12戦
お父様は、学園の受付で手続きを済ませると、意外とあっさり帰って行った。にこにこと穏やかに微笑んで。少し、淋しかった。お父様が乗り込んだ馬車が出発すると同時に、ギャン泣きが聞こえてきた気がするけれど、私も穏やかに見送った。早く、行ってほしかった。
「さあ、では少しご説明致しますわね」
「は、はい。よろしくお願い致します」
受付では、柔和な笑みを浮かべた女性が何事もなかったかのように言い、一冊の冊子を私に渡してくれた。さっきのことは見なかった振りをしてくれるらしい。流石高位の貴族どころか王族までもが通う学校の受付係。大変ありがたい。
私はありがたく受け取った冊子に視線を落とす。
『生徒手帳』
………………分厚くないだろうか。辞書ほどの厚みのある冊子と呼ぶのも憚られる鈍器は、両手で持っていても段々疲れてきた。おかしい。私の知っている手帳ではない。流石王都、手帳まで高そうだ。怖い。
しかしこれはいい武器になりそうだとも思う。しっかりとした造りの表紙、ぴしっとした角、持っているだけで疲れてくる重量。素晴らしい武器である。これならば、ペッパに投げつけても壊れないだろう。
「校則から心得、果ては学園内の地図まで全て詰まっておりますので、学校生活が始まるまでに熟読してくださいませ」
始まるのは明日である。
「あの……地図が必要なくらい広いということなのでしょうか」
確かに門は立派だった。私は見たのは裏門だけれど。馬車で学園内に入るのは裏門からではないといけないのだ。正門前は、乗り付けるだけなら構わないらしい。まあ、人も多くなるので馬車の往来があったら危ないということだろう。
それはともかく、門は立派だった。これが本当に正門ではないのかと唖然とするほどに。人の背丈の三倍はあろうかという門と、そこから両方向に連なる壁。まさかこれ、学園全部を覆っているのだろうか。
門の向こうに見えていた建物、現在私がいるここも立派だった。立派すぎて、奥行が全く分からないほどに。ただ、気のせいか、気のせいと思いたいのだけれど、何やら建物の向こうに山が見えていたような気がする。しかも、小山ではなく、山脈級のどでかい山が。おかしいな。ここはど真ん中でないとはいえ王都のはずだ。王都の中に、山。
あれ? それはもう田舎なのでは?
混乱した私は、深く考えないことにした。
当面は、手短な謎だけをひっそり解きながら暮らしていきたい。というわけで、私は手短な謎を女性に聞いてみることにした。
「地図がここに描かれてあっても持ち歩けないと思うのですが……」
何せ武器である。重たくて片手で持って開くなんて到底出来そうにない生徒手帳を軽く揺らせば、女性は柔和な笑顔のまま固定した顔を、僅かに傾げた。
「うふふー」
深くは追求しないことにした。これも、末端とはいえ貴族に籍を置く者の嗜みである。
女性の案内で寮に辿り着く。巨大な建物だなぁと流石王都の学校、こんな立派な校舎で学べるなんて贅沢だと感心していたら寮だった。寮の隣にある建物もとても立派で、まるでお城みたいだ。こんな立派な校舎で学べるなんてこれまた贅沢だと感心していたら伯爵以上の子息達の寮だった。それらから反対側に伸びている通路の先の立派な建物は、初等部と中等部の寮だそうだ。ちなみに、どの寮も同じ形のものが二つある。男女別だそうだ。
私がいる寮から繋がっている先の建物も大層立派だ。これこそ校舎かと思えば食堂と風呂場と談話室だった。そこから繋がっている先の建物も他に負けず劣らず立派で豪奢だ。今度こそ校舎かと思えば図書館だった。ちなみにそこに繋がっている建物は自習室だそうだ。
ところで校舎はどこだ。
