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蒼のマーガレット  作者: 夢前 美蕾
番外編
32/41

第5話 なのに、何度も無視され切り捨てられた

「今までなあ、俺がどんだけ頑張ってきた思うとるんや!?」

 ふと気を抜いてしまうと、頭の中に蘇ってくる悪夢のような光景。

 夫が事故に遭ったという連絡が来て、病院に駆け付けた尚子が目にしたのは、もう動けない足を抱えて寝そべる彼の姿だった。

「そうは言ってもなあ……あれだけ車は運転するなって注意したのに、何でこんなことすんねん!」

「アホか! 今更そんなことはどうでもええねん、まずはこっちの心配からやろ!」

 夫との関わりは、いつしかぶつかり合いだけになっていた。穏やかにも無機質にも見える静かな病室に、尚子たちの怒号が痛々しく鳴り響く。

「心配心配って、あんたは自分のことだけか!? 昔から勝手なことばっかりして、いつもいつも尻拭いばっかさせられるこっちの身にでもなってみい!」

 相手方は夫とは比べ物にならない怪我を負っていた。それも当たり前だろう、こちらの信号無視で一方的に事故を起こしてしまったのだから。

 お互いの叫びは見当違いの方向に進み始め、取り返しのつかない歪みを生んでいく。

「んならもう放っといたらええやろ、俺のことなんか!」

 最後に手元にあった花瓶を勢いよく投げられたことが、尚子の目に焼き付いた記憶の終わりだった。


「……あっ」

 尚子は微かに目を開ける。そこは無機質な病室でも、腹立たしい記憶の残骸でも無かった。

 日光が遮られたリビングの中で灯りを付けた。自分の眠っていた理由さえもはっきり分からないまま、立ち上がりよろめく。

「何やねん……どいつもこいつも、ホンマ気に入らんわぁ」

 視界が少しぼやけ始める。擦り切れた買い物袋を抱え、尚子は徐に立ち上がった。

「あんた。ちょっと買い物、行ってくるでぇ」

 いないはずの家族が見える。夫が仕事に出向き、息子が手を振って娘が見送ってくれる。

 もう何年前の光景だろう。当たり前のように思っていたのに、ある時を境にぼろぼろと崩れ落ちてしまった自分の家族。

「今日はなぁ、牛乳が安いんや……」

 ふと玄関で振り返り、尚子は誰もいなくなった部屋に声を投げかけた。


「カァァァッ……ブッ、グヴォェェァァァッ!!」

 溜まりに溜まった感情が爆発するかのように、尚子は突然蹲って側溝に痰を吐き出した。

「ううっ、ハァ……」

「……ん?」

 偶然目の前を歩いていたスーツ姿の男性が、思わず怪訝な顔をして視線を寄せる。

「な、何ですか……?」

 ゆっくりと顔を上げた尚子と距離が詰まる。互いの動きが止まった後、怪物のような唸り声で彼女が迫ってきた。

「あんた……あんたみたいな男と結婚したんが間違いやったわ、ホンマになあ」

 訳の分からない単語の羅列に困惑する。だが尚子には聞こえていた、今もどこかで生きている夫の怨嗟にも近い言葉の数々を。

「ちょっと負けたぐらいでグチグチ言うなや、だからお前は色んな人間から逃げられんねん」

 恐れ慄く男性と夫の姿が重なる。こんな奴さえいなければ、自分の人生は今頃……

「お前は周りの奴ら全員から見捨てられるで。今は黙って見とるだけの美咲や藍奈たちもいつか……」

「余計なお世話や。あんたには一番言われたないわ!!」

