表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

桜の樹と若者

作者: 天神大河

 霧雲の隙間から、朝日が現れる。うっすらと霧が差していた町は、少しずつ形をはっきりさせ、町を覆っていた冷たい空気もゆっくり和らいでいった。


 冬の寒さが辺りを包む中、町はずれにぽつりと佇む桜の樹は、無数の枝を天へと伸ばし、大きな根を地に張り巡らせている。ある時は子どもたちの遊び場に、ある時は大人たちの憩いの場として。そうして、数多くの人に親しまれ続けた樹は、幾つもの季節を迎えては見送り続け、気付けば幾百年もの時が過ぎていた。


 寒さの厳しい朝も、雲が空を覆い隠す昼も、静まり返った夜も、桜の樹は変わらず佇んでいる。それでも、枝についた小さな蕾は、近づく春の波濤(はとう)を敏感に感じ取っては、少しずつ成長し、薄桃色に色づいていった。


 冬が終わり、春が近づきつつあったある日。不意の寒波が町にやって来たかと思うと、降り始めた雪が見る間に町全体を白一色に染めていった。

 春目前になって雪が降っても、根や枝に冷たい雪が積もっても、桜の樹は動じない。白い雪に目を輝かせる子どもや、コートを着込んだ大人たちを前に、桜の樹はもうすぐ訪れる季節への準備を静かに始めていた。


 桜の樹のそばを、一人の若者が足早に歩く。黒いジャンパーに身を包んだ彼は、俯きがちに、そしてどこか寂し気な面持ちのまま、忙しく歩き去っていった。

 若者の背に、冷たい雪交じりの風が吹き付ける。揺れる彼の黒髪についた雪が、(しずく)となり、音もなく若者の(うなじ)を流れる。

 雪の降る日、灰色に染まった空は、少しずつ夜闇を湛えていく。いっそう冷たくなった風に耐えながら、桜の樹はじっと朝を待っていた。




 陽が昇り、沈む。繰り返される自然の摂理の中で、蕾はゆっくりと花開いた。暖かな日差しの中で、白い花を咲かせた一輪の花を皮切りに、枝に息づく蕾は次々に満開の時を迎えていく。


 こうして、町はずれの桜の樹は春の季節を迎えた。桜の花が咲き始めるのを前に、道行く人はみな目を向け、子どもや老人の中には立ち止まって樹をじっと眺める人もいる。幾百年が過ぎてもなお、決して変わることのない光景だ。


 そして、咲き誇った花は何も言わずに散っていく。僅かにピンク色を混ぜた花弁は、樹の下へ落ち、風に揺られてどこか遠い場所へ向かう。川辺や山野、町へ。道行く先で、桜の花は春の訪れを知らせるのだ。


 散った花びらが(しずか)に舞う中、桜の樹の下を若者が通りかかった。雪の降った日と違い、その足取りは軽く、落ち着いている。若者が樹の前まで差し掛かったところで、彼の鞄が目の前を歩いていた女性の鞄とぶつかった。

 若者はすぐに、女性へと頭を下げる。若者とさほど年が離れていないであろう女性もまた、若者と同じように頭を下げた。互いにそれを繰り返した後、若者は女性と少しだけ言葉を交わし、その場を後にする。女性もまた、若者の背を見て程なく、桜の樹から徐々に離れていった。


 花が散った後の枝には、若葉が芽吹き始めている。白い花に覆われていた桜の樹の枝は、日を追うごとに緑一色へと様変わりしていった。

 白い花弁が跡形も無くなり、青葉が生い茂る。それは、初夏の季節が訪れたことを知らせるものであった。




 梅雨の季節が終わると、暑い日差しが毎日のように降り注ぐようになった。快晴の空高く、野鳥が群れを成して飛んでいる。


 初夏の頃から成長した青葉に覆われた桜の樹は、濃い影をくっきりと地面に作り出していた。蝉が樹の幹に止まっては、一日中甲高い声を上げ続けている。毎年のように繰り返される景色を前に、桜の樹はただじっと佇んでいた。虫取り網を片手に樹の周りを走り回る子どもや、樹の影で身を休める老人を前にしても、わずかな風の流れに身を任せるだけだ。


 暑い空気を残したまま、ゆっくりと陽が沈み始める。そんな時、桜の樹へと歩いて来る二つの影があった。桜の花びらが散る季節、樹の前で互いに顔を合わせた若者と女性、二人のものだ。

