の前の光景に言葉を失って立ち尽くした。

そして放心状態となった彼女を嘲笑うかのように、教室の隅で噂話をしながら群がっていた数名の女子生徒が近寄って来た。

「自業自得よねえ、不良の娘」

 重田という生徒が鋭い目でこちらを睨みつけた。先週ノートが無くなった際、置き勉に文句を付けていた女子の一人。

「こんなことして、本当に許されると思ってるの……?」

「それはこっちの台詞。小学校で男子をいじめて泣かせたことも、あんたのバーチャンが通行人に暴力を振るったことも、もう学校中で噂になってるよ?」

 気持ち悪い、と彼女は破り捨てられた写真を踏みつける。

恐る恐るその光景を眺めていた生徒たちが号令をかけられたように集まり始め、いつの間にか真澄は取り囲まれてしまった。

「何がお姫様になりたいよ……ふざけたことばっかり言って暴れ回るのも大概にしなさいよっ!」

 真澄は何も返さずにただ俯く。今まで力の抜けていた全身に怒りがこみ上げ、潰れそうになるくらい指に力を込める。

「人のことをそんな風に決めつけて……傷付けて。大概にするのはあんたの方よ……」

 呟く言葉は届かない。重田は引き下がるどころか、こちらに掴みかかろうと手を伸ばしてきた。

「とっとと教室から出ていきなさいよ、この不良女!」


 その寸前、一人の女子生徒が立ち塞がって真澄を守った。

「もうやめて、こんなことしても意味ないよ!」

「……?」

 名前は……すぐに思い出せない。教室の中で喋っているのもあまり見たことの無い気弱な見た目の少女が、わなわなと震えるこちらの手を掴んだ。

「行こう……こっちへ!」

 咄嗟のことに、手を引かれた真澄でさえも何が起きたか分からない。

 重田がそんな二人を引き留めるように叫んだ……気がするが、その声は教室から離れる程に小さく弱くなっていった。

「えっ、ちょっと!」

「……待ちなさいよ、どこへ行く気!?」


「はあ、はあっ……」

階段の踊り場で息を切らした少女は止まる。半ば連れられるがままだった真澄は、そこでようやく繋がれた手を離した。

「勝手なことしてごめんなさい。斉藤さん……だよね?」

「ええ。そうだけど、貴方は?」

 少女の髪型はお下げで眼鏡をかけており、落ち着いた雰囲気に反して声は弱々しさが目立った。

 悪意や害意は見当たらない。警戒心はまだ収まらなかったが、先程溢れ出そうになった怒りはほんの少しだけ消え始めた。

「私は林涼子っていうの。その、よろしくね」

 涼子と名乗ったその少女は、教室からの追っ手を気にしつつもこちらに頭を下げた。

「何よその顔、貴方も私を笑いに来たの……?」

「ううん違うよっ! えっとその、斉藤さんとお話ができて……嬉しいなって」

 喋り方は自分よりもずっとずっとたどたどしいものだった。それでも、丁寧に並べられた言葉には確固たる想いを感じる。

 葵のそれともまた違う、一片の曇りも無い光に満ちた視線を涼子は向けてきた。

「重田さんのことは気にしなくて良いよ。あの子は誰に対してもやんちゃだし、実際私も何度かいたずらされたから……」

 周りに誰もいないことを確認した後、隠し持っていたノートを見せられる。そう、それは真澄が奪われたはずのノートだった。

「大丈夫、私は斉藤さんの味方だよ」

「どうして……?」

 わけが分からず首を傾げる彼女に、涼子は徐に天を仰いで少し考え込んだ。

「斉藤さんって、授業中プリントに絵描いてたでしょ。私も昔からその……そういうの好きだったんだけど、あんまり気が合う人とかいなくて」

 確かに、真澄は最近絵を描くことに少し興味を持っていた。両親や葵にはまだ明かしていないけど、上手くなるために本を読んで勉強もしている。

 そこでようやく合点がいった。回り道をしてでも彼女が伝えたいのは、たった四文字の言葉なのだと。

「友達……になってくれないかな、私と」