詳しいことは同室者に聞くか生徒手帳を読むようにと告げ、女性は柔和な笑顔のまま去っていった。私は結局発見できなかった校舎に思いを馳せながら、部屋の中を見渡した。
部屋は二人部屋のようだ。右半分には既に人が生活している形跡があったので、空っぽの左半分が私の居場所となりそうだ。どうやら同室者は、あまり片付けが得意ではないらしいと察する。
部屋は蛇腹のカーテンで遮れる造りになっているようだ。だが、今まで一人部屋だったので使っていなかったのだろう。片付けは余り得意ではなさそうだが、律儀な性格らしく、右半分は色々と物が散乱していても、そのカーテンが引ける線を境に左側には何一つとして置かれていなかった。
靴を脱ぎながら部屋に上がる。どうやらこの寮、珍しくも靴を脱いで上がる部屋のようで、入り口に段差があった。扉横の棚は靴置きだろう。今は一人だし、後で出かけるつもりだから片付けずにそのまま出しておく。
荷物の有無以外は、基本的に左右対称の部屋だった。ベッドも家具も、窓の位置も。左右それぞれのベッド下辺りの壁に扉もある。何だろうと覗いたらお手洗いとシャワー室、それに洗面台だった。
普通は魔力の籠もった魔石が嵌まっており、その力で水を出すものだけれど、ここは不思議なことにただの蛇口だ。でも捻ればちゃんと綺麗な水が出る。そういえば昔、お金持ちの集まるところではいちいち消耗品の魔石を取り替えなくて済むように、大本で一括して管理できる仕組みが作られていると聞いたことがある。流石王都は違う。よく分からないけどなんか凄い。
うむ。私は鷹揚に頷き、仕組みがさっぱり分からない水回りから離れた。
私の荷物はまだ届いていない。この程度の誤差なら許容範囲だ。一応数日は何とかなる程度の荷物はトランクにつけてきた。そして。
「あー、重たい……」
誰もいないのをいいことに、じゃらじゃらとぶら下がっている首飾りを片手で持ち上げ、首への負担を軽減する。実は腕にも二本ずつつけてあった。
平和なリアンダーでさえ、何もしていなくてもびしびし割れていく石だ。道中何があるか分からない、何かあってもすぐに補充できないことを考え、大量に身につけていたのだ。いくら魔力で生み出された石といっても、体積があれば勿論重量もある。これだけつければ、それなりに重いのだ。
命を守ってくれる石であり、私とシャルルの目に見える唯一の繋がり。大切だけど、物理的な重さは如何ともしがたい。肩が凝る。
色々教えて貰おうと思っていた同室者は不在。解くべき荷物もまだない。暇だ。
そう思い、何となく閉まっている窓を開けてみた私は、目を見開いた。
「わぁ!」
ざぁっと流れ込んできた風は、やけに緑が少ない王都に入ってから嗅ぐことが極端に減った草花の香りだ。しかし、それより何よりも、目の前の光景に感嘆の声が出た。
そこには、今まで見た中で一番大きな建物が鎮座していた。どうやら、寮やら図書館やら食堂やらの建物が、学園に入る前に見た塀のような役割を果たし、ぐるりと囲った中に校舎はあったようだ。大きな時計塔、ひーふーみーよー……十三階建ての建物、大きな時計塔、にょきにょき茸のようにあちこちに生えている塔、大きな時計塔、大きな卵のような丸い建物、大きな時計塔。
「…………時計塔多いわね。お寝坊さんが多いのかしら」
気を取り直してもう一度観察する。まだ新学期は始まっていないのに、学生と思わしき人達がちらほら見えた。忙しなく歩く人はほとんどおらず、皆のんびりと過ごしているようだ。山とか山とか山で。
「………………山?」
校舎と思わしき巨大な建物をぐるりと囲む、寮や図書館などの施設。その施設と建物の間に、気のせいか巨大な山が見える。むしろ校舎の中庭辺りに山が鎮座している。気のせいか。気のせいだと言ってほしい。いくら大きいといっても校舎はあくまで人工の建造物だ。その中庭に山が、それも山脈のごとく連なった山が見える。こう、きゅっと縮小された感じで。
