13戦
はずだった。
がだんっと大きな音がした瞬間、あれだけ充満していた喧噪が静まりかえった。
しんっと静まりかえった食堂内にひしめき合っていた人混みが急速に割れていく。いつの間にか滲んでいた涙を散らしながら割れた人混みを見て、完全に涙がこぼれ落ちる。
椅子を蹴倒してこっちに駆け寄ってくるあの頃とちっとも変わらない紫色の瞳が、私を見て見開かれた。無意識のうちに両手を突き出していた。
大きくなった? 変わった? 分からない。だってルルだ。ルル、ルルだ。手を握りたい。ルル、ルル。どうしよう、私、死んじゃう。
伸ばした腕に嵌まっていた石が、割れた。ルルの目が忌々しげに細まる。
「ルル、どうしよう、止まらないの!」
「っ、来て!」
抱きしめ合ったのか体当たりし合ったのか分からない勢いで縺れた私達の身体は、昔のように倒れ込んだりしなかった。後ろに倒れそうになった私の身体を意外にもしっかり押さえたシャルルは、私と抱き合ったまま周囲へ叫んだ。
「どけ! 邪魔だ!」
叫びながら懐から取り出した身代わり石の腕飾りを私の手に握らせる。必死に握りしめた私の手の中で、その石が次々割れていく。
「ちっ……」
道を塞ぐ人々を凶悪な目で睨みつけ道を空けさせたシャルルは、走りながら私の手を掴んだ。その手を自分の懐に突っ込ませる。慣れたじゃらりとした感触に触れた瞬間、私の手は反射でそれを握りしめた。身代わり石は高価で貴重な物だ。だから例え一目でそうと分からないであろうことが前提でも、おいそれと人前に出すわけにはいかないのだ。
こんなに人の目があっては隠しきれないと判断したシャルルによって、懐に隠されたままの首飾りを握った。けれどそれにもすぐさま罅が入った音がして、シャルルの身体が強張る。
「ごめん、ごめんなさい! 私、本当にちゃんと、もっとちゃんとあなたに会うつもりでっ」
「分かってる!」
「こんな迷惑かけるつもりなかったの! ごめんなさい、本当にごめんなさいっ!」
「会いに来てなかったら殺してやる! ――道を空けろ! 燃やすぞ!」
言葉と同時に、目の前に炎の固まりが現れた。人集りは金切り声を上げる。人を突き飛ばしながら脱兎のごとく逃げ出していく。その混乱に乗じて、私を抱えたままシャルルは走った。シャルルの手が上着を頭に押しつけてくれていなかったら、とっくに落としてしまっていたかもしれない。
人の目が一瞬途切れる曲がり角に辿り着くや否や、シャルルは建物の壁を乱暴に殴った。紋様が入った丸い陣が壁に浮かび上がる。ぼやけて見えるそれに気持ちが落ち着かず、瞬きした。
気がつけば、さっきまでとは景色が違っていた。悲鳴も大勢が押し合う音も聞こえない。
大量に積まれた本と、雑に引っかけられた外套。そして部屋の隅で埋もれかけているベッドに気づかなければ、物置と思ってしまうほどの大量の箱。左側の壁は恐らく水回りと思われる扉以外の場所は全て天井まで箱で埋まっている。
一番手前にあった箱の蓋を乱暴に開け、中身を大雑把にひっつかんだシャルルは、大量の首飾りを私の頭にかぶらせた。前が見えない。重い。首が折れる。
よろめいた手にも、大量の首飾りだか腕飾りだかを握らされた感触がした。重なり合った首飾りが塔となり、前が全く見えないので分からないが。
しかし、それらが凄まじい速度で軽くなっていくのが分かった。
「腕と足伸ばして。早く!」
言われるがまま、両手両足を伸ばす。首が重くて支えられず、両腕はすぐに曲げて頭を支えてしまった。その腕にも大量の重みが乗る。足にも重みが大量に取り付けられていくのが分かる。
石は凄まじい速度で割れ続けている。そして私は凄まじい重量を取り付けられ続けている。
混乱も死の恐怖も、何故か一定の基準を超えたら割れた石と同じくらいふっと軽くなった。落ち着いてしまったというか、我に返ってしまったというべきか、混乱しきった脳内が破裂したというべきか。
「…………ルル」
「大丈夫、大丈夫だよ。こんなこともあろうかと九年作り溜めてきたんだ。今この場でも作り足してるから、大丈夫。その為に、馬鹿みたいな量の魔力を阿呆みたいな緻密さで速攻作り上げる練習をしてきたんだから。大丈夫だよ、ミーシア。絶対大丈夫」
「ルル」
「大丈夫だよ、ミーシア。怖くないよ。どれだけ割れても、破損が追いつかないほど僕が作り続けるから」
「ルル」
やけに早口なシャルルの言葉を聞きながら、私は馬鹿の一つ覚えみたいにその言葉を繰り返した。
「ルル」
「大丈夫、絶対死なせない。大丈夫」
「ルル、あの、私これ、凄く間抜けな格好ではないかしら」
「………………………………全身甲冑騎士みたいで格好いいよ」