 懐からハンガーを取り出す。粗相をした家族に制裁を加え、従わせてきたそれを持って男性の肩を必死に掴む。

「や……やめてくれ、一体何なんだよっ!?」

 一度、もう一度、男性の身体にハンガーを激しく叩き込んだ。驚いてその場に倒れてしまった相手に覆い被さり、獣のように襲いかかる。

 絶対に許さない。血走った目を向ける尚子にはもう、現実の光景が全く見えていなかった。

「これ以上、あんたの好きにはさせへんでぇ!」

 凍り付いた男性の全身から力が抜ける。その眉間をハンガーで叩いた後、尚子は何かを成し遂げたように立ち上がった。

「ぺッッ!」

 顔に唾を吐きかけられ、去っていく。男性の心には、誰かに助けを求める気力さえ残っていなかった。

「二度と私に逆らうなよ……この大アホがッ!」


 空の買い物袋を持ちながら、尚子は何かに駆られるように階段を上った。

「開け……早よ開かんか、遅いのう!」

 思い通りに動かないドアを殴りつける。家に入るとすぐさまスリッパを壁に投げつけ、足音を立てながらキッチンへと走った。

「私はなあ、こんな所でヨボヨボ死ぬわけにはいかんのや!」

 押入れを探り、布団を蹴散らしながら取り出したのは白く輝く巨大な鉈。

 かつて夫が刃物職人だった頃に作ったそれを強く握り、続いて彼が残した黒縁の丸眼鏡をまな板の上に置く。

「あんたみたいなクソ野郎はなぁ……こんな風にバラバラになるんがお似合いや」

 尚子はじわじわと狙いを定め、中心に向かって精一杯の力で鉈を振り下ろした。

「ああ、ああっ……ハハハハァッ、気持ちええなぁ!」

 電灯を点けず、光さえ入らない薄暗い室内で一人眼鏡を切り刻み続ける。

 最早形を留めずバラバラになってしまった残骸を静かに集め、とどめと言わんばかりにゴミ箱に放り込んだ。

「これでええんや。私の人生は、私が守らなあかんねん」

 遂に全ての力を使い果たした尚子は、へなへなとその場に崩れ落ちてしまった、


「急いで葵、学校に遅れちゃうわよ!」

 太陽が小さな町を煌々と照らし、眠っていた住民に始まりを伝える朝。

 時間を気にしながら一歩先を走り続ける真澄を、幼馴染の葵は半分息を切らしながら必死に追いかけていた。

「そう言われたって、これ以上はもう無理だよっ!」

「葵が寝坊したせいでこうなってるんでしょ……ほら、もうちょっと速く!」

 学校の建物と運動場が静かに姿を現した。いつもは校門の前に立って挨拶をしているはずの風紀委員も、始業直前ということで既に立ち去っている。

「もう、本当だらしないんだから」

 八時三十分のチャイムが鳴る。玄関には既に誰もおらず、振り返ると先生が門を閉めていた。

「だってお母さんが起こしてくれなかったんだもん……昨日の夜は宿題でそれどころじゃなかったし」

 ハンカチで汗を拭う彼女に呆れながら、真澄は慣れた手つきで靴と上履きを入れ替えた。

 思えば葵はいつもそうだ。約束には遅れてばかり、忘れ物も多いのに、いつも周りが見えていないかのように幸せそうな笑顔を浮かべる。

「私はこんなに辛いのに……バッカみたい」

「えっ、何か言った?」

 まだ使い始めてから間も無い真っ白な靴と、首を傾げる葵を見比べた。どうせ何も聞こえていない、そういう所が馬鹿だっていうのに。

「ううん、何でも無いわ」

 のんびりしていると先生が来てしまう。気を取り直し、二人は人の集まる教室へと足を進めた。


 行き場の無い感情を抱えながら、それでも平静を保って真澄は教室のドアを開けた。