 涼子の顔はいつしか真っ赤に変わっていた。先程のような無理に連れていく感じではなく、今度は優しく手を差し伸べる。

「……」

「ごめん。こんなこと、いきなり言われても困るよね」

 与えられた言葉を一つ一つ飲み込んでいく。大事な所で、始業を告げるチャイムに阻まれてしまった。

「答えはまた後で良いから……それじゃ!」

 勇気の魔法が切れてしまったように、涼子は恐る恐る手を振りながらその場を去った。

 自分もそろそろ戻らなければ。重田がいないか警戒しながらも、真澄は一歩一歩踏みしめて階段を上り始めた。

「友達、かぁ……」


 普段通り席に着くと、まず視界に入ってきたのは申し訳なさそうな表情の葵だった。

「真澄、さっきは……」

「別に気にしてないし、葵が謝るようなことじゃないから」

 ごめんなさい、と頭を下げられる前に先手を打つ。本当に謝るべき重田は、先生が教卓に立っていることもあってすっかり静かになっていた。

 担任は気付いているのだろうか。それとも、気付かないふりをしているだけなのか。

「そうだ……今日は用事があるから、先帰ってて良いよ」

 周りの話し声が小さくなる中、真澄はそっと耳打ちする。しばらく返答は無かったが、一呼吸置いた後に何も言わずに頷いた。

「では朝礼を初めていきますね、みんな起立!」

 挨拶の声だけはよく通る先生が号令をかけ、面倒くさそうにガラガラと生徒が立ち上がる。

 今日は勝負の一日になることだろう。涼子や重田たちを心の中で目配せしながら、真澄は笑顔を纏って息を吸い込んだ。

「おはようございます!」


 運命の放課後。いつも無邪気な表情で自分を引き留める葵は、こちらに向けてお辞儀した後そそくさと教室を出ていった。

「さて……私も出ようかな」

 真澄も何食わぬ顔で後を追い、学校を出ようとする……演技をして陰に隠れた。

「ねえ聞いた? イオンに新しいスイーツ店できたんだって」

「ああ、知ってる知ってる。先週のニュースでちょっと話題になってたよね」

 生徒は徐々に少なくなっていく。先生も鞄に荷物をまとめると、最後まで残った生徒に鍵を任せて教室を後にしてしまう。

 そして、残った人間はわざとらしく辺りを見回す重田ただ一人となった。

「やっぱり……」

 こうなると思っていた。真澄の机を探り、教科書類が全て持ち去られていることを確認すると彼女の表情が一転渋くなる。

「チェッ……まあ、色々盗まれたら警戒もするよねえ」

 ここで諦める予感はしない。重田の瞳にはまだ、憎しみの炎が消えていなかった。

 それでも何か私物は残っていないかと机や棚を探っていると、最も目立つ場所に真澄の大切な物が残っていることに気付く。

「よし、思い切ってこれにしちゃうか」

 みんなが美術の授業で描いた作品たち。寸分の迷いも無く、彼女は真澄の作った花園から画鋲を外して棚に晒し上げた。

「こんな綺麗な絵を描く才能……あいつにはきっと勿体無いよ」

 噴き上がってくる背徳感に反して、絵に手をかけるまでは一瞬だった。

 少し日焼けと傷の入った黄金色の指が美しい作品に絡まっていき、重田は真っ直ぐ上下に紙を破ろうと力を込めた。


「何してんの、あんた」

 戸が壊れそうな勢いで開く。真澄が教室に入ると、重田は狂った笑みそのままに振り向いた。

「斉藤さん……あでっ!?」

「コソコソと何してくれてんのよ、このブスっ!」

 前後左右が分からなくなる。彼女の頭目がけて水筒を投げ、真澄は作品から重田を突き放した。

 群れていた時とは比べ物にならない程の弱さだった。不意を突かれ、壁に押し付けられても彼女はなお状況を理解できない。

「一人じゃ何もできないくせに偉そうな口ばっかり叩いて……あんたみたいな人間がね、この世で一番嫌いなのよっ!」

 何度も壁に叩きつけ、相手の手から力が抜けていくと放り投げる。椅子が倒れる音と共に、殴った鼻からは血が溢れ出ていた。