「心にもないこと言わないでちょうだい」
「ミーシアはどんな格好でも可愛いよ」
「まあ、お世辞がうまくなっ、きゃあっ!」
ぱんっと一際激しく破裂した石の音に身体を強張らせる。
顔のすぐ傍で鳴った音にぎゅっと目を瞑った。閉じた目蓋の外が、急に白く染まる。首も軽くなった。耳元ではまだ割れ続ける石の音がぐるぐる回り続けているけれど、私はそぉっと目を開けた。
「ルル……」
そこにはシャルルがいた。ずっといたけれど、改めて、そう思った。
大きくなった。だけど何も、変わらない。本当に、そのまま大きくなったみたいだ。丸みを帯びた線が鋭さを帯びたりと、子どもが青年へと移行する変化はきちんと遂げているのに、シャルルは一目で分かるほどにシャルルだった。イシュー様、本当にシャルルに似ているなと、思った。
シャルルも目を丸くしている。頭全てを埋め尽くしていた首飾り半分を慌てて取り除いたのだろう。割れている物から割れていない物までごちゃ混ぜになっている首飾りの束を抱えたまま、呆然としている。
まるで時間が巻き戻ったみたいだ。私達の間に空白の九年は存在せず、あの日の続きがここにあるかのような錯覚に陥る。だってシャルル、変わってないね。
「…………ルルは、変わらないわね」
「…………嘘だろ?」
「ほんと。全然、変わらない」
「…………悪夢だ」
何故か呻いたシャルルは、何かに気づいて片眉をちょっと下げた。手が伸びてきて、私の頬を指でくすぐる。頬を離れたその指には水滴がついていた。
「怖かったろ」
「平気」
「泣いてる」
「ルルに会えたから、嬉しいだけよ」
自分の袖を引っ張って掴んだルルによって、私の頬がごしごし擦られる。痛いわ。もう子どもじゃないんだから平気よ。ハンカチを差し出すくらいの紳士っぷりをみせてほしいわ。ちょっと引っ張っただけで目元を拭えるほど袖が余っているのね、その制服ちょっと大きいわ。予定より成長しなかったの?
言わなければいけないことは沢山あった。なのに、そのどれも口に出せない。
「…………ルル、私ね、あなたがとっても変わっていて、すれ違っても気づけなかったらどうしようって心配していたの」
「そう」
「私のこと、疎ましくなっていたらどうしようって、思っていたの」
「馬鹿じゃないの」
「ひどいわ」
「そんな心配している方がひどいよ」
憮然としたシャルルによって、もうとっくに拭われたはずの頬が擦られ続ける。私が泣きやめていないのか、もうとっくに泣き止んでいるのにシャルルが止まってくれないのかは分からない。
「離れていたら、私、怖がりになってしまったみたいなの。おかしいわね。昔は、たとえあなたをぶったって、嫌われるだなんて思わなかったのに」
「馬鹿じゃないの」
「もう、さっきから!」
どうやらシャルルはちょっと辛辣になったようだ。……そういえば思い出とは往々にして美化される物だ。よく考えれば昔から結構辛辣だったように思う。
それでも嫌われているだなんて欠片も感じなかったのは、それ以上に彼が言葉を尽くしてくれたからだ。言葉でも、態度でも、大切に心を砕いてくれていたと知っている。
「僕が君を嫌いになるのは、死んでもあり得ない」
「何てこと言うの!」
「死ぬほうがよっぽど簡単だよ」
「ルルったら!」
今度は私が憮然となる番だった。とんでもないことをさらりと言ってのけたシャルルは、さっき私の首から引き抜いた首飾りの束から、比較的無事な石が多い物をより分け、すっかり軽くなった首飾りと交換した。
その後無言で立ち上がり、部屋の隅に置かれていた箱を引き摺り始めた。相当重いのか持ち上がらず、腰を屈めてず、ず、と少しずつ動かしている。
「手伝うわ」
「いいよ、座ってて。どうせ二人で持っても持ち上がらないから」
重たそうに箱を引き摺ってきたシャルルは、私の目の前で動きを止めた。ふっと息が吐かれる。重たかったのだろう。昔、大きな椅子を二人でよいしょよいしょと運んでは、先にへこたれていたのに、今は一人で運んでしまった。
でも、運び終わった後にはしっかりへこたれていた。変わっていなくて安心すると言ったら、頭をぺしりとはたかれた。全然痛くなかった。
蓋を開けた中には、まだ装飾品になっていない身代わり石が大量に詰まっている。
「この中に手を突っ込んで。身につけるより楽でしょ」
「ルルのそういうちょっと大雑把なところ、私好きよ」
「君から習ったんだよ」
さっきから喧嘩を売られているのだろうか。むくれて睨む。けれど部屋に流れる空気はどこまでも穏やかだ。
箱の中に手を入れる。私の手に合わせてぞろっと移動していく身代わり石は冷たい。けれど石のように角張ってもいないので怪我をすることはない不思議な感触だ。手を奥まで押し込んでいる間に、シャルルは箱をもう一個運んできた。それを隣に置くと、ようやく私の隣に腰を下ろす。