「ふう……ん?」

 葵の方を振り向く。先生はまだ来ていないはずなのだが、教室の雰囲気が重苦しく感じた。

 まるで厄介者が来たかのような視線がじわじわと集まり、言葉に表せない不快な感情が自身の心の中に溜まっていくのを感じる。

「あの子でしょ? 昨日路上で暴れたっていう、河村さんの……」

「そうそう。何か怖いよねー」

 小さく囁く声は思い違いによる幻聴だろうか。思わず怒鳴りたくなる気持ちを抑え込みながら、真澄は自身の席を探って静かに座った。

「あれ、ここに置いてたはずのノートが無いんだけど?」

 そして、僅かに感じた違和感は徐々に現実味を帯びていく。

 持ち帰る億劫さを考えて机の中に置いていた理科のノートが無くなっていた。鞄や忘れ物ボックスを探るも、不注意で失くした線は薄いと察する。

「葵、ここに置いてたノート類知らない?」

「うーん……真澄のはちょっと分かんないかな」

 後で私のを見せてあげるよ、と彼女は散らかった鞄を開く。安心感と僅かな劣等感が交じり合いつつも、真澄はふっと息を吐いて自分の席に戻った。

「えっ、斉藤さんって置き勉してるの?」

 そして荷物を整理しようとすると、先程ひそひそと話していた集団から女子生徒が歩み寄ってきた。

「先生がやっちゃダメって言ってたよ?」

「ふぅん。斉藤さんって真面目なイメージあったのに意外だなあ」

 もしかしたら、と一つの可能性が頭をよぎる。だが確かな繋がりが無い以上、この人たちがノートを盗んだのではと追及する気にはなれなかった。

 誤魔化すように鼻で笑いながら、真澄は彼女らを軽くあしらいそっぽを向く。

「別に。どうでも良いでしょ、そんなこと」

沈黙する女子たち。何か言い返そうと息を吸い込む音が聞こえたが、駆け込んできた先生によって阻まれてしまった。

「ごめんなさい、職員会議で遅くなりました!」

 真澄は静かに頬杖を突く。平穏な毎日にヒビが入る、そんな感覚が全身を包み込んだ。


「では授業はここまでです……みんな、課題は忘れず来週までにね」

 今日は、時間の流れが随分とゆっくりになっているように感じられた。

 水筒を取り出しながら、辺りの会話に耳を澄ませる。今もどこかで、自分に関する嫌な話が広まってないかと真澄は神経質になっていた。

「ごめん、ちょっとトイレに行ってくるね」

「ええ……」

 葵が早足で教室を出ていくと、いよいよ手持ち無沙汰になって机に突っ伏してしまった。

「……どうして、みんな寄ってたかって私を嫌うの?」

 祖母の尚子とは、中学に進んだのを機に久しく会っていなかった。

 認知症が酷くなったという話は小耳に挟んでいる。至る所で迷惑行為をしているという噂が広がる度に、真澄の憂鬱と怒りは日を追うごとに膨らんでいった。

「何とか、しなくちゃな……」

 今の自分にできることは。頭を冷やしながら、彼女は一人考え込んで次の授業の始まりを待った。

「あれ、どうしたんだろう……?」

 そして、そんな真澄の様子を遠くから一人の少女が見つめている。

 手を伸ばそうとして、また恐る恐る下げるクラスメイト。お下げと眼鏡が特徴のその姿に、彼女が気付くことはまだ無かった。


 昨日、今日と泥のように眠り、尚子はようやく全身を震わせながら立ち上がる。

「チッ……ロクに買い物にも行かれへんわぁ、こんなんやったら」

 上げられるはずの腕がまともに上がらず、いつも動いていたはずの足さえ動かない。