 若者は、女性を樹の前まで誘うと、樹の幹にもたれかかるようにして空を眺めた。彼女もまた、彼の隣に立ち、同じように空を見る。群青色と赤紫色、それらを歪に混ぜ合わせたかのような黄昏の空に、眩い巨大な花火が音を上げて咲いた。

 町の上空で瞬いた花火は、ほんの一瞬だけ満開に咲き誇ると、夜闇へ消えていく。その流れに抗うかのように、色とりどりの花火が次々と打ち上げられては、夜空に散っていった。


 打ち上げ花火を眺める傍ら、若者は隣にいた女性の手をそっと握る。それに気付いた彼女は、少し驚いた素振りを見せながらも、ゆっくりと彼の手を握り返した。

 そんな二人のはるか頭上で、ひときわ大きい打ち上げ花火が花開く。それから少し遅れて、低い花火の音が熱気の籠る夏の夜空に響き渡った。その余韻を噛みしめながら、二人は互いの顔を見ることなく、桜の樹の前でずっと空を眺めていた。




 長く続いた夏の残暑が落ち着き、初秋を知らせる冷たい風が吹き始める。その頃には、桜の樹についた青葉は赤く染まっていた。遠くにある山々も、鮮やかな色に染まったイチョウやモミジの葉が、美しい紅葉を彩っている。


 桜の樹は、少しずつ近づく冬に備えていた。暑い日々が一段落しても、すぐにまた木枯らしが吹き始める。それほどまでに秋の季節は短く、目まぐるしく変化する。

 やがて、桜の樹についた赤い葉は徐々に茶褐色へ変色し、かつての瑞々しさを失っていった。そして、脆くなった葉は音もなく地面へと落ちていく。一枚、また一枚。落葉した桜の葉は、吹きすさぶ風に乗って、どこか遠くへと流されていった。

 そして、すべての葉を失い丸裸となった桜の樹は、静かに冬の訪れを待ち始めた。


 冬が目前に迫ったある日の夕方、桜の樹の前を若者と女性が通りかかった。夏に、桜の樹の前で花火を見ていた二人だった。

 若者と女性は、手をつなぎながら一緒に並んで歩いている。二人の顔が赤く染まっていたのは、秋の夕陽に照らされているだけではなさそうだ。

 やがて、桜の樹の前で二人はつと立ち止まると、互いに顔を見合わせた。短い沈黙の後、若者と女性の顔がゆっくりと重なった。

 一つになった二人の影が、桜の樹の幹に伸びる。空には、満月がうっすらと白く輝いていた。




 そして、再び冬がやって来た。

 長い年月を生きた桜の樹にとって、冬はもう慣れた季節だ。だがそれでも、同じ冬がいつも訪れるわけではない。


 冬だけに限らず、どの季節も同じように巡ることはない。同じようでいて、どれも微妙に異なっているのだ。吹いていく風や、日の暖かさ。町の風景や、道行く人々まで。それでも、桜の樹はただ黙って時の流れを見つめていた。


 季節とともに、命は巡る。咲いては散り、そしてまた咲く。桜の樹の枝には、また新しい蕾が春の訪れを静かに待っていた。


 そんな桜の樹の幹は、ゆっくりと朽ち始めている。あと何度、移りゆく四季を見られるのかは分からない。それでも、変わるものや変わらないものを、桜の樹は町の外れで静かに見つめ続けるのだ。


 桜の樹の前を通りかかる若者と女性にも、この先変化は訪れるかもしれない。その一方で、変わらないものもあるだろう。若者たちには、まだこれから多くの時間がある。その時間の中で、二人は共に生き続け、いつか美しい花を咲かせるだろう。


 一年が終わり、再び新たな一年がやって来る。


 日の出と共に、町は静かに目を覚ます。町外れにある桜の樹は、いつもと変わらず静かに佇んでいた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 桜の樹を視点に巡りめぐる情景が豊かに書かれておりました。 若い男女の恋の一場面もサブストーリーとしてあり、人間活劇の側面もあって楽しめました。
[良い点] 四季折々の桜のある風景。堪能いたしました。そう言えば花の時季ばかりでなく、青葉の季節も、色づく落ち葉の日も、雪景色の中でも、桜がたたずんでいる風景に、わたしたちの暮らしの記憶がありますね。…
[良い点] 静かな無声映画を観ている気分でした。桜の樹が季節とともに装いを変える様子が詳細な筆致で描かれ説得力を感じます。そこに登場する一人の若者。その恋模様を桜の樹がただただ静観する設定が美しく好ま…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