「もう、やめ……」

「ねえ分かる? 私はこの世界の誰よりも可愛いお姫様なの、ブスでクズでカスで弱っちいあんたとは何もかも違うのよお!」

 脳裏に浮かぶのは小学校時代、自分を無視した班長を殴り倒した時だろうか。

 でもあの時とは違う。自分の周りを取り巻く環境も、溜まりに溜まった怒りが抑えられずに爆発する感覚も、何もかも。

「とっとと私の前から消えなさいよ……このっ、ゴミ女!」

 よろよろと立ち上がろうとしたボロボロの重田を、真澄はとどめを刺さんとばかりに廊下目がけて蹴り飛ばした。

「ぐっ……うぁっ!?」

 まるで漫画の悪役のように、教室から放り出された悪党が一目散に逃げだしていく。

「はあ、はぁっ……」

 後々のことなんて考えない。背中から憑き物が取れていく感覚を味わいながら、真澄は腰を下ろして絵を拾い上げた。


「あれから、何も無ければ良いんだけどなあ……」

教室で騒ぎが起きていることも知らず、涼子はトイレの個室で一人座っていた。

 本当は図書室に籠って勉強したかった。それなのに彼女のことが心配になるとまペンが動かず、結局自分のやるべきことが見つけられずにいる。

「うーん、やっぱりお昼に誘えば良かったのかな」

 親しい友達と離れ、中学に上がった涼子は友達がいなかった。初めての壁を超えられない彼女にとって、あと一歩を踏み出すのはどうしても億劫になってしまう。

「でも……せっかくここまで来たんだし、まだ諦めたくないかも」

 真澄を中学一番目の友達にしたい。今日はダメだったけど、勇気を出せば閉ざされた彼女の心を掴める時がきっと来るはず。

 個室の外から足音が聞こえてくる次の瞬間まで、涼子はそう信じて疑わなかった。


「なーんだ……まだ帰ってなかったのね?」

「きゃっ!?」

 上から背筋が凍る程の冷水をかけられた涼子は、悲鳴を上げながら飛び退いた。

 掃除用のバケツが転がる音がする。逃げようとして扉を開くが、怪しげな笑みを浮かべた真澄に阻まれてしまった。

「ど、どうしてこんなこと……!」

 足がすくんで動かない。今自分が見えている光景も、悪い夢を見ているかのようだった。

「本当に腹が立つのよねえ。ロクに人と話せない根暗のくせにこの私と友達になろうだなんて、偉そうにも限度があるのよっ!」

 立ち上がろうとする涼子を、真澄は容赦なく蹴り飛ばした。ゴン、ゴンと鈍い音がトイレ中に響き渡る。

「痛いっ……やめて!」

 目を閉じて、怯えながら腕を構える。まるでこちらがいじめているような彼女の態度が、苛立っていた真澄の癪に余計に障った。

「うるさい! 私はね、今頃みんなに愛されて褒められて大好きだって言われてクラスの人気者になるはずだったのよ。それなのに重田にいじめられて、あんたに同情じみた視線を向けられてっ! 私がどれだけ辛かったか分かる? 分かるならとっとと謝罪しなさいよ、私に深く土下座して申し訳ございませんでしたって許しを請いなさいよ今すぐにさあ!」

 涼子の額から血が滲むのを見届けた後、疲れ果てたように真澄は蹴りを止めた。耳を澄ませると、掠れた声で謝罪の言葉が聞こえてくる。

「ごめんなさい……ごめんなさい。お願いだから許して」

「そんな声じゃ聞こえないに決まってるでしょ。もっと心を込めて言いなさいよ鈍臭いわね!」

 いつまでも顔を上げない涼子の頭を持ち上げ、真澄は半ば強引に鋭い視線を向けた。

「弱い、薄汚い、あんたって本当にどうしようもないのね……もう良いわ」

 もう諦めた、と言わんばかりによろめきながら立ち上がる。冷たいタイルに彼女の身体を押し付け、憐みの表情を浮かべながら立ち去った。


「私は可愛いんだ……何もかも全部可愛いのよ。顔も、声も、ファッションも、趣味も、夢も、子供の頃の私も、大人になった私も、喜ぶ私も、悲しむ私も、ぜーんぶお姫様みたいな最高の私」