 疲れやストレスの要因もあるだろうが、見えていたはずの世界が狭まっていくと本当に自分の全てがダメになっていくように感じられた。

「どないしたらええんや……ん?」

 重い頭をどうにか動かそうとしていると、久しく使っていなかった壊れかけの電話が鳴り響いた。

「何や、あんたもどうしようも無い私を笑いにきたんか……美咲?」

 端末に記されていた名は本村美咲であった。ようやく繋がったという安堵からか、電話の向こうからは深呼吸のような音が聞こえてくる。

「そんなわけ無いじゃない。昨日母さんが通りかかった人に暴力を振るったって聞いたから、心配になってかけたんだよ」

 暴力を振るった。どれだけ頭を捻っても、尚子の記憶にそのような光景は微塵も残っていなかった。

 ただでさえ夫のことを思い出して悩んでいたのに。彼女は血管を浮き上がらせながら、今まで以上の怒鳴り声で叫び始めた。

「ああん!? そんなことするわけないやろ、このドアホがァ!」

 周りに聞こえることなんて気にしなかった。ただ自分の思ったこと全てを、この電話にぶつけなければという感覚に駆られる。

「あのね、これ初めてじゃないでしょう? 近所の人たちも変な噂を流し始めてるって聞いたし、大事になる前に介護施設に行ったら良いんじゃない?」

 それが家族にとっても、母さんにとっても一番良い手段だよと美咲は告げる。

 だが、彼女の言葉が尚子のブレーキを更に壊していく。いつまでも変わらない日々を過ごせると信じていたのに、突然として……

「いやいやいやっ……介護施設に隔離する言うんかあんたは!? しばらく見ん間に調子乗りおってからに、そこまでして私をこの家から追い出したいんか!」

 周りの人間全てから見捨てられる。かつて夫から言い訳交じりに告げられたことが現実味を帯びていくようで、彼女はかけられた言葉の全てを振り払おうとした。

「そういうことじゃない……私や藍奈じゃ母さんを見てあげられるのにも限界があるから、専門の人に任せた方が良いって考えただけだから!」

「うるさいええ加減にせえ! 見てあげられるぅ? 誰に対してそんな偉そうなこと言ってんねん、目上のもんには礼儀を弁えろっていつも言うてるやろォ!」

 地団太を鳴らし、壁に掛けてあったカレンダーを投げつける。爆発寸前の状態になった尚子を、美咲が止めることは叶わなかった。

「ちょっと落ち着いてよ。母さん、もしかして気分悪いの……?」

 答えはとうに決まっていた。深く息を吸い込み、両手でテーブルを叩いて立ち上がる。


「悪くないわけ、ないやろがァァァ!!」

 仕事や学校で人影がまばらになる昼下がり、それはマンション中に響き渡る程の轟音だった。

「私が今までどれだけ苦労してきたと思ってんねん! あんのクソ親父に振り回されて生活する金さえロクに無い状態でなあ、私がおらんかったらあんたらも何回死んどることか……それやのにいざ世話できんかったら放り出すんか!? せめて親孝行の一つや二つしてから言えや。いつになっても何の役にも立たん小娘が、育て方間違えたわァ!」

「……」

 気迫に押された美咲は言葉を失う。何か言わなければと頭が必死に告げているのに、心が恐怖に負けて動いてくれない。

「どうせ金持ちの家に嫁いだんやからナンボでも余裕あるやろ……あんたの大切な母親が苦しんどんねん、せめて数万でもええから貢いで私の世話をしろやっ! 忙しいなんて言い訳にもならんわ。他所の家なんて言われんくてもやっとることやで!?」

