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8戦





「シャルル」


 イシュー様は、お父様とお母様を見ながら静かにシャルルを呼んだ。


「お前の言うとおり、今の段階では、お前はミーシアといないほうがいいと僕も思う」


 私は目を丸くした。だって、やだ、そんなの、そんなことしなくていい為に、イシュー様は来てくれたんじゃないのか。

 じわっと涙が滲んだ。けれど私の手を握るシャルルの力がぎゅっと強くなって、同じようにぐっと堪えた。


「お前に深い精神的苦痛を与えるであろう状況で、ミーシアの石が割れている。現段階では、お前とミーシアが婚約の約束をしたことにより対象がお前に集中している可能性と、被害者予備軍とされる男達の中でミーシアが出会っている存在がお前だけであるから集中している可能性が考えられる。どちらにしても、よくない兆候だ。ならばいっそ、離れた方が互いの為だろう。ここまでは分かるね?」

「…………うん」

「やだ!」


 ぐっと唇を噛みしめたシャルルに、私は叫んだ。


「黙っていなさい、ミーシア。人の大事な話を邪魔しちゃ駄目だ」


 いつもは優しいお父様が、怖い顔で言った。

 私はぐっと堪える。でも、嫌だ。そんなの嫌だ。人に大事な話があるように、私にも譲れない大事な物があった。

 シャルルと握っている手に力をこめる。イシュー様を挟んで手を握っているから、シャルルが遠い。身を乗り出さなきゃ、強く握れない。



「でも、父様が、いいか、父様だからな、あんたじゃない、シャルル。父様がいれば、身代わり石を大量生産できる。父様はそれなりに名のある魔術師だからそれくらいは出来る。だから、そうしたらお前達は一緒にいられる。それも分かるな?」

「……うん。あんたが石を作れば」

「父様」

「……ミーシアと一緒にいられる」

「父様……」


 イシュー様は無表情でしょんぼりした。その様子も、シャルルによく似ている。



 けれどすぐに、昔のシャルルのような顔になった。感情の一切が抜け落ちた、まるで新月の夜のような暗さで、夜の静けさを保った声で、言う。


「だけど、もしもお前に覚悟があるのなら、僕と一緒に王都へおいで。お前に、身代わり石の作り方を教えてあげる」


 シャルルの目が見開かれた。イシュー様はシャルルの腕に嵌められている腕輪をそっと撫でる。それはシャルルの魔力を押さえている腕輪だ。


「お前の魔力量なら不可能じゃない。そして今のお前なら、暴走させずにちゃんと自分の魔力を使いこなせる。きちんと鍛錬を積めば、そう遠くない未来に作れるようになるよ。その為の心を、ここで作ってもらった…………だけど、シャルル。お前が父様の息子だと公表することになる。それはきっと、酷くつらいことだ。ここで与えてもらった心が、酷く傷つくだろう。グーリン達のように優しい大人は誰もいない。誰も彼もが互いの足を引っ張り、罵り、貶める為に行動し、言葉を吐く。子どももそんな大人を見て育つから、意地悪なんて優しい言葉では済まないほどの極悪さを発揮する。だから、ミーシアみたいに優しい子も期待しないほうがいい。それでもいいかい? 楽しいことは何もないよ。つらいこと、悔しいこと、痛いこと、恐ろしいこと、そんなことばかりだ。特に、父様の息子だと公表されれば、それらの意識は全てお前一つに集約される。それでも出来ると思うなら、父様と来るかい?」


 身が震え上がるような言葉が、淡々としたイシュー様の口から紡がれる。平坦な起伏のない、平らな道を、恐ろしい何かがゆっくり歩いているような、そんな話だった。



 いらない。胸の中から言葉がせり上がる。だけど、引き攣った喉はそれを音には出来ず、はくりと無様な息が漏れ出ただけだった。

 イシュー様が言っていることは、半分以上理解できなかった。言葉が理解できないのではない。そんな状況を想像することが出来なかったのだ。私に分かったのは、ただただ恐ろしい場所にシャルルが行ってしまうかもしれないという絶望的な恐怖だけだった。


 いらない。そんなものいらない。シャルルをそんな恐ろしい所にやってしまうくらいなら、身代わり石なんて、いらない。私、シャルルにそんな怖い思いをさせるくらいなら、死んでしまいたい。そう、言おうとした。


「いっ」


 けれど、手に走った痛みに言葉は霧散した。シャルルが力いっぱい私の手を握っている。ぎゅうぎゅうと、痛いくらいなんて生やさしいものではない。まさしく痛い。激痛だ。手がぺっしゃんこになってしまうと心配するくらい痛いのに、離してなんて言えなかった。


「ミーシア」


 だって、シャルルが笑うから。



 ぴし、ぴしっと、石が連続して割れていく。もうとっくに腕飾りの石は使い物にならず、イシュー様がくれた首飾りの石が次々割れていく音が聞こえる。


「僕、行くね」


 耳元で一際大きな音を立てて、石が割れた。


「や、だ」

「僕、ミーシアを守れるようになる。ミーシアを守る石を作れるようになるよ。だからミーシア。待ってて」

「やだ……」

「平気だよ。どんなところでも、ミーシアが僕を守ってくれるから、僕は平気。だからミーシア、がんばれって言ってほしい」

「やだぁ!」


 行かないで。行っちゃやだ。行っちゃ駄目。

 行かなくていい。身代わり石なんていらない。そんなものいらないから、行っちゃ駄目。

 そう思うのに声にならない。いつもは私が泣いたらシャルルも泣いた。シャルルが泣いたら私も泣いた。それなのに、今のシャルルは私がどれだけ泣いても涙一粒零さない。ずっと、穏やかに笑っている。