普通の山にしては小さい。けれど中庭に詰め込めるものでは勿論ない。私は鷹揚に頷き、全く理解できない光景を窓を閉めることで遮った。私は何も見なかった。
よく分からないものを見たら、逆に緊張感が解れてきたように思う。同室者もまだ帰ってこないようだし、やることも特にない。探検でもしてこよう。そう決めた。これから自分が住む場所だ。場所の把握は自分の足で行うのが一番である。
「えーと、地図……」
まだ一つしか物を置いていない自分の机の上に目をやり、そっと逸らす。嫌だ。これを持っていくくらいならトランクを引き摺っていく。
私は、地図入りの鈍器を部屋に置き去りにし、冒険に繰り出すことにした。
制服はさっき貰ったけれど、まだ入学前だし、新学期前でもあるしで、特に制服を着る必要はないと聞いていたのでそのまま行くことにした。
部屋までの道程は、さっき案内して貰ったから分かる。とんでもない広さと、校舎の迷路具合と、校舎中庭の山脈以外はそんなに難しい道程ではないだろう。……そう信じたいし、目を背けたいことが多すぎる。全部考えると頭が破裂するだろう。
でも、何だか少し、わくわくしてきた。
ここ数年、新しいことをほとんどしてこなかった。それどころか、やめてしまったことばかりだったのだ。本当は、魔法の適性がぎりぎりとはいえあったことも、少しだけ嬉しかった。興味はあった。ずっと。
だって、シャルルが扱っている物だ。それに私自身、本当はそれなりに知りたがりな自覚はある。ただ、特殊なこの身でこれ以上何かを望んで周囲に迷惑を懸けるのが憚られ、飲みこんでしまったけれど。
少し浮き足立っていた私は、人のいない廊下をご機嫌で歩いた。さっき沢山の時計塔を見たところ、時間はちょうどお茶の時間。皆、明日から新学期ということもあり、のんびり過ごしているようだ。
どうせなら食堂も覗いてみようかなと思い立つ。食堂は、なんと無料で食事が提供されるのだそうだ。王都は太っ腹である。一人で食事をすることに、実のところあまり慣れていないが、挑戦してみるのもいいだろう。
そんな気持ちで浮かれていたのかいけなかったのだろうか。
私は寮から伸びる二階の渡り廊下を歩いていた。この向こうが食堂のある建物だ。何故分かるかというと、見たら分かった。何せ建物の一階はガラス張りで、沢山並んだテーブルと椅子は庭にまで広がっていたからだ。そこで楽しそうにお茶をしたり、中には遅い昼食なのか、しっかりとした食事を取っている人々が多々見られた。
食堂は一階だけれど、階段の降り口でちょうど固まって話している人々がいたので、ついつい渡り廊下へと足を向けてしまった。まあ、あっちにも階段があるだろうと思ったのだ。その選択が正解だったのか不正解だったのかは、今でも判断がつかない。
流石にここまで来れば人が増える。制服の人も私服の人も半々だ。制服が足首まであるスカートなのは、アイあいと違うなぁと他人事のように思う。アイあいでは、膝にかかるかかからないかくらいの長さだった。でも、貴族の娘はむやみに足首を晒さない。だからこの制服のスカート丈に納得する。
……私が生きのこっている影響が、スカート丈だけに反映されているなんてないと信じたい。もっと別のことに反映してほしい。というか、既に色んな方法で死んでいるはずの私がここにいる時点で、もう全部なしなし、はいなしー! という感じで、全部解決してほしいと願うのは望みすぎだろうか。