じっと見つめてくる紫の瞳を、じっと見返した。私より少し身長が高いくらいで、あまり背丈は変わらない。すっかり変わってしまったペッパとは違い、線は細く華奢だ。まだ女の子みたいとからかわれていたらどうしよう。私の拳が唸る。だが私も貴族の端くれ。そろそろ、拳より口を唸らすべきなのかもしれない。
「…………元気そうだね」
「ルルも」
「うん」
「あのね、ルル。私ね」
「うん」
会いたかったの。
そっと呟く。言葉として発したと言うよりは、吐息のついでに零れ出た音に近かった。そんな私の音をきちんと拾ったルルは、静かに笑んだ。
「僕も」
すっかり軽くなってしまった飾りを全部ふるい落とし、身軽になった腕をシャルルへ伸ばす。片方は箱の中に突っ込んでいるからこれ以上は進めない。けれど私の手はシャルルに届いた。私が一方的に伸ばしただけでは届くはずのない距離は、シャルルから伸ばされた手によって埋められた。
指先を絡めて軽く振ると、シャルルの指は私の指の間を縫って遊ぶ。子どもの頃はとにかくお互いぎゅうぎゅうに握り合っていた。今は昔より長くなった指でちょこちょこ遊ぶ。特に意味はない。きっとシャルルにもない。でも、楽しいし嬉しいからそれでいいのだ。
「僕、順番間違えたって思ってて」
「何の?」
「婚約」
「そう?」
「うん」
再会する前だったら、私と婚約したことを後悔しているのかと落ち込んだことだろう。けれどシャルルを目の前にすれば、そんな不安を抱いた自分が馬鹿に思えるほど、シャルルは何も変わっていない。それはおかしなことかもしれない。六歳だった頃と変わっていないと一目で断じられるなんて、きっとおかしなことなのだ。
でも、私はそれほどおかしなことと思わなかった。だって、私だってそうなのだ。私だって変わらない。自分でもびっくりするほど他の道が思い浮かばないのだ。
シャルル以外の人を好きになることも、シャルル以外の人と手を繋ぐことも、シャルル以外の人の隣に立つことも、何一つ思い浮かばない。シャルルの手を離して、シャルル以外の人と笑い合う未来なんて、さっぱりだ。
「婚約してって言う前に、君が好きだから僕と恋人になってって言うべきだったって、後で気づいた」
「あ」
「だから、つぎ君に会うときに言おうって思ってたのに、色々あって会えないまま九年経っちゃった」
「あー」
けろりとしたまま言ってくる様子に、照れや緊張は見られない。どう見ても、恋を告白しているようには見えない。そしてそれを受ける私もそうだろう。
これは恋かな。愛かな。どっちにしても。
「ねえ、ミーシア。僕、君が好き」
「あら、奇遇ね、ルル。私もあなたが好きなの。だから私達、恋人になるべきだと思うのだけどどうかしら」
好きなのである。
シャルルはこくんと頷いた。子どもの頃とちっとも変わらない黒髪がさらりと揺れる。光が綺麗に流れていく。
「とてもいい考えだと思う」
「そうね。でも、困ったわ。私、愛しい方に告白するのに、花も持っていないの。これは少し、浪漫に欠けると思わない?」
「そう?」
「そうよ」
きょとんとするシャルルに絆されそうになるも、ぐっと堪える。私達はもう六つの『お姉さんとお兄さん』ではなく、十五の『お姉さんとお兄さん』なのだ。それ相応の立ち居振る舞いというものがあるのだ。愛の告白には花が適している。恋愛の経験を積む機会はなかったけれど、その程度の事は私だって知っているのだ。
絡まった指が不思議そうに握られる。握手より歪で強固に絡まった手を作り出したシャルルは、不思議そうに首を傾げた。
「君の手があればそれだけでいいのに。後は何が足りないの?」
「…………まあ、そうとも言うわね」
「ミーシアは相変わらず変だね」
「何ですって?」
私だって人並みに夢くらい持っているし、浪漫を素敵だと思う感性は持ち合わせている。それを発揮する場所がなかっただけで、その辺りの感性は人並みなはずだ。
それを変呼ばわりされては堪らない。変なのはきっとシャルルのほうなのに。そうむくれる。絶対シャルルのほうが女の子の扱いを知らない唐変木だと思うのだ。だけど、知っていたら知っていたでむくれそうだから、昔から変わらず女の子の扱いに疎いシャルルのままでよかったとも思う。そんなシャルルしか知らないし、そっちのほうがシャルルっぽいし。
ちょっと一般的な形とは違うかもしれないけれど、仕方がない。だって私達は私達しか知らないし、私達でしかあり得ないのだ。私達の間で取り交わすやりとりを、私達以外の基準で決める必要はなかった。