 怯んだ彼女に更なる攻撃を加える……直前、尚子の電話にツーツーと虚しい音が響き渡った。

「あんたみたいな女が親やったら和彦も居辛いやろなぁ! 散々な親不孝で四六時中自分のことばっかり考えて……おい、美咲ィ!」

一方的に電話を切られてしまった。尚子は必死に呼びかけ続け、それでも無駄だと気付いたのはしばらく経った後のことだった。

「何でどいつもこいつも……アアアアアアッ!」

 思い切り手を伸ばしたはずなのに、遠く届かない自分自身の醜態が歯痒く悔しく憎たらしい。

 声にならない叫びを放ち、壊す勢いで受話器を放り投げる。バンジーのように宙を舞ったそれは、やがて力も無くぶら下がった。


 いつもより重く苦しかった授業が終わり、鞄を持った真澄は早足で階段を下り始める。

「先生の話長過ぎでしょ、本当……」

 小さな声で唸る彼女の後ろを葵が一歩遅れて追いかける。その姿はまるで、親鳥の後を必死に追うひな鳥のようだった。

「確かに、今日は何かと大変だったね……まあ、明日土曜だからまだ許せるかな」

 他のクラスからなだれ込む人の流れを間一髪で潜り抜け、わざとらしく足音を立てながら廊下を歩く。

 そうだ、明日は休日だった。喜びを噛みしめる葵の裏で、真澄は嫌な光景を思い起こしたかのように表情が曇る。

「嫌だなぁ、ママが帰ってくるじゃない」

 独り言のつもりだった。でもゆっくり顔を上げると、口をへの字に曲げた葵が首を傾げている。

「えっ、お母さんは良い人じゃなかったっけ?」

「昔はね。でも、今はちょっと違うっていうか……」

伝えなければ。いつか話そうと頭の奥底にしまい込んでいた言葉を、真澄は両手を震わせながらぶつけようとする。

 だが靴箱に差し掛かった彼女は、他の生徒たちの話し声にそれを阻まれてしまう。

「あっ……詳しいことは、また後で話すから」

 当たり前のように自身の靴に手をかける。だが横目にそれを見ていた真澄は、ようやく何かの異変に気付いて目を細めた。

「あれ、どうして……?」


「まさか靴まで盗られちゃったの、真澄?」

 目の前の光景に唖然とする彼女の手には、あるはずの靴が握られていなかった。

「分からない……でも、無くなってるわ」

 もしかしてと思っていたが、突然のことに全身が硬直して動かない。

 このままでは外に出ることさえできない。隣のクラスの所まで見回したが、彼女の靴らしき物はどこを探しても見当たらなかった。

「職員室に行くしか無いのかも。はあ、本当に面倒ね」

 頭を抱えて右往左往する。大切な物が無くなったというショックよりも、意味が分からないという呆れの方が大きく強かった。

「でも、もし見つからなかったらどうしよう……汚れるの覚悟で体育館シューズ使うとか?」

「それしか無いかもね。なるべく避けたいけど」

 一呼吸置いて歩いて来た廊下を引き返す真澄に、葵は特に何も言わずに同行する。

「早く帰りたい時に限ってこれなんだから、もう……」

 身の回りのもの全てに見放される感覚というのは、案外このようなことを指すのかもしれない。

 何食わぬ顔で楽しそうに遊びの約束をする同級生たちや、部活でグラウンドに繰り出す上級生たちが真澄は恨めしく思えてきた。


「ただいま……」

 その日の夜のこと。今か今かと真澄が険しい表情をしながら待っていると、玄関から低く鋭い声が聞こえてきた。

「おかえりなさい、ママ」

「ええ……何、母が帰ってきたのにその表情は?」

 彼女は憎んでいるようにも、妬んでいるようにも思える視線をこちらに向けた。

 日用品の入った袋を乱雑に置き、ソファーに座り込んで病的に俯く姿が尚子と重なる。吐き出した大きなため息は、真澄の淡い期待を打ち砕くのには十分だった。

「また変なことしたんじゃないでしょうね。やめてくれる、これ以上私を困らせるの?」

 棘の込められた言葉が部屋の空気を一段と重くする。光の消えた瞳が、溜まりに溜まった日々の疲れを暗に示していた。

「あの、帰りに学校の下駄箱から靴が無くなっちゃって……」

「はぁ……? 何なのそれ、ふざけるのも大概にしてくれる?」

 事情を説明しようとした真澄の隣で、投げつけられたトイレットペーパーがゴトンと音を立てる。

 何があったかなんて聞こうとしなかった。全てを切り捨てようとする藍奈の視野は、日を追うごとに小さくなっている。

「分かるでしょ? 私はね、真澄のために頑張って頑張って働いてるの。それなのに口を開けばあれが無いこれを忘れたって……良い加減にしてよ、何回私の期待を裏切る気なの?」