 帰り道、どうしようも無い無力感に打ちひしがれた真澄は、通学路に立っていた電柱を軽く蹴りながらぶつぶつと呟いた。

音は不規則に、そして時が経つにつれて徐々に力強くなっていく。

「私を認めない奴は目がおかしい、神経が狂ってる、頭が終わってる、生きる価値も無いのよお……!」

 重田を倒して、涼子を泣かせて。それで悩み事が何も無くなったのかと聞かれれば、答えは当然いいえだった。

 どうすれば邪魔者がいなくなる、どうすれば自分だけが愛される世界ができるのか。ずっと考えていたが、真澄はもう何も分からなくなっていた。

「本当にごめんなさい……真澄っ!」

 愛する人を失って涙を流していた母は、自身の欲望のためなら手段を選ばなくなった。

「これから辛い時はきっと助けるからね」

 寄り添ってくれると約束してくれた親友は、今何をして何を考えているかさえ分からない。

 思えば自分を励ましてくれた言葉は全部嘘っぱちだった。その場の適当な都合で、できもしないことを伝えられて真澄はいつも騙された。

「いつになったら、私を救ってくれる運命の人は現れるの?」

 交差点を渡り、真澄は日が落ちていく方角に向かってとぼとぼと歩き始めた。


「ただいま……」

 誰もいない家に帰って冷蔵庫を開けると、彼女の好物である海老カツが入っていた。

 鞄を戻している間に暖め終わった電子レンジがメロディを奏でる。袋は素手で触れるのを躊躇うほど熱かったが、すぐに香ばしい匂いがリビングを包んだ。

「ふふっ、美味しそう」

 本当は誰かと一緒に食べたかった。大切な家族と、親しい友達と、あるいはまだ出会ったことすら無い愛する人と。

 温かさを残した衣は口の中で容易く溶け、海老が砕かれる感触が生々しく心に響いた。

「ああ……本当、海老カツは良いなぁ」

 タルタルソースの感覚が薄れていく。拭いて綺麗にしたばかりのテーブルに、一滴、また一滴と涙が零れ落ちた。

 こうやって自分が寂しがっている間にも、誰かは知り合いと遊びに行き、また誰かは恋人と遊びに行っているのかもしれない。人と人を繋げる糸は複雑に絡まっていくのに、そこに自分の分は無いのだと思い知らされる。