今は新しい入学生が雑多に詰め込まれている時期なので、慣れぬ動作できょろきょろしている人も多く、誰も私に注意を払っていない。だから私もそれなりに気楽に散歩している。
前から歩いてきた同じ年頃の女の子の集団を見て、私も女友達ができたらいいなとぼんやり思う。ぼんやり思っているのは、別に意識がぼんやりしているわけではない。女友達、という関係に想像がつかないのだ。
何せ生まれて十五年、女の子の友達がいないのである。いたのは女の子みたいに可愛いシャルルと、そのシャルルをいじめる悪ガキ集団。そして私が一番強かった。何せお頭ミシアである。……女の子と友達になれる未来が思い描けない。
海賊か山賊か盗賊の頭となら友達になれる気がする。……私はおそらく、どこかで進むべき道を間違えたのだろう。せっかく薄桃色の可愛い髪の色に生んでもらったというのに、どうしてお頭に。
どこで間違えたのだ。お前何やってるんだアルテミシア・エルシャット。目を光で隠している場合じゃないだろう。拳で、石で、棒で、巻き上げた土煙で隠している場合ではないだろう。本当にそんな場合ではなかった。私は本当に何をしていたんだ。
遠い目でそんなことを考えていた私の耳に、きゃあと可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「見て、アスト様よ!」
「まあ! 本当だわ!」
私も女の子の話題に混ざってみたい。そんな邪な思いで、私に見てと言われたわけでもないのに彼女達が向いている方向へと視線を向ける。そこには、食堂へ向かう通路があった。赤髪がちらりと見える。
「今日も素敵ねぇ」
植木で隠れて髪しか見えなかった。
「第二王子様と学び舎を共に出来るだなんて……わたくし、人生の運を今ここで全て使ってしまったように思うの」
髪で……。髪の先がちょろっと見えているだけでよく分かったなと感心する。
「私も……あっ、あ、あ――!」
切なく呟いた女生徒が、けたたましく鳴いた。威嚇してきた鳥みたいな声だ。近くに巣があるのかもしれない。鳥がこんな声を出しているときは、巣を狙っているのではなければ離れてあげたほうがいい。
「ちょっと貴女どうし……あっ! やだ、嘘!」
「凄いわ! 道理で一階が騒がしいと思っていたのよ! ああ、嘘……幸せ……」
何だ。赤髪の次は何髪が通ったのだろう。随分嬉しそうな女の子達の様子に興味を引かれ、目を凝らす。ちょうど植木が途切れてその姿が見えるようになった。
赤髪の男が、何やら横の人物に親しげに話しかけている。それを完全無視する形で歩いている黒髪に、覚えが、あった。ありすぎて、心臓が比喩ではなく一度止まった。石も割れた。
一目で分かった。分かった自分に、呆れる。
だって、何年離れていたと思っているのだ。何年姿すら見ず、声も聞かず、手紙すら交わさず。何年、何年、九年も。
止まった後、馬鹿みたいに跳ね回る心臓を嘲笑する。でも、いくら嘲笑しても、事実は変わらない。会いたかった会いたかった会いたかった。心臓も頭も心も、私の全部が歓喜している。
「ルル……」
ぽつりと呟いた名前は、当然シャルルには届かない。自分の耳にさえ、掠れた吐息が聞こえただけだ。
「食堂においでになるなんて、一体いつ以来なのかしら! わたくし達、なんて運がいいのでしょう」
「全くだわ……滅多に表に出てきてはくださらない方ですもの……授業も免除されるほど成績もいいですし…………ああ、今日も麗しいですわ」
「アスト様とシャルル様、第一王子ジルバ様をお支えする双璧と呼ばれているお二方揃って拝顔叶うだなんて……わたくし、末裔の運も使い果たしましたわ」