 ねえ、と改めて視線が向けられた。口が半ば開いていることさえ、今の真澄には気付けない。

「そういうことじゃなくて、これにはちゃんとした理由が……」

「本当に言い訳ばっかりねえ。そんなことばっかりして逃げてるから、いつまでも成長できないんだって分からないかなぁ!?」

 勢い良く立ち上がり、呪文のような何かを細々と呟き、また元の場所に力無く座り込む。

 彼女のお気に入りだったシャンデリア上の室内灯が微かに点滅した。視界に一瞬だけ、一家三人がピースする家族旅行の写真が入る。

「靴が無くなったから何なの? そんなの自分で解決しなさい、もう子供じゃないんだから」

 立ち尽くす真澄を置物のように素通りし、藍奈は黙々と買い物袋を開いて整理を始めた。

「まったく、靴だって安くないのにねえ」

「……」

 何となく、彼女の言葉は予測できていたし準備もしていたつもりだった。

 それでも息が詰まるような感情が決して拭えないまま、真澄は奥から取り出した予備の靴を玄関に並べ始めた。


「はあ、どうすれば良いんだろうなぁ……」

 身の回りの用事を全て済ませ、真澄が本当の意味で解放されたのは自室に籠ってからのことだった。

「靴も取り返さなくちゃだし、ママもあれじゃどうしようもないし」

 ベッドに足を投げ出し、ほんの少し背中を丸めて壁に体重を預ける。

 軽いウェーブのかかった黒髪が乱れていく。時間を潰せる方法なんていくらでもあったが、何をしてもぽっかり空いた心を埋められないのは明白だった。

「もう、全部壊しちゃうしか無いのかな」

 何もかもに黒い線を引きたい。乾いた喉は、潤いとは違う何かを求めているようだった。

「……ん、そういえば」

 本格的に電気を消そうと、徐に真澄が起き上がったその時。ふと頭の中に、今まで何も違和感を持っていなかった彼女の言葉が頭をよぎる。

「まさか靴まで盗られちゃったの、真澄?」

 靴が無くなったのは間違いなく同級生の誰かが盗ったから。でも、気になった所はそこじゃない。

 どうして彼女は半ば反射的に盗られたという言葉を使ったのだろう。まるで、最初から靴が盗まれたことが分かっていたかのようだった。

「あれは一体、どういう意味だったんだろう?」

 思い違いなのかもしれない。でもあの時の葵の態度に、言葉に表せない薄い膜のようなものがかかっていたように感じられた。


 どこかで自分の噂がされている気配を感じながら、葵はリビングの窓から外の様子を眺めた。

「……ごちそうさま、それじゃあ洗い物してくるね」

 暖かい灯り。厳しくも優しい両親に囲まれながら、彼女は両手を合わせて席を立つ。

 バラエティ番組で芸人が笑い転げる声を耳に入れながら台所へ向かっていると、お茶のグラスを持った葵の母が合流する。

「そういえば、今日はちゃんと学校間に合ったの?」

「えへへ……真澄のお陰で何とかね。今朝はうっかりしてたし、次からは早起きできるように頑張るよ」

 水道の音を挟み、二人が食器を洗い合う。相手の顔が見えなくても、何となく互いの感じていることは通じ合えた。

「あの子の家……本当に大変よね。確かおばあちゃんが暴れ出したんでしょう?」

 尚子の噂はクラスにも、そして生徒たちを通じてその両親にも行き渡っていた。

 それも当然かもしれない……葵が憶測や思い込みを織り交ぜた上で、こっそり教室中に広めておいたのだから。

「うん。だからこそ、いつまでも頼ってばかりじゃダメだなって」

 物を失くして焦る真澄は何だかいつもより可愛く思えた。でも、こんな小さな揺らぎではまだ葵の心を動かすに足らない。

「今まで助けてもらった分、今度は私が真澄を支えられるように頑張りたいなあ……」

 迸り溢れ出そうになる悦びを隠しながら、葵は無邪気に満面の笑みを浮かべた。


「うん。そうしたら、あの子もきっと嬉しいんじゃないかな」

 部屋に置かれた鞄の中には、今日持ち帰ったばかりの宝物が入ったビニール袋がある。

 葵自身が強引に付けた泥が目立つ、かつて真っ白だった真澄の靴は、誰かに見つけられることを望みながら佇んでいた。


 続く

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