「……ん?」

 そんな時、ふと家に置いてあった携帯に一件の不在着信が届いていたことに気付く。

 こんな時間に一体誰なのだろう。真澄は半ば無視したい感覚で電話帳を開くと、相手の名前を目にして思わず首を傾げた。

「はい、もしもし……」

「ああごめんね、学校だったかな?」

 テレビも電気も点けていない薄暗いリビングの中で、優しさを滲ませた叔母の美咲の声が響き渡る。

「申し訳ないんだけど真澄に聞きたいことがあってね……あのさ、ばぁばがどこにいるか知ってる?」

 持っていた海老カツパンを落としそうになった。崩れかけていた表情が再び強張り、瞳に緊張と憎しみの色が燈る。

「分かんないけど、どうしたの?」

「昨夜からずっと連絡が付かなくて。ほら、最近ちょっと様子がおかしいからって、頻繁に連絡を取るようにしてたんだけどね」

 ちょっと様子がおかしい、その一言で片付けられるような状態ではないことは真澄も分かっていた。

 会って話をしなければいけない。牙を剥いて待ち構える最悪の事態に、彼女は逃げず立ち向かっていくことを決断した。

「なるほど……ばぁばのマンション、見に行った方が良いかな?」

 電話の向こうでは優しさと切り取ってくれたのだろうか。真澄の言葉を聞いた途端、それまで重く沈むようだった美咲の声が明らかに輝き始めた。

「ありがとう! 携帯の電池切れなら良いんだけど、やっぱり何かあったら心配で……」

「大丈夫、私に任せて」

 心の中でごちそうさまを告げて立ち上がる。今ここで彼女に言われなくても、いつかあの人とは決着を付けなければと思っていた。

 電話が切れたのを見届けた後、真澄は最低限の荷物を抱えて尚子の家へと向かった。


「こんにちは……」

 部屋の前で深呼吸をしながらドアをノックすると、意外にも彼女はすぐに応じて開けてくれた。

「何やあんたか……入れ」

「うん。お邪魔します」

 以前のように怒号が飛んでくるわけでも無ければ、物を投げられることも無く静かだった。

 だがそれはそれで逆に不気味に感じる。以前よりも荒れ果ててゴミ袋が放置された廊下は廃墟のようで、底を知らない恐怖が湧き上がっているような気がした。

「……学校帰りか、わざわざ来んくてもええのになぁ」

 皮肉交じりに煎餅がテーブルに置かれる。ソースのような汚れがこびりついた跡を見ると、本当に何もできずに過ごしていたことが伺えた。

「どうせこんなばぁばを笑いに来たんやろ? あんたにとっては良かったかも分からんな。憎たらしいのが一人消えて」

「いや……そんなことは」

 思っている。当然のように思っているが、ここで言葉に出しては尚子に負けたようで不快だった。

 どうすれば話を聞いてくれるのだろう。真澄はしばらく頭を捻りながら、手に取った煎餅を口の中で噛み砕いた。

「叔母さんもママも心配してたよ。最近のばぁば、全然元気が無いから病気かもしれないって」

 尚子は前にも隣にも座らなかった。ただ理由も無く歩き回り、こちらの表情や視線を観察するように覗き込んでいる。

「ああん? ばぁばは病気なんかちゃうわ、馬鹿にしとんか?」

「いや……私じゃなくて、周りのみんながそう思ってるだけだから」

 無意識に出てしまった言葉を取り消そうとする。だが藍奈や美咲の名前が出てしまった瞬間に、尚子の怒りは止められなくなっていた。

「いいや顔に出とるわアホ! 言葉にせんくてもなあ、ばぁばなんていなくなって欲しいってその顔に書いとる……どいつもこいつもっ!」

 両手で思い切りテーブルが叩かれ、真澄は驚いて飛び上がりかける。

尚子の顔は以前よりもやせ細り、そして青白くなっていた。しかし目だけは以前よりも鋭く、血管が太く浮き出ている。

「もうばぁばは疲れたわ。電話がかかってきたら施設行け、誰か来たら心配や病気ちゃうかって……」

「……」

 はあ、と大きなため息が耳に深く突き刺さった。徐に台所に向かった彼女は、ボロボロになった鞄に手をかける。

「もうええ。ばぁばは買い物行ってくるから、その間にとっとと帰れ」

 立ち去る前に何か話を聞こうと立ち上がったが、既に尚子は玄関のドアの前に立っていた。

 幽霊のようにまるで気配が無い。引き留めることすらできずに、真澄は彼女の姿を見届けることしかできなかった……


 いいや、そもそも彼女から話を聞く意味は果たしてあったのだろうか?

「やっぱり、もうここでやるしかないのかな……」

 尚子が路上で暴れたことが原因で、真澄が不良の娘であるという噂は学校中に流れてしまった。

 それだけじゃない。今まで尚子にどれだけいじめられたことか、頭の中で思い起こすだけでも怒りで煮えくり返りそうになってしまう。

「おい、人の部屋に入る時はお邪魔しますって言えやァ!」

「ええか、最後に勝つのは情やで」

「人を見る目は鍛えといた方がええで。そういうんはな、後で後悔しても遅いねんから」

許せない、許してはいけない。刻み込まれた絶望と怒りを、忘れ去ることは絶対にできない。

「ほんだら、行ってくるからな」

「……うん」

 ふと思い付いたら、動くのは意外にも早かった。向こうの扉が閉まった直後、自分も身構えながら荷物を持って追いかける。

「ねえ、ばぁば」

 足音をなるべく消して部屋を出ると、思った通り尚子は階段の前に立っていた。

 周りを見渡しながら真澄は呼び止める。マンションの住民は一人暮らしの会社員が多く、少なくともこの近隣からは人の気配が消えていた。

「ああ、まだ何かばぁばに文句あるん……」

 彼女が最後まで振り向くのを待たず、真澄は持っていた鞄を尚子の背中目がけてぶつけた。

「いなくなってよ、私の世界から」


「最初から、私はこうすれば良かったのよね……」

 叩きつけられた頭から血が流れている。力も弱っていたのか、尚子は階段から落とされても抵抗することさえ叶わなかった。

 虫のように踊り場で這いつくばる彼女を、真澄は一呼吸を置いて見下すように眺める。

「あん、たぁ……」

「お望み通り殺してあげたわ。まあ、本当はもっといじめてあげたかったけど」

 自分が手を出さなくても、この老婆は何者かの手によって殺されていたことだろう。色んな運命が重なって、たまたま自分が手を下すようになっただけ。

 人を死に追いやったのはもちろんこれが初めてだったが、意外にも頭は冷え切ってまともな思考を保てていた。

「違、う。ばぁばはもっと……」

 こちらに向かって手が伸ばされる。だがそれは遠く届かず、尚子はとうとう力尽きてしまった。

「今までありがとう……さよなら、河村尚子」

 心に残ったしこりのような異物はそれでも取れなかったが、何だか少し楽になったような気がする。

 彼女の煌々とした瞳から光がしっかり消えたのを見届けると、真澄は遺体に背を向けて部屋の方へと戻っていった。


 続く

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