「恐れ多くもジルバ様へ差し向けられた暗殺者を、お二人で掃討してしまわれたのでしょう? それなのに手柄は全てアスト様の物だと褒美も全て断わったと……シャルル様は主を立てるお方ですわね……いつも控えめで、笑った姿を見たこともなく、用事が無ければ姿を見せることもない孤高の黒魔術師……素敵……」
「おモテになるのに、特定のお相手は作られないとか。それどころか全て断ってしまわれると聞いたわ……でもわたくし、見たの。殿方に告白されていたの! きっと男性が好みなのよ!」
「え!? わたくし身分違いの恋をしていると聞いたことがあるわよ!」
「え!? わたくし婚約者がいると聞いたのだけれど……彼に釣書を突き返されたお家の数はどれだけになるのかしらね」
最近のシャルルの説明をどうもありがとうと、彼女達に心の中でお礼を言う。いる、娯楽小説の中にこういう人達いる! そう思ったことも、心の中にこっそり止めた。顔に出したら私は怪しい人だし、そもそもどんな顔をすればいいのか。
そうか、シャルルいろいろ噂されているのか。頭の隅でやけに冷静な私がいた。
たぶん、頭の大半が焼き切れそうなほど集中しているから、かろうじて冷静な部分を保って自制しようとする本能が働いたのだろう。
だって、頭も意識も胸も、焼き切れそう。阿呆なことを考えてないと、泣き出してしまいそうだ。
赤髪の男が、シャルルの肩に手を回して親しげに手を振っている。彼は黄色い悲鳴を上げる少女達に愛想よく返した。まんべんなく。
確かに顔はいい。そして、自分の顔の使い方をよく知っている笑顔だと思った。彼の笑顔は、この渡り廊下で黄色い悲鳴を上げた少女達にも向けられた。
一瞬私とも目が合う。身動ぎ一つしない私にもひらりとおざなりに手が振られる。だが、彼はどうでもいい。シャルル、シャルルだ。シャルルがそこにいる。
アストと呼ばれた第二王子の身長は分からないけれど、シャルルは彼より小さく見える。十五歳なのでまだまだ伸びるだろうが、それにしても私が知っている男の子達より小柄な体型は変わっていない。さては夜更かししてあまり寝なかったなと当たりをつける。それともちゃんと食べなかったのか。ちゃんと目を配らせないと、シャルルはすぐに本に夢中になって寝食を忘れてしまうのだ。
こっち見てこっち見てこっち見て。シャルル、こっち向いて。
さらりとした黒髪は相変わらず綺麗だ。紫色の瞳も変わっていないだろうか。それとも昔よりもっと澄んでいるのだろうか。
こっち向いて。お願い、シャルル・マルスタート。
「ああ、本当に今日も素敵。シャルル・アーグレイ様」
……………………誰?
思わず正気に戻ってしまった。女の子達に視線を向ける。よく見れば、四人いる女の子達の中で、黄色い悲鳴を上げているのは三人だけで、一人の女の子は青ざめた顔で一歩後ずさりしていた。
「……皆様、どうしてあの方を素敵だなんて仰ることが出来ますの? だってあの方は……アーグレイ様のご子息様ではありませんか。今代の魔王と呼ばれている魔術師長イシュー様の」
イシュー様とんでもない二つ名だ。ぽかんとしてしまう。私とシャルルを腕に抱え上げ、額をつけてうりうりしてくださったシャルルによく似た男性を思い浮かべる。
今代の魔王か。魔王にうりうりされてしまった。そして魔王に作って貰った身代わり石で命を長らえさせてきた身としては、私も恩返しとして魔王の一派に所属するべきだと思うのだ。
どうもはじめまして。魔族の下っ端です。
「まあ、でも、確かにイシュー様は恐ろしいほどの魔力の持ち主ですが、王の右腕ですもの。いつだってティブルーを守ってくださるじゃありませんこと? シャルル様もきっと、将来は王となられるジルバ様の右腕となられるに決まっているわ!」
鼻息荒く抗議した女の子の声が、頭の中をぐるぐる回って、ゆっくりと滑り落ちていく。