「ありがとう、ミーシア。君のおかげで、僕はあのころこわかった何もかもがこわくないんだ。僕の中でぐるぐるしてた魔力も、暗やみも、夢も、なんにも。……こわいのは、君がいなくなることだけなんだ」

「わ、たし、やだ。ルルがいたいのも、おそろしいのも、一人でなくのも、やだ」

「痛くないよ。なんにも痛くないし、おそろしくもない。それに、大丈ぶ。僕、泣かないよ。君がいないばしょで泣いたりしない。だって、君がいなきゃ泣くりゆうなんて何もないもの」


 どんなに恐ろしい場所でも平気。シャルルは笑う。心は君に預かって貰うから、何にも怖くない。シャルルは笑う。泣ける場所なんていらない。シャルルは笑う。


「だって、君が僕を待っててくれるから」


 シャルルは、笑う。




 嫌よ。待つなんて言っていない。約束なんてしていない。だって約束したら、シャルルは行ってしまう。


 痛いほど握りしめられていた手に、同じほどの力をこめる。行かないで。行かないで。ここにいて。どこにもいかないで。怖いところに行かないで。恐ろしい思いをしないで。笑っていて。幸せでいて。そう願うのに。


「ミーシア、僕、行きたい」


 約束していないのに、シャルルは行ってしまうのだ。



 それなら、約束した方がどれだけいいか。約束なんて、したくないけど。こんな約束、したくないのに。だって、離れることが前提の約束なんて、大嫌いだ。でも、シャルルは約束したいんだって。それなら、私は我慢しなきゃいけない。だって私は、シャルルが大好きなのだから。


「………………こわかったら、いつでもかえってきて」

「うん」

「いじめられたら、私があい手の子をぶんなぐってあげる」

「うん」

「さみしかったら、お手がみかいて」

「うん」

「夜、ねむれなかったら、すぐに言って」

「……うん」

「私がまくらもって、地のはてまで追いかけて」

「うん」

「そうして、やさしいお歌、歌ってあげる」

「――うん」


 いまは私だけが泣き虫ね。


 握りしめているシャルルの手にいっぱい涙を落しているのは私だけだ。シャルルの手は震えていない。震えているのは私だけだ。シャルルの手は温かい。冷えているのは私だけだ。シャルルの手の力、強い。握りしめているのは、お互いだ。


「…………行ってらっしゃい、ルル。がんばってね。まってるから、元気にかえってきてね」

「うん」


 嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑うから。私はちゃんとシャルルが望む言葉を言えたのだと分かった。



 不思議だね。シャルルが嬉しそうなのに、私ちっとも嬉しくないんだよ。シャルルが笑っているのに、私全然笑えないんだよ。シャルルが頑張るって言ったのに、頑張れって、言いたくなかったんだよ。


 六歳のお姉さんになんかならなきゃよかった。五歳だったら、もっとやだやだ言って、小さな子どもみたいに暴れ回れたのに。六歳のお姉さんは、そんなことしちゃいけないのだ。

 ちょっと、小さな子どもみたいにわんわん泣いてしまったけれど、だからこそもうしちゃ駄目なんだ。だって、六歳の誕生日に皆「二人とももう、立派なお姉さんとお兄さんだね」って言ってくれたから。六歳は、小さな子どもを卒業した、お姉さんなんだ。



 声を殺して泣きじゃくる私と、嬉しそうに笑っているシャルルの背中を、イシュー様が撫でた。ずっと膝の上で手を繋いで、膝の上で泣いているから、イシュー様のズボンは大変なことになっている。なのに、イシュー様は全く困った顔をしていない。にこりと笑って、言う。


「大丈夫だよ。僕がいるんだから、命は絶対に守るよ」


 余計に不安になった。


「大丈ぶだよ、ミーシア。この人と……父様と一緒にくらすだけだよ」

「…………シャルル? もう一回、もう一回言って? もう一回」

「くらすだけだよ」

「その前」

「この人と」

「その後」

「と一緒に」

「その前……いや、それも嬉しいね」


 更に不安になった。



 泣いている場合ではない。いじめっ子達からシャルルを守り抜く使命を果たしてきた私の闘志は、まだ折れてはいなかった。ぐいっと涙を拭い、シャルルの手を離す。そして、イシュー様の手をぎゅっと握る。


「父様!」

「え!? ……グーリン、どうしよう。僕、父様って、二人から、父様って」

「イシュー。これからは君がシャルルを守っていくんだからしっかりするんだ! ……父様呼びも捨てがたいなぁ。お父様……父上……父様……どうしよう、どれも違ってどれもいい……」

「貴方も黙っていましょうね?」


 お父様が黙った。


 私は、イシュー様の手を握ったまま、がくんと全力で頭を下げた。


「ルルのことで分からないことがあれば、ききにきてください! うらわざ、お教えします! だからルルを、ルルをよろしくおねがいします!」


 がくんと下げた頭をがばりと上げる。驚いた顔をしていたイシュー様は、くしゃりと笑った。やっぱりイシュー様は、シャルルによく似ていた。







 何も渡せなかった。何も貰えなかった。お互い何も、目に見える形あるものを残すことは出来ず、私達は互いの手を離した。

 人目のつかない内にと、夜の間にエルシャット家を去ったシャルルとイシュー様を見送った。シャルルが泣かないでと言うから、泣かないで手を振った。

 まさかその後、九年も会えないだなんて思いもしなかったから。








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