何だか、凄い世界に紛れ込んでしまった気分だ。気分も何も、凄い、世界なのだろう。
「……凄い人に、なってしまったのね」
いや、最初から凄い人だったのだろう。最初から、私が知らなかっただけで、遠い世界の人だったのだ。
でも、両親は知っていた。確実に、知っていたのだ。その上で、私達を身分の隔たりなく育ててくれた。さっきだって、父は背を押してくれた。
身分違いに悩むのは、本人から拒絶されたときだけにしよう。そう決める。そもそも、実は私は、意外かもしれないけれど、深く悩むことにあまり向いていないのだ。
現在悩みの二割をアイあいのすとーりーと死に続ける自分について、三割を家族、一割をその他、残りの四割をシャルルに割いているため、新たな悩みが入り込む隙はない。
いずれイシュー様と連絡を取ることの出来る手段を貰えるはずだ。そしてその手段は、恐らく、シャルルを通して渡されると予想をつけている。近いうちにきっと話せる。会える。ちゃんと、会えるのだ。私はそう信じた。
まさかこの直後、その予想が覆されるだなんて夢にも思わなかったから。
ぱんっと、何かが破裂した。
きゃあきゃあ言っていた女の子達もびくっと身体を震わせていたから、彼女達にも聞こえていたのだろう。
「な、何ですの?」
「今の音どこから……誰かが魔術を失敗したのかしら」
「ああ、そうね。きっと大した才能もないのに集められた平民が逸ったのではなくて? それにしても派手な音。どこから聞こえたのかしら」
くすくす笑っている少女の声は、途中から耳に入らなくなった。私の耳には、断続的に続く同じ音しか耳に入らない。ぴし、ぴし、ぴし、ぴし。木の家で鳴る、家鳴りのように軋む音がする。凄まじい速度で、石が割れていく。
ざっと青ざめる。
石は割れれば軽くなる。それは機能を失うからだ。機能が重いとはどういうことだろうと不思議に思ったこともあるけれど、今は、急速に軽くなっていく首飾りのことしか考えられない。
音が途切れない。ずっと、ずっと、石が割れ続けている。
喉からひゅっと掠れた呼吸が漏れた瞬間、私は走り出した。
階段を駆け下り、高い植木のある渡り廊下を一目散で走る。さっきまで人気者がいたからか、そこは人だかりが出来て詰まっていた。
こうなる前にその辺でお茶をしている誰かが暑くなって脱いだのか、植木に引っかけられていた上着を、悪いと思いつつもひっつかむ。上着を頭からかぶって人混みを押しのけ、ぎゅうぎゅう詰めになっている入り口に割り込む。悲鳴にも非難の声にも構っていられない。
どうして急に。分からない。分からない分からない分からない!
音が止まない。止まらない。私の死が、止まらない。
食堂の混雑は思った以上だった。元々お茶の時間だった上に、今さっき、黄色い悲鳴を上げられていた第一王子の双璧とやらが入っていったのだ。元々いた人々は居座り、後から来た人は詰まっていく。
どこの大広間だと思えるほど広々とした部屋は、今や大混雑だ。人の多さもさることながら、音と声が酷い。隣の人の声すら聞こえないほどだ。
割り込んだことに忌々しげな顔をされながら、必至に視線を巡らせる。駄目だ。人が多すぎて分からない。
ぴしぴしぴしぴしぴしと、酷く軽い音で私が死んでいく。音が止まらない。旅の途中に万が一があってはいけないからと多めにつけていた石がどんどん軽くなっていく。呼吸より速く、凄まじい速度で。
後、何個? 後何個で、私の命は尽きる?
ぐっと唇を噛みしめる。嫌だ。こんな所で死にたくない。せっかくシャルルを見つけたのに、やっと会えるのに、死ぬなんて、それこそ死んでもごめんだ!
「っ、ルル――――!」
死が迫った私の悲鳴は、食堂の人混みにかき消されて